GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

旅の景観・話題

1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(4)

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 山頂にと上がって来ますと、中央部に「北条早雲生誕の地」の石碑が存在です。
 そして、休憩所には『北条早雲』の足跡を記しましたパンフレットが置かれてありました。

 ◆高越城

 高越城は小田原北条氏の祖、伊勢新九郎盛時(のちの北条早雲)が青年期まで過ごした城として知られています。伊勢氏没落後は宍戸隆家の持城となりましたが、毛利氏の転封にともない廃城となりました。現在は高越城址公園として整備されており、山頂には「北条早雲生誕の地」の石碑が建てられています。また毎年4月には高越城址顕彰会を中心に「北条早雲まつり」が開催されます。

 ◆北条早雲の名言です

 少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。

 後北条氏の祖で、戦国大名の先駆けとも言われる北条早雲(伊勢盛時)の名言です。早雲は大器晩成タイプの武将で人生五十年が当たり前だった時代に、五十七歳で一城の主となりました。六十四歳のときに小田原城を手に入れ、相模一国を掌握したのは八十五歳になってからでした。
 内政に優れ減税政策などを行い、小田原北条家の基礎を作りました。八十七歳にして、ようやく、嫡男・氏綱に家督を譲ります。最終的に北条氏は、秀吉台頭まで関東一円を百年にわたって治めています。
 早雲は晩年、家臣の心がけを『早雲寺殿廿一箇条』として記しました。その中で早雲は少しでも暇があらば、物の本を見、文字のある物を懐に入れて、常に人目を忍んで見るようにせよ。と、読書の必要性を説きました。また同時に手紙を書くことも促しています。
 これは、優れた書物を読むことで己の教養を高めると共に文字を忘れないようにするためでした。
 使い慣れた文字でも使わないでいると忘れてしまいますが、頭も鍛えることを怠らなかった早雲は、八十八歳まで現役を続けたといいます。
 (早雲の年齢関して享年六十四歳説もありますが、どちらにしても当時としては長く現役を続けている武将です)
 目標を立てて努力を怠らなければ実現できる。老いの壁を越えるお手本だと思います。
 八十歳でエベレストの頂に立った三浦雄一郎さんの「八十歳は四度目の二十歳。限界まで頑張ってみたい」と登頂前に語った言葉。自らを奮い立たせ、自らの限界に挑戦できる、若々しい心に頭が下がります。

 文武弓馬の事については、武士たる以上、常の道であるから、とくに書き記すまでもない次第である。
 文を左にし武を右にするのは、古から伝わっている武士の道であって、文武はともに兼ねそなえなくてはならぬものである。

 ◆北条早雲の格言・名言

 室町時代中後期の武将で、戦国大名となった後北条氏の祖。伊勢宗瑞(いせそうずい)とも呼ばれる。兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、重い税制を廃すなどの内政に優れ小田原北条家の基礎を作った。

 生 永享4年(1432年)又は康正2年(1456年)
 死 永正16年8月15日(1519年9月8日)

 ・自己の才能のある点をほのめかして申しのべたりしてはならぬ。事柄によって自分一人では計りかねるような御返事は、分別ある人に相談した上で(上司に)申しあげるようにするがよい。どこまでも自己というものを念頭に置いてはならぬ。
 ・神仏を礼拝することは、身の行ないというものである。神仏に対して拝む気持ちがあるならば、ただひたすらに心を正しくおだやかに持ち、正直一途に暮らし、上なる人を敬い、下なる者を燐み、包み隠しなく、有るをば有るとし、無きをば無いとして、ありのままの心持ちで生活することが、天意にも仏意にも叶うというものである。このような心持ちでいるならば、たとえ祈らなくとも神明の御加護はあるものであり、たとえ祈ったとしても心が曲がっていたならば、天道からも見はなされるものであることを、肝に銘じて、深く慎まなくてはならないのである。
 ・主人の所へ御出仕申し上げるときは無論のことだが、その他の場合、あるいは少々の用事があって今日は出仕せず宿所にいるのだがと思っても、とにかく髪を早く結わなくてはならぬ。ふしだらな格好をして人の面前へ出ることは、不作法で嗜みのない態度といわなくてはならない。もしもそのように、わが身に油断がちであるならば、使用している召使いまでがすぐにそれを見習って、他家の人たちが訪問してきた場合など、一家中でうろたえ騒いで、非常に見苦しいものである。
 ・言葉について常に慎んでいなくてはならない。一言聞かれても、その人の心は他に知られるものだから、注意せねばならぬ。
 ・刀や衣装は他人のように、ことに立派なのをつけようとしてはならぬ。見苦しくない程度で満足し、決して華美に流れるようなことがあってはならぬ。もしそれを無い物まで他人から借り求めたりなどして、無力な奴だと思われるようになったならば、世間の人から嘲笑を買うばかりである。
 ・たとえたくさんの者を召使っていても、すべての事柄をそれらの人に申し付けるのが当り前だと考えないで、自分自身でまず万事をやってみて、十分に様子を知り抜いた上で、それから人にやらせてもよいものである、と考えなくてはならぬ。
 ・文武弓馬の事については、武士たる以上、常の道であるから、とくに書き記すまでもない次第である。文を左にし武を右にするのは、古から伝わっている武士の道であって、文武はともに兼ねそなえなくてはならぬものである。
 ・わずかの時間でも暇があるならば、何かの本で文字の書き記されているのを懐中に入れておいて、人目を遠慮しながら読めばよいのである。文字というものは、寝ても覚めても常に手慣れるようにせねば、すぐに忘れてしまうものだからである。読むだけでなく、書く点においては、なおさらのことである。
 ・夕刻には、台所や茶の間その他の火の置いてある場所を自分で見回って、火の用心を家人に対してかたく申し付けておかなくてはならぬ。また、よそから火が出た場合、類火にならぬようにつねに注意して警戒することを毎夜のように申し付けて、習慣にさせなくてはならぬ。女房というものは、いかように育ってきたものであっても、そのような注意は少しもなくて、家財道具や衣裳などを取り散らかして油断しがちなものである。
 ・朝は常に早く起きるように心がけねばならない。遅く起きるならば、下の者までが気持ちを緩めてしまって、公務の大切な用事にも事欠くようになる。その結果は必ず主君からも見離されてしまうものと思って、深く慎まなくてはならない。
 ・古語に、「子の刻(午前0時)に寝て寅の刻(午前4時)には起きよ」と言っているが、そのようなことは、人によって当てはまるのである。つねに寅の刻に起きるのがよろしく、辰巳(八時から十時まで)の刻までも寝ていたのでは、主人への出仕も叶わず、御奉公にも事欠くことになるのみならず、また、自分の用事をもすることができず、全くつまらない次第であって、毎日暮らしているのも無駄なことである。
 ・「多人数の者と交わっては、差出がましくして事を起こすようなことがあってはならぬ」という言葉があるが、何事もしなくてよいことは、他人に任せればよい。
 ・上下万民すべての人々に対して、言半句たりとも嘘を言うようなことがあってはならない。いかなる場合でも、ありのままに申しのべることが大切である。嘘を言っていると、それが習慣となって、ついには信用をも失ってしまい、物笑いの種となるのである。己れが言った言葉について信が置けず、他人から聞きただされるようになっては、一生の恥と考えて、かりそめにも嘘は言わぬように心掛けなくてはならぬ。
 ・御奉公申し上げる用事の間には、乗馬の練習をするがよい。乗り歩く基礎を十分練習して、手綱のさばき具合や、その他の妙技について、稽古を積んで習得すべきである。
 ・友を選ぶ場合、良友として求むべきは、手習いや学問の友である。悪友として除くべきは、碁・将棋・笛・尺八などの遊び友だちである。これらの遊びは、知らぬといって決して恥にはならぬものであり、また、たとえ習ったからといっても悪事とまでは呼はれぬものである。これは、他になす事のない連中が、空しい時間をいかにしてすごそうかと考えて行なうものといえよう。
 ・夕方になったならば、六ツ時(午後六時)には門をぴったりと閉ざしてしまって、人が出入りをする場合だけ開くようにさせるがよい。そのようにさせなくては、やがては必ず何かの悪事がひき起こってくるものである。

 …と、早雲は晩年、家臣の心がけを『早雲寺殿廿一箇条』として、事細かく記しておられますけど、最終的に北条氏は、秀吉台頭まで関東一円を百年にわたって治めています。早雲の教えは、ごく普通の当たり前の事ではあるのですけど、代々の北条氏の皆様も大変優れていましたのでしょうねぇ~

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(2)

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 それでは、早速、「高越城址」散策スタートです。
 南方向に向かってノンビリと歩いておりますと、程なく高越城址への案内表示が…そして、その先に登城門が。
 コロナ禍の状況より、最近は何処に出掛けましても、新型コロナウイルス感染拡大防止の注意喚起のご案内が(^-^)//"

 ◆公園利用のお願い(新型コロナウイルス感染拡大の防止)

 ・人との間に適切な距離をとってください。
 ・咳エチケットに心がけてください。
 ・発熱や風邪の症状がある人は、利用を控えてください。

 --- 井原市定住観光課 ---

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1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(1)

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 金魚岩とお別れしますと、井原ゴルフ倶楽部の真ん中を抜けます市道を走行し「高越城址」にと向かいます。
 ナビに眼を移しますと、高越城址への途中には「マリア観音像」の表示が…「マリア観音像」の案内表示板が有りましたけど、駐まることはなく、「マリア観音像」を横目に通過となりました(^.-)☆
 後で、WEB上で調べてみますと、こんな『マリア観音像』でありました。

 ◆井原のマリア観音像 -- 井原市指定重要文化財 --

 この観音像は、石で組まれた高さ1.2m、幅0.7mの箱に安置されています像自体は座像で、右手に持つ花枝が右肩上にのびています。頭上には、下にのびる線が短い十字架を刻んでいます。また、台石には、「聖母マリア東江原 田中忠蔵」の銘があります。
 田中忠蔵は、明治42年(1909)に亡くなった人物で、洗礼を受けていた熱心なキリシタンであったと伝えられています。
 時代は、明治時代と思われますが、この地域のキリスト教信仰を知る上での貴重な資料です。

 ◆マリア観音像(まりあかんのんぞう)

 市指定 有形文化財【指定年1975年】分類/石造美術

 ・解説 -- 石で組まれた高さ120.0cm、幅70.0cmの祠(ほこら)に安置されている。像自体は坐像(ざそう)で、高さ60.0cm、幅32.0cmの木の葉状の花崗岩(かこうがん)に彫られている。頭上には、下に伸びる線が短い十字架を刻んでおり、台石には、「東江原 聖母マリア 立田中忠蔵(たりゅうなかちゅうぞう)」の銘がある。
 ・所有者 -- 個人
 ・所在地 -- 井原市東江原町

 …と、こんな「マリア観音像」でありました。
 ナビに従い走行しておりますと、難なく「高越城址」駐車場にと到着です。

 ◆高越城址(たかこしじょうし)

 高越山城は北条早雲の出自と備中伊勢氏の盛衰を見、後に毛利氏による支配を伝える戦国の山城です。
 備中における山陽道の要害地としては、猿掛山城(矢掛町)に次ぐ要害地です。
 城は山陽道と小田川を足下に見下ろす高越山(172m)に築かれ、東は山陽道を矢掛から猿掛山城辺りまで、南は毛利氏の軍港であった笠岡から矢掛方面に北上する人馬の行き来が山陽道に合流する地点を俯瞰することができます。
 高越山城は山陽道を東上する軍勢だけでなく、瀬戸内海を船で下り笠岡の港へ上陸した毛利勢が、備中・備前の境界地点に展開する上で重要な補給基地でした。

 ◆高越城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 高越城(たかこしじょう)は備中国荏原荘、現在の岡山県井原市に存在した日本の城。戦国時代には備中伊勢氏の城で、北条早雲こと伊勢盛時の出生地である。井原市指定史跡。

 ・概要
 高越城から井原市(荏原荘)を望む、手前の山には出丸があった

 ・城跡碑と宇垣一成揮毫の忠魂碑
 旧山陽道を見下ろす標高172メートルの高越山山頂に築かれた山城で、山頂の主郭を中心に5つ程度の郭を配置し、南側の尾根にも出丸を備え、主郭背部には堀切を設けて防御設備として利用した階郭式の縄張りとなっている。この地は旧山陽道と南側の笠岡の港が合流する要地であった。

 ・沿革
 弘安4年(1281年)、弘安の役に際して、幕府軍の総大将として九州に出陣した宇都宮貞綱が築いたとされる。その後、備中国荏原郷を得た那須氏の城となる。室町時代になると備中国荏原郷や井原荘、笠岡村等を領した伊勢氏の持城となり、伊勢盛綱の四男である盛定が所領分割で荏原荘を得たため、その居城となった。
 盛定は庶流ではあったが申次衆として、同じく申次衆で備中伊勢氏惣領であった兄の伊勢盛富とともに京都に在住しており、所領は嫡男に任せていた(嘉吉3年(1443年)5月12日「伊勢盛経寺領寄進状」)。この嫡男が後に北条早雲と称される伊勢新九郎盛時である。
 盛時は後に京都伊勢氏の伊勢貞道(伊勢貞高?)の養子となり京都へと向かい、最終的には今川氏の後継者問題に絡んで伊豆国に所領を得て、北条五代の礎を築くことになった。
 その後の高越城は引き続き備中伊勢氏によって維持されるが、伊勢貞勝の頃に毛利氏に臣従し、高越城は宍戸隆家の持城となった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、高越城も廃城となったと推測される。

 ◆北条早雲(ほうじょうそううん)

 戦国時代には京都伊勢氏の一族の備中伊勢氏が那須氏に代わって荏原庄を治め、この高越山城を居城にしていました。伊勢新九郎盛時(後の北条早雲)は、この備中伊勢氏出身で、永享(えいきょう)4年(1432)父伊勢盛定の子としてこの地に生まれました。
 新九郎は、青年時代までこの城で過ごし、西江原の法泉寺(ほうせんじ)で学んだといわれています。
 その後、30代で京都伊勢氏の養子となり、京都に上り幕府に仕えました。
 応仁の乱の後、妹の嫁ぎ先の駿河国(現在の静岡県)の守護今川家に身を寄せました。
 新九郎はこの今川家の家督争いを治め、56歳にして初めて駿河国の興国寺城の城主となりました。
 その後、伊豆国(現在の伊豆半島)、相模国(現在の神奈川県)を治め、88歳で亡くなるまで、後北条氏5代100年の関東支配の基礎を作り、戦国大名の魁(さきがけ)となりました。

 …と、こんな歴史があります「高越城址」。

 駐車場の一角には、『夏草の 中に起すや 古石仏 - 杜天』と刻まれました句碑が…
 残念ながら、この句がどなたの作なのか、「杜天」がどなたなのか、分かりませんでしたねぇ~
 ここには遺跡も有りますようで、こんな『高越遺跡』の説明板もありました(^-^)//"

 ◆高越遺跡

 この遺跡は、高越城址の北側丘陵にある標高約150メートルの丘陵上に位置します。この場所に高越城址整備事業が計画されたため、工事予定区域内に所在する高越遺跡の発掘調査を実施しました。
 調査の結果、弥生時代後期から終末期(今から約1700年~1800年前)にかけてつくられた竪穴住居16軒以上及び貯蔵穴80基以上が確認され、集落跡であることが明らかになりました。竪穴住居のうち、2軒は、焼失住居でこの時期の住居の構造を考える上で貴重な資料となりました。また、南東斜面に出土した住居は、この集落最大のもので、直径10メートル以上を測り、県内でも大型の住居とされ、この集落の首長が居住していたと考えられます。
 今回の調査によって、井原市内において初めての弥生時代の集落を確認しました。井原の弥生時代を知る上で貴重な資料となりました。今回確認された集落は、標高約150メートルで、平野との比高差は約100メートルを測り、非常に高い所に集落を営んでいたことが分かりました。この時期(弥生時代後期)、ほとんどの集落が平野におりて集落を形成しており、このような高い所で集落を形成しているのは非常に珍しいと言えます。丘陵上に形成される集落は一般的に高地性集落と呼ばれ、県南部では、弥生時代中期後半から後期前半に瀬戸内沿岸を中心に営まれています。この高地性集落は、見張りの役割と防御の役割があり、当時の情勢が緊張していたことが伺える軍事的な集落で、弥生時代後期後半になり、緊張がなくなると平地におりていったといわれています。その頃の村によく似た高地性集落であるこの高越遺跡は、やはり見張りと防御の役割を備えた軍事的な村との想定ができます。
 出土品については、豊富な弥生土器と鉄器が注目されます。この時期の鉄器は、市内では初めての出土になります。鉄器は弥生時代に大陸から伝わってきますが、当時貴重品であった鉄器は再利用され、一般的にはほとんど残りません。しかしながら、この高越遺跡で、鎌2点、鉇(やりがんな)数点、鉄鏃(てつぞく)数10点と数多く出土しています。中でも弥生時代の鉄鎌は、県内において出土例がわずか8例しかなく、そのほとんどが県北部であり、破損品が多い。今回発見された鉄鎌は、2点ともほぼ完全な形で発見されており、時期も弥生時代後期後半と確定できる貴重な発見といえます。

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(10)

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 この金魚岩…こぅして見れば見るほど確かに金魚に見えますネ(^.-)☆
 金魚岩の眼の辺りには、100円・10円・5円等の硬貨のお供えが…地元の方…訪れました方…どなたか分かりませんけど、心ある方のお供えなのでしょうネ。
 充分、金魚岩を拝見致しましたので、それではこの辺で退散です(^-^)//"

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(9)

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 案内表示に従って上がって行きましたら、スグに「金魚岩」が存在します山頂の広場にと到着です。
 広場中央部の奥側に岩が…
 近付いて行きますと、うん、うん、これが『金魚岩』ですねぇ(^.-)☆
 金魚岩の傍には、ベンチと資料箱が…早速、資料を一部頂きです(^_^)v
 この資料には、こんな記載がありました。

 ◆金魚岩(きんぎょいわ)
 -- 2千万年の時代を経て山頂に現れた自然の造形 --

 金魚岩は、この近辺に産出する「浪形岩」(なみがたいわ)と同じ貝殻石灰岩(かいがらせっかいがん)でできています。そして、この岩には次のような歴史があります。

 1.堆積と凝結
 今から約2千万年前、このあたりが「古瀬戸内海」(こせとないかい)と呼ばれる暖かく浅い多島海であった頃に、ハネガイなどの生物の死骸が海流の働きによって特定の場所に集められました。その後、地殻の強い圧力により固められて団塊(だんかい)状の貝殻石灰岩となりました。

 2.浸食による造形
 長い年月の間に、あるときには海岸での波浪(はろう)や風雨、また、あるところでは地下水などにより、貝殻石灰岩の塊はさまざまな形に浸食されていきました。この付近にある貝殻石灰岩が今日「浪形岩」と呼ばれているのは、このことに由来しています。

 3.隆起と露出
 200万年前ごろの土地の隆起によって、「浪形岩」は、現在の標高約250メートルの場所に押し上げられました。その後、表土が風雨の浸食を受けたことにより、浪形岩の一部は地表に露出しました。戦前、金魚岩の周辺には同じような岩の露出が数十ヶ所見られ、大きなものは十畳(じゅうじょう)ほどもあったと言われています。

 4.破砕の危機
 昭和になってからは「浪形岩」が飼料などの原料として使われるようになり、この地にあった数十の岩の群れも昭和の半ば頃に破砕され工業用に用いられましたが、金魚に大変よく似たこの岩だけは、その珍しさから大切に守られてきました。
 この敷地内には少なくとも3ヶ所の採掘跡のくぼみが確認出来ます。

 5.整備
 近年、「干し柿の里」として山の上地区に多くの人が訪れるようになったことから、この地域周辺の散策等をいっそう楽しんでもらえるように、町内の方々の協力も得て、あらためて整備したものです。
 
 ※ お知らせとお願い
 ・ここは私有地ですので、環境の保全と美化にご協力下さい。
 ・「金魚岩」は欠けやすいので、硬いもので力を加えたり衝撃を与えたりしないで下さい。
 ・冬季の落葉時には、南西方向に鞆の浦(とものうら)付近の瀬戸内海が眺望できます。
 -- 平成28年8月 地権者 --

 ◆参考年表
 -- 小田地区の歴史に関するおもなことがら(奈良時代~江戸時代) --

 ・奈良時代
 口分田(くぶんでん)を割り当てるための条里制(じょうりせい)の区画が日置谷から中小田にかけて整備される。(7世紀後半)

 ・室町時代
 この地の南朝勢力を駆逐した北朝(室町幕府)方は1369年、幕臣小松秀清(のち小田と改姓)を地頭職(じとうしき)に任命。秀清は神戸山城(こうどやまじょう)を築城し、武荅(むとう)神社を整備する。以後226年間、小田氏が小田を治める。
 秀清の次男信清は、京都に戻って仏門に入り「正徹」(しょうてつ)と名乗る。東福寺などに仕え、当代きっての臨済宗の歌僧として名を馳せる。のちには足利幕府において「源氏物語」の講義を担うまでになる。(15世紀前~中頃)
 小田政清は、高越城の伊勢氏、猿掛城の穂田氏に援軍を頼み、吉田方面から山口地区へ進入してきた村上氏の軍勢を中の才の戦いで破る。(16世紀中頃)

 ・安土桃山時代
 毛利氏による三村氏討伐(備中兵乱)では、吉川(きっかわ)元春、小早川隆景など毛利勢の主力が小田の岩屋山城や田鶴山(たづやま)城に布陣。(1574)
 羽柴秀吉による備中高松城水攻めに対して小田氏は毛利方として参戦。(1582)
 豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)に参戦。釜山の守備を担う。(1952)

 ・江戸時代
 江戸時代の期間を通じて天領(幕府直轄地)と庭瀬藩領を繰り返す。
 宿場町である矢掛を補助する「間宿」(あいのしゅく)としての役割(助郷役:すけごうやく)を堀越(ほりこし)地区が担う。(人や馬の手配、休憩場所の提供など)
 高瀬舟が小田まで運航されるようになる。(17世紀前半)
 岩屋山城の千手(せんじゅ)観音をまつる大市の最中に堀越で大火が発生。数十戸の家が焼失する。(1720)以後、小田の大市は中止される。
 庭瀬藩の圧政に対する「小田郡14ヶ村強訴」に小田からも参加する。(1823)

 (参考にした文献)
 ・『小田郡誌(上・下)』(小田郡教育会 1972年)
 ・『矢掛町史』(矢掛町史編纂委員会 1982年)

 ふ~ん、そぅでしたか…
 「昭和になってからは「浪形岩」が飼料などの原料として使われるようになり、この地にあった数十の岩の群れも昭和の半ば頃に破砕され工業用に用いられましたが、金魚に大変よく似たこの岩だけは、その珍しさから大切に守られてきました。」との事。金魚岩の存在しますこの土地は、個人所有の私有地との事ですけど、この金魚岩だけは大切に保護して来られましたのですねぇ~
 当初から何ら手も加えられてはなく、自然のままなんでしょうけど、うん、うん、まさに『金魚岩』ですネ\(^o^)/

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(8)

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 「浪形岩子安観音」横の市道を少し(100~150m)下って行きますと、市道左側の斜面に「金魚岩」の案内表示が…この案内表示板手前の路傍に車を駐め、ここから歩いて「金魚岩」へ(^.-)☆

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(7)

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 今回は、『金魚岩』を訪れます際に、たまたまスグ近くを通りますので立ち寄りました「浪形岩子安観音」でしたけど、前回訪問時とは違い随分手入れされておりましたので、落ち着いた気持ちでの再訪となりました(^_^)v
 それでは、この辺で「浪形岩子安観音」とお別れし、これまたスグ近くの『金魚岩』に向かってみます事に(^-^)/"

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(6)

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(3)

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 岡山県井原市野上町は、浪形岩発祥の地だ。頂見山の畑の中にドンと大岩があり、その頂上に石で造られた祠のようなものがあり、中を覗いてみると、石仏が祀られていた。浪形岩は、中新世(約2,500万年前)の貝類の化石でできた石灰岩層で、当時このあたりが浅い海であったことを表すものだ。この岩は、古墳時代に多く利用され、こうもり塚古墳、王墓山古墳、牟佐大塚古墳などの石棺に利用されている。
 --- https://kibikoseki.koojin.com/koseki-namikatakoyasu.htm ---

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(2)

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 この「浪形コミュニティ広場(浪形岩子安観音)」は、昨年10月に訪れていますけど、その際とは随分異なり、雑草が刈り取られ大変歩き易い状況です。
 再訪でもありますし、次から次に画像に撮りまくりとなりました(^.-)☆

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1/25(月)、岡山県井原市野上町「浪形岩子安観音・金魚岩」散策(^.-)☆(1)

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 小笹丸城跡からの帰路には、井原市神代町の「高越城址」に立ち寄ってみます事に…帰り道でもありますから(^-^)
 で、井原ゴルフ倶楽部方向に向かっておりまして、これも突然ですけど、以前に近くまで来ましたけど立ち寄らずに帰りました『金魚岩』も訪れてみます事に。
 昨年10月に訪れました「浪形コミュニティ広場(浪形岩子安観音)」の近くですから、ここを通過していますと、前回訪れました時には雑草が生い茂っておりましたけど、キレイに手入れしてありますから、再度、「浪形コミュニティ広場(浪形岩子安観音)」に立ち寄りとなりました(^_^)v

 ◆浪形岩子安観音

 この辺りは、浪形岩発祥の地であり、古墳時代文化の華やなりし頃には、この岩が石塔や石棺として多く使用された。その出土品の中でも有名なものに、吉備路のこうもり塚古墳(国指定史跡)の家形石棺がある。その他にも岡山市の牟佐大塚古墳(国指定史跡)の石棺、倉敷市庄の王墓山古墳(県指定し席)の石棺、総社市秦の金子石塔塚古墳の石棺等が発掘されている。
 当地(井原市野上町)頂見山一帯は、聖武天皇の天平9年(737)名僧行基により開山された頂見寺を中心に全山72坊を数え仏教文化の栄えた所である。鎌倉時代には那須氏により再興され、その後、尼子と毛利の戦(1560-1570前後)で廃墟となるなど、幾多の盛衰を経て今日に至った。
 昭和46年、この土地の老人有志が発起し、8年の歳月をかけて発掘した浪形岩の洞窟は、まことに見事なものである。奥の洞窟へは奥之院子安観音を、中ほどには慈母観音を安置して、古くから安産や長寿にご利益が多いとして信仰された観音本殿、明治四国の札所などとともに、この山地一帯を「ふれあいの広場」として開発、整備したものである。

 --- 井原市観光協会 ---

 …と、設置されました案内表示板によりますと、こんな「浪形コミュニティ広場(浪形岩子安観音)」であります。
 (http://gon.mbsrv.net/2020namigataiwa01.html)

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(5)

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 暫く下って来まして振り返りますと、小笹丸城跡が正面に…
 そして、足元に眼を向けますと、うん、うん、美星町ですから「空気弁」と「仕切弁」の絵柄には「美星天文台」が(^.-)☆
 ところで、よく見掛けますこの「空気弁・仕切弁」なんですけど、これにはどんな機能・役割がありますのでしょうねぇ…

 ◆仕切弁

 仕切弁とは給水装置の制水に使用するバルブのことを言います。給水管の配管途中に設置してあります。また、トイレなど各種機器類の手前に設置してあるような一部の給水装置を制水するものと、給水装置全部を制水するためのものがあります。

 ・仕切弁と止水栓の違いについて
 仕切弁は道路に埋設等されている配水管に使用されている弁のことです。
 一般的に配水管はアミダクジのように配水タンクから各個々の地域に配水されるよう配管してありますが、ある1箇所が漏水や破損しても他のルートを通っていつでも水がご家庭に行き届くようにしてあります。そこで、給水ルートを変えたりする時に水を仕切る弁を仕切弁です。止水栓は文字通り水を止める弁です。片方が開放になる可能性がある場合に使います。仕切弁やボール式止水栓は、構造的に流量調整ができないことはないのですが、長期間、流量調整したまま放って置くと弁が傷みやすいのでお勧めしていません。

 ◆空気弁

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 空気弁(くうきべん)とは、水道などの配管内にあって、空気を抜く、または空気を入れる役目を果たす弁である。「空気抜弁」などとも呼ばれる。水と空気の組み合わせが最も一般的であるが、他の液体用配管でも同様である。

 ・機能、仕組み
 1つの空気弁で排気と吸気の両方の機能を果たす。
 ・排気
 配管内の水に含まれる空気が少量ずつ分離し、やがて管内に溜まると円滑な流通が阻害されるようになる。配管内の凸部として空気弁を設け、この部分から空気を逃がす働きがある。また一旦水が抜かれたり新設された管路内に充水する場合、空気の逃げ道が必要となり、そのための空気の出口となる。通常時は空気弁の内部が水で充たされており、弁座とフロートが密着することで密封されている。
 空気弁の内部に空気がある程度溜まると、フロートが水に浮きながら水面位置まで下がるため、弁座とフロートの接触が解かれて外部に空気が流出する。空気の流出によって水面が上がるとフロートも上昇し、やがて弁座とフロートが密着することで再び気密が保たれる。空気流出過程のいずれにおいても内部の加圧状態が失われることはない。
 ・吸気
 工事等で管路から水を抜くには、どこかから空気を流入させねばならず、そのための空気の入口となる。空気弁の内部が負圧となることで外部から空気が流入する。

 …と、WEB上にはこんな記載がありました。
 普段何気なく眼にしてはおりますけど、ふ~ん、そんな役割がありましたか(^-^)//"

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(4)

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 周りを見廻してもご覧の通りで、どちらに進んで行けばイィものやらサッパリ分かりません(^-^;
 手入れが行き届き、雑木も刈り取られましたら、この画像のような平坦地で散策も楽しめますのでしょうけど、現状ではとても無理。あえなく早々の退散となりました(^-^)
 往路では気付きませんでしたけど、復路では、雑木林の中にテレビのアンテナが…周辺の受信状況が悪いお宅が設置しておられますのでしょうけど、このアンテナも雑木で囲まれておりましたネ(^.-)☆

 せっかく訪れましたのですけど、この状況では散策もとても無理。
 訪れます時期が悪かったようであります(^-^)//"

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(3)

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 教えて貰いました小笹丸城への上り道、比較的手入れもされておりまして歩き易いので進んで行きますと、スグに主郭(江戸時代の用語で本丸)下にと到着です。
 ここには、「小笹丸城縄張り図」と「小説家・遠藤周作氏直筆の石碑」が設置されておりましたけど、GONsanの背丈ほどあります雑草・笹・雑木に覆われて、主郭部分、城道がとりつく北と尾根つづきの東側に土塁、主郭から一段下の曲輪等は、とても見て廻ります事は出来ませんでしたネ。
 年に一度程度は、地元住民の皆様が手入れをされますのでしょうけど、それも春頃なのかも…この時期が一番雑木類が生い茂っています時期なのでしょうねぇ~
 う~ん、残念。せっかく訪れましたのですけど、とても散策は不能です。

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(2)

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 暫く小笹丸城跡に向かって進んでおりましたら、道端と言うか民家の進入路付近に犬小屋風のモノがブロックの上に…これは、何なんだろう?…と、よくよく見ますと、うん、うん、新聞受けでありました。
 ここが進入路の入口とは言いましても、玄関までは随分距離がありますから、新聞配達員さんへのご配慮で、ここに設けておられますのでしょうねぇ~
 そしてまた進んで行きますと、この正面の山が「小笹丸城跡」なんだと思われます。
 何にも案内標識がありませんから、そのまま進んで行きますと、前方に土壁が崩れかけました老朽著しい建物が…そして、その先に民家が存在しまして行き止まりなのかも…

 小笹丸城跡には、何処から入るのだろう…と困惑しておりましたら、前方から車が下りて来ました。
 これ幸いと、車を運転しておられますご高齢の女性に「小笹丸城跡には、何処から上がりましたら宜しいのでしょう?」…とお尋ねしますと、後方を指差され「昔は標識があったのに今は無いけど、あそこから入ったらイィですよ。ただ、荒れてるから、どぅかな…」との事でありました。
 GONsanの後方を振り返りますと、うん、うん、確かに山への登り口が…

 見た感じでは手入れもされ歩けそうですから、上らなくては(^-^)//"

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1/25(月)は、岡山県井原市美星町「小笹丸城跡」を散策でした(^.-)☆(1)

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 昨年のいつでしたか…「中世夢が原」を訪れました際に頂いた資料に、遠藤周作が、この小笹丸城を舞台に「反逆」という作品を書いている旨の記載がありまして、いつの日か機会があれば「小笹丸城跡」を訪れようと思っておりました。
 で、この日も天気が良いし温かいし、GONsanの足の調子も良さそうでしたので、「小笹丸城跡」散策となりました(^.-)☆
 WEB上で「小笹丸城跡」を検索してみますと、こんな記載がありました(^_^)v

 ◆小笹丸城跡

 --- 岡山県井原市美星町黒忠 ---

 ・小笹丸城跡の施設紹介
 きわめて緻密なプランによって築城されたと考えられます。
 小笹丸城は、城としてはとても小さく、100人なんとか入れるくらいの規模で、戦国期の村落領主の詰めの城の典型例と言われています。ただし、小さいながらも優れた構成をもち、緻密な計算の下建てられたことが分かります。遺構がほぼ当時のまま、完全な状態で保存されているため貴重な史跡です。建てられた年代やその時の城主は不明ですが、後年、作家の遠藤周作の母方の祖先である竹野井氏が居住していたという記録があり、遠藤周作はこの城を舞台に「反逆」という作品を書いています。

 ◆小笹丸城跡(おざさまるじょうせき)

 本丸、二の丸、三の丸と、段重ねのケーキのように彫りが鋭く、中世城砦の名残を色濃くとどめる城址です。
 また、遠藤周作氏の小説「反逆」の舞台としても有名です。

 ◆備中 小笹丸城

 ・歴史
 築城年代は定かではない。有力国人の竹野井氏の居城で、大永年間(1521年-1527年)には竹野井市朗衛門尉が、天正3年(1575)には竹野井氏高、竹野井春高が城主と云われる。

 ・説明
 小笹丸城は城平川に沿った標高390mの山に築かれており、現在は公園として整備されている。
 小笹丸城の縄張りは少々変わっており、中心に一段小高くなった本丸を取り囲むように帯曲輪群がある。しかし、この帯曲輪群も北にある大きな竪堀によって分断され、竪堀から東側は外に大土塁を設けた横堀状になっている。竪堀の西側は完全に切岸で、さらに側面に小さな曲輪を配し、竪堀に対して横矢が掛かるようになっている。

 ◆小笹丸城跡

 --- http://www.siromegu.com/castle/okayama/ozasamaru/ozasamaru.htm ---

 ・歴史

 小笹丸城の遺構は、現在ほぼ完全な状態で保存されている。頂上の平坦な部分は主郭(江戸時代の用語で本丸)と呼ばれ、城の中心である。城道がとりつく北と、尾根つづきの東側に土塁を備える。
 主郭から一段下の曲輪(江戸時代の用語で二の丸、三の丸など)2~6は、次第に下がりながら主郭を一巡する帯曲輪である。曲輪6は、尾根つづき側を防衛する重要な曲輪である。東下にさらに2段の曲輪があり、その直下には堀切りを設け尾根筋を完全に遮断する。曲輪6の北側で土塁がカギの手に曲がる所は、虎口(城の防禦された出入口で門がつくられた場所)で、北側の竪堀に開かれている。
 見事に整備された状態です。竪堀は、北側斜面を区分し横移動を防ぐ。竪堀底は幅が広い上に、武者隠しによって守られる。こうしたことから、この竪堀は当時小笹丸城への大手道を兼ねていたと考えられる。曲輪7は内部に石積み井戸をもつ重要な場所である。このため、両脇に土塁を備える。
 小笹丸城は、戦国期の村落領主の詰めの城の典型的な事例といえ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランを創出している。その整った構成から、現在地表面から確認できる遺構が完成したのは、天正期(1573~91年)に降ると考えられる。

 --- 『小笹丸城跡案内板』より ---

 ・私見
 主郭に土塁がよく残っています。周囲を一望できる主郭です。小笹丸城は美星町内西部に位置する小高い山城で、非常に散策しやすい整備されたお城でもあります。築城された時期は不明ですが、竹野井市郎衛門尉が築城し以後竹野井氏が居城し、天正の秀吉による高松城攻めの頃にまで存在していたようですね。城の状態は案内板にある遺構の説明が実に分かりやすいので縄張りをそのまま載せておきます。まるで中世山城の遺構を一気に説明するにはうってこいのお城ですね。

 ◆小笹丸城(おざさまるじょう)

 --- https://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/06/blog-post_20.html ---

 ・所在地:岡山県井原市美星町大字黒忠字笠丸
 ・築城期:不明
 ・築城者:不明
 ・城 主:竹野井市朗衛門尉、竹野井常陸守氏高、竹野井又太朗春高
 ・遺 構:主郭・郭・土塁・竪堀・虎口・武者隠し・井戸
 ・高 さ:標高390m/比高90m
 ・指 定:井原市指定重要文化財
 ・登城日:2009年8月30日

 ◇解説

 旧小田郡美星町にあった山城で、小規模ながら遺構保存が良好な山城である。
 所在地は、合併した井原市の北東部にあり、北西1キロを進むと、高梁市(川上町)に入る場所にある。

 ◇小笹丸城の由来

 小笹丸城は、標高390m・比高90mの丘陵に位置し、美星町大字黒忠字笠丸に所在する。
 戦国期の村落領主クラスの詰めの城であると考えられ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランによって築城されたと考えられる。
 城域は、東西に150m、南北に120mを測り、主郭・曲輪・土塁・竪堀・虎口・武者隠し・井戸などが創出されている。
 創築年代は不詳であるが、大永年間には竹野井市朗衛門尉が、天正3年(1575)には、竹野井常陸守氏高・竹野井又太郎春高が居城したと伝えられる。
 主郭からの眺望は、八日市、星田の金黒山城址、川上町の国吉城址、弥高山などまで及び、各城砦や見張り所との連絡は、たとえば狼煙、鏡、釣鐘によって容易であったと推定される。
 南側の曲輪には、小説「反逆」のなかで、この小笹丸城を舞台としてとりあげた小説家・遠藤周作氏直筆の石碑が設けられている。

 ・現地の説明板によると、

 「戦国期の村落領主の詰めの城の典型的な事例といえ、大規模な石垣などはないが、土の造形によってきわめて綿密なプランを創出している。その整った構成から、現在地表面から確認できる遺構が完成したのは、天正期(1573~91)に下ると考えられる」と記されている。

 …と、こんな『小笹丸城跡』のようであります。
 小笹丸城跡への上り口には、車を駐車可能なスペースもありまして、『小笹丸城址へおいでの皆様へ 小笹丸城址への車の乗り入れはできません。ここからは徒歩でおこしください。美星町観光協会』の案内表示も(^-^)
 それでは、ここから、散策開始です(^-^)//"

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(23)

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 ◆五輪塔

 地・水・火・風・空の五大(ごだい)を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて、平安時代からつくられはじめた。
 元来は、堂の落成、仏像開眼時の供養を目的としたが、のちには先亡者の供養や墓石としてつくられるようになった。町内には、俗にこごめ石と呼ばれる白色石灰岩の物が多く見られ、空輪風輪が一石でつくられている。

 訪れましたルートでノンビリと戻っていますと、いつの間にか入門口へと到着です。
 鎌倉時代から室町時代の地方の村を再現したテーマパークですけど、仲々興味深く散策出来ましたネ(^.-)☆
 それでは、「中世夢が原」から退散です(^-^)//"

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(22)

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 ◆館

 城主の執務所と住居を兼ねたものを想定した。表側を執務の場所、裏側を生活の場所として、幸造や間取りは、足利氏の寝殿や朝倉氏の館、国立歴史民俗博物館の展示模型などを参考にしている。建築様式としては、すでに間仕切りや棚、建具などに後世につらなる京風の瀟洒な様式--縦びき鋸(のこ)や台鉋(だいがんな)を使ったり、透かし彫りを施したりしたもの--が部分的に取り入れられていたと思われる。
 なお、付属室として、侍所(さむらいどころ)・厩(うまや)・厨(くりや)・櫓門(やぐらもん)などを、同様の資料をもとに配置した。

 …と、こんな館を隈無く拝見しましたので、この辺で退散と致します(^-^)

 「城主の館」を後にし、「三斎市」の方に戻っていますと、前方から着物姿の若者がお二人…
 「中世夢が原」を訪れます方が多ければ、「三斎市」で何か出し物でもして頂けるのかも分かりませんけど、現時点の来場者はGONsanを含み3名程度(^-^)
 この3名の為に、何かして頂くのも面倒でしょうから…とにかく手持ち無沙汰と言いますか退屈そうに、おヒマそうに気怠く歩いて来られましたネ(^.-)☆
 でも、どちらに向かっておられますのでしょう…「城主の館」で休息でも取られますのかも(^-^)/"

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(21)

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 城主の館の庭には、この「中世夢が原」を、いつ訪れられましたのか分かりませんけど、今回の東京オリンピックの開催先投票前に、スピーチで貢献した高円宮久子妃殿下の入場記念碑がありましたネ(^-^)//"

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(20)

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(19)

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 五万原弥生住居跡には、以前訪れました方が撮られました画像を確認しますと、高床式住居も存在しますけど、現在は撤去されましたのかも…
 それでは、来た道を戻り「城主の館」に向かって見ます事に。

 ◆城主の館
 中世紀の武士が築いた最初の城郭が館。棚垣の東西には櫓門(やぐらもん)があり主殿の他、侍所(さむらいどころ)、厩(うまや)、厨(くりや)が配置されている。

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10/18(日)は、午後から蔵王山を散策でした(^.-)☆(7)

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 猿田彦神社まで下りて来ましたけど、ここではもぅ立ち寄らず素通りで下山続行。
 神社の少し下まで下りて来ますと、下山道脇に黒い手袋の忘れ物が(^-^)
 忘れ物…落とし物…の、いずれか分かりませんけど、傍らに花が咲いておりました。何と言う花なのか分かりませんけど、とりあえずパチリ(^.-)☆
 う~ん、ひょっとしたら、こぅして立ち止まられ、花を画像に撮られました方なのかも…その際に、手袋をそのまま置き去りで下山されましたのかも…でも、それでは気付かれますでしょうから、やっぱり落とし物なのかも(^-^)
 まぁ、イィのですけど(^-^)/
 そして、また暫く下山が続きます。
 そぅしていますと、上る際には気付きませんでしたけど、「曻天大明神」の祠が…何枚か画像に納めはしましたけど、「曻天大明神」が何なのか分かりませんのでササッとスルーのGONsanなのでありました(^-^)//"

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(18)

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 五万原弥生住居跡には、こんな案内板が…

 ◆五万原弥生住居復元記念

 五万原一帯には、弥生後期2~3世紀の竪穴住居群があり、発掘調査された三基のうち一基は昭和43年3月に最初の復元が行われている。このたび構造材の老朽化に伴う再建の時期にあたり、私達は、弥生人の生活に思いを馳せながら復元作業の一端に従事した。ここに落成を祝し、この文化財が後世に引き継がれることを念願し参画した記念とする。

 --- 平成21年5月2日 弥生住居復元ボランティア一同 ---

 ・工事期間 平成20年11月01日 -- 平成21年4月20日
 ・講  師 間壁 忠彦 (倉敷考古館顧問)
       高田 知樹 (井原市教育委員会主任学芸員)
       岸本 剛一 (元美星町教育委員会)
 ・職人仕事 木組 佐野  了 妹尾 三郎
       茅葺 室山 國市 佐藤 國夫
 ・茅葺ボランティア
       <福山市> 田頭 誠一 高窪 太 吉山 功 ほか

 そして、横たわると言うか倒れています、こんな案内板もありましたネ(^.-)☆

 ◆井原市指定遺跡 五万原遺跡(ごまんばらいせき)

 弥生時代後期(今から約1800年前)の集落跡で竪穴式住居跡が三軒発見された。昭和40年12月、42年8月の2回にわたって発掘調査が実施され、壺、高坏(たかつき)、鉢、石鏃(せきぞく)などの遺物が数多く出土した。また、第三号住居跡、火事で焼けていたことがわかった。このことから住居の構造が判明し、43年3月に竪穴式住居を復元した。さらに付近一帯にも埋もれた住居跡があることが推定され、当時の生活様式やこの地域の歴史を知るうえで貴重な学術資料である。

 --- 指定年月 平成17年3月16日 井原市教育委員会 ---

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(17)

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 物見櫓から降りますと、次は案内標識のありました「弥生式住宅」に向かってみます事に(^.-)☆

 ◆弥生式住居

 昭和40年に発見された弥生後期の竪穴式住居跡を復元したものです。
 「弥生後期(とくに3世紀~4世紀)の竪穴式住居跡で、昭和40年12月、42年8月の2回にわたって発掘し、第3号住居跡を43年3月に復元した。この住居は、県南部では珍しく、さらに付近一帯にも埋もれた住居跡があることが推定され、当時の生活様式やこの地域の歴史を知る上で貴重な学術資料である。この住居跡からは、つぼ、高つき、鉢、やじりなどの土石器が数多く出土した。」(案内板より)

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(16)

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(15)

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 ◆物見櫓

 櫓は井楼櫓と呼ばれる組上げ式の望楼で、砦や枝城からの狼煙、法螺貝、鐘、旗による伝達見張りのために使われたものです。(パンフレットより)

 ◆山城

 町内には、土塁(どるい)・空堀(からぼり)・掘切(ほりきり)・抜け道・井戸などの中世の山城の顕著な特色をもつ小笹丸城址や金黒山城址などがある。とくに、小笹丸城址については、『備中兵乱記』と『古戦場備中府誌』からも、十六世紀後半期のその存在がほぼ明らかである。建造物については明らかでないが、その面積から後世の城に相当するようなものはなかったと思われる。ただ、山岳寺の城塞化もあって、当時は櫓(やぐら)様式の建築が発達しており、ここに物見櫓(ものみやぐら)を想定した。

 …と、こんな案内板が。
 それでは、早速、物見櫓に上がってみます(^-^)//"

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(14)

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 物見櫓に向かっていますと、途中に『弥生式住居』の案内表示が…これも、物見櫓の後で拝見します事に。
 「城主の館」の後方には「美星天文台」が見えますけど、「中世夢が原」からは行けませんようですネ。一旦、「中世夢が原」から出まして、別ルートで向かわなければならないようであります。
 物見櫓の手前には、「詰所」が…

 ◆詰所

 中世の山城は、かならずしも戦闘用とみることはできない。当時から、狭い耕地を耕し、通行や商いの要所ともいえないこの地方では、むしろそこから見える範囲を自領とする象徴のようなものと考えるのが妥当であろう。しかし、当然、物見櫓(ものみやぐら)や警備所は備えていたはずで、「すわ一大事」となると、麓から士分の者が駆けつけたと想定できる。その場合、何よりも必要なのは兵糧(ひょうろう)であり、そこには相当量の食べ物が貯えられていたと考えられる。

 ◆美星天文台

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 美星天文台(びせいてんもんだい、英:Bisei Astronomical Observatory、BAO)は、岡山県井原市美星町にある天文台である。

 ・概要

 岡山県下最大の一般公開用望遠鏡(口径101cm)を備える公開天文台となっている。また、渾天儀のレプリカが置かれており、この渾天儀は中国にある現物をもとに中国にて作られ、中国の技術者により組み立てられた実物大模型となっている。施設の総事業費(建設当時)は4億5,840万円(主な内訳は、望遠鏡制作費(ドームを含む):1億4,300万円、渾天儀制作費:1,500万円)。

 ・主観測装置
 形式:101cm光学式反射天体望遠鏡
 観測装置:冷却CCDカメラ、分光器他

 ・太陽望遠鏡
 形式:片持ちフォーク赤道儀架台にフィルター装着8cm屈折望遠鏡2台搭載

 ・歴史
 美星町(当時)が、交流による活性化を目指す『星の郷「中世吉備の庄」いきいきまちづくりプロジェクト』として小田郡美星町大字大倉の五万原の一帯に「中世歴史公園」(後の中世夢が原)を計画。自治省(当時)のリーディング・プロジェクト事業として建設される。
 このリーディング・プロジェクト事業では、星と中世をテーマに掲げ、町の特性を生かした多様な交流を目指すものとして計画が進められ、天文研修館「美星天文台」はこの事業のシンボル施設として整備された。1993年(平成5年)7月7日に開館し、開館当時は一般公開施設では国内最大の望遠鏡を備える天文台であった。

 ・沿革

 1987年(昭和62年)1月:自治省(当時)のリーディング・プロジェクト事業の内定を受ける。
 1988年(昭和63年)3月:『昭和62年リーディング・プロジェクト』に正式指定される。
 1991年(平成3年)10月:「中世歴史公園」の名称が、全国公募により「中世夢が原」に決定。同時に「中世夢が原」のキャラクターやシンボルマーク等も決定する。
 1992年(平成4年)4月25日:「中世夢が原」が完成し、落成式が行われる。
 1992年(平成4年)4月26日:「中世夢が原」が開園。
 1993年(平成5年)7月7日:天文研修館「美星天文台」が完成し、落成式が行われ、開館。
 2005年(平成17年)3月1日:小田郡美星町と後月郡芳井町が井原市に編入。所在地の住所表記が変更となる(小田郡美星町大字大倉1723番地の70 ⇒ 井原市美星町大倉1723番地70)。

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9/29(火)・井原市美星町「中世夢が原」散策(^.-)☆(13)

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 それでは次に、物見櫓に向かってみます。
 正面に「城主の館」を眼にしながら歩いていますと、途中に「遠藤周作碑」が…石碑には、

  その昔この山野で私の祖先が戦った
  その祖先の血が 町の人と私とを結びつけている
  星ぼしの美しいこの土地よ 私の血の故郷よ -- 遠藤周作 --

 と、刻まれておりました。何でまた遠藤周作氏の石碑が、この「中世夢が原」に?…と、WEB上で調べてみますと、

 ◆遠藤周作「血の故郷」2017.01.24XML
 (https://plaza.rakuten.co.jp/bittyu5mati5ttm/diary/201701230002/)

 テーマ:ちいさな旅~お散歩・日帰り・ちょっと1泊(35428)
 カテゴリ:★『井原線ウォークのひとこま』

 中世夢が原は、吉備高原の中世の邑を再現したテーマパークです。
 一番奥に城主の館、その裏に物見櫓がある。城主の館に行く道沿い、物見櫓の下に狐狸庵先生こと遠藤周作氏の「血の故郷」の石碑がある。
 このテーマパークは小笹丸城のイメージを再現しているようで興味深い。
 遠藤氏の母方の祖先が小笹丸城にゆかりがあるということで公園計画のアドバイザーをしておられたことも、もっと周知を図るべきだ。
 もっと世に知らしめて歴史ファンにアピールすべきという意見が多かった。
 今回のバス&ウォークのコースは井原市の貴重な観光資源としてこれから適切に整備して欲しいと思いました。
 中世夢が原と小笹丸城址は一連の観光資源であり、美星町に点在する星伝説や化石や地層なども再整備して欲しいものだ。もったいない…との声が多かった。

 …と、こんな記載が。「小笹丸城」は、この「中世夢が原」の北西方面に位置します城跡なんですけど、ふ~ん、遠藤氏の母方の祖先が小笹丸城にご縁が…で、ここに「遠藤周作碑」が設置されていますのですねぇ~

 ◆遠藤 周作

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年(大正12年)3月27日 - 1996年(平成8年)9月29日)は、日本の小説家。随筆や文芸評論や戯曲も手がけた。

 ◇来歴・人物

 父親の仕事の都合で幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリック夙川教会で洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。
 その後、慶應義塾大学文学部仏文科に入学。慶大卒業後は、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。第三の新人の一人。キリスト教を主題にした作品を多く執筆し、代表作に『海と毒薬』『沈黙』『侍』『深い河』などがある。1960年代初頭に大病を患い、その療養のため町田市玉川学園に転居してからは「狐狸庵山人(こりあんさんじん)」の雅号を名乗り、ぐうたらを軸にしたユーモアに富むエッセイも多く手掛けた。

 無類の悪戯好きとしても知られ、全員素人による劇団「樹座」や素人囲碁集団「宇宙棋院」など作家活動以外のユニークな活動を行う一方で、数々の大病の体験を基にした「心あたたかな病院を願う」キャンペーンや日本キリスト教芸術センターを立ち上げるなどの社会的な活動も数多く行った。
 『沈黙』をはじめとする多くの作品は、欧米で翻訳され高い評価を受けた。グレアム・グリーンの熱烈な支持が知られ、ノーベル文学賞候補と目されたが、『沈黙』のテーマ・結論が選考委員の一部に嫌われ、『スキャンダル』がポルノ扱いされたことがダメ押しとなり、受賞を逃したと言われる。
 狐狸庵先生などと称される愉快で小仙人的な世間一般の持つ印象とは異なり、実物の遠藤周作は、おしゃれで痩身長躯すらりとした体つき(戦後間もない時代に183cm)の作家であり、豪放磊落開放的な態度で一般とも接するのを常としていた。

 ◇生涯

 ・出自
 1923年3月27日、東京府北豊島郡西巣鴨町(現在の東京都豊島区北大塚)に、第三銀行に勤めていた銀行員遠藤常久と東京音楽学校ヴァイオリン科の学生郁(旧姓・竹井)の次男として生まれた。父・常久は東京帝国大学独法科在学中の1920年に郁と知り合い、翌1921年に結婚。同年に長男の正介、その2年後に次男の周作が誕生した。
 かつて鳥取県東伯郡浅津村下浅津(現・湯梨浜町下浅津)にあった遠藤家は、江戸時代に鳥取の池田家に御典医として仕え、維新後同地に移り住んだ開業医だった。明治後期から終戦後まで当地で医業に当たったのは遠藤河津三で、花見村長和田(現・湯梨浜町長和田)には出張診療所も設け繁盛した。しかし、河津三には子どもがなかったため、鳥取市生まれの常久を養子に迎えた。父・常久は後に安田工業の社長などを歴任する実業家となる。軽井沢の泉の里に持っていた別荘から白水甲二という筆名を編み出し、『きりしたん大名 大友宗麟』という作品を遺している。
 母・郁は現在の岡山県笠岡市出身で、岡山県の土豪竹井党を遠祖に持つ。後に周作は、この遠祖の地(現在の岡山県井原市美星町中世夢が原歴史公園)に「血の故郷」と題した石碑を建立している。

 …と、こんな記載が、Wikipediaにも。
 今回は立ち寄りませんでしたけど、「城主の館」の後方には「美星天文台」が(^-^)//"

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 ◆屋敷

 平生は農業に従事しながら、村約をつとめ、非常時には城へも駆けつける半農半士の家を想定している。この地方では、山城から至近のところにある本家筋の家がそれに相当する。中世も終わりの頃になると、それらの家は、おそらく現在にも伝わる近世以降の建築様式に近いものであったと思われる。
 なお、脇にある社は、町内に現存する株神を模したもので、摩利支天(まりしてん)の神がまつってある。ちなみに、摩利支天信仰は、中世において武家社会で流行したものであり、古く士分であったことを伝えているとみられる。

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 ◆三斎市

 中世は、市の発達をみた時代でもある。町内には今も八日市という三斎市(日を決めて月に三回立つ市で、八日市の場合は毎月八のつく日に開かれた)のあとが伝えられている。
 しかし、建物は既に建てかわっており、往時を知るには絵巻物がもっとも重要な資料となる。
 それによると、草葺きの掘立小屋もあるし、板屋根で壁囲い、売り台のついたものもある。それらは、終戦-昭和20年直後の闇市などとも共通するところがあったと思われる。

 ◆チャンスン(Jang-Seung)

 チャンスンとは、村の入口や道端に立てた木像あるいは石像をいい、木で鳥をかたどったソッテと合わせて祭られ、韓国の全土に分布している。初の記録は、新羅の景徳王18年(西暦759年)に遡る。
 上部に人または鬼の顔が刻まれ、胴体に天下大将軍、地下女将軍などの文字が彫り込まれ、多くは男女一対になっている。また、村の東・南・西・北に祭られ、それぞれ青帝・赤帝・白帝・黒帝将軍と彫り込まれたものもある。
 チャンスンは、境界標、里程標、守護神の役割をもっており、1~3年ごとにチャンスン祭を挙行し、村の安全と方策を祈る。

 このチャンスンは、平成13年9月8日、日韓比較文化交流事業「神懸りの共演と解説」の開催を記念して、韓国の沃浪文化財団(理事長金玉浪氏)から寄贈されたものです。なお、製作はチャンスン祭りをよく伝承している京畿道ムカブ村の職人の手によっています。

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 ◆中世夢が原

 中世夢が原は、鎌倉から室町時代にかけての吉備高原一帯にみられた村の様子を、絵巻物や発掘資料をもとに時代考証により再現したもので、辻堂・農家・市場・山城などの建物があり、中世の生活を体感することができます。
また、大河ドラマ「武蔵」や映画「あずみ2」のロケにもつかわれました。

 --- 美星町観光協会 ---

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 ◆三斎市
 月のうち三回開かれた市を三斎市といいます。生活物資や手工芸品が並び、買い物客でにぎわいました。
 -- 中世夢が原パンフレットより --

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 ノンビリと巡っておりますと、今度は「中世の穴窯・炎窯」の案内表示がありますので、そちら方向に(^-^)

 ◆穴窯(あながま)

 一口に焼き物といっても、その焼き方は縄文や弥生式土器を焼いた「野焼き」から、山の斜面に築く「穴窯」へ、さらに炎を滞留させる細工をほどこした「割竹式窯」に、そして現在の「登り窯」へと発展してきました。当「炎(ほむら)窯」は、半地下式の穴窯を再現したものです。
 穴窯とは、山の斜面に穴を掘って、土壁をそのまま窯の壁に利用します。天井は木の枝などでアーチ型の枠組みをしておき、それに粘土を叩きつけ、粘土が乾いたところで燃やすと、焼け固まった天井になったわけです。
 大きさは、平均して長さが4~6メートル、幅1~2メートル。煙出しの方は細く絞られていて、ちょうど徳利のような形をしていました。
 窯は年に数回焚かれ、赤松の割り木を燃料に、約一週間のあいだ昼夜問わずの作業となります。
 なお、土で作った窯は高温と膨張によって崩れやすい、当炎窯では外からは見えない内部に耐火レンガを使用しています。

 …と、穴窯には、こんな説明板がありました(^.-)☆

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ギャラリー
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  • 1/25(月)、岡山県井原市東江原町「高越城址」散策(^.-)☆(4)
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