GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

旅の景観・話題

5/12~5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(26)

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 京都鉄道博物館…今度、機会に恵まれましたら孫達を連れて来ますと、さぞ喜びます事でしょうネ(^.-)☆
 でも、弟の方は喜びましても、姉の方はどうかなぁ~関心がありそうで無さそうですし…ですが、孫達と改めて訪れてみたいものであります(^-^)//"

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 栂尾山髙山寺とお別れ致しますと、嵐山渡月橋で昼食です(^.-)☆
 ここではお土産を求めてバタバタとしておりまして、おまけに相変わらず降雨が続いておりまして、ユックリと過ごしますのは叶いませんでしたねぇ~
 昼食を終えますと、次は「京都鉄道博物館」へと向かう事となりました。

 ◆京都鉄道博物館

 京都鉄道博物館(きょうとてつどうはくぶつかん、英語:Kyoto Railway Museum)は、京都府京都市下京区観喜寺町に、2016年4月29日に開館した鉄道博物館である。西日本旅客鉄道(JR西日本)および公益財団法人交通文化振興財団が運営する。

 ・施設概要

 2014年(平成26年)4月6日に閉館した交通科学博物館の収蔵物の一部と、2015年(平成27年)8月30日に閉館した梅小路蒸気機関車館の収蔵物を展示し、梅小路蒸気機関車館を拡張・リニューアルを行い、2016年(平成28年)4月29日にグランドオープンした。
 京都鉄道博物館の開館工事にあたり、蒸気機関車の解体検査や修理に特化した専用検修庫を新設する。SL検修庫では、蒸気機関車を吊り上げることができるクレーンを設置し、検修庫を修理風景を見学できるよう、施設の一部をガラス張りにすることも発表している。

 全体で展示面積は約31,000m2で、開館時点においては、JR東日本の鉄道博物館(埼玉県さいたま市大宮区)やJR東海のリニア・鉄道館(愛知県名古屋市港区)を面積・展示車両数で上回り、日本最大の鉄道博物館である。
 また、梅小路蒸気機関車館時代から引き続き、構内施設の一部は車両基地(梅小路運転区)としての機能を保持している。また、営業線扱いの展示引き込み線には標識類も設置されている。
 なお、「京都鉄道博物館」の名称は、JR東日本グループである東日本鉄道文化財団の登録商標となっている(第5696237号、第5696430号)。2007年に開業したさいたま市の「鉄道博物館」の名称を、同財団が先に商標登録していたためである(第4816677号、第4828417号)。

 2016年4月28日、イギリス国立鉄道博物館との姉妹提携継続調印式が行われた。
 2017年1月23日、関西元気文化圏賞大賞を受賞した。

 …と、こんな「京都鉄道博物館」でありました。
 マニアの皆様にはタマりません鉄道博物館なのかも分かりませんねぇ(^-^)//"

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5/12~5/13の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(23)

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 降雨でありませんと境内を散策致しますと宜しいのでしょうけど…
 WEB上で検索し「栂尾山髙山寺」をご紹介です(^.-)☆

 ◆高山寺

 高山寺(こうざんじ、こうさんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾町(とがのおちょう)にある寺院。栂尾は京都市街北西の山中に位置する。高山寺は山号を栂尾山と称し、宗派は真言宗系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。「鳥獣人物戯画」をはじめ、絵画、典籍、文書など、多くの文化財を伝える寺院として知られる。境内が国の史跡に指定されており、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。

 ・歴史

 高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。今の高山寺の地には、奈良時代から「度賀尾寺」「都賀尾坊」などと称される寺院があり、宝亀5年(774年)、光仁天皇の勅願で建立されたとの伝えもあるが、当時の実態は明らかでない。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)と称されていた。これは、神護寺本寺から離れた、隠棲修行の場所であったらしい。

 高山寺の中興の祖であり、実質的な開基とされるのは、鎌倉時代の華厳宗の僧、明恵である。明恵房高弁(1173-1232)は承安3年(1173年)、紀伊国有田郡(現在の和歌山県有田川町)で生まれた。父は平重国という武士であり、母は紀州の豪族湯浅家の娘であった。幼時に両親を亡くした明恵は、9歳で生家を離れ、母方の叔父に当たる神護寺の僧・上覚(1147-1226)のもとで仏門に入った。

 明恵は、法然の唱えた「専修念仏」の思想を痛烈に批判し、華厳宗の復興に努めた。「専修念仏」とは、仏法が衰えた「末法」の時代には、人は菩提心(さとり)によって救われることはなく、念仏以外の方法で極楽往生することはできないという主張であり、これは菩提心や戒律を重視する明恵の思想とは相反するものであった。ただし、明恵はこうした批判をしたにも関わらず、法然その人とは終生交誼を絶やすことはなかった。
 明恵は建永元年(1206年)、34歳の時に後鳥羽上皇から栂尾の地を与えられ、また寺名のもとになった「日出先照高山之寺」の額を下賜された。この時が現・高山寺の創立と見なされている。「日出先照高山」(日、出でて、まず高き山を照らす)とは、「華厳経」の中の句で、「朝日が昇って、真っ先に照らされるのは高い山の頂上だ」という意味であり、そのように光り輝く寺院であれとの意が込められている。高山寺は中世以降、たびたびの戦乱や火災で焼失し、鎌倉時代の建物は石水院を残すのみとなっている。

 1966年、仁和寺当局による双ヶ丘売却に抗議し、真言宗御室派から離脱し、真言宗系単立寺院となった。

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 ◆京都の名所のひとつ「美空ひばり座」

 ~京都は私の第ニの故郷なの~という言葉を残されています。残した方は、昭和を代表する大スターの『美空ひばり』です。あまりにも偉大すぎる存在ゆえに、レジェンドになっている『美空ひばり』。9歳でデビューしてからというもの、9歳とは思えない圧倒的な歌唱力でスター街道を走りました。美空ひばりの歌声で、敗戦後の日本はどれだけ勇気付けられてきたことでしょう。美空ひばりの歌声とともに、日本は見事な戦後からの復興を果たしたので美空ひばりの歌は、日本の昭和史と見事に重なります。

 昭和の歌姫といわれる『美空ひばり』が永眠したのは、昭和が幕を閉じる1989年です。昭和64年で時代は平成元年という平成の幕開けでもあります。美空ひばりが永眠しても、ひばりの歌は愛され続けています。そして「美空ひばり」を偲ぶため、ファンが美空ひばりにふれることのできる場所として、東京の目黒には『美空ひばり記念館』があり京都には『美空ひばり座』という形で、美空ひばりにちなんだ品物や衣装などが展示されています。

 ★『美空ひばり座』と京都

 現在京都に「美空ひばり座」としてあるのは東映太秦映画村にあります。以前は嵐山にありました。嵐山にオープンしたのは1994年(平成6年)のことで、その時には「美空ひばり座」ではなく、『美空ひばり記念館』としてオープンしました。オープンした1994年の入場者数はなんと100万人を超える入場者数となって、美空ひばりファンの凄さを感じました。京都の嵐山には渡月橋に天龍寺や常寂光寺といった、嵐山を代表する名所がありますが「美空ひばり座」は4年目には300万人を超えた入場者数を突破したことから、嵐山の新名所とも言われたほどです。

 2008年(平成20年)に『京都嵐山美空ひばり座』として、リニューアルオープンして、現在は嵐山から東映太秦映画村へと移り『京都太秦美空ひばり座』となりました。気になるのは展示物ですが、東映太秦映画村ということもあって美空ひばりが東映映画に出演していた黄金期の映画館の風景が、とってもリアルに再現されていたりという美空ひばりファンにはたまらない演出の数々です。もちろん展示物には、美空ひばりが出演した時に着用していた衣装はもちろんのこと、その当時の台本なども展示されているので、ファン必見の数々の展示物です。

 ★美空ひばり座の見所

 昭和40年代生まれの私としては、「美空ひばり」は歌手のイメージのほうが断然強いです。名曲の「川の流れのように」を歌い上げる美空ひばりであったり、子どもの頃のタキシード姿で歌っているかなり古いVTRだったりと、歌手としての美空ひばりのイメージしかないほどです。
 ところがさすが昭和の大スターだけあって、おまけに芸能活動生活もかなり早い9歳で芸能界入りをしているだけあって、東映映画に美空ひばりが出演している数はびっくりの93作品もあります。こんなにも映画に出演していることに驚くばかりですが、「美空ひばり座」では東映映画に出店した全部で93作品の全て作品のポスターが展示されているだけではなく、美空ひばりの名場面もスチール展示もあります。

 東京ドームで“こけら落し”公演となる、歌手として初めて東京ドームでコンサートを行い伝説となったステージの『東京ドーム不死鳥コンサート』で、美空ひばりが着用した衣装2点も展示されています。この公演は美空ひばりが命を削ってまで歌いきったという、伝説のコンサートですが歩けるような状態ではない身体でしたが、花道100メートルを歩きコンサートに集まっている沢山の美空ひばりファンたちに、花道を歩きながら手をふることで「美空ひばりは全快!」というアピールをしました。
 公演先の福岡で、済世会福岡総合病院に入院した時49歳で、一時は再起不能説まで飛び交った状態を払拭するために力を振り絞った東京ドームでのコンサート。その時に身近にいた美空ひばりの息子は、母親の美空ひばりがコンサートを出来るような身体ではないことを知りコンサートの準備段階で大反対をしますが、東京ドームでのコンサート準備はどんどん進み昭和天皇が崩御してから約1ヵ月後の1989年(昭和63年)2月5日に、東京ドームで不死鳥コンサートが行われました。

 病状は決してよくない状態での東京ドームでのコンサート、楽屋は会場に一番近い場所で簡易ベットにドクターも。そして不測の事態に備えて、裏手には救急車も控えている中で楽屋ではベットで横たわってコンサート開始まで控えていた美空ひばり。ギリギリの状態で脚の激痛にも耐えながらも、39曲もの曲を歌いきった美空ひばりとして東京ドームのステージで100メートルの花道を歩いて、ゴールのところで待っていたのは息子でした。倒れこむように息子の下へたどり着き、その姿を見て思わず息子は涙しました。息子の目の涙を見て、美空ひばりは「ママが頑張ったから泣いているの?!」と、息子に尋ねると「ママの衣装がまぶしかったから、目を擦っていたんだ」と照れかくしての答えをしていますが、美空ひばりが命を削って歌いきりステージに立った不死鳥コンサートでの衣装も、「美空ひばり座」で2点展示されています。あの伝説のコンサート衣装を見ることができるなんて、ファンにとってはたまらない喜びになることでしょう。

 不死鳥コンサートで着用した黒の豪華なドレスには、美空ひばり不死鳥コンサートでお馴染みの黒の大きな羽飾りが付いたヘッドドレスも展示されています。そして不死鳥コンサートで着用した、真っ赤なドレスは、袖のドレープが分かるようにジュディ・オングの「魅せられて」のようなポージングのマネキンで着用されています。不死鳥コンサートの衣装を見るだけでも、十分に見ごたえがあります。
 歌や舞台と同じように、美空ひばりが情熱を傾けた舞台に関しても、美空ひばり芸能生活40周年記念公演の「春秋千姫絵巻’86歌声はひばりと共に」で着用した着物も展示されています。

 …と、こんな「美空ひばり座」でありました。

 東映太秦映画村を後にしますと、次に向かいましたのが「栂尾山髙山寺(とがのおこうさんじ)」でありました。
 嫁さんが福井県人ですから、若い頃には、京都から琵琶湖の西側を走行、大原三千院の麓を抜け山の中を若狭路へ走行、そして、遠回りとなりますけど国道162号線で小浜方面へ走行…と、この3ルートのいずれかで福井へ抜けておりました。
 国道162号線経由で福井に向かいます時には、よく、栂尾山髙山寺参道入口の駐車場で休憩しておりました。
 広島から福井に向かいます時には、大概、深夜に車で走行しますから未明にこの駐車場に到着です。で、休憩には格好の場所でありましたけど、この駐車場が鳥獣戯画で有名な栂尾山髙山寺参拝者用の駐車場でありますことは、当時は全く知りません。鳥獣戯画で有名なお寺と言う事は、今回初めて知りました(^-^;
 もっと早く知っておりましたら、20代には既に拝観していましたのでしょうけど…

 ◆鳥獣戯画

 高山寺を代表する宝物である。現状は甲乙丙丁4巻からなる。甲巻は擬人化された動物を描き、乙巻は実在・空想上を合わせた動物図譜となっている。丙巻は前半が人間風俗画、後半が動物戯画、丁巻は勝負事を中心に人物を描く。
 甲巻が白眉とされ、動物たちの遊戯を躍動感あふれる筆致で描く。甲乙巻が平安時代後期の成立、丙丁巻は鎌倉時代の制作と考えられる。鳥羽僧正覚猷(かくゆう、1053~1140)の筆と伝えるが、他にも絵仏師定智、義清阿闍梨などの名前が指摘されている。いずれも確証はなく、作者未詳である。天台僧の「をこ絵」(即興的な戯画)の伝統に連なるものであろうと考えられている。

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 降雨の中の散策もこの位にして、建物内に入ってみます事に致します。
 入場時に貰った「東映太秦映画村 案内図」に眼を通しますと、今から入ろうとしています建物は「パディオス」と言う名前が…

 ◆パディオス
 京福電車「太秦」駅より徒歩5分。少し上り坂を上がると、映画村に到着。入口は「パディオス」といわれるエンターテインメント施設にあります。

 ふ~ん、エンターテインメント施設ですか…
 入りましてスグに眼が向きましたのが、微笑ましいご家族連れ。
 男の子はこちらを…女の子はこちらに…当然なのかも分かりませんけど、お互い関心がありますモノは異なりますから(^.-)☆
 画像に撮らせて頂きながら、何となく笑ってしまいました(^-^)

 暫く建物内に留まっておりましたけど、また外に…
 スグにテレビで馴染みのあります建物が…案内板に眼を向けますと『銭形平次の家』の記載が(^_^)v
 どおりで見覚えがありますハズですネ\(^o^)/
 これらの時代劇オープンセットは、今でも撮影に使用されていますようですねぇ~

 「美空ひばり坐」と言うのもありましたから、喫煙コーナーでの一服後、入ってみます事に致します(^-^)//"

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 眼に入ります景観を次から次に画像に納めながら進んでおりますと、ヤッて来ましたのが特撮プール。
 特撮プールの水面には白煙が漂っておりましたから、う~ん、残念(^-^;
 たった今、何かアトラクションが終わりましたようですネ…プール脇には「特撮プール」の案内表示板が…

 WEB上で検索致しますと、この特撮プールには、こんな怪獣が生息していますようですねぇ(^_^)v
 このまま、再び姿を現しますまで待っていようか…とも思いましたけど、時間の表示がありませんから待機しますのは断念。散策続行となりました(^-^)//"

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 降雨の中、映画村内を散策しておりますと、前方に着物姿の女性が…
 んっ!?…観光客の方?…それとも映画村の関係者の方?…う~ん、いずれなのか分かりませんけど、こんな環境の中ですから仲々情緒がありますネ(^_^)v
 景観に大変マッチ致します(^.-)☆

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 鴨川の河原を御池大橋下まで戻って来ますと、A.M.6:30でありました。
 もぅ少し散策を続けようか…とも思いましたけど、御池通りを歩行しホテルにと帰還。まだ朝食には20分程度ありますから、ホテル内でノンビリと(^-^)

 研修旅行2日目は、あいにく降雨の予報でしたけど、予報通り、御池通りでバスに乗り込む際には降り始めておりました。
 バスに乗り込みますと、まず向かいましたのが東映太秦映画村。雨足は次第に激しくなりまして、駐車場に到着時には土砂降り状態でありました(^-^;

 ◆東映太秦映画村

 東映太秦映画村(とうえいうずまさえいがむら)は、京都市右京区太秦東蜂岡町にある映画のテーマパーク。東映京都撮影所の一部を分離・一般公開したもの。

 ・概要

 東映は1960年代後半から映画の斜陽化が顕著になると、ヤクザ映画によって観客動員を保つ一方で時代劇が斜陽になったことから、京都撮影所のオープンセットの維持を画してその一部を新設子会社の「株式会社東映京都スタジオ」に移管し、東映太秦映画村として1975年(昭和50年)11月1日に開村・公開した。
 時代劇の殺陣ショーや俳優のトークショー・撮影会・握手会などのほか、スーパー戦隊シリーズや仮面ライダーシリーズなどのキャラクターショー、殺陣講座などの体験企画なども行なわれている。
 舞妓、姫、殿様、武士、町人、町娘など、時代劇の登場人物への変身体験ができる変身スタジオもある(予約制)。また、駕籠屋体験として実際の駕籠を運行している(有料)。
 東映系列が運営していることから、東映の製作作品のロケ地として使われたり、系列会社の東映アニメーションが製作した作品(『おジャ魔女どれみ♯』など)に京都の観光名所として登場することもある。また、映画村を舞台にしたオリジナルの特撮の撮影も行われており、いくつかは市場で販売されている。

 ・京都撮影所との関係

 隣接する東映京都撮影所は東映本体の部署であり、子会社の映画村とは業務を連携しているものの、東映内部では別組織として取り扱われている。
 2017年10月の組織変更に伴い、京都撮影所に「俳優部」が新設され、これまで映画村サイドで行っていた、いわゆる「東映京都所属の俳優」のキャスティング・マネージメントが京都撮影所に移管された。養成部門も2018年4月に京都撮影所側に移管される。

 …と、こんな東映太秦映画村。
 降雨の中での映画村散策が、少し残念でありました(^-^)//"

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 本能寺を後にしますと、御池通りを鴨川に掛かります御池大橋方向へ…
 その途中で眼に入りましたのが「此付近加賀藩邸跡(このふきんかがはんていあと)」の表示板。ふ~ん、そぅなんですねぇ~ここに加賀藩邸が存在しましたようです(^.-)☆
 そしてまた暫く進みますと「夏目漱石の句碑」が…

 ◆加賀藩邸跡

 加賀藩前田家の藩邸は、天明8(1788)年焼失し、その後再築された。慶応2(1866)年、鳥羽伏見の戦に出兵したが、幕軍の敗北を知り引き返した。戊辰戦争には官軍につき北越で戦った。藩邸は明治維新後は上地され、一時は府知事邸となっていたが、太平洋戦争末期に建物疎開で御池通の一部となった。

 ◆御池大橋西詰の漱石句碑

 木屋町に宿をとりて川向の御多佳さんに
 春の川を 隔てゝ 男女哉
 -- 漱石 --

 京都ネタを紹介しているいろいろなサイトでもたびたび取りあげられている有名なシロモノなのだが、少しだけ掘りさげてみる。
 まずは刻まれている俳句それ自体について。俳句というとパブ犬的に五七五と言ってしまうが、この句はそうした定型には沿っていない。内容からなら六・四・八の自由律であり、定型風に捉えるなら、春の川を(6)隔てゝ男(7)女哉(5)となって第一句の字余りである。字余りとなる「を」が必要だった理由はよくわからないが、もしかすると推敲すれば削られてしかるべき一文字だったが、即興の一句だったのでこうなったというのが本当なのかも知れない。作られた時の事情が詳しく紹介されていることも併せて考えると、この句は、これだけで自立しているというよりはシチュエーションと合わせて味わう一句ともいえる。

 そんな中身はさておき、気になるのは句碑のある場所についてである。シチュエーションが云々と言ったが、傍らに設置されている駒札によれば、句碑のある御池大橋西詰の南側は「句にゆかりの現地」らしい。当時漱石が投宿していた北大嘉という宿がこの場所にあったということなのだ。大友のお多佳さんとちょっとした諍いごとがあったことを踏まえ、鴨川を隔てた大友へ送った一句がこれで、祇園白川と木屋町という鴨川を間においた位置関係に味が出てくるわけである。
 ただし、実は駒札には「木屋町御池の旅館『北大嘉』」とあるだけで、句碑のある御池大橋西詰の南側がピンポイントで北大嘉の場所だったとは書いていない。御池通が広くなったのや御池大橋が架けられたのは、漱石の時代よりはるか後のことなので、当時の地形を現在の道路の形状とぴったり重ね合わせるのは難しいことを考えると、だいたいこのあたりということで設置されたのだろう。

 …と、WEB上には、それぞれこんな記載がありました(^.-)☆

 鴨川の河原を覗いてみますと、早朝から若者の皆様のグループが…何の集まりなのでしょうねぇ~
 御池大橋から少し戻り、今度は「木屋町通」を歩いてみます事に…そして「四条通」から鴨川の河原へ…
 木屋町通とは打って変わって、ノンビリとした散策となりました(^-^)//"

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 それでは、本能寺を拝観です(^.-)☆
 境内に入りますと、まず眼に入りますのが本堂です。仲々立派な本堂であります。

 ◆本堂

 工学博士天沼俊一先生の設計になる。室町時代の枠を集めた木造大建築。7間7面単層入母屋造本瓦葺、総建坪587.4㎡(178坪)の総けやき材で創立当時の面影を残す。

 ・本能寺の縁起

 本能寺は景勝の地京都鴨川のほとりに法華宗の法灯を掲げ続けている。しかし本能寺が日蓮大聖人の教えを弘める法華宗本門流の大本山であることは以外と知られていない。
 本能寺は日隆聖人を御開山と仰ぎ『法華経』の根本義と日蓮大聖人の真意を説き明かし、お題目を唱えて信じ行ず大霊場である。

 日蓮大聖人の教えの真意は、『「法華経」の本門八品に説かれた上行所伝本因下種の「南無妙法蓮華経」に全身全霊を捧げ、本門のお題目を信じ唱えるほか私どもの成仏の道はない』という教えである。
 人々に「南無妙法蓮華経」を信奉させ、口に唱えさせることが日蓮大聖人の生涯の念願であった。
 御開山の日隆聖人は応永22年(1415年)伯父にあたる日存・日道両聖人と共に妙本寺(現在の妙顕寺)の綱紀の粛清に務めたが志を遂げられず同寺を去った。
 そして油小路高辻と五条坊門の間に本応寺を建立し、日蓮大聖人の念願である人々の口に「南無妙法蓮華経」を唱えさせるべく教化を始めた。

 本能寺は1415年から1432年までは「本応寺」と寺名を使い、1433年から現在まで「本能寺」を使用している。
 その理由は「本門八品相応能弘之寺」の言葉より本応寺・本能寺という寺名にした。また現在能という寺をに替えて使用しているが、これは五度も火災に遭遇したので匕(火)を嫌いの字に替えたものである。
 上杉本の「洛中洛外図屏風」では「本能寺」と書かれている。

 ◆信長公廟(本能寺)

 信長の三男信孝は、本能寺の変の直後、信長の遺骨を収集。本能寺を信長の墓所と定め、信長所持の太刀も納めた。信長の墓所は、玉鳳院(妙心寺塔頭)、総見院(大徳寺塔頭)、阿弥陀寺(寺町通今出川上ル)、大雲院(円山公園南)にもある。

 ◆本能寺の火伏のイチョウ

 河原町四条から河原町通りを北に歩くと左手に「本能寺のイチョウ」の案内板があります。細い路地を抜けるとビルの谷間の狭い空間に「本能寺のイチョウ」がありました。このイチョウは、「火伏せのイチョウ」と呼ばれており、天明の大火(1788年)の際、猛火に追われた人々が境内に身をひそめていた折、突如このイチョウの木から勢いよく水が噴出し、木の回りに集まった人々を救ったと伝えられています。
 本能寺は、歴史上名高い織田信長が明智光秀の謀反により自刃したあの「本能寺の変」で有名な法華宗の大本山で、応永22年(1415年)に日降聖人により建立されました。しかし、本能寺の変をはじめとする五度の焼失と七度の再建を繰り返し、現在の堂宇は1928年の造営です。

 ふ~ん、信長の三男信孝は本能寺の変の直後、信長の遺骨を収集したのですネ…

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 P.M.6:30頃から始まりました三嶋亭での夕食も、約2時間でお開きです。さすがに美味しく戴けまして、皆さん一様に満足顔。
 三嶋亭を出ますと宿泊場所であります「ホテルグレイスリー京都三条」に戻りますけど、GONsanは周辺を少し散策となりました(^.-)☆

 寺町通を少し南下しますと「新京極六角公園」と言う小さな公園にベンチが…

 ◆新京極六角公園、Wi-Fiスポット
 三条通から寺町通りを市場へ歩いていた途中、噴水やベンチが置かれた広場があった。1989年にできた新京極六角公園。Wi-Fiスポットも完成、街歩きで疲れたときに一息つくのには好都合だ。(WEB上の記載より)

 ここで缶コーヒーでもすすろうかと自販機に向かいますと、足元に違和感を抱き路面に眼を移しますと、なんと一羽のスズメが(^_^)v
 何か食べ物をねだってGONsanの足元をウロウロ(^-^)
 実に慣れています感じで、人見知りなんぞ微塵もありません。GONsanの動きます方に付いて来ますから、本当にビックリ。何か食べ物でもあれば与える事が出来ますのですけど、あいにく何にもありませんから…
 ですが、うまいこと食べ物を見つけて何か食べています。この辺りの事情を熟知していますのかも分かりませんねぇ~

 とにかくビックリです。こんな街中に野生のスズメがシッカリと暮らしていますのですから(^-^)
 この様子を数枚画像に納めましたけど…ですが、こんな場所で拾い食いの日々を過ごしておりますと、決して長生きは出来ないのでしょうけどネ…

 ホテルに戻りますと、まずは喫煙コーナーで一服。そして部屋に戻り入浴後、いつもより早めの就寝となりました。
 そして、翌朝は、A.M.5:00に起床。洗顔後、5:30~早朝散策開始となりました。
 まず向かいましたのが本能寺。

 ◆本能寺

 本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある、法華宗本門流の大本山。本能寺の変の舞台として知られる。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院の7院の塔頭がある。

 ・歴史

 本能寺は、当初は「本応寺」という寺号で、応永22年(1415年)、京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されたものである。
 寺地は北を五条坊門小路、南を高辻小路、東を西洞院大路、西を油小路に囲まれた地であった。
 日隆は妙本寺4世・日霽に師事するが、法華経の解釈をめぐり本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。応永5年(1418年)、本応寺は月明により破却され、日隆は河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。永享元年(1429年)、帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建。永享5年(1433年)、檀那・如意王丸なる人物から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受け再建し、寺号を「本能寺」と改めた。

 その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。寺域は六角小路以南、四条坊門小路以北、櫛笥小路以東、大宮大路以西で方1町の敷地を有し、また多くの子院も有していた。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれ、本能寺は繁栄を極めた。天文5年(1536年)天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇はことごとく焼失し、一時堺の顕本寺に避難した。

 ・日承上人・本能寺の変

 天文16年から17年(1537年-1538年)ごろに帰洛し、日承上人(伏見宮第5代邦高親王の子)が入寺して本能寺8世となった。天文14年(1545年)、四条西洞院大路、油小路、六角小路、四条坊門小路にわたる地域(旧本能小学校のあたり)に広大な寺地を得て、大伽藍が造営され、子院も30余院を擁した。
 日隆の開山以来、尼崎の本興寺とともに山号はなく両山一貫主制をしいていたが、その後、歴代貫主が地方に布教し、日承の時代には末寺が畿内、北陸、瀬戸内沿岸諸国さらに種子島まで広布し、本能寺を頂点とする本門流教団が成立した。

 本能寺は、早くから種子島に布教していた。このことから鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深かった。
 織田信長は日承に帰依して、この寺を上洛中の宿所としていた。しかし、天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の率いる軍勢に包囲され、襲われるという本能寺の変が起きて、その際の兵火で堂宇が焼失した。『信長公記』では同寺で信長が自害したとしているが、遺体は発見されず、その最期は明らかではない。しかし一般的には生害地とされ、光秀を破って京に入城した織田信孝は、16日、焼け跡に光秀の首と胴、その手勢3,000の梟首を晒させて供養している。7月4日、信孝は同寺に御触を出して、信長の御屋敷として造成された焼け跡を墓所とするように、離散した住僧は戻るように命じている。

 ・現在の場所への移転とその後

 天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命で、現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移転させられた。伽藍の落成は、天正20年(1592年)。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。元和元年(1615年)、江戸幕府から朱印地40石を与えられた。前述の理由で戦国大名との関係も深かったこともあり、寛永10年(1633年)の『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になっていた。

 天明8年(1788年)の天明の大火で焼失するが、天保11年(1840年)日恩上人によって再建する。しかし、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴い発生したどんどん焼けにより堂宇を焼失した。従来は長州藩邸に隣接していたため、長州藩邸の火が延焼したと思われていたが、それ以前に薩摩藩の砲撃により長州藩邸よりも先に焼け落ちたという説もある。

 現在の本堂は1928年(昭和3年)に建てられた。

 …と、こんな本能寺。今回の早朝散策は、この本能寺からとなりました(^-^)//"

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 最勝院とお別れし正門方向に進みますと、鳳凰堂に入られます方の列が…鳳凰堂に入りますには別料金を要しますのでGONsanはパス(^-^)
 そして眼に入りましたのが「扇之芝」でありました。「扇之芝」をWEB上で検索致しますと、

 ◆源頼政が最期を遂げた扇の芝・平等院

 平安時代末期に権力を握っていたのは、平家一門でした。しかし、大いに栄えた平家もやがて源氏によって滅ぼされることになります。そのきっかけとなった史跡が京都府宇治市の平等院に今も残っています。

 ・源頼政の挙兵

 平家滅亡のきっかけを作ったのは、源頼政でした。頼政は、平治の乱(1159年)で、平清盛に味方し、同族の源義朝を倒しました。
 この戦いの後、平家は全盛期を迎え、源氏は頼朝が島流しにされるなど、歴史の舞台から長い間、姿を消すことになります。平家に味方した頼政も、大して出世することなく、70歳を過ぎる老齢となっていました。
 治承4年(1180年)のある日。源行家が頼政のもとに訪れます。行家は、以仁王(もちひとおう)を担ぎ上げて、平家追討のために挙兵しようと頼政に持ちかけました。
 頼政は、以前に我が子の仲綱が平宗盛に馬鹿にされたこともあり、以仁王とともに挙兵することを決心します。

 しかし、この挙兵は直ちに平家の知るところとなり、頼政は以仁王とともに奈良興福寺に逃げようとしましたが、宇治川で平知盛率いる平家軍に追いつかれました。
 頼政は、押し寄せてくる平家の大軍から以仁王を守るために宇治橋で応戦します。しかし、善戦空しく頼政軍は平家に敗れました。
 体に流れ矢を受けた頼政は、宇治橋からほど近い平等院へと向かいました。「もはやこれまで」と悟った頼政は、子の仲綱とともに芝生の上で自害して果てます。

 埋もれ木の 花咲くことも なかりしに 身のなる果てぞ 哀れなりける

 上の歌は、頼政が詠んだ辞世の一首と伝えられています。そして、頼政が自害した場所とされる芝生が平等院の境内に残っています。そこは、「扇之芝」と呼ばれています。
 その名のとおり、扇状の芝生となっています。また、平等院の子院の最勝院には、頼政の墓もあります。
 そばには、源三位頼政(げんざんみよりまさ)の墓と書かれた看板があり、「平清盛の横暴に憤り高倉宮以仁王の令旨(りょうじ)を奉じ平家打倒の義兵を挙ぐ」と記述されています。
 さらに平等院内の浄土院には、頼政に仕えた太敬庵通圓の墓があります。

 …と、こんな歴史のあります「扇之芝」のようです。

 平等院の正門を出ますと、すぐ左手にどなたかの像が存在します。で、近付いてよくよく観ますと「辻利右衛門像」と記載。
 これまたWEB上で検索です。

 ◆平等院正門の横「辻利右衛門像」

 辻利右衛門像(つじりえもんぞう)、宇治茶の老舗「辻利」の創業者。玉露製法の確立と茶櫃の考案により宇治茶の復興に大きく貢献した。その功績により緑綬褒章を受賞、平等院正門横に銅像が建立された。

 ・場所 京都府宇治市 平等院正門の横
 ・アクセス JR宇治駅から徒歩8分
 ・駐車場 なし

 「辻利」といえば、京都観光に訪れる人達にとっては茶寮「都路里」のほうが有名かもしれませんが、れっきとした宇治茶の老舗。抹茶をふんだんに使ったスイーツは人気ですね。その母体となる宇治茶の老舗が「辻利兵衛本店」です。その創業者が辻利右衛門です。この銅像は平等院の正門横に立っています。

 …と、こんな記載。ふ~ん、こんな人なんですねぇ~
 そして、右に隣接します石碑。仲々読みにくいのですけど、多分「宇治製茶記念碑」とでも書いてあるのでしょうか…「宇治製茶記念碑」で検索しますと、うん、うん、出て来ましたネ(^_^)v

 ◆宇治製茶記念碑

 第1回製茶共進会特別賞受賞を記念して建立された宇治製茶記念碑(平等院門前)。毎年、製茶記念日(10月1日)に製茶記念式典と茗魂祭が行われる。

 …と、こんな石碑のようでありました(^.-)☆
 平等院とお別れしますと、また平等院表参道をキョロキョロしながら宇治橋方向へ。宇治橋を渡り終えますと眼に入りますのが「東屋観音」でありました(^.-)☆

 ◆東屋観音(あずまやかんのん)

 京阪宇治駅直近の好立地な史跡です。元は南西20mのところにあったそうですが、宇治橋架け替えに伴う道路拡張で、宝篋印塔・灯籠と共に現在地に移されています。
 東屋観音と呼ばれる石造聖観音菩薩坐像は、鎌倉時代の作。朴訥な感じなんですけど、蓮華を持っていたり造形はよくわかる感じ。地域で分けるのも変ですけど、奈良の石仏のように味わいがありました。剥き出しなのがちょっと不思議なくらい。
 でもお堂に入れちゃうとよく見えなくなるので、現状は有難い状態にあるとも言えます。個人的にちょっと好きになっちゃった石仏さんです。

 …と、WEB上にはこんな記載がありました。

 この「東屋観音」近くでバスに乗り込み、この日の宿泊場所であります「ホテル グレイスリー 京都三条」に向かいます。
 そして、本能寺前でバスから下車し、少しばかりテクテク歩きとなりました。今夜の夕食場所となります『三嶋亭』を横目にホテルにと到着。
 ユックリします時間も有りませんで、ほどなく、先ほど素通りしました『三嶋亭』へと向かう事となりました(^.-)☆

 ◆三嶋亭について

 明治の文明開化華やかなりし頃からの、140余年にわたる伝統を守るすき焼の老舗。昔から変わらぬ、三島亭の風情。日本のすき焼店の草分け的存在として140余年にわたる歴史を誇り、有名人や海外の通の間でも知られるようになりました。
 京都・寺町三条の賑やかな界隈に建つその姿は、まるでタイムトリップしたかのような趣ある店構え。京都らしい京町家造りの店構えは界隈のランドマークでもあり、その佇まいで歴史を感じていただけます。
 数寄屋造りの店内に足を踏み入れると、四季折々の表情を見せる坪庭や欄干、天井、格子などそのほとんどが明治の創業当時のままとなっており、お料理はもちろんですが、華やかかりし文明開化時代の歴史と伝統を感じる空間も、ゲストとの話題には事欠きません。

 ・はじまりは明治六年 初代三嶌兼吉が横浜で牛鍋を学ぶ。

 さる御公家侍に仕えておりました初代三嶋兼吉は、その妻“てい”と共に横浜で牛鍋を学び、明治六年、京に戻り、現在の地、寺町三条で「三嶋亭」を創業いたしました。
 それ以来、140余年その味を守り続け、明治、大正、昭和、平成、現在に至り、五代目となります。今も創業当時と変わらぬ佇まいで産地にこだわらず、厳しい目で選びぬかれた牛肉を独自の方法で熟成させ、三嶋亭こだわりの焼き方でお召し上がりいただいております。

 ・目にも美味しい霜降り。伝統の美味を守る意気。

 大自然の中で丁寧に丹精込めて育てられた黒毛和牛を、代々受け継いできた三嶋亭独自の目利きにより全国から厳選。芳醇な味わいの贅沢な霜降り肉は、秘伝のすき焼や水だき、オイル焼でじっくりと味わえるのは、まさに至福。さらにみそ漬けやしぐれ煮も用意され、牛肉のおいしさを多彩な料理で存分にお召し上がりいただけます。
 看板料理であるすき焼は、炭火に近い効果を得られる電熱器を使用し、厳選した黒毛和牛のうま味を存分に引き出している。また、割下は長い伝統の中で五代目がさらに進化させ完成させた秘伝のレシピ、創業当時から何ひとつ変わらぬ伝統が織りなす味わいは、長年にわたり多くの常連を魅了しています。

 ・代々の当主の生き様を自らの仕事に映し出す。

 代々受け継いだ精神を、料理人としての心と調理方法をいつも胸に留め、三嶋亭の伝統を受け継ぐ料理人として、枠にとらわれない進化をつづける料理人として、「進化し続けること」に常にこだわっています。
 五代目・三嶋太郎は、三嶋亭の伝統を守りつつ、さらにその上を目指すべく、八年前より日本料理の修行を始め、加えて茶の湯と生け花の稽古を続けることで、すき焼きに前菜数品とお菓子、薄茶がつく懐石仕立ての「花コース」を考案。
 ゆるりと時の流れる、明治香る優しい雰囲気の中、心に残るひとときをお過ごしください。

 …と、こんな『三島亭』でありました(^-^)//"

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 浄土寺の拝観を終えねまた正門方向に向かいますと、次に眼に入りましたのが「源三位 頼政公墓所」の案内板でありました。なら、ここにも立ち寄らなくては(^.-)☆
 不動院に入りますと、その境内の一角に「源三位 頼政公墓所」が…
 早速、最勝院に入ってみる事に致しました。不動堂は最勝院の本堂のようですネ。

 ◆宇治平等院・最勝院

 治承4年(1180年)、以仁王の令旨…平家打倒の文書が出され、源頼政公もこれに応じます。しかし計画は事前に露見。
 奈良に逃れようとした以仁王勢は宇治平等院で平家の追討軍と戦うこととなりました。『平家物語』によれば以仁王側は千騎あまり。二万騎以上の平家方には多勢に無勢でした。
 この戦いで頼政公は息子や養子など多くの味方を失い、ついに自害。享年77。
 頼政公最期の地とお墓は宇治平等院内に今も残っています。平等院の表門拝観受付入ってすぐ左側に小さな道があります。その奥、観音堂の横に緑の一角が。

 ◆源頼政

 源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。
 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。

 …と、こんな歴史の記載がWEB上にありました(^-^)/"

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 ミュージアム鳳翔館で数々の国宝や文化財を眼にしました後は、鳳凰堂の裏手を通って正門へ向かいます。
 が、その際に鳳凰堂の丁度裏に存在します「浄土院」に立ち寄りとなりました(^.-)☆

 WEB上で検索致しますと、浄土院に関しましてのこんな記載が…

 ◆宇治 平等院塔頭・浄土院

 平等院ミュージアム鳳翔館を見学して南西角にあたる浄土院にいった。
 それによると浄土院は平等院の塔頭で1492~01(明応年間)年に、浄土宗の栄久(えいく)上人が開創し寺と伝わる。
 本堂に礼拝、表に波型の台座に舟に乗る“救世船乗”という観音がある。今昔、旅の安全を無事に祈願するよう祈っている。養林庵書院(重文)は、数々の古い宝が資料として残されている。
 旅人の航海の無事を祈るという船乗観音また堂内には木造帝釈天立像(平安時代後期)や木造阿弥陀如来立像(鎌倉時代後期~)、定朝の師である仏師康尚(こうしょう)の作がある。和漢朗詠集下断簡「平等院切(平安後期)」は、巻下雑部のうち、禁中・古京の全文十五行文、筆者は源頼政とされ深い関係があるという。

 …と、こんな記載が。

 浄土院境内からも鳳凰堂をパチリです。羽を広げた左右の鳳凰が大変キレイでありました(^_^)v

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 う~ん、ここもまた、結構、観光客の皆様がおられます(^.-)☆
 10円玉硬貨でお馴染みの「平等院」、WEB上で検索してみますと、

 ◆平等院

 平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期・11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開山は明尊である。

 ◆歴史

 --- 平等院の創建 ---

 京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫たり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。

 ◆近代以降の平等院

 現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年 - 1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。宗教法人平等院の設立は昭和28年(1953年)である。

 1990年代以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータグラフィックスによる再現などが行われている。平成13年(2001年)にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。建築家栗生明は、鳳翔館(新建築 平成13年(2001年)9月号)の設計で、日本芸術院賞を受賞している。

 平成8年(1996年)から平成9年(1997年)にかけて、鳳凰堂の右後方に15階建てのマンション2棟が建ち、見る方向によっては鳳凰堂の背景になってしまっている。創建当初からの風致が大きく損なわれ、これが景観法施行前の平成14年(2002年)に宇治市都市景観条例が制定されるきっかけとなった。当面の対策として平等院境内にクスノキが植樹されており、この木が高さ10メートルまで成長すると、鳳凰堂背景の景観を阻害しているマンションを完全に隠すことが期待されている。

 平成24年(2012年)9月3日から平成26年(2014年)3月31日まで屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われた。この間、鳳凰堂内部の観覧は出来なくなっていた。平成26年(2014年)10月1日、落成式が行われ修理工事が完了した。

 …と、こんな平等院であります。

 正門から入場し鳳凰堂の横顔を観ながら正面へ。格子の円窓から覗く阿弥陀如来坐像のお顔を拝み、その後は阿字池に沿って歩きミュージアム鳳翔館の入口へ。間近で数々の国宝や文化財を堪能したら、鳳凰堂の裏手を通って正門へ。
 こんなルートでとりあえず散策開始となりました。浄土式庭園と鳳凰堂…大変キレイでしたネ(^-^)//"

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 とにかく、時間に追われてジックリ参拝出来ませんのが残念です。
 それにカメラを向けます被写体にも事欠きませんけど、そんな時間も勿論ありません(^-^;あっちをパチリ、こっちをパチリ…で、早足での参拝を余儀なくされましたようですねぇ~

 伏見稲荷大社とお別れ致しますと、次は宇治の平等院。
 ここも直近で訪れましたのは、既に16~7年前の事になりますでしょうか…その際には平日に訪れまして、観光客も少なくてユッタリと境内を散策しましたように思いますけど、さて、今回はどぅなんでしょうねぇ~

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 暫く頑張って上って来ましたけど、時間的制約から今回もまた、この「三つ辻」で下山ですネ(^-^)残念ですけど…
 ここからは、左手からの稲荷山登拝口を下山です。
 その途中で眼に入りましたのが「末廣大神の福かえる」でありました(^_^)v

 WEB上で、「伏見稲荷大社の中のカエルの神社」で検索してみましたら、こんな記載がありました。ふ~ん、この神社は『末廣大神』と言うのですねぇ~

 ◆末廣大神の福かえる

 伏見稲荷大社本殿裏、左手からの稲荷山登拝口付近に「末廣大神」がある。(稲荷山山頂「一ノ峯」の「末廣大神」の末社?)この社の石段下の鳥居前に、大きなコンクリ-ト製のカエルが左右一対で置かれ、その真中に「福かえる」が賽銭箱を前にする。手水舎の水口も蛙。いずれのカエルも背に二匹の子蛙を負う。
 「末廣大神」は名の通り、末広がりで、商売繁盛、招福、一家繁栄などのご神徳があるとされる。このことから、カエルは「福かえる」(福が得られる、福が帰る)と名付けられて神使とされたもの、と勝手に想像した。
 一般にカエルは語呂合わせで置かれるケースも多いようである。

 ◆末廣大神の狛蛙

 伏見稲荷といえばキツネが有名ですが、この末廣大神の蛙の像もキツネと並んで有名です。この蛙は、まるで狛犬のように鎮座し、背中には小さな子カエルがそれぞれ2匹ずつ乗っています。鳥居の中央には「福かえる」と名付けられた賽銭箱があり、縁起物のカエルらしい造りのお社になっています。
 ここまでが、伏見稲荷大社の本殿から稲荷山を散策する観光ルートです。少々時間はかかりますが、この機会に稲荷山を含めた伏見稲荷大社をゆっくり見て回りたいという方には最適のルートだと思います。

 …と、こんな記載が(^.-)☆
 う~ん、伏見稲荷大社の参拝は、ジックリと巡りますと丸一日は必要かも分かりませんねぇ(^-^)//"

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 それでは、今回もまた三ツ辻まで鳥居をくぐってみたいと思います。いざ出発(^.-)☆

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 智積院とお別れ致しますと、次の訪問地は伏見稲荷神社でありました(^.-)☆
 今まで何度か訪れてはおりますけど、今回は途中まで上り、下山時にあちこちに眼を向けてみようかと(^-^)
 但し、時間が許せばなんですけど…集合時間と睨めっこしながらの下山となりますのかも…

 駐車場でバスを降り神社までの歩き、参拝客は大変多いものと思っておりましたが、意外とそぅでもありませんでしたネ。ですが、神社に近付くにつれ、さすがに参拝客は多かったですねぇ(^_^)v
 参拝道の傍らでは『KIMONO RENTAL』の案内板を掲げられました男女が…
 ふ~ん、いくらなんだろう?…と、眼を向けますと、「通常価格--5,400円が、1DAY--3,000円、2HOUR--2,000円」でありました。
 う~ん、意外に安価なんですねぇ~いぇいぇ、これでも高いと言われます方も(^-^)
 
 ◆伏見稲荷大社

 --- 宮司のご挨拶 ---

 私たちにとって、もっとも身近な神社といえる「お稲荷さん」。
 全国に30,000社あるといわれ、全国各地で老若男女を問わず親しまれています。その総本宮が伏見稲荷大社です。そして、稲荷信仰の原点が、稲荷山であります。
 当社の御祭神である稲荷大神様がこのお山に御鎮座されたのは、奈良時代の和銅4年(711)2月初午の日のこと。その日から数えて、平成23年(2011)に御鎮座1,300年を迎えました。

 御鎮座以来、この長い歳月は単なる時間の経過ではなく、時代時代の人々の篤い信仰心によって「衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリ」と崇められ、五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、諸願成就の神として、全国津々浦々に至るまで広く信仰されてまいりました。これからも伏見稲荷大社は人々が幸せを求める「庶民の信仰の社」であり、「神様と自然と人とが共生する社叢・稲荷山」であるということを大切にし、次の世代へと護り伝えていく使命が我々にはあります。
 敬神の念篤き各位にはなお一層、お山を含む環境保全にもお力添えを願い上げますとともに、御神恩光被のもと益々のご繁栄を祈念申し上げます。

 -- 伏見稲荷大社 宮司 中村 陽 --

 楼門・本殿までヤッて来ますと、う~ん、やっぱり参拝客と言うか観光客は、思ったよりも少ないような…GW後ですからそうでしたのかも…
 まぁイィのですけどネ\(^o^)/

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5/12(土)~5/13(日)の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(3)

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 境内散策スタートで、正面の金堂に進みながら左手に眼を向けますと眼に入りましたのが『名勝庭園』の案内板が…
 なら、まずはこちらから…と進んで行きますと、「こちらは拝観料が必要です」と拝観受付所からの声(^-^)
 う~ん、残念、有料でありましたか…では、Uターンです(^.-)☆

 ◆名勝庭園

 「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時代に原形が造られました。
 その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言われるようになります。
 築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています。
 国宝の障壁画がかつて飾られていた大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます。
 その大書院より眺めることができる庭園は、四季折々の美しさで私たちの目と心を楽しませてくれますが、特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぎ、毎年多くの観光客が訪れます。

 引き続き金堂方向に進んでいきますと、右手に『玄宥僧正』の像が…

 ◆玄宥僧正

 玄宥(げんゆう)享禄2年(1529年)-慶長10年10月4日(1605年11月14日)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての真言宗の僧。

 ・経歴

 下野国の吹上城主膝付又太郎の子。18歳の頃より根来山で修学し、南都・園城寺・比叡山で諸宗の教学を学んだ。その頃の根来山は6千人ほどの学僧を擁する巨大な教育機関となって栄えていた。天正5年(1577年)根来山に3千近くあった塔頭の一つ智積院に住し、推挙され小池坊専誉とともに根来山の能化職に就く。

 しかし、根来寺は教育機関であるとともに大量の鉄砲や多くの僧兵を抱えており巨大な軍事力を有していたことや、地域支配と深く結びついていた宗教勢力であることから天正13年(1585年)豊臣秀吉による紀州征伐が起こり、玄宥は高野山に逃れた。以後、玄宥は、真言宗系の京都の高雄山神護寺や醍醐寺三宝院などを転々とした。
 慶長5年(1600年)秀吉亡き後、再興の訴願を続けていた玄宥に徳川家康から智積院再興の許可が出され、翌年慶長6年(1601年)に京都東山の豊国神社境内の坊舎と土地を寄進され、智積院は再興された。さらに翌年慶長7年(1602年)には二百石の寄進を受ける。
 玄宥は、坊舎のある「上の寺」と講堂のある「下の寺」を建立し、寺名を「五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)」と号し、智積院再興第一世となった。再興から4年後の慶長10年(1605年)11月14日、77歳で没した。

 うん、うん、大変ご苦労の上、智積院を再興されましたようですネ。
 仲々端正なお顔立ちで、また聡明さが伺えますイィお顔でありました(^_^)v
 それから、金堂に参拝です。

 ◆金堂

 総本山智積院の中心的な建物であり、金堂と呼ばれています。宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設されました。堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。
 毎朝の勤行、総本山としての多くの法要はここで厳修されます。
 以前の金堂は、元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に建立されました。
 しかし、明治15年(1882)に火災により焼失しました。

 …と、こんな金堂のようであります。
 本尊大日如来の尊像を何枚かパチリとなりました(^-^)//"

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5/12(土)~5/13(日)の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(2)

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 吉備SAを出ますと、次のトイレ休憩は三木SA。そして、三木SAを出発しますと、いつの間にか眠ってしまいましたGONsanです。
 ハッと気が付きまして眼を醒ませますと、既に京都に到着ですネ。桂川PAでトイレ休憩でありました(^.-)☆

 京都南ICで名神高速道とはお別れで、一路、昼食場所であります智積院一休庵にと向かいます。
 行程表では智積院到着はP.M.0:45でありましたが、智積院到着はA.M.11:58。昼食には実にタイムリーな到着となりました。

 ◆宿坊 智積院会館

 「宿坊」はお寺にある宿です。どなたでもご利用できます。また昔のような相部屋もありませんので、個室でお寛ぎいただけます。
 宿坊の特色は施設や食事がシンプルであることです。シンプルな一夜をお過ごしになって、少しだけ日頃の暮らしを振り返ってみませんか。

 ◆智積院

 智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。

 ・歴史

 智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
 智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

 近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
 関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。

 祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
 この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
 近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。

 ・伽藍

 東大路通りと七条通りのT字路に面して総門(東福門院の旧殿の門を移築したもの)が建ち、その先には講堂(平成7年、1995年、300年ぶりに再建)、大書院、宸殿などが建つ。講堂には2008年に、「日本の春夏秋冬」を題材にした田淵俊夫の襖絵(墨絵)60点が奉納されている。また、大書院に面した庭園は千利休好みと言われ、国の名勝に指定されている。中国の廬山を模して造られていて、石橋より奥は禅寺・祥雲寺の時代に、滝の落ちる正面は江戸時代に修築されたものとされる。
 境内奥には金堂(本尊金剛界大日如来、地下に胎蔵界大日如来)、明王殿(大雲院本堂を移築したもの、本尊不動明王)、大師堂(1789年築、空海を祀る)、密厳堂(1667年築、新義真言宗の祖・覚鑁を祀る)などが建つ。
 他に収蔵庫(国宝障壁画を収蔵)、智積院会館(宿坊)などがある。

 …と、こんな智積院でありますけど、智積院一休庵での昼食は、確かにシンプルではありますけど仲々美味しく戴けました(^_^)v
 昼食を終えますと、早速、境内を散策となりました(^-^)//"

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5/12(土)~5/13(日)の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(1)

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 5/12(土)~5/13(日)の2日間は、某協会福山支部san主催の「京都研修旅行」のGONsanも参加となりました(^.-)☆
 20名程度の参加者で大型観光バスでの京都行きですから、車内はユッタリとしています。
 ですが、GONsanの歳となりますと、飲めばスグにトイレ休憩が待ち遠しくなってしまいます(^-^)

 で、福山を出ましてまず最初のトイレ休憩が吉備SAでありました。
 そこでとりあえず小休憩。
 何気なく周辺を見廻しておりますと、こんな方が…
 昔はこんな方々を「ヒッチハイク」と言っておりましたけど、現在は何と言うのでしょうねぇ~確か、添乗員さんが、今は「ボードハック」と(^-^)

 ◆ボードハック(ボードに目的地を記入して掲げる)

 ボード、スケッチブックなどに目的地や目的地より手前の有名な地名を記入して、走っている車を停めます。
 ドライバーにとっては、ヒッチハイクをしている人が道路脇に立っているのが視界に入るので発見しやすく、どこまで行きたいのかも分かりやすいため、初心者にはオススメの一番手っ取り早い方法だと言えます。
 ボードを書くにあたってのポイントをご紹介します。

 ①太くて濃い字で書く(細くて筆圧の弱い字では、スピードのある車には何も見えていません)
 ②メッセージなどを添えてみる(「途中の○○まででも!」など)
 ③印象の良い顔文字やシールを付け加えてみる
 ④綺麗で大きく見やすい字で!(何より一番大事なのはコレ)

 地名は、分かりやすいものにしましょう。「東京」に行きたいのならば、そのまま「東京」と書くのではなく、「新宿」や「渋谷」などの方が分かりやすいですよね。
 そして、車に止まってもらうために有効なコツは、いきなり最終地点の目的地を書かないこと。
 例えば、「名古屋」が最終目的地だとしましょう。ここで「名古屋」と書いてしまうと、名古屋まで行く車と遭遇する確率だけでもぐっと下がってしまいます。
 名古屋方面の近場の都市などを細かく切り分けて目的地に設定し、少しずつ進んでいくのがスムーズなヒッチハイクの鉄則になります。

 …と、WEB上で検索致しますと、こんな記載がありました(^_^)v
 ふ~ん、最近は「ボードハック」と言うようですねぇ(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(20)

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 今回の散策のスタート地点であります「かもがた町家公園」へと戻って来まして、またこの公園内を少し散策。
 この公園内の施設としましては、

 ・伝承館
 江戸前期の町家を細部にわたり修復し、当時の建築技術を見学できる建物博物館です。発見された棟札から、貞亨4年(1687)に修理をした県下で最も古い貴重な町家です。
 正面十間、側面四間、中二階建の店部分と平家建ての座敷部分からなり、正面の全体的な構成、大戸口、格子構は、大変美しく格調高い外観に仕上がっています。(旧高戸家住宅ー県指定重要文化財)

 ・交流館
 伝承館の東に並ぶこの町家は、棟札から延享5年(1748)に建てられたもので、分家の母屋です。伝承館と同様当時の部屋割りにあわせて修理を行い、かまども復元しています。
 この館では、各種グループの研修や歴史学習、伝統行事を行ったり、来訪者のための情報コーナーや和風喫茶、特産品や土産物の展示・販売コーナーがあります。二階は、郷土史料の展示室となっています。

 ・ふれあいの館(西倉)
 伝承館の北側にある土蔵。棟札から、安政3年(1856)に建てられたもので、近隣にはない立派な土蔵です。当時の重要な生活用具や什器などを収蔵していた建物です。
 二階建てとなっており、絵画、書道、工芸、陶芸、写真、生け花等の作品展示やミニコンサート、創作活動等に利用できます。

 ・郷土の館(東倉)
 交流館の北側にある土蔵。建築年代は不明。一階は、歴史や文化・観光等をパネルやビデオで分かりやすく紹介しています。二階は、公園の管理事務所となっています。

 …と、こんな施設がありますけど、その中の一つの「ふれあいの館(西倉)」に入ってみます事に。
 建設されました安政3年(1856)当時の重要な生活用具や什器が収蔵されておりましたけど、中では外人san(オーストラリアの方)お二人が、熱心にメモされながら説明を聴いておられました。
 GWのこの時期に、何でまた「かもがた町家公園」を訪れておられるのだろう?…と、不思議な気持ちも少々湧いてしまいます。
 結構、日本語を話されますから、何かの研究で訪れておられますのかも…

 とにかくGONsanはこの辺で退散です。
 駐車場に戻り周辺を見廻しますと、こんなお宅が…蔦のような植物でびっしりと覆われた建物…たまに見掛ける事がありますネ(^.-)☆
 一見、感じ良く見えるのですけど、ヨーロッパのような石造りの建物では良いのでしょうけど、木造の建物ではどぅなんでしょうねぇ~建物が傷むのでは…と危惧してしまいます。
 でも、こんな感じで植物で覆うには、どんな方法で行えば良いのでしょうねぇ~コツがありますのかも(^_^)v

 それでは、「かもがた町家公園」とお別れです(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(19)

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 長川寺とお別れし鴨神社方向に進みますと、この途中に存在しますのが西山家一族のお墓が…この墓地には「西山拙斎」のお墓も…
 …と言いましても、GONsanは「西山拙斎」sanが何者なのか存知あげないのですけど(^-^;

 で、WEB上で検索致しますと、こんな記載がありました。

 ◆西山拙斎

 西山拙斎<にしやま せっさい、享保20年8月17日(1735年10月3日)-寛政11年11月5日(1799年12月1日)>は江戸時代の儒学者。浦上玉堂と同じ備中国鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の文人。父は医師の恕玄。拙斎という名の小惑星が存在する。

 ・経歴

 16歳のときに大阪に遊学に行き、医術は古林見宣に、儒学は岡白駒に学んだ。岡白駒没後、儒学は白駒の外孫の那波魯堂から学ぶようになり、那波魯堂の上京にも従った。後に那波魯堂は古文辞学から朱子学に転じ、拙斎もまた朱子学に転じた。
 昌平坂学問所の儒官であった柴野栗山に朱子学を官学とするよう説得した。これが老中・松平定信による寛政異学の禁の遠因となったといわれる。39歳のとき、鴨方に欽塾を開き子弟に朱子学を教えた。
 生涯仕官せず、諸侯の招聘を辞した。里謡に「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎、索我、宮の石橋。」と謡われ、名声は大坂にも知れ渡った。

 …と、こんな立派な方のようであります(^.-)☆

 「西山拙斎」先生のお墓を拝観後には鴨神社へ。
 そして、今回の散策のスタート地点であります「かもがた町家公園」へと下りて行く事となりました(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(18)

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 長川寺まで下りて来ましたら『細川通董公墓所 90m →』の案内標識が(^.-)☆
 墓所まで90mとは至近距離ですから、早速、お参りとなりました。

 そして、WEB上で「長川寺」と「細川通董公」につきまして少しお勉強です。

 ◆長川寺

 長川寺は応仁の乱の兵火によって焼失した際に備中守護細川満国公の菩提寺として細川家に整備されました。
 その歴代細川家の中でも当寺と地域の興隆に最も尽力されたのが鴨山城主細川家七代目の細川通董公です。

 細川通董公は戦国時代から安土桃山時代にかけて備中国浅口郡を統治した武将で戦国大名毛利氏の客将として活躍しました。
 細川通董公は天正3年(1575年)からは長川寺背後の鴨山に聳えていた鴨山城を拠点としましたが、天正15年(1587年)に赤間関(現下関市)で病没されました。
 現在の墓所は4代後裔に当たる長府藩毛利家家老の細川元純が正徳5年(1715年)に建立した物です。浅口市指定文化財にも登録されています。

 ・長川寺(ちょうせんじ)縁起

 長川寺開創から鴨山城主細川家(野洲家)ゆかりの禅寺へ

 清瀧山長川寺は源頼政の末裔である西山宗久がこの地に「梵刹」という先祖供養のための礼拝施設を備えたのが始まりです。西山宗久がこの世を去ってから100年程後の応永14年(1407年)には長川寺背後の鴨山に備中守護細川満国公が鴨山城を築城し初代鴨山城主に君臨します。
 この鴨山城主細川氏の登場により、この地にも武家社会が求める先進的な禅宗寺院が必要とされました。これにより応永19年(1412年)に曹洞宗大本山總持寺の輪住七十三世住職を務められる英厳章傑(えいがんしょうけつ)和尚が長川寺へ迎えられます。
 そして長川寺は鴨山城主細川氏ゆかりの禅寺となりました。しかし細川氏が実質的に鴨山城に君臨し直接的な統治をするのは鴨山城主七代目の細川通董公の登場を待つことになります。

 ◆長川寺と鴨山城主 細川家(野洲家)の盛衰

 長川寺は鴨山城主細川氏(野洲家)ゆかりの禅寺として発展しましたが、二世密山章巌(みっさんしょうごん)和尚代の応仁年間(1467年~1468年)に発生した兵火に遭い伽藍を焼失してしまいます。
 しかし文明年間(1469年~1486年)に入ると鴨山城主三代目細川教春公の助力の下に三世等厳字倫(とうがんじりん)和尚が伽藍を再建されました。この戦乱の時代の中にあって当寺院は衰退しつつもその偉容を維持しました。
 それは長川寺を開かれた英厳章傑和尚以来の男女平等下での布教活動と観音菩薩や地蔵菩薩を中心とした民衆の救済活動が結実したからです。他にも当時の曹洞宗が他宗派よりも葬儀を重視し死後の菩提供養に篤かった事が背景に挙げられます。
 ですが鴨山城主細川氏(野洲家)は畿内の紛争に敗れて急速に求心力を失いつつありました。鴨山城主六代目細川通政(後に輝政に改名)公の時には出雲国(現島根県)の戦国大名尼子氏の圧力を受けて伊予国(現愛媛県)へ逃れてしまいます。

 ◆長川寺と戦国武将 細川通董(ほそかわみちただ)公の興隆

 鴨山城主細川氏(野洲家)は数々の紛争で備中国の支配体制を殆ど失っていました。その領地回復に挑んだのが鴨山城主七代目細川通董公です。細川通董公が各城を転々としながら領地回復のための拠点と位置付けたのが、自身の先祖である備中守護細川満国公によって築かれた鴨山城でした。そして天正3年(1575年)には鴨山城へ入城し、長川寺を自身の菩提寺と定めて寺領120石を寄進し長い戦乱の中で荒廃した諸堂を整備されました。

 このご縁から長川寺には細川通董公の肖像画と墓所が浅口市指定の文化財として現存しています。細川通董公は戦国大名毛利氏の客将として足利義昭等と親交を結び、この地で存在感を増しましたが、豊臣秀吉の九州征伐から帰国中の天正15年(1587年)に赤間関(現下関市)で病没されました。
 そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで敗北した毛利氏は周防国と長門国の防長二ヵ国(現山口県)へ減封されます。細川通董公の子息である細川元通公も毛利氏に随ってこの地を去りました。城主不在の鴨山城は廃城となり、この地と鴨山城主細川氏との190年に及ぶ関係は終わりを迎えます。しかし長川寺と鴨山城主細川氏(野洲家)の子孫は仏縁で繋がり続けました。

 ◆江戸期における長川寺の受難と復興

 鴨山城主細川氏(野洲家)が鴨山城を去るとこの地は幕府の直轄領となりました。そして長川寺は慶長10年(1605年)に備中国奉行の小堀遠州公より15石の寄進を受け、また池田輝政公からも10石の寺領を与えられ大いに興隆します。
 しかし元和年間(1615年~1624年)に入ると土砂災害が発生し再び伽藍を流失してしまいました。これに輪をかけて寛文六年(1666年)には岡山藩主池田光政公が寺社整理政策に乗り出すと多くの寺社が統合され、長川寺の末寺も廃寺となりました。

 これら一連の出来事により長川寺は再び荒廃してしまいます。しかし元禄年間(1688年~1704年)に入ると十二世徳雲重憲(とくうんちょうけん)和尚は荒廃した長川寺の復興を決意され、岡山藩主や長府藩の家老にまで出世していた鴨山城主細川氏(野洲家)末裔である細川元教公の協力を取りつける事に成功しました。この多大な援助の下に元禄17年(1704年)、本堂が再び造営されました。それが現在の本堂です。

 また十三世千岳育穏(せんがくいくおん)和尚代の享保年間(1716年~1736年)には鐘楼堂を再建し、十四世嫩昌月柱(どんしょうげっけい)和尚は僧堂や東司を元文2年(1737年)に再造営され、長川寺は往時の風格を取り戻しました。
 この地が幕府直轄領から岡山藩の支配下に移ると、長川寺の歴代住職は旧正月の4日には籠に乗って岡山在住の鴨方藩主に拝謁する事が慣例になり、江戸初期の災害や時代の変革に晒されながらも長川寺は歴代住職と檀信徒各家の信頼と協力によって復興したのです。

 …と、長川寺にはこんな歴史がありますようですネ(^_^)v

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(17)

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 そぅこぅしておりますと、左手に長川寺が見えてきました。どうやら「鴨山城跡」散策も終わりに近付いて来ましたようです(^.-)☆
 GONsanは逆廻りの散策でしたけど、正規ルートの入口には「あさくちトレッキングMAP トレッキング&ウォーキングルート」の案内表示が(^_^)v

 それにしましてもこの長川寺は仲々立派な、そして大変整備されましたキレイなお寺のようですねぇ~
 お寺の建物も新しい感じで墓地もまた整然としています。ここ近年に整備されましたのでしょうか…随分古い歴史のありますお寺のようなんですけど…

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(16)

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 磨崖仏を画像に納めながら下って来ましたけど、この場所のみ樹木と樹木を繫ぎましたロープが存在です。
 緩やかな斜面の下り道なんですけど、何でロープが!?…と、少し不思議ではありました。が、ロープには眼もくれず下りようとしましたら、ズルズルと滑りますからもぅビックリ(^-^;
 思わずロープをわしづかみ(^-^)
 もし、このロープがありませんでしたら、迷わず滑って転倒しますところでありました。
 幸いにロープ近くを下っておりまして、助かりましたねぇ~

 眼で見ます限りでは滑るとは思えません緩やかな斜面なのですけど、どぅしてどぅして下から見ますと結構な急斜面。
 おまけに落ち葉が結構な量ですから、どう考えましても滑ります。
 いゃぁ、本当に危ないところでありました(^-^)/"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(15)

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 色んな場所に存在します「磨崖仏」なんですけど、時たま、磨崖仏を真正面から拝観しますには、どうしたら行けるのだろう…と、少々悩みます事も(^-^;
 スグ先に磨崖仏があるのですけど、その正面に行こうにも高さのあります岩を下らなくては…この岩を飛び降りましたら、今度は元の場所に戻りますのが難しいし…
 結局、勇気を出して隣りの岩に飛び移り、ヤッとパチリとなりました(^.-)☆

 画像に納めますと、また元の岩に飛び移り。磨崖仏を拝観しますのも、仲々労力が必要でしたネ(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(14)

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(13)

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 長山寺の西側からの「鴨山城跡」への登山道を、GONsanはあちこちに存在します「磨崖仏」に眼を止めながらの下山ですけど、こんな登山道は下りますよりも上って行きます方が楽なのかも(^.-)☆
 滑らないように結構気を遣いながらの下山です。

 ・鴨山城跡への登山道

 長山寺の西に登山口がある。標高168.2mの山頂までは徒歩で20分程で登れる。途中「磨崖仏」がある。
 別に近くまで車で登る道もある、但しこの道を登る場合「磨崖仏」を見ることはできない。長川寺境内には、第7代鴨山城主 細川通董公の墓碑がある。

 こんな記載がWEB上にありますけど、確かにこの登山道を通りませんと「磨崖仏」には参拝できません。
 少し眺望が開けました地点まで下りて来ましたので、暫し休憩し眺望です(^_^)v
 東方向に眼を向けますと長山寺の墓地が…その向こうの林道をGONsanは往路として選択。
 南方向に眼を向けますと、面白い屋根が付きました建物が…この少し変わった建物は「ふるさとかもがたプラザ(ビッグハット)」と言うようですネ。うん、うん、言われてみますと『ビッグハット』ですねぇ\(^o^)/

 ・浅口市天草総合公園((あさくちしあまくさそうごうこうえん)

 軟式野球の試合などで活気あふれる野球場、気軽に楽しめるテニスコート、水泳にはB&G海洋センターのプールがあり、天草公園体育館や天草公園武道場ではさまざまなスポーツ等でにぎわっています。
 また、全天候型多目的施設のふるさとかもがたプラザ(ビッグハット)では、スポーツ利用のほか、各種催し物も多数開催されています。

 …と、これもWEB上に記載がありましたけど、このビッグハットの下には何にも有りませんようですから、なるほど多目的に使用出来ますようです。
 色んなイベントで賑わいます場所なのでしょうねぇ~

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 「鴨山城址碑」までどなたにも遭遇せずに、ズッと独りでノンビリと散策して来ましたけど、下の方から人声が(^.-)☆
 GW中に、こんな場所を訪れますのはGONsanぐらいとばかり思っておりましたら、そうでもなかったようですねぇ~
 声がします方向に眼を向けておりましたら、うん、うん、お爺さんと4人の孫達かも分かりません。5人のグループに遭遇です(^_^)v

 鴨山城址碑の前で、とりあえず記念撮影。今からGONsanとは逆廻りで「北の曲輪」に向かわれますのでしょうネ…
 ですが、この方々の散策ルートが正規の巡回ルートなのでしょうねぇ~きっと、地元の方なのかも分かりません。
 とにかく賑やかで楽しそうな方達でありました。
 そんな孫達を眼を細めて見守りますお爺さん。実に微笑ましい光景でした。

 この方達を見送りますと、GONsanはいよいよ下山です(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(10)

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 磨崖仏が刻まれました岩の下から右側方向に上り、崖際の細い道を怖々進行です(^-^)
 狭かったのはここのみで、後はまた普通の小径。
 暫く進んで行きますと曲輪跡に出まして、そこには石造りのベンチが存在です。

 そこにベンチが有りますと言う事は、眺望が素晴らしいのかも…と向かって行きますと、うん、うん、対面方向に竹林寺天文台が(^.-)☆
 この天文台が水呑の墓地から見えますのですねぇ~

 ◆岡山天体物理観測所

 岡山天体物理観測所(おかやまてんたいぶつりかんそくじょ)は、岡山県浅口市にある天文台である。運営は自然科学研究機構国立天文台により行われている。
 1960年に萩原雄祐らの尽力により設置された。当地は晴天率が高く、竹林寺山頂(海抜・標高372m)に位置しているため気流等が安定しており、光・赤外観測にはうってつけの場所であったため設営に至っている。また標高が低いため、山頂への道路等も当時には既に整備されており、観測施設の建設及び精密望遠鏡の運搬・調整などにおいて支障をきたさない点が評価されたことが設営の理由となった。

 開所当時東洋一といわれた188cm反射望遠鏡を初め91cm反射望遠鏡、50㎝反射望遠鏡、65cmクーデ型太陽望遠鏡を備えています。また3.8mの新技術望遠鏡計画もすすんでおり、より高度な観測が期待できます。

 …と、こんな記載がWEB上にありましたけど、開所間もない時期のGONsanが小学5年生の頃、遠足で訪れました事がありました。
 その時の様子が今でも蘇りますけど、「凄い天文台なんだ」との想いが未だに脳裏に(^_^)v
 とにかく、こんなアングルで鮮明に竹林寺天文台を眺望出来ますとは、チョッと感動致します(^-^)//"

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