GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

旅の景観・話題

挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(21)

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 写真撮影が終わりますと、あと暫くで披露宴の開宴ですネ(^.-)☆
 披露宴会場も仲々オープンで、一般部外者の方も見学しようとすれば可能です。会場は照明が少し暗い感じで、窓側(幸が池側)の皆様は逆光となりましたネ。
 撮影環境としましては大変悪いのですけど、まぁスナップ写真ですから出来栄えはともかく、今回もまた出来るだけ可能な限り撮りまくりしたいと思います(^-^)/"

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(19)

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 「宝松庵」から国立京都国際会館の建物内に戻ってきますと、ロビーで暫し皆さん談笑タイム。
 そして、暫くしますと、ロビーの一角で両家の親族紹介となりました。そぅですネ…ここは、施設としては国際会議場なんでしょうから、披露宴会場の近くには適当な部屋が無さそうですし、親族紹介もロビーの一角で行いますのも、やむを得ませんでしたかも(^-^)
 親族紹介が終わりますと、皆さん「幸が池」を背景に集合写真の撮影です(^-^)//"

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(18)

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 挙式も無事に滞りなく終わり、「宝松庵」を後にされます列席者の皆様のお顔が、いゃいゃ、実に穏やかで和やかで、おまけにイィ笑顔\(^o^)/
 GONsanのみでなく、この茶婚式は、皆さんの想いも様々なのでしょうけど、深く印象に残ります良き挙式として、いつまでも胸に刻まれますのかも…
 ただ、GONsanの嫁さんのように「私達にも、お抹茶を戴けるのかと思った…」と、けしからん事を呟く輩もおりはしましたが(^-^)//"

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(17)

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 新郎・新婦お二人での写真が終わりますと、そろそろ挙式が始まります時間となって来ました。で、親族の皆様が「宝松庵」にとお集まりです(^.-)☆
 宝松庵の中は狭いようですから、挙式は両家のご家族のみでの挙行です。
 ですから、GONsan達は、可能な限り庵内の見学席に座り、他の方々は庵外で窓から覗きますような形での参加となりました(^-^)

 当のご本人達は「茶婚式」の要領はある程度分かってはいますのでしょうけど、両家のご家族、そして本日ご列席の親族の皆様にとりましては、大概の方々が初めての茶婚式。
 勝手が分かりませんで戸惑いは隠せません(^.-)☆
 WEB上での事前学習では、「神前式では、お神酒で新郎新婦が三々九度をし、その後参列者で、親族固めの盃を行います。茶婚式ではお抹茶で、似た儀式を行います…」との事でしたから、異なりますのは「お神酒」「お抹茶」の二点のみ。後は、大概、同様ですから、司会の方の支持に従い進行となりますけど、そぅは言いましても初めての茶婚式。当事者・見学者の双方とも戸惑いは随分ありましたネ(^_^)v

 新婦は学生時代4年間を京都で過ごされましたようですから、今回の茶婚式…新婦sanの強い願望から挙行となりましたのかも分かりませんネ…
 とにかく、GONsanにとりましても初めての茶婚式。
 日本の伝統芸能である、茶道の精神にのっとって行われる結婚式…神前式とはまた違った和婚式…古風豊かなシンプルな結婚式でありましたけど、GONsanには強烈な印象で残りましたネ(^_^)v
 新郎・新婦の意図を想像させられます、いぃ結婚式でありました(^-^)//"

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(16)

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 新郎・新婦のお二人の写真撮影のお邪魔にならないよう、ズームを効かせて何枚かパチリです(^.-)☆
 こぅしてプロのカメラマンsanのご様子を拝見しておりますと、色んな面に配慮されながらの撮影が続きます。
 ド素人のカメラ好きのGONsanにも大変参考にはなるのですけど、仲々(^-^)
 GONsanなんぞは、とにかく眼に入りますのを極力凡て画像に納めますのが優先で、構図・アングル・レイアウトなんぞは二の次、三の次で、後廻し。事後に、パソコン上で、水平線・コントラストを修正します程度。まぁその前に、肝心のカメラもボロいですから(^-^)
 でも、こんな事を言いますとオリンパス(GONsanは、フィルムカメラ時代からオリンパス一筋なんです。レンズはタムロンですけど…)sanに叱られそうですけど(^_^)v
 要するに、GONsan自身のスキル・センスがありませんから、とてもイィ画像なんか撮れません(^-^)//"

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(15)

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 国立京都国際会館の大きい池は「宝ヶ池」なんですけど、この小さい池は何と言うのでしょうネ…マップで確認してみますと「幸が池」と言うようですネ(^.-)☆
 暫く池の周りを散策しておりましたら、新郎新婦のお二人の姿が…ふ~ん、挙式の前に今から写真撮影が始まりますようです。
 この様子を暫し拝見します事に(^-^)

 今回の結婚式は、「国立京都国際会館 宝松庵に於て茶婚式にて挙行致します…」と、当初のご案内には記載がありました。
 茶婚式とは、どんな結婚式なのでしょうねぇ~
 早速、スマホを取り出し事前勉強となりました(^.-)☆

 WEB上で「茶婚式」を検索しますと、結構、色々出て来ましたから、その中から「京都かがやきウェディング」sanのホームページを閲覧しますと、こんな記載がありました。

 ◆日本スタイルの結婚式「茶婚式」

 --- 京都かがやきウェディング ---

 みなさんは、茶婚式ってご存知ですか??
 茶婚式とは、日本の伝統芸能である、茶道の精神にのっとって行われる結婚式です。
 神前式では、お神酒で新郎新婦が三々九度をし、その後参列者で、親族固めの盃を行います。茶婚式ではお抹茶で、似た儀式を行います。
  1、参列者着座
  2、新郎新婦着座
  3、濃茶点前
  4、夫婦固めの儀(お茶を新郎新婦で飲み交わす)
  5、誓詞奏上
  6、親族固めの儀(参列者全員でお茶をいただく)
  7、指輪交換
  8、新郎新婦 両家親御様一礼
  9、退席
 茶道の精神に「一期一会」という言葉があります。出会った機会を一生に一度限りの事として大切にしましょう…という意味があります。
 親族固めの儀で、全員でお茶をいただくことにより、新しい家族の誕生、ひとつの家族になるという一体感を感じ、絆を大切にという意味が込められています。
 日本、京都を更に感じさせる茶婚式。神前式とはまた違った和婚で、結婚式をされたいおふたりにオススメです。
 挙式スタイルをはじめ、会場、衣裳、ウェディングアイテム等のご相談・お手配、当日のサポートは京都かがやきウェディングにお任せください!

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆
 古都・京都だからこその「茶婚式」かと思いましたら、全国的に挙行されていますようですネ(^-^)/

 幸が池周辺を散策時に「宝松庵」も眼にしましたけど、小さな庵ですから大人数では入れません。挙式は両家のご家族のみで行われますのかも分かりません。
 新郎・新婦の写真撮影が終わりますと、挙式スタートで、茶婚式の全容が眼に出来ますから、楽しみですネ(^-^)//"

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(14)

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 それなりに楽しめました「京都駅ビル空中経路」でありますが、時間を確認しますと、P.M.6:05。ソロソロ退散です(^.-)☆
 翌日、アパホテルをチェックアウトは、A.M.9:30。
 挙式は、国立京都国際会館の宝松庵で、A.M.11:00より。30分前にはお集まり下さい…との事でしたから、国立京都国際会館到着は、少し早めのA.M.10:00少し前。
 もぅ随分昔になりますけど、京都経由での福井への行き帰りには休憩場所となりましたのが、この国立京都国際会館でありました。が、今では舞鶴自動車道のお陰で京都経由での若狭行きは無くなりましたけど…とにかく、懐かしい場所ではあります。
 でも、ここで挙式も可能とは、知りませんでしたねぇ~
 嫁さんは親族の皆様と談笑しておりますので、GONsanは、とりあえず国立京都国際会館の庭園を散策です(^-^)//"

 ◆国立京都国際会館

 国立京都国際会館(こくりつきょうとこくさいかいかん、英語:Kyoto International Conference Center、略称:ICC Kyoto)は、日本の国際会議施設の一つ。京都府京都市左京区岩倉に所在し、宝が池公園に隣接する。運営は、公益財団法人国立京都国際会館。
 敷地面積156,000㎡。建築物は、日本人建築家・大谷幸夫の設計による代表作である。

 ◆建設

 1966年(昭和41年)5月21日、日本で最初の国立の会議施設として開設された。それに先立って開業した東海道新幹線の京都駅が在来線に併設となったのも、市や地元財界などがこの施設への利便性を強く主張したことが大きな要因の一つとなっている。

 ◆建築・設計

 国が主催となって1963年(昭和38年)に開催された建築コンペ(建築設計競技)で、195点の応募作品から選考された。
 ・設計:大谷幸夫、および、大谷研究室
 ・用途:会議場、展示施設、宴会場、多目的施設
 ・竣工:1966年、1985年、1998年 ・延床面積:45,764㎡ ・所在地:京都市左京区岩倉南大鷺町422番地

 ◆宝松庵

 宝ヶ池畔に佇む茶室「宝松庵」は、宝ヶ池の「宝」と寄贈者である初代理事長である松下幸之助氏の「松」の二文字を頂き、名づけられました。宝ヶ池の湖面のきらめきを眺めながら日本庭園を進み、茶室へつづく小路へと足を踏み入れると、檜皮葦屋根の見事な稜線が姿をあらわします。本格的なお茶会をはじめ、要人のおもてなしや日本の伝統文化紹介の場として、会議のあい間の安らぎのひとときをお過ごしください。

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(13)

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 山門を出て来ますと正面に「青鬼の小唄」の石碑が…
 はっきりと読めないので、WEB上に検索しますと、どなたかのホームページにこんな記載がありました(^.-)☆

 ◆青鬼の小唄(あおおにのこうた)

 作詞:鷲尾 光遍 作曲:不詳
 【滋賀県大津市石山寺3-1-5 石山寺の駐車場出口付近にある 青鬼の小唄 歌碑】

 ちょっと読めないと思うんですが『青鬼の小唄』と書いてあり、「降魔の姿となり給う 朗澄律師の青鬼は 悪心くじき福徳を 与え給うもありがたや」と、青鬼の小唄の1番が彫られているのです。

 そもそも、なぜに青鬼?というところですが、約八百年前には、石山寺には屈指の名僧、朗澄律師(ろうちょうりっし)という者がおりまして、教学(きょうがく)の他、図像画(ずぞうが)などにも卓越し、白描図像等、書写された物が大量に残されているそうなんですね。
 「青鬼」は、その「朗澄律師」の化身であります。
 どうやら、彼は死後…青鬼となり庶民の為に降魔招福(魔を断ち福を招く)を祈願したとのこと。この青鬼の小唄は全部で6番まであるようで、調べてみました。

 1、降魔の姿となり給う 朗澄律師の青鬼は 悪心くじき福徳を 与え給うもありがたや
 2、あまたの人の蛍見に 心ひかれて青鬼は ごずめず伴い船いだし 蛍の宮へとこぎつきぬ
 3、蛍の宮は奥深く 木々に帆やるの花さきて 輝く光は不夜城の とてもよいとこよい眺め
 4、蛍の女王即昭が 優しき心のもてなしに 心うかれて青鬼は 帰るを忘れて飲み明かす
 5、蛍の女王即昭に 朗澄律師の青鬼が 授け給いし如意の珠 手にとり見るもうれしきや
 6、如意の宝珠の御利益で 姿いよいよ美しく おいどの光もいやまして みそひのよわいも長くなる

 メロディがあるのかどうかは不明でした。

 …と、こんな記載でありました(^.-)☆
 そして、駐車場にと向かおうとして「びわ湖産の無添加・自家製ふな寿司や佃煮を製造・販売するお土産処『至誠庵』」の横に存在します「三鈷の松(さんこのまつ)」の案内表示板に眼が…

 これも、WEB上で検索です(^.-)☆

 ◆願い事が叶う三鈷の松

 今からおよそ千二百年前、弘法大師空海上人が、唐の国における学法を終え、写経も完成させて、日本にご帰国になるその出航の時、秘密の教法流布に適する地あれば、それを示せと、その手にお持ちになった三鈷(仏教の法具)を、東の空に向かって天高くお投げになりました。
 その三鈷は、遠く海を渡って、高野山までとどき、松の枝にかかっていたと伝えられています。為に帰国後、お大師さまは、高野山の伽藍を建立なさることになるわけですが、この時の松は、三鈷松と名づけられ、今も大切に譲り育てられています。

 ところで、松の葉は二本が普通ですが、この三鈷松は、三鈷の先のように、葉先が三本に分かれています。これは、お大師さまのご法力によるもので、その松葉を拾って持っていると、必ずよい事が起こるそうです。以来、お大師さまにゆかりの土地に、この非常に珍しい三本葉の松が育つと、三鈷の松として崇められるようになりました。
 石山寺は、高野山より古い真言宗のお寺です。お大師さまは、自らの厄年に三ヶ月間参篭して、ここで修行をなさいました。今も御影堂より、ご参拝の方々を見守っておられることでしょう。石山寺の三鈷の松は、葉先が長いのが特徴です。
 念じながら三鈷の松を何度も三つ編みに願い事を叶える為には、まず叶わなかった原因(過去の悪しき因縁)を仏さまのお智慧で解いて頂く事から始めます。
 そして次ぎに、念じながら三鈷の松を何度も三つ編み(実を結ぶ)にする事で、新しい希望の世界と現実の世界が結びつき、今までただ単に夢であったものが実現することになります。貴方も一度お試し下さい。

 ・御大師さまの御恩おくり
 福運を呼び寄せ、見事に願い事を叶える事が出来ましたら、その事の歓びと、お大師さまへの感謝の気持ちを、ご恩返しのつもりで身近な方へお伝え下さい。人にお話をする事で、貴方の心は慈悲深く豊かなものになります。

 …と、こんな『三鈷の松』でありますようです(^_^)v
 駐車場にと戻って来ますと、P.M.2:50でありました。未だ時間はありますので、次は「三井寺」に向かいます事に…
 暫く車で走行していますと、空は随分曇って来まして、そして降雨開始。次第に雨足は早まり激しい降雨にと。時季外れの夕立なのかも分かりません(^-^;
 で、三井寺行きは断念。三井寺訪問は、また次回の機会に…とは言いましても、今回の訪問を逃しますと、また当分、こんな機会は仲々無いのでしょうけどねぇ~とにかく断念で、京都に向かう事となりました。
 宿泊は、今回もまたアパホテル利用で、京都駅近くの「アパホテル京都駅堀川通」でありました。
 チェックインし、暫くユッタリと過ごしましてからの夕方、京都駅界隈を散策します事に…向かいましたのは京都駅。

 夜ですから、まず眼に入りますのが「京都タワー」。

 ◆京都駅前のシンボルタワー!「京都タワー」の楽しみ方♪

 京都に訪れたことがある人なら、きっと目にしたことがある「京都タワー」。京都駅前にあるシンボルタワーで、駅から直結で行くことができます。いつも見てはいたけれど、実際に行ったことが無い人もいるでのはないでしょうか?こちらでは京都タワーの楽しみ方をご紹介!街並みを見渡せるだけでなく、実は観光の合間にも寄りやすいスポットなんですよ♪
 古都「京都」の街にそびえ立つ、ランドマーク的存在の「京都タワー」。1964年12月28日に京都駅中央郵便局跡地に開業された、世界一高い“無鉄骨建築”のタワーです。
 建設当初は、歴史ある京の街にそぐわないと反対する声も多かったそうです。しかし、海のない京都の街を照らす灯台をイメージして建設された姿は、京都のシンボルとして愛される存在となりました。

 …と、こんな記載がWEB上にありました。GONsanは未だ一度も上がった事がありませんけど、これもまた次回の機会に…多分、そんな機会は無いのかも分かりませんけど(^-^)/
 ライトアップされました京都タワーを何枚か画像に納めましてからは、大勢の観光客の皆様の流れに沿って、GONsan達も『京都駅ビル空中経路』に上がります事に(^.-)☆
 これも説明は、WEB上の掲載引用で(^-^)

 ◆京都駅ビル空中経路

 京都駅には4ヶ所の夜景スポットがあります。屋上にある「大空広場」、4階にある「室町小路広場」と「烏丸小路広場」、そして「空中経路」です。空中経路は、10階の京都拉麺小路と、7階の東広場(駅前広場から左手のエスカレータで上っていったところ)からアクセスできます。場所がわかりにくいこともあり、混雑している京都駅でも静かな空間。地上45mに147mのガラス張りの通路には3ヶ所の展望ポイントが設けられ、京都タワーを眺めるには最高のポイントです。

 京都駅は明治10(1877)年に初代駅舎にて開業、大正3(1914)年に二代目、昭和27(1952)年に三代目と建て代わり、現在の建物は四代目で平成9(1997)年9月に竣工したものである。
 駅構内に入って見上げるドーム天井の空間を走る一本のライン。これこそが知る人ぞ知る「空中経路」である。東西に延びるこの遊歩道は地上高45m・長さ147mで、東広場と西ビルの拉麺小路を結んでいる。
 京都駅の中央改札を出て、右奥のエスカレータを3段乗り継いで一番上まで上りますと、烏丸小路広場という所に着きます。ここからは駅構内の全体を見渡せますし→オープンになった広場の北側からは京都の町並みが望めます。右奥の階段(奥はエスカレータ)を上がると東広場に到着します。ここは東ビルの「ホテルグランヴィア京都」の中庭としても使われているようです。
 「ホテルグランヴィア京都」の対面に中庭を挟んで「空中経路」に行く最終のエスカレータがあります。京都駅の構内が混雑していても、ここまで上って来る人はごく僅かです。
 エスカレータの上方から見おろすと、東広場の様子がよく分かります。
 エスカレータが上りきると、目の前に空中経路が現れます。左側に設けられた空調機から冷気が噴出して快適そのものです。途中3箇所に展望所が設置され、ここから望む京都の名所案内板も設置されています。
 大階段の最上段に何やら緑の植物が見えましたので上がってみました。ここは「大空広場」という空間で京都駅ビルの屋上を緑化して建物表面などの温度を下げるヒートアイランド制御に取り組まれています。この芝生広場にはベンチも設けられていて、気候の良い頃には絶好の休憩場所かも知れません。

 …と、こんな「京都駅ビル空中経路」でありますようです(^.-)☆
 この日は、挿入の画像の景観で、イルミネーションが大変キレイでありました\(^o^)/

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(12)

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 山門方向に進んでいますと、路傍に「天智天皇の石切り場」の案内表示板が…

 ◆天智天皇の石切り場跡

 本堂正面のすぐ下方にある石切り場跡には、天然記念物「硅灰石」が道沿いに露出しており、15か所の採石痕があります。近年、ここから切り出された石が、飛鳥の川原寺中金堂(7世紀前半~半ば頃創建か)の礎石に使用されていることが明らかとなりました。また、境内の別の場所から白鳳期の瓦も発掘されており、石山寺の創建年とされる天平19年(747)以前に、すでに前身となる寺院が存在したことを証明する貴重な遺跡といえます。

 …と、こんな石切り場のようであります。
 ここを通り過ぎますと「天狗杉」、そして「水車」の場所まで戻って来まして、これでどぅにか石山寺をほぼ一廻りした事になるのでしょうか…
 山門まで戻って来ますと、また「宝性院」の入口の3人のキャラクターに眼が向いてしまいました。WEB上で検索しますと、このキャラクターは「おおつ光ルくん」と言うようですネ(^-^)//"

 ◆神木(天狗杉)

 石山寺のご神木。草創期の一本杉と言われています。参道奥に立つ大杉。
 石山寺屈指の学僧・郎澄(ろうちょう)律師は平安末から鎌倉初期にかけて石山寺の整備に尽力し、死後は鬼になって石山寺を守ることを誓って亡くなった。
 「石山寺縁起絵巻」第6巻第2段では、律師の死後、弟子の行宴(ぎょうえん)が松の梢の上で金色の鬼の姿になった師を見たと記されているが、これとは別にこの天狗杉の上に現れたとも伝える。

 ◆石山寺 水車の由来

 江戸時代ここより200メートル小川に沿って行った所に、現在の経堂があり、その入口(昔はこのあたり水田)の辺に水車小屋があって、そこで収穫されたお米をこの水車を使って村の人々が脱穀した記録が残っている。又近年には水車を踏む高い場所に水をそそいだという話が伝わっている。

 ◆宝性院(ほうしょういん)

 石山寺の塔頭。本尊・愛染明王像(あいぜんみょうおう)を安置する。(非公開)
 平日で静かな境内に入ると、入口に浮かない?顔の3人が。石山寺のマスコット・キャラクター「おおつ光ルくん」だそうです。

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 ふ~ん、これが「腰掛け石(尻掛け石)」のようですネ。決して座り心地は良さそうには見えません(^-^)
 それでは、次に「無憂園・甘露の滝」に向かってみます。向かう…とは言いましても「順路→」通り進みますと山門方向になりますネ(^.-)☆

 ◆甘露の滝
 甘露の滝は石山寺内にある人工滝である。山門からほぼ真っ直ぐ歩くと右方に本堂があり、甘露の滝はその先の無憂園の奥に落ちている。なお、駐車料金600円と入山料500円が必要である。
 無憂園の中にある滝。休憩所から滝を眺めることができるので一息つきましょう。

 ◆無憂園
 琵琶湖をかたどった池や滝などがある回遊式庭園。春には桜が咲き乱れ、きれいだということです。石山寺は花の寺としても有名なんですね。

 …と、WEB上にはこんな記載がありました(^.-)☆

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 紫式部像とお別れし、「←順路」に従って下っていきますと、「無憂園・甘露の滝」の表示板が…で、その方向に進行です(^.-)☆
 そうしましたら、赤い鳥居が眼に入りましたので鳥居方向へ…
 途中、「← 西国三十三所 観音霊場 巡拝道入口」の表示板が…でも、その方向には進まず直進しますと「八大竜王」の赤い鳥居。そして、その奥には小さい池の中に社が存在でありました。

 説明板がありますので眼を通しますと、こんな記載が…

 ◆八大龍王社

 --- 石山寺縁起絵巻でめぐる石山寺 ---

 八大龍王社は龍池の中島に建てられた小さな社で、龍王をお祀りしています。石山寺の歴海和尚がこの池のほとりの石に座って孔雀経を読むと、池の中から龍王たちが現れて和尚の経を聞き、経を読み終えると、和尚を庵まで送っていったと伝わっています。歴海和尚が座った石は「腰掛け石(尻掛け石)」と呼ばれ「石山寺縁起絵巻」に描かれたうっそうと木がおい茂る深い山中の様子は、現在も変わることはありません。

 周辺には「尻掛け石」の表示板も…後で画像に納めたいと思います。
 WEB上で「八大龍王社」を検索しますと、

 ★石山寺八大龍王社

 八大龍王社は、東大門から憂園のさらに奥へ進んだ場所に位置し、龍穴の中島に建てられています。龍穴は、炎天下でも請雨法を修すれば必ず雨が降るという池で、「石山寺縁起絵巻」には、石山寺の僧侶歴海和尚がここで孔雀経を転読すると、龍王たちが池の中から現れて和尚の傍らに侍り護衛し、和尚が草庵に戻る際には背負って行った様子が描かれています。和尚が読経の際いつも座っていた池の前の大きな丸い石は「歴海和尚尻懸石」と呼ばれています。

 …と、こんな記載がありましたけど、GONsanが訪れました時には降雨はありませんでしたけど、赤い鳥居をよくよく見ますと、雨のしずくがありましたネ(^-^)//"

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 心経堂からは、豊浄殿へと進行です。ここでは、「石山寺と紫式部展」が開催中でありました。
 中に入ろうかな…と思いましたら、有料でありました。入館料は300円でありましたけど、有料ですから入館は断念(^-^;

 で、次は「光堂」へと向かおうとしていますと、GONsan世代のご夫婦と擦れ違いです。その際に「豊浄殿・紫式部展は、どぅでした?」と尋ねられましたので、「有料でしたから入館しなかったのですよ…」と返しますと、「じゃぁ、私達も止めとこう…」ですから、「入館料は300円と安価でしたよ…」と、付け加えますと、「入門料と合わせると高くなるから、止めときます」でありました(^.-)☆

 「紫式部像 →」の表示に従って「光堂」へ。

 ◆石山寺豊浄殿
 石山寺多宝塔の北西、境内の最も高いところに新設された宝物館です。毎年春と秋の2回、石山寺に残されている宝物を紫式部などのテーマ別に一般公開します。

 ◆光堂(こうどう)
 石山寺の「光堂(こうどう)」は、この平成20年に落慶。東レ株式会社の寄進により、古来の伝統的建築技法のままに、懸崖造り(舞台造り)で建立された、新しくて格式の高いお堂です。

 光堂方向へは、5人のご家族連れが先行でしたから、この方達に付いて光堂へ。到着と同時に「紫式部像」を求めて周辺をキョロキョロ。そうしますと、また「紫式部像 →」の表示板。う~ん、ここからまた少し下った場所にありますようですねぇ~
 また、このご家族連れの後方を(^-^)ほどなく「紫式部像」に到着です(^.-)☆

 ◆紫式部像

 西国三十三所霊場のひとつで古くから観音信仰で名高い、滋賀県大津市にある石山寺は寛弘元年(1004年)、紫式部(むらさきしきぶ)が堂内に籠もり『源氏物語』須磨・明石の巻を綴った場所と伝えられます。境内の高台には源氏苑が整備され、紫式部の像も立てられています。『源氏物語』の執筆中に筆を止めて、これからの構想をかんがえてる場面でしょうか。
 境内には鎌倉時代の作で重要美術品に指定される紫式部供養塔がああるほか、本堂相の間には「源氏の間」があり、『源氏物語』を執筆した紫式部の姿が人形によって再現されています。
 石山寺の寺伝などでは、寛弘元年(1004年)、紫式部がここで7日間参籠し、琵琶湖の水面に映える月を見て、着想を得たとされています。
 室町時代に記された源氏物語の古注釈書『河海抄』には、八月十五夜の月が琵琶湖に映えて、それを眺めていた紫式部の脳裏にひとつの構想が浮かび、源氏物語は書き始められたとされていますが、史実なのか、後世の創作なのかは定かでありません。
 主人公・光源氏のモデル・源融(みなもとのとおる)は近江大津に閑居を設け、その跡地に融神社(とおるじんじゃ/大津市伊香立南庄町)として祀られています。
 そして「横川の僧都」(よかわのそうづ)は比叡山延暦寺の高僧、源信(恵心僧都)ではないかと推測されています(諸説あります)。

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(7)

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 多宝塔には「落書厳禁」の注意看板が(^-^)
 こんな国宝に落書きする人は居ないだろう…と思いながら、よくよく見てみますと、扉の部分に確かに落書きが(^-^;
 心ない方もおられるのですねぇ~国の宝の『国宝』だと言いますのに…

 ◆源頼朝・亀谷禅尼供養塔

 多宝塔の北西に並んで立つ2基の宝篋印塔は、右が源頼朝、左が亀谷禅尼の供養塔と伝えられています。
 亀谷禅尼は源頼朝の第二の姫の乳母であり、石山寺の毘沙門天に戦勝祈願をした中原親能の妻です。剃髪後石山寺に住し石山の尼と呼ばれ、宝塔院を建立して本尊大日如来の胎内に頼朝の髪の毛を納めて日々勤行を為し、頼朝に石山寺の再興を勧め、多くの寺領を沙汰したと伝えられています。この二人のために、後世の人が供養塔を建立したと考えられ、亀谷禅尼供養塔は南北朝、源頼朝供養塔はそれに続く時期のものです。
 指定区分 -- 重要文化財(亀谷禅尼供養塔)
 所在地 -- 滋賀県大津市石山寺1-1-1

 ◆若宮

 大友皇子を葬ったとする場所がここにも!
 「若宮」は説明の文字通りの解釈では三十八所権現の子供になるが非業の死をとげた祟る子・人を祀るという話もある。壬申の乱は672年、石山寺創建が天平勝宝元年として749年で、良弁開基時に大友皇子の墓が既にここにあった?まあ、そういう後付の伝承なのでしょう。何故2002年に建立したのだろう?…と、WEB上には、こんな記載がありました(^-^)

 ◆心経堂

 心経写経の永久保存のために建立されたもので、堂内には、ご本尊の「如意輪観世音菩薩半跏像」が安置されています。

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(18)

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 毛利氏一族の墓から下って来ますと、昼食時に過ごしました大通院谷に。これで、今回の山城歩きはオシマイです(^.-)☆
 後は福山にと帰るのみ。途中、世羅道の駅に立ち寄り休憩。福山駅北口に到着は、P.M.6:00少し前でありました。
 到着10分ほど前に、嫁さんに迎えの連絡を入れていますのですけど、福山駅南口地下駐車場に下りますと、いつもの事ながら嫁さんは未だ来ていませんでしたねぇ~
 ベンチに腰掛け、嫁さんの到着を独り寂しく待つGONsanなのでありました(^-^)//"

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(6)

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 硅灰石の後方から、周辺の景観をパチリです(^.-)☆

 ・石山寺経蔵
 石山寺は紫式部が源氏物語の構想を練った寺院として知られる古刹で、琵琶湖から流れ出る瀬田川の右岸に位置している。
 経蔵は三十八所権現社本殿の背後に建つ校倉の建物で、淳祐内供筆聖教(国宝)などが収蔵されてきた。全国的にも類例の少ない切妻造の校倉である。

 ・紫式部供養塔と芭蕉の句碑
 芭蕉の「あけぼのは まだむらさきに ほととぎす」の句碑。芭蕉は紫式部源氏の間を見て「紫」をかけて詠んでいる。
 その左に紫式部供養塔。これは、石山寺で『源氏物語』を起筆した紫式部の供養塔。鎌倉時代の作だそうで、一番下層の4面に仏像が浮き彫りにされています。

 ・多宝塔(国宝)
 1194年建立で、日本最古の多宝塔といわれている。
 石山寺は、聖武天皇の勅願により天平勝宝元年、良弁僧正を開基として開かれた寺院である。 また、紫式部が参籠して『源氏物語』を書きはじめたとも伝わる。
 多宝塔は建久5年(1194)建立で、年代の明らかで大規模な改修を行っていないものの中では、日本最古である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。もちろん国宝に指定されています。
 和歌山・金剛三昧院(こんごうさんまいいん)多宝塔、大阪・慈眼院(じげんいん)多宝塔に並び、日本三名塔のひとつにも数えられています。

 ・鐘楼(石山寺鐘楼の概要)
 石山寺は大津市石山寺一丁目にあります。『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「屋根は入母屋造桧皮葺(いりもやづくりひわだぶき)、袴腰(はかまごし)を漆喰塗(しっくいぬり)とした鐘楼で、鎌倉時代後期の建立とみられている。
 上層の平面は正面の柱間数3間で4.56m、側面2間で2.85m。下層の柱上に台輪をめぐらし三手先(みてさき)組物で縁をうける。上層の組物も三手先であるが東大門と同じく尾垂木をもちいていない。全高は11.13mであるが、上層の組物には隅にも拳鼻(こぶしばな)をつけ、隅柱は少し長くして軒反りを美しくし、間斗束(けんとづか)は垂直であり、組高欄の端の切り方(角度)など古式があってみるべきものがある。重要文化財。(成瀬弘明)」とあります。

 ・めかくし石
 目隠しをして塔身を抱きとめることができれば願い事が叶うと伝わり、ここも人気のパワースポットなのだとか。

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(17)

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 ・毛利氏一族の墓

 元就墓所の下段で、洞春寺境内跡にあります。郡山初代城主毛利利時親以来、歴代一門の墓が明治2年にここに改葬されました。狭域内は時親から8代豊元(元就祖父)までの合墓で、それぞれの墓は大通院谷にあったものです。広域内には、正面左から元就の兄興元とその子幸松丸と隆元の夫人の墓が並んでいます。

 ・洞春寺跡

 安芸高田市にある中世の山城、郡山城(吉田郡山)の城内にある洞春寺跡にあるのが毛利元就墓所(もうりもとなりぼしょ)。郡山城を整備拡幅し、安芸の国人領主から戦国大名へと躍り出た毛利元就は、元亀2年6月14日(1571年7月6日)没。翌年、孫の毛利輝元によって菩提寺である洞春寺が建立され境内に墓が建立されています。
 墓域は前域・後域に分かれ、前域1列目の石灯籠は、7代広島藩主・浅野重晟(あさのしげあきら)、地元吉田村出身の眼科医・土生玄碩(はぶげんせき)、山口県士族18人が奉納したもの。
 2・3列目は、毛利氏親族、4列目は、5代広島藩主・浅野吉長奉献の石灯籠です。
 後域には、5代広島藩主・浅野吉長寄進の石垣が巡らされ、「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」の墓碑が立っています。
 墓標には、ハリイブキが植えられていましたが、今は枯れています。葬儀が行なわれた日を新暦に直して7月16日に墓前祭が行なわれています。
 菩提寺である洞春寺は、関ヶ原の戦い後の慶長8年(1603年)に毛利家に従って山口に、次いで慶長11年(1606年)萩城内に移り、さらに明治維新後の明治2年に再び山口(現・山口県山口市)に移っています。
 毛利元就は、明応6年(1497年)3月14日、母の実家の鈴尾城(福原城=現・安芸高田市福原)に生誕。毛利弘元、長男・興元と2代続く当主の急死後に、有田中井手の戦いで安芸武田氏を打ち破り、次男だった元就が毛利家の家督を継ぎます。
 大永3年(1523年)8月10日に郡山城に入城し、城を整備拡幅。尼子経久と敵対し、大内義興の配下として台頭します。

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(5)

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 それでは、本堂に参詣です。
 ここでは、写真撮影不可との事でしたので、少し離れた所からパチリとなりました(^.-)☆

 ◆石山寺本堂

 石山寺は、聖武天皇の勅願により、良弁僧正が天平19年(747)に、現在の地に聖武天皇の念持仏を安置したことにより、始まる。さらに天平宝字3年(759)、淳仁天皇により保良宮が近くに造営され、石山寺は造石山寺所という役所のもとで、保良宮を護持する寺として拡張され、官の寺として伽藍が整えられる。
 平安時代になると、醍醐寺の影響下に入り、真言密教の教学の寺となる。一方、観音霊場の寺として、皇族・貴族が参詣するようになる。石山寺は承暦2年(1079)に大火災に見舞われ、本堂はじめ多くの堂舎が焼失したが、鎌倉時代に入り、武士とのつながりのなかで、現在みられる景観の堂舎がほぼ出来上がった。観音巡礼は室町時代から江戸時代にかけて盛んになり、西国三十三所観音霊場第13番札所の石山寺は、現在も多くの参詣者を集めている。
 石山寺には、国宝建造物として、本堂の他に、多宝塔があり、また東大門と鐘楼は国重要文化財。
 石山寺本堂は、承暦2年(1079)の大火で焼失した後、永長6年(1096)に再建されたものであり、滋賀県では最古の建造物である。正堂と礼堂からなる複合建築物であり、如意輪観音を安置する桁行七間、梁間四間の正堂の南に、桁行九間、梁間四間の礼堂を建て、両者を一間幅の相の間で繋いでいる。正堂と礼堂の屋根はそれぞれ寄棟造りで、棟は平行しており、これを縦に結ぶ屋根を相の間に懸けてある。従って棟はエ字型になるが、礼堂の屋根だけが低いので、相の間の屋根の破風が正面に見える。正堂から礼堂の側にかけて、地盤が下がっているので、礼堂は床下に高い柱を入れて支える懸造になっている。現在の正堂は、永長6年(1096)に再建されたものと変わっていないが、礼堂は慶長4年から7年(1602)にかけて、淀殿らの寄進によって建て直されている。
 石山寺本堂は、その周囲の敷地や樹林等の関係から、一枚の写真に納めることはできない。
 「石山寺」と書かれた提灯の奥が紫式部源氏の間であり、この部分が相の間となっている。従って、この部分より右側が正堂、左側部分が礼堂である。

 ◆石山寺 三十八所権現社本殿

 石山寺は、大津市内に所在する真言宗寺院で、平安時代建立の本堂を中心とした伽藍をもつ。
 室町期創建の御影堂は、慶長期に洗練された外観に整備された。三十八所権現社本殿は慶長7年(1602)の建築で、華麗な彫刻や彩色で装飾され、その拝殿として同時に建てられた蓮如堂とともに、寺院における鎮守社の構成を伝える遺構として貴重である。
 経蔵を含めたこれらの建物群は、石山寺の独特な伽藍を形成した、慶長期の復興造営の様相を伝える建築物として高い歴史的価値がある。

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(16)

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 嘯岳禅師の墓から少し下りて来ました所に「毛利元就公墓所」が存在です。
 石段を上がりますと、右手に墓所。左手に「百万一心」の石碑が存在でありました。

 ◆毛利元就の墓(吉田町)

 元就は1571年(元亀2年)に城麓の御里屋敷で75年の生涯を閉じました。その墓は、郡山城跡山麓の洞春寺跡に残されています。
 郡山城の搦手(からめて)に建てられた洞春寺跡にあります。元就は元亀2年(1571)6月14日城麓の御里屋敷で波瀾万丈の生涯を閉じました。享年75歳の初夏でした。墓標には「はりいぶき」が植えられ、3回忌に菩提寺洞春寺が建立されました。
 墓所境内には毛利氏一族の墓、百万一心碑などがあります。

 ★【毛利公墓前祭】

 毛利元就は、中国地方をほぼ平定した元亀2(1571)年、75歳で没しました。墓標には、今は枯れていますが「ハリイブキ」が植えられ、菩提寺の洞春寺が建立されました。墓前の石灯籠の中には、吉田の名医土生玄碩や広島藩主浅野吉長から寄進されたものもあります。標樹近くに「贈従三位大江朝臣元就卿御墓」の墓碑があります。毎年7月16日には、現在の71代目毛利家当主を招き、墓前祭が行われます。
 いつもは、柵の外側からしかの見学できませんが、この日だけは中に入ることができ貴重な体験が出来ます。

 ◆百万一心碑(吉田町)

 元就は城拡張の際に、それまでの風習であった人柱に替えて「百万一心」と彫らせた巨石を埋めたと伝えられています。その拓本を模刻し建設したものです。
 毛利元就が郡山城を拡張するとき人柱に替えて姫丸壇の礎石に「百万一心」と彫らせ、それを埋めたと伝えられています。その拓本を長さ1.8メートル、幅0.6メートルの石に模刻し、建設したもので、町のモットーともなっています。

 ・百万一心(ひゃくまんいっしん)は、戦国時代の大名毛利元就が吉田郡山城(安芸高田市)の拡張工事(普請)の際に人柱の代わりに使用した石碑に書かれていた言葉。

 ・概要

 百万一心とは、「百」の字の一画を省いて「一日」・「万」の字を書き崩して「一力」とすることで、縦書きで「一日一力一心」と読めるように書かれており、「日を同じうにし、力を同じうにし、心を同じうにする」ということから、国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得ることを意味している。吉田郡山城の改築で本丸石垣の普請が難航したときに、人柱に代えて、本丸裏手の「姫の丸」(姫丸壇)にこの句を彫り込んだ石を埋めたところ、普請は無事に終えられたと伝わる。同じく毛利元就の教えとされる三矢の教え(三子教訓状を参照)と共に、一致団結の大切さを訴えた教えとされている。
 この石碑は、文化13年(1816年)に長州藩士だった武田泰信が姫の丸で発見、拓本の要領で写しを取った後に、明治15年(1882年)に写し取った拓本を毛利元就を祀る豊栄神社(山口市)に奉納した。ただしこの逸話は、毛利家文書や閥閲録その他の一次史料には記載されていない。
 その後、吉田全町をあげて郡山全山を探索したものの、礎石の実物は発見されなかったため、観光パンフレットなどには「郡山城最大の謎」と書かれている。昭和6年(1931年)には、吉田郡山城跡の中にある毛利一族の墓所境内に、その拓本を元に模刻した石碑が建てられた。
 上述の通り、武田泰信の自書以外に史料が乏しいため、実際に元就がこの言葉を語ったかどうかは定かではない。また、百万一心の語は元々神道でも見られる言葉であることから、百万一心碑を人柱の代用にすること自体も含め、吉田郡山城が尼子詮久の大軍に包囲された吉田郡山城の戦いにおいて陶隆房と共に毛利の救援に駆けつけた、白崎八幡宮大宮司も兼ねていた大内家の武将・弘中隆包が、懇意にしていた元就に助言したことが始まりという説もある。

 ・逸話

 安芸高田市歴史民俗博物館(旧 吉田郷土資料館)で配布されている「百万一心のはなし」では、次のようなエピソードを紹介している。
 12歳の松寿丸(元就の幼名)が厳島神社を参拝したところ、泣き続ける5~6歳ぐらいの少女を見つけた。この少女は母親と巡礼の旅をしていたが、ある城の築城で母親が人柱に選ばれてしまったという。幼い頃に父母と死に別れている松寿丸は少女に同情し、郡山城に連れ帰った。15~16年の年月が経って、元服した元就が吉田郡山城主となった頃、本丸の石垣が何度築いても崩落するので困っていた。やがて、人柱が必要だという声があがったため、普請奉行は巡礼の娘を人柱にすることにした。娘自身も、元就に助けて貰ったお礼として喜んで人柱になると答えたが、元就は「その娘を人柱にしてはならぬ」と厳命。翌日、元就は「百万一心」と書いた紙を奉行に渡し、その文字を石に彫って人柱の代わりに埋めるよう命じた。そして、人柱を埋めずに人命を尊び、皆で心と力を合わせてことにあたるよう教えた。

 ふ~ん、そぅなんですか…
 「百万一心」の礎石は、吉田全町をあげて郡山全山を探索されたようですけど、実物は発見されなかったのですねぇ~
 未だに郡山城のどこかに埋まっているのでしょうけど、いつの日か、どなたかが発見されますと宜しいですネ(^-^)//"

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(4)

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 ◆毘沙門堂

 安永2(1773)年の建立。兜跋毘沙門天(平安時代後期)を本尊として安置されています。
 源頼朝の側近だった中原親能が反乱の討伐に向かうにあたって、石山寺に詣で、観音様に勝利を祈願し、石山寺の門から出発しようとしたところ毘沙門天が現れ、無事反乱を鎮めることができたと『石山寺縁起絵巻』に記されているそうです。
 なおこの堂は兜跋毘沙門天への信仰が厚かった和歌山の藤原正勝という人が施主となって建てたこと、大阪で木材の加工や彫刻を行い現地で組み立てたことなどがわかっているそうです。

 ・石山寺木造毘沙門天(びしゃもんてん)立像の概要を知りたい

 石山寺は大津市石山寺一丁目にあります。『滋賀県百科事典』によりますと、概要は「毘沙門堂に安置。尼藍婆(にらんば)、毘藍婆(びらんば)を両脇に従えた地天の掌上に立ち、兜跋(とばつ)毘沙門天とされる仏像である(石山寺では兜跋をつけない)。この兜跋とは吐蕃(チベット)、あるいは「長い外套様の上着をつけた」を意味するなど諸説があるが、根本像たる東寺像は唐風からの請来像で、四面宝冠をいただき、長い金鎖甲、海老籠手をつけて地天の掌上に立つ姿となる。

 石山寺像は東寺像とはことなる服制をとり、通途の中国風の甲をつけ、叡山の前唐院様にちかい。(中略)石山寺像の像高は172.5cm、1本造の彩色像で、足下の地天・二鬼も1材からつくられる。9世紀末から10世紀初めころの作であろう。重要文化財。(佐々木進)」とあります。

 ◆御影堂

 室町時代の建立。空海、良弁、淳祐の御影が安置されているそうです。江戸時代建立の毘沙門堂と比べるとごちゃごちゃしてなくてシンプルで素敵新緑。
 柱はすべて円柱で、板塀のところは半蔀を吊って障子をたてています。

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(15)

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 ◆御本丸跡

 「西日本最大級の中世の城」として知られる郡山城(広島県安芸高田市)。地名から「吉田郡山(よしだこおりやま)城」とも呼ばれます。このお城の最大のみどころは、標高390m、比高190mの山頂を中心として、放射状に築かれた270もの曲輪。山頂に築かれた本丸を中心として放射状に伸びる6本の尾根と、さらに尾根から分かれる支尾根が6本、合わせて12本の尾根が生かされています。さらに、12本の尾根の間にある12ヵ所の谷を曲輪や道路として利用。本丸を見上げながら、次から次へと遭遇する曲輪を歩いていると、その複雑な構造を実感できます。

 休憩も兼ねまして御本丸跡をジックリ見廻し、ここで集合写真をパチリとなりました。そして、元就公墓所へと下山です。
 御蔵屋敷跡を横目に下山で、元就公墓所を目前に「嘯岳禅師の墓」が…

 ◆嘯岳禅師の墓

 嘯岳禅師は元就によってこの地に招かれた高僧で、元就の菩提寺である洞春寺の開山となりました。毛利家墓所の上にあり、柊の大木のもと高さ2.7メートルの宝筐印塔が建っています。
 禅師は2度も明に渡り、帰朝後、京都の建仁、南禅両寺に歴任していましたが、元就の要請により三原妙法寺の住職となりました。毛利家の尊敬厚く、出陣毎に戦勝の祈とうを執行させました。
 元就逝去には葬儀の尊師を努め、3回忌には菩提寺洞春寺の開山となりました。

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(3)

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 参道脇には、「公風園白耳亭」「大黒天」「くぐり岩」「世尊院」が存在です。これらをWEB上で検索してみますと、

 ◆公風園白耳亭
 石山寺の参道の脇にあり、見落としがちな庭園。中は立入禁止だが、外から眺めるだけでも大変美しい。

 ◆大黒天
 本尊・大黒天は1024年に3人の僧の夢のお告げで湖水より出現…と、お寺のHPはあっさりした紹介です。
 弘法大師作(1200年前)福招・出世拳印大黒天(右手親指内にして握る)を安置する。万寿元年(1024)、石山寺大黒天は、三人の僧の夢のお告げにて湖水より出現しました。室町時代には、秘仏ご本尊の前にお前立ちの仏さまが造立されました。

 ◆くぐり岩
 境内の手水場にあるくぐり岩は、天然の胎内くぐりの状態になっているもので自然の大理石でできている。くぐり岩は、奈良時代からある聖域。

 ◆世尊院
 WEB上には、「このたび、石山寺の迎賓館である世尊院を会場に、「関西美術院」創設者の浅井忠や、日本洋画界の重鎮でもある梅原龍三郎、そして現在の指導者による作品を展示します…」の記載がありましたので、世尊院は石山寺の迎賓館のようですねぇ(^-^)

 公風園白耳亭は、入口から中を覗いてみましたけど、確かに、紅葉の季節にはさぞキレイだろうと思います。
 くぐり岩は、早速、くぐってみましたけど、二度ばかり岩で頭をゴツンと(^-^;
 池には大きな鯉が泳いでおりました。画像の白っぽいコイのデカいこと\(^o^)/本当に大きいコイでありました(^_^)v

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(14)

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 皆さんの最後尾辺りでズッと歩いておりましたけど、ヤッと郡山城二の丸跡にと到着です(^.-)☆
 旧本城に向かわれませんでした方々は、私達の到着を今か今かと待っておられましたのでしょうねぇ~先発隊・後発隊の皆さんが再び合流となりました(^-^)

 ◆吉田郡山城

 吉田郡山城(よしだこおりやまじょう)は、広島県安芸高田市吉田町吉田にあった日本の城。安芸国の戦国大名毛利氏の居城であった。城跡は「毛利氏城跡 郡山城跡」として国の史跡に指定されている。

 ・概要

 城は可愛川(江の川)と多治比川に挟まれた吉田盆地の北に位置する郡山全山に及ぶ。築城初期は砦のような小規模な城だったが、毛利氏の勢力拡大とともに拡張され、山全体を要塞とする巨大な城郭となった。後に毛利輝元が広島城へ移るまでのあいだ居城としていた。

 ・沿革

  -- 室町時代まで --

 吉田郡山城の築城時期は不明とされるが、城内にある祇園社(正中2年(1325年)より以前の創建。現在の清神社)より後に築城されたとされる。吉田荘(よしだのしょう)の地頭職として毛利時親が下向したのは建武3年(1336年)であるが、宝永2年(1705年)に書かれた「高田郡村々覚書」には「時親公より以後」に吉田郡山城に住んだと記述してある。
 文和元年(1352年)に毛利元春が「吉田城」なる城に籠もったこと記録されていたり、応永4〜7年(1371-1374年)の毛利親衡書状の宛先が「郡山殿」となっているため、元春が築城したと解説される場合もあるが、これが吉田郡山城のことを指すのかどうか、現存の吉田郡山城に直接繋がる城なのかどうかは定かではない。

 当初の郡山城は砦程度の小規模な城で、一般的な国人領主や豪族の城と変わりなく、12代目にあたる毛利元就が入城する大永3年(1523年)までは大きな変化はなかった。元就は国人領主の盟主から戦国大名への脱皮を図り、郡山全体に城域を拡張していく。郡山全域の城郭化が始まったのは元就の晩年と考えられており、天文9年(1540年)から翌年正月まで続いた吉田郡山城の戦いの頃はまだ拡張前だった。ただし、尼子詮久(後の尼子晴久)率いる3万の大軍を撃退したこの合戦では、農民男女を加えた8,000余りが籠城したとされるので部分的な拡張が始まっていた(もしくは、城郭化される前の全山に人を入れた)可能性も指摘される。少なくとも、南麓に堀が設けられたのは、天文20年(1551年)頃とされ、城域が拡張されたのも天文年間の後半とする見方もある。

 -- 安土桃山時代 --

 拡張・整備が続けられた吉田郡山城内には、城主元就だけでなく、嫡子毛利隆元や一部の重臣たちの館も設けられたといい、戦時のみ城郭に籠もる従来型の山城から、平時の居館と戦時の城郭が一体化する近代的な性格を持つ城に変わった。元就の孫の毛利輝元の頃には石垣や瓦葺きなども使った近代的な城郭へと変貌した。天守は元就時代には無かったが、見張り用の櫓が本丸の最上段に建てられた。輝元時代には三層三階の天守があったともいうが詳細は不明である。天正12年(1584年)にも城の修築・城下の整備を輝元が指示しており、城下の上町を「しらかへ」にするように命じていたり、毛利氏が豊臣秀吉に従属した後に使用したと考えられる金箔瓦も出土している。

 しかし、山間部の盆地に位置する吉田郡山城は交通の便も悪く、天正19年(1591年)に広島城がほぼ完成すると、吉田郡山城は毛利氏の本拠としての役割を終え、家臣や城下町の商人らは広島城下に移住した。廃城時期は、毛利氏の広島移住後の天正19年、関ヶ原の戦い直後の慶長5年(1600年)頃などと諸説あるが、毛利氏の本城としての役目を終えた天正19年が事実上の廃城時期と言って差し支えないと考えられる。この時に、山麓の堀は埋められたとも言われているが、大坂城天守閣で保存されている穂井田元清書状内で、文禄3年(1594年)に元清が兄の小早川隆景とともに吉田に出頭したとあり、何らかの形で吉田郡山城が維持されていたことが確認できる。また、山城を重視する輝元が、完全な平城である広島城に対して、詰めの城として引き続き吉田郡山城を温存していたとの見方もある。

 -- 江戸時代 --

 慶長20年(1615年)に江戸幕府が出した一国一城令により吉田郡山城も取り壊され、寛永14年(1637年)に島原の乱が起きると、キリシタンの決起を恐れた幕府によって、石垣や堀なども破却・撤去された。幕末には広島藩の支藩として広島新田藩が成立し、文久3年(1863年)に吉田郡山城の麓部分に陣屋が置かれた(吉田陣屋)。明治2年(1869年)に廃藩となり、陣屋の建物は廃され、もしくは移築された。
 江戸時代中期には吉田郡山城とその城下を描いた絵図「吉田郡山御城下古図」が作成された(現在は毛利家文書として山口県文書館に収蔵)。また、幕末にも浅野氏による測量が行われた。

 -- 現代 --

 明治初期に、毛利元就墓所の改修工事が行われ、二の丸跡の石垣から一部の石が運び出されたと記録がある。
 昭和15年(1940年)に吉田郡山城跡が国の史跡に指定され、昭和63年(1988年)には猿掛城跡を追加して「毛利氏城跡」となった。
 平成2年(1990年)、郡山山麓に吉田町歴史民俗資料館(現・安芸高田市歴史民俗博物館)が開館、毛利氏関連資料が公開された。また郡山の西にある大通院谷の渓流砂防事業により公園が整備されているが、それに先だって平成7年(1995年)頃より発掘調査が行われている。この調査では、毛利氏時代より古いものを含めて、遺構・遺物が発掘された。平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(72番)に選定された。

 ・構造

 城の遺構は、標高約390m(比高190m)の山頂部から放射状に延びる尾根とその支尾根や谷部に大小270以上の曲輪がある。複数の尾根(尾根ごとに多数の曲輪があるため、それぞれが小城のような造りになっている)を組み合わせた複雑な縄張りは、他の国人領主たちの城とは大きく異なる特徴である。
 城の南には内堀、西には大通院谷、北の尾根には裏手の山(甲山)と区分する堀切があり、これら城域部分の総面積は7万m2に及ぶ。山頂部が本丸で一段下がり二の丸、さらに三の丸と続く。石垣が使われたのは、本城の中枢部分である本丸から三の丸周辺までである。

 ・曲輪

 本丸 -- 郡山山頂に位置する一辺が約35mの曲輪。元就の屋敷があった。北端に一段高くなった櫓台(長さ23m、幅10m)がある。前述の吉田郡山御城下古図や、天正15-16年頃に描かれた絵図には、本丸に三層の天守閣が描かれている。
 二の丸 -- 高さ0.5m幅1mの石塁や石垣で囲まれ、27mと15mの方形に区画されている。二の丸の南側には石垣跡が残っているが、往年は東側・西側にも石垣があったと推定される。
 三の丸 -- 城内最大の曲輪で、石垣・土塁・掘削などによって四段に分けられている。石塁・石垣などが現存する。西側の虎口には、石垣の中に階段が組み込まれて内枡形となっており、近世城郭的な構造である。三の丸から連なる帯曲輪には御蔵屋敷あった。
 釜屋(かまや)の壇 -- 本丸から15m下がった北側に位置し、炊事場があった。6つの段で形成される曲輪群。ここから北へ向かうと羽子の丸へ出る。
 厩(うまや)の壇 -- 三の丸の東から東南に400m伸びる尾根の基部で、壇の下に馬場があった。厩の壇は11段、馬場は9段の曲輪群である。
 妙寿寺の壇 -- 郡山南側を守る13段の曲輪。
 勢溜(せだまり)の壇 -- 御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段の曲輪から成り立つ。この壇のすぐ側を通る道が、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を形成していたと思われる。
 釣井(つりい)の壇 -- 本丸の西側にある1段の曲輪。直径2.5mの石垣で組まれた井戸があるが、現在は埋もれており深さは4mに止まる。
 姫の丸 -- 本丸の北にある7段の曲輪群で、本丸北側の石垣の基部にあたる。「一日一力一心(百万一心)」と書かれた礎石が埋められていると伝わる。
 満願寺の壇 -- 満願寺を含む6段から成る曲輪群。
 矢倉の壇 -- 勢溜の壇からさらに南西に進んだ尾根にある8段の曲輪群。
 一位の壇 -- 矢倉の壇の北側にある10段の曲輪群。
 尾崎丸 -- 旧本城と新城の間を繋ぐ位置にあり、堀切で区画されている。独立的な性質を持つ17段の曲輪群であり、毛利隆元の居館があったと推定されている。
 旧本城 -- 尾崎丸の尾根から南東の麓に位置し、元就が城郭域を拡張するまでの本城。戦国時代初期の山城の形態をよく残している。尾崎丸との間(旧本城から見ると裏手側)には2つの堀切がある。旧本城の本丸にあたる曲輪には、西側の高台に物見台、隆元が一時期居住していたとされる屋敷などがあった。旧本城に相当する部分は、本丸・二の丸・三の丸など16の曲輪で構成され、曲輪の面積は4,000m2前後である。標高293m(比高90m)。
 羽子の丸 -- 本丸の北東(艮)の方角にあり、詰めの丸的な役割を与えられた独立的な曲輪。釜屋の壇とは幅7m、深さ3mの堀切で隔てられている。曲輪数は9段。
 千浪郭群(せんろうかくぐん) -- 郡山の背後にある甲山(かぶとやま)との間を守る9段の曲輪群。

 …と、こんな「吉田郡山城」の本丸跡に辿り着きましたねぇ\(^o^)/

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(2)

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 空模様からして参詣客は、さほど多くはありませんが、まぁそれなりに観光客の皆様が訪れておられます(^.-)☆
 天気予報からして、もぅ降雨は無いものと思い、GONsanは傘も持たずに散策開始となりました。

 ◆石山寺

 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基は良弁。西国三十三所観音霊場第13番札所となっている。『蜻蛉日記』『更級日記』『枕草子』などの文学作品にも登場し、『源氏物語』の作者紫式部は、石山寺参篭の折に物語の着想を得たとする伝承がある。「近江八景」の1つ「石山秋月」でも知られる。
 紅葉の名所としても知られ、秋にはライトアップが行われており、2015年に日本夜景遺産に認定された。洋画家の三谷祐幸から寄付される形で関西美術院の所有者となっている。

 ・歴史

 石山寺は、琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国の天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。
 『石山寺縁起絵巻』によれば、聖武天皇の発願により、天平19年(747年)、良弁(東大寺開山・別当)が聖徳太子の念持仏であった如意輪観音をこの地に祀ったのがはじまりとされている。聖武天皇は東大寺大仏の造立にあたり、像の表面に鍍金(金メッキ)を施すために大量の黄金を必要としていた。そこで良弁に命じて、黄金が得られるよう、吉野の金峰山に祈らせた。

 金峯山はその名の通り、「金の山」と信じられていたようである。そうしたところ、良弁の夢に吉野の金剛蔵王(蔵王権現)が現われ、こう告げた。「金峯山の黄金は、(56億7千万年後に)弥勒菩薩がこの世に現われた時に地を黄金で覆うために用いるものである(だから大仏鍍金のために使うことはできない)。近江国志賀郡の湖水の南に観音菩薩の現われたまう土地がある。そこへ行って祈るがよい」。夢のお告げにしたがって石山の地を訪れた良弁は、比良明神(≒白鬚明神)の化身である老人に導かれ、巨大な岩の上に聖徳太子念持仏の6寸の金銅如意輪観音像を安置し、草庵を建てた。そして程なく(実際にはその2年後に)陸奥国から黄金が産出され、元号を天平勝宝と改めた。こうして良弁の修法は霊験あらたかなること立証できたわけであるが、如意輪観音像がどうしたことか岩山から離れなくなってしまった。やむなく、如意輪観音像を覆うように堂を建てたのが石山寺の草創という。(その他資料としては『元亨釈書』や、後代であるが宝永2年(1705年)の白鬚大明神縁起絵巻がある。)

 その後、天平宝字5年(761年)から造石山寺所という役所のもとで堂宇の拡張、伽藍の整備が行われた。正倉院文書によれば、造東大寺司(東大寺造営のための役所)からも仏師などの職員が派遣されたことが知られ、石山寺の造営は国家的事業として進められていた。これには、淳仁天皇と孝謙上皇が造営した保良宮が石山寺の近くにあったことも関係していると言われる。本尊の塑造如意輪観音像と脇侍の金剛蔵王像、執金剛神像は、天平宝字5年(761年)から翌年にかけて制作され、本尊の胎内に聖徳太子念持仏の6寸如意輪観音像を納めたという。

 以降、平安時代前期にかけての寺史はあまりはっきりしていないが、寺伝によれば、聖宝、観賢などの当時高名な僧が座主(ざす、「住職」とほぼ同義)として入寺している。聖宝と観賢はいずれも醍醐寺関係の僧である。石山寺と醍醐寺は地理的にも近く、この頃から石山寺の密教化が進んだものと思われる。

 石山寺の中興の祖と言われるのが、菅原道真の孫の第3世座主・淳祐(890-953)である。内供とは内供奉十禅師(ないくぶじゅうぜんじ)の略称で、天皇の傍にいて、常に玉体を加持する僧の称号で、高僧でありながら、諸職を固辞していた淳祐がこの内供を称され、「石山内供」「普賢院内供」とも呼ばれている。その理由は淳祐は体が不自由で、正式の坐法で坐ることができなかったことから、学業に精励し、膨大な著述を残している。彼の自筆本は今も石山寺に多数残存し、「匂いの聖教(においのしょうぎょう)」と呼ばれ、一括して国宝に指定されている。このころ、石山詣が宮廷の官女の間で盛んとなり、「蜻蛉日記」や「更級日記」にも描写されている。
 現在の本堂は永長元年(1096年)の再建。東大門、多宝塔は鎌倉時代初期、源頼朝の寄進により建てられたものとされ、この頃には現在見るような寺観が整ったと思われる。石山寺は兵火に遭わなかったため、建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財を多数伝存している。

 ★石山寺と文学作品

 石山寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。
 『枕草子』二百八段(三巻本「日本古典文学大系」)には「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とあり、藤原道綱母の『蜻蛉日記』では天禄元年(970年)7月の記事に登場する。『更級日記』の筆者・菅原孝標女も寛徳2年(1045年)、石山寺に参篭している。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。『和泉式部日記』(十五段)では、「つれづれもなぐさめむとて、石山に詣でて」とあり、 和泉式部が敦道親王との関係が上手くいかず、むなしい気持を慰めるために寺に籠った様子が描かれている。

 ★伽藍

 ・本堂(国宝)---正堂(しょうどう)、合の間、礼堂(らいどう)からなる複合建築である。構造的には正面7間、奥行4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を示す建築用語)の正堂と、正面9間、奥行4間の礼堂という2つの寄棟造建物の間を、奥行1間の「合の間」でつないだ形になり、平面は凸字形になる。正堂は承暦2年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので、滋賀県下最古の建築である。内陣には本尊如意輪観音を安置する巨大な厨子がある。合の間と礼堂は淀殿の寄進で慶長7年(1602)に建立されたものである。合の間の東端は「紫式部源氏の間」と称され、執筆中の紫式部の像が安置されている。礼堂は傾斜地に建ち、正面は長い柱を多数立てて床を支える懸造(かけづくり)となっている。懸造の本堂は、清水寺、長谷寺など、観音を祀る寺院に多い。
 ・多宝塔(国宝)---建久5年(1194)建立で、年代の明らかなものとしては日本最古の多宝塔である。内部には快慶作の大日如来像を安置する。
 ・東大門(重文)---参道入口の門。入母屋造、瓦葺きで、建久元年(1190年)の建立であるが、本堂の礼堂が建立されたのと同時期の近世初期に大幅な修理を受けている。
 ・蓮如堂(重文)・鐘楼(重文)---鎌倉時代・毘沙門堂---1773年建立・御影堂(重文)・三十八所権現社本殿(重文)---桃山時代・大黒天堂・月見亭

 ★石山寺東大門

 ・重要文化財 建造物
 ・石山寺東大門 一棟(大津市石山寺一丁目)

 東大門は、三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(やつあしもん)、入母屋造、本瓦葺の建物で、正面の左右に仁王像を置くことから仁王門とも呼ばれています。
 現存の門は、鎌倉時代の初期、建久元年(1190)の建築で、桃山時代の慶長年間(1596~1615)にかなり大規模な修理改造が加えられています。天井下の蟇股(かえるまた)や破風(はふ)の懸魚(げぎょ)などに桃山時代の特徴がよく現れています。しかしながら、やはり建物の建ちが低く、深い軒は古寺の大門としてふさわしい姿をしています。
 明治40年(1907)8月に重要文化財に指定されました。

 -- 大津市教育委員会 平成五年(1993)三月 --

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(13)

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 ◆尾崎丸跡

 尾崎丸、満願寺二王門のあった峰の中腹を堀切で隔て、その先端も本城との間の鞍部を利用して三条の堀切で隔てた独立的な曲輪郡である。
 中心の尾崎丸は、長さ42m、幅20mと、この曲輪群中最大の曲輪で、北側は堀切と土塁で画し、土塁上段に一段、下段に約3mの高さをもつ二段の小曲輪を配置し、さらにその下には約2mの差を持って、小さな付曲輪と最大な帯曲輪を配置し、守りを固めている。なお、尾崎とは毛利隆元が尾崎殿と称されていることから、隆元の居所と考えられる。

 --- 平成四年三月 吉田町教育委員会 ---

 ◆勢溜(せだまり)の壇

 御蔵屋敷の下段を堀切で区画して独立させた大小10段の曲輪から成り立つ。この壇のすぐ側を通る道が、本丸から城下に続く大手筋と考えられており、本丸守備兵が滞在するなど厳重な防御線を形成していたと思われる。
 勢溜の壇跡 勢溜の壇は本丸の峰から南西へ長くのびる尾根を御蔵屋敷の下段を堀切で区切って独立させ、十段の大型の曲輪からなる大型の曲輪からなる壇で、尾根沿いに比高差約1mで、面積約500平方mから700平方mの広さの曲輪を四段連ね、その先にこれらを取り巻く帯曲輪を三段、さらにその先端には付曲輪を加えている。
 この曲輪群では、特に東南方の大手、尾崎丸奉公への防御は厳重で、たとえこの方面を破ってもこの三重の帯曲輪で防ぐことができ、現在の登山道が当時のものとすれば、さらにこの上の勢溜の壇の曲輪群から攻撃できる構造になっている。 ここには本丸守護の兵が滞在していたことがうかがえる。

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挙式列席で、10/19~20の2日間は京都行きとなりました(^.-)☆(1)

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 2ヶ月前の8月には、嫁さんの甥の挙式で金沢行きとなりましたけど、今回は、またまた嫁さんの甥の挙式で、京都行きとなりました(^.-)☆
 挙式は、10/20(日)なのですけど、以前から一度出掛けてみたいと思っておりました大津市の石山寺への参詣で、我が家を出ましたのは、前日(10/19)A.M.9:00少し前。
 この日の天候は、広島県内は朝方から降雨もあがり曇り空。関西地方は午前中降雨で午後は曇り。
 大津に到着します頃には、降雨もないものと願いながらの関西行きでありました。

 石山寺の駐車場に到着で、時間を確認しますと、12:58。3時間での到着を予定しておりましたけど、歳を重ねますと連続運転は苦痛ですし、何度か休息を入れながらの走行ですから、う~ん、こんなもんかも分かりません(^-^)
 駐車場に車を駐めますと、すぐそばに、うどん屋さんが存在です。入口にはメニューも何にもありませんけど、とりあえず入店。
 メニューを手にしますと、いゃぁ、結構、高い(^-^;
 ですが、今更席を立つ訳にもいきませんから、メニューの中でも一番低額のうどんを注文しましたけど、それでも高い(^-^;
 高いだけありまして、美味しいうどんではありました\(^o^)/

 昼食後は、永年の念願叶い、ヤッと石山寺にと参詣ですけど、その前に「石山寺観光案内所」に立ち寄りパンフレット入手で事前勉強となりました(^-^)
 石山寺観光案内所入口付近には、「石山貝塚」が存在です。

 ◆石山貝塚(いしやまかいづか)

 貝塚とは縄文時代に人々が食べた貝の殻が捨てられて堆積したもの。
 現在の石山寺の前あたりには、東西約20メートル、南北約50メートルにわたり貝層が堆積し、淡水産貝塚では日本最大の規模。貝層からは人骨や動物の骨など豊富な遺物が出土。石山観光会館にはぎとった貝層を展示。市指定史跡。

 それでは、入門です。

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(12)

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 それでは、今から、「郡山城跡(旧本城)」に向かって歩行です(^.-)☆
 尾根伝いに上って行きますが、途中に掘切が…

 ◆堀切(ほりきり)
 山城の基本用語 -- 尾根をスパッと断ち切る堀。尾根づたいに攻めてくる敵を足止めできるから、山城では基本アイテムだ。

 …と、WQEB上にはこんな記載がありますけど、山城には、ごく当たり前に存在しますようですネ(^-^)
 暫く上って行きまして、ヤッと郡山城跡(旧本城)に到着です。

 ◆「旧本城」説明板。

 建武の新政(鎌倉幕府が滅びて室町幕府が出来るまで行われていた後醍醐天皇の政治期間。足利尊氏、楠木正成、新田義貞など。太平記で有名)の頃に築城された旧郡山城とのこと。
 本丸(ここ)、二ノ丸、三の丸が一列に直線的につながっているという。本丸には櫓台もある、と書いてあるようです。

 この場所に城が築かれましたのが1336年…と言う事は、今から683年も昔の事となりますねぇ~当時に想いを馳せながら周辺を見廻しのGONsanでした。
 暫し滞在の後、旧本城から退散で、また往路を下り掘切を超え、尾崎丸跡経由で郡山城跡へと上ります(^-^)/

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(11)

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 「郡山公園展望台」で、暫し、安芸高田市の中心部の眺望を兼ね休憩です(^.-)☆
 そして、また、歩行再開。暫く上って行きますと、「郡山城本丸」・「郡山城跡(旧本城)」の分岐点にと到着です。
 ここでは、本丸に向かわれます方と、旧本城に向かわれます方とが暫しお別れとなりました。足に自信がお有りの方は旧本城へ…そぅで無い方は本丸へ…
 GONsanは、せっかく郡山城に訪れましたのですから、勿論、旧本城を先に訪れ、その後で本丸行きを迷わず選択となりました(^-^)//"

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(10)

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 清神社を後にしますと、隣接の「郡山公園」→「郡山公園展望台」→「郡山城跡(旧本城)」へと山城歩きの再会です(^.-)☆
 昼食後の出発間もなく清神社でもユックリしましたので、皆さん元気いっぱい。足取りも軽快のご様子でしたネ(^-^)/"

 ◆郡山公園

 毛利元就の居城のあった郡山にある公園です。池や庭石を配した閑静な日本庭園の趣で、春は桜の花見、その後はツツジが咲き乱れ町を一望できる町民いこいの場です。大河ドラマ「毛利元就」役の中村橋之助さんが記念植樹されたサルスベリとモミジの木もあります。

 ・郡山公園の概要

 ここの一帯は毛利氏時代の興禅寺跡で、元就が永禄10(1567)年京都から能役者観世太夫宗節ら一座を招き能狂言が催されたことや、この寺の南麓に内堀が掘られた記録が残っています。公園内は、池や庭石を配した閑静な日本庭園の趣で、桜や紅葉が美しい町を一望できるいこいの場です。

 【春の風景】桜の見ごろ:4月上旬
 【秋の風景】紅葉の見ごろ:11月上旬

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(9)

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 昼食後、暫く、この公園内を散策し、P.M.1:30前でしたか…バスの駐まっています駐車場に集合で、これから郡山城跡を見学です。まずは、清神社方向へ。
 その途中、「郡山城跡(酉谷地点)石垣」に立ち寄りです。

 ◆郡山城跡酉谷地点 要約
 国史跡郡山城跡の所在する郡山山麓(標高250~270m)において、16世紀中頃から後半にかけて構築されたと考えられる郭、石垣、鍛冶炉跡を検出した。郡山城跡に関連する遺構は山麓まで広がっていることが確認できた。

 ・酉谷地点石垣跡
 遺跡は、郡山城跡の酉谷に造られた郭群の一角にあたり、豪雨によって、大きく崩落したことに伴う復旧工事のため、発掘調査が行われました。
 調査によって石垣・郭跡・鍛冶炉跡・郭造成の版築土層などの遺構が確認され、小量の土器陶磁器片、鍛冶炉周辺から鉄滓、鉄釘などが出土しています。また、この石垣は保存処理され、現在でもそのままの形で見学が可能です。

 …と、こんな「郡山城跡(酉谷地点)石垣」でありました。続いて、清神社に到着です。

 ◆清神社

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 清神社(すがじんじゃ)は、広島県安芸高田市吉田町に鎮座する神社。旧郷社。

 ・祭神

 須佐之男命を主祭神に相殿に脚摩乳命、手摩乳命、稲田姫命、五男三女神を祀る。
 【神武天皇聖蹟誌】(1941年広島県発刊)によれば、中之玉殿に素戔鳴尊、左之相殿に三大神、右之相殿に八王子を祭っているとしている。
 摂社に伊勢神社があり、ここに天照皇大神、早良親王(崇道天皇)を祭っている。

 ・由緒

 当地は『日本書紀』巻第一神代上第8段(二)に見える「安芸国可愛之川上(えのかわかみ)」の地に当たり、素盞嗚尊(須佐之男命)が八岐大蛇を退治した舞台とされ、神社名は退治後に須佐之男命が発した「吾が心清清(すがすが)し」という言葉に因むとされ、神代からの鎮座と伝えられている。古くは「行宮清神社」「祇園社」「祇園崇道社」と呼ばれていたが、明治5年(1872年)に神仏分離により現社名に改称された。
 境内の杉の巨木が台風で倒れた際に年輪を調査したところ、約1,200年以上との結果が出た為、現在、切り株が境内に展示されている。なお、「行宮清神社」の名称から、神武天皇が行宮を置いた地であるとの説があるが、【神武天皇聖蹟誌】では否定的な見解である。

 中世に京都祇園社の荘園「吉田荘」の鎮守神として祀られた。一時期、早良親王の祟りを鎮める目的で社名を「祇園崇道社」としていた。
 鎌倉時代末期から、吉田郡山の鎮守神として安芸毛利氏代々の尊崇を受けた。ゆかりのものが現在社宝として展示されている。正中2年(1325年)の棟札をはじめとする現在までの16枚の棟札が残っており、特に毛利氏関係は光房・弘元・興元・幸松丸・元就・隆元・輝元までの棟札13枚が確認されている。なかでも天文17年(1548年)隆元、永禄11年(1568年)元就、天正11年(1583年)輝元のものは特に有名。

 また、毛利氏が郡山に城を構えている間、郡山山麓にある現在の社殿とは別に、城のある郡山山頂までの中間点にも社殿を構えていた。
 江戸時代以降は村の鎮守神として祀られた。現在の社殿は元禄7年(1694年)の建立。様式は正面に千鳥破風、前に軒唐破風を構え、正面が6本の太い柱で形成された五間社切妻造。明治5年郷社に列した。

 境内には「椙若社」という、毛利元就が継母であった杉大方の菩提を弔うために建立した社がある。総檜流造で延床約10平方メートル。昭和25年(1950年)にはキジア台風災害により倒壊し、基礎だけが残された状態で保存されていたところ、大河ドラマ『毛利元就』の影響により杉大方の人気が上がったことから、平成9年(1997年)地元住民により約1千万円かけ復興された。その他、境内には伊勢社もある。
 社宝として、毛利元就の所望に応じて聖護院門跡道増が墨書した「感神院」の扁額(永禄6年(1563年))、元亀3年(1572年)京都吉田神社神主・吉田兼右が参籠したことや、天正4年(1576年)の前関白九条稙通が当神社で民衆を前に『源氏物語』の講釈を行ったことが記述された連子窓、元亀年間の舞楽面がある。

 …と、こんな「清神社(すがじんじゃ)」でありますようです(^.-)☆

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(8)

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 待機していますバスまで戻って来まして、時間を確認しますと、P.M.0:08。もぅお昼ですネ。
 次は、郡山城跡を訪れますのですけど、その前に昼食タイムとなりました。昼食を取ります場所は、歴史民俗博物館から毛利一族の墓への入口方向に進みました公園みたいな場所でした(^.-)☆
 皆さん、福山を出発時に弁当を持参ですから、バスから降りますと、公園内の適当な場所を見つけて思い思いに…グループで弁当を囲む方達、ご家族連れ、GONsanのように独りで弁当を食べる方…と様々で、適当に公園内に散らばって行かれました(^-^)
 日差しはありますけど、キツい日差しと言う訳でもなく暑くもありませんので、GONsanは、安芸高田市内の「ゆめタウン」辺りが眺められますベンチを見つけて着席です。

 GONsanの弁当は、嫁さんに作って貰いました「むすび」が3個。
 普段、我が家で食べていますと、決して美味しいとも思いませんけど、こんな場所で食べますと、ヤケに美味しいから不思議です。
 むすび3個にお茶1本…これが、こぅいぅ場所でのGONsanの定番の昼弁です\(^o^)/

 昼食後は、少しこの公園内を散策でもしてみましょうか…
 ここは公園と言うよりも「大通院谷川砂防事業」として整備中の広場のようです。と言う事は、やっぱり公園ですネ。ただ、名前が付いていませんだけで(^-^)/"

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(7)

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 本丸跡には、こんな案内板が…

 ◆多治比猿掛城本丸跡

 猿掛山の頂上(標高376m、比高120m)に位置し、長さ50m、幅24mの長大な平垣面を持つ。
 南側背後は、約13mの深い堀切で背後の尾根続きをさえぎっている。三方は急峻な崖で東側に一段、南側に四段の付曲輪がある。
 本丸平垣部南端に長さ約20m、高さ、幅とも約1mの土塁がみられる。北端には約10m四方で、約3m高い盛土があり、櫓台として使用したものと思われる。
 ここからは、南を除く三方が見え、石州路に沿う要衝の地であった事が伺える。東側からは、約4km離れた郡山城が望まれる。

 -- 平成2年3月 吉田町教育委員会 --

 …と、こんな案内がありました(^.-)☆
 暫し、多治比猿掛城本丸跡を見廻って、今度は下山です。上って来ます時には、結構な急勾配で少々キツい歩行でありましたけど、さすがに下山は楽。ですが、油断しますと足が滑りますので、それなりに用心しながらの歩行が続きます。
 途中、また案内板がありまして、往路では、復路で確認しようと思っていましたので、下山時に立ち寄りとなりました。この案内板には…

 ◆寺屋敷曲輪群

 この曲輪群は、中心部曲輪群の西端から造られた幅6mないし7m、深さ2m、長さ約130mに及ぶ長大な堅堀によって、中心部曲輪群から隔てられ、中心部曲輪群より60m下方にある。
 曲輪群は、上方中央には面積約860㎡の広大な曲輪(寺屋敷)を中心に、北方に階段上の曲輪が4段、それをとりまく帯曲輪が8段、さらに上方に3段の計15段からなっている。
 現在、この曲輪群の下段には猿掛山教善寺が建っており、当初からこの段を含めた一帯が寺屋敷曲輪群として使われていたのかも知れない。
 この曲輪群は、急斜面に平坦面を造成し、防禦としては堅堀しかないということから、当初から城としてより、寺屋敷として造られたとも考えられる。

 -- 平成4年3月 吉田町教育委員会 --

 …と、こんな記載がありました。
 それにしましても、皆さん、結構、不安そうに感じられます歩行なのですけど、普段からこぅした山歩きには慣れておられますのかも…上り口まで下りて来ますと、誰一人遅れます事も無く無事に下山。
 う~ん、意外と皆さん健脚でありました(^-^)//"

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(6)

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 結構キツい上り道でしたけど、どうにか多治比猿掛城跡にと到着です(^_^)v
 それにしましても皆さん、よく歩かれます。上り口付近では、この方達は城跡までチャンと上がれるのだろうか…と心配しておりましたけど、これは大変失礼なGONsanの想いでした(^-^;
 仲々山城歩きに手慣れておられました。歩調はユックリしておられましても、シッカリ着実に進んで行かれますので脱帽です。GONsanの方が、もぅ負けそうでありました(^.-)☆

 ◆安芸・多治比猿掛城

 ・歴史

 築城年代は定かではないが明応年間(1492年~1501年)に毛利弘元によって築かれたと云われる。毛利弘元は毛利元就の父であり、明応9年(1500年)家督を嫡男の毛利興元に譲ると、次男の松寿丸(後の元就)を連れて多治比猿掛城へ移った。
 永正3年(1506年)弘元が没した後は毛利元就がそのまま多治比領を受け継いで分家となった。永正13年(1516年)兄の毛利興元が没すると、幸松丸が家督を継いだが幼小であったため元就が後見人となった。
 大永3年(1523年)幸松丸もわずか九歳で夭折すると、毛利元就は家臣団に推されて毛利家の家督を継ぎ、吉田郡山城へ入城した。

 ・ 説明

 多治比猿掛城は多治比川南岸の標高432mの山を最高所として築かれている。大きく本丸、物見丸、寺屋敷曲輪群、出丸の四ヶ所に分かれている。
 本丸は北東の標高370m一帯で、北端に五角形の櫓台を備えた南北に長い曲輪となり、南端には土塁がある。本丸の南背後の尾根は大堀切(堀1)と堀切(堀3)の二条の堀切があり、その間の鞍部は東西両側に無数の連続竪堀を落としている。尾根上には一部コブ状になった部分があり、本来連続堀切であったものが遊歩道などによって削られ現状の土橋状の細い道のようになったとも考えられる。竪堀は特に西側に長く延びており、途中に合流して落ちている。
 本丸から北東へ伸びた尾根の曲輪I-7があり、二段の非常に小さな曲輪であるが、両側面と前方に竪堀を配している。
 寺屋敷曲輪群は教善寺を含む一帯でII-1の広い曲輪を最高所として段曲輪が多く残る。
 出丸は北へ付きだした丘陵で、この部分は後世の改変が激しいのか、南北に伸びる土塁状の遺構や大きく窪んだ虎口のような地形などがあるが、本来の形状はイマイチ把握できない。
 本丸の南背後から登り詰めた標高432m付近に物見丸がある。単郭で本丸側の北東と南尾根を堀切で遮断しており、北西下には帯曲輪状の地形がある。

 …と、「城郭放浪記(http://www.hb.pei.jp/shiro/aki/sarukake-jyo/)」と言うホームページには、こんな記載がありましたネ(^-^)//"

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(5)

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 それでは、毛利弘元墓所に参詣です。毛利弘元は、39歳でのご逝去。戦国時代とは言え、少々お若いご逝去ではありますネ。
 ところで、『夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された…』との事ですけど、何で鈴尾城(福原城)の福原氏墓所に葬られていたのだろう?…との不思議な想いも。
 WEB上で検索して見ましたら、こんな記載が…

 ◆元就母の墓のなぞ

 元就の母は、毛利一族の福原氏で、福原広俊の娘となっている。毛利一族の中でももっとも有力で中心的な一族である。毛利元就が後年隆元に書いた手紙の内容によれぱ、元就五歳の時母に死なれ、十歳の時父に死に別れたとある。元就四歳の時、父とともに猿掛城に移り住んでいることになっている。
 ところが、元就の母が、父とともに猿掛城へ移動したかとどうかとなると、これがはっきりとしていない。父弘元は猿掛城に隠居して五年後に死んでいる。父の墓は猿掛城山麓の悦叟院という菩提寺跡にある。そして母の墓も弘元と並んである。
 これではなんら不思議はないのだが、実は母の墓は、もともと福原氏の居城鈴尾城近くの福原一族の墓所にあったのである。そこで夫婦が別々のところにあるということではまずいと思ったのか、大正時代に母の墓石をわざわざ猿掛城の悦叟院跡地に移動させたのである。

 現在、猿掛城で見かける弘元と元就の母の仲良く並んだ墓石は、意図的に仕組まれた光景だということである。
 元就の母の墓が実家の福原氏一族の墓所にあったということは、当時そういう状況を作り出すだけの事情があったことを物語っている。そのことについては元就は何も語っていない。語りたくなかったのだろうと思う。
 毛利元就の研究家森本繁氏は、『毛利元就99の謎』(PHP文庫)の中で、元就の母福原広俊の娘は、弘元と猿掛城に移ったのでなく、実家の福原氏の鈴尾城に帰り、そこで元就を生んだと主張。そしてそこで死んだのでそのまま福原氏の墓所に一緒に葬られた。
 たぶんこれが真相だろうと私も思う。

 …との、こんな記載が。
 ふ~ん、色々事情がありましたようですねぇ~
 それでは、今から、多治比猿掛城跡へと山登りです(^-^)//"

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9月29日(日)は、「吉田郡山城&多治比猿掛城」の山城歩きに参加でした(^.-)☆(4)

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 安芸高田市歴史民俗博物館内には、毛利家ゆかりの宝物が数多く展示されてありますのでしょうけど、そんなにユックリしております時間もありませんから、館内の見物はそこそこに多治比猿掛城跡への山城歩きにと出発です。
 歴史民俗博物館前から、またバスに乗り込み、ここから4.5kmばかり北西部の浄土真宗「猿掛山教善寺」入口へと向かい下車。いよいよ山城歩きのスタートです(^.-)☆

 今回の訪問場所ではありませんけど、念のために「浄土真宗 猿掛山教善寺」のホームへページを覗いて見ましたら、こんな記載が(^-^)

 ◆浄土真宗本願寺派 教善寺

 ・沿革 -- 猿掛城趾(国指定史跡…元就は父弘元と共に4歳の時此の地に移り、1523(大永3)年郡山城に27歳で帰る)の寺屋敷廊群に在る。当山は1536(天文5)年天台宗より改宗。1564(永禄7)年本願寺より寺號許可。今日に至る。
 ・寺宝 -- 代々貧乏寺なので自慢できるものは何も無い。
 ・教化活動 -- 代々無能なので自慢できるようなことは何もしていない。
 ・所在地 -- 〒731-0544 広島県安芸高田市吉田町多治比1746

 …と、こんな記載に思わず笑ってしまいましたけど、大変親近感を抱いてしまいましたネ\(^o^)/
 教善寺入口から少し進みますと、「多治比猿掛城跡」の案内表示板が…

 ◆多治比猿掛城

 多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)は、安芸国(現在の広島県安芸高田市)にあった日本の城。国の史跡に指定されている。

 ・概要
 築城年は不明。吉田郡山城の支城として造られた山城。1500年(明応9年)に家督を毛利興元に譲った毛利弘元が隠居するために築城したという説も有力。国の史跡。

 ・歴史・沿革
 1500年に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に入城する。1506年(永正3年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となる。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動する(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。
 この城で毛利隆元や五龍局が生まれている。
 1523年(大永3年)に元就が宗家を継ぎ、多治比猿掛城は城主不在となる。その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。実際、1563年(永禄6年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊。その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。廃城年は不明。

 ・構造
 城跡は多くの郭が残り、比高120mの山頂の物見丸、丘陵先端の中心部郭群、斜面中腹の寺屋敷郭群、平野部の出丸に分けられる。出丸は平時の生活を重視した館的な区画であり、中心部郭群や物見丸が戦時の避難所となる役割だったと思われる。

 ・所在地
 広島県安芸高田市多治比。近隣には杉大方の墓、毛利夫妻の墓がある。

 ここから教善寺に向かって上って行きますと、教善寺手前に「毛利弘元墓所」の案内板が…

 ◆毛利弘元

 毛利弘元(もうり ひろもと)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。安芸国の国人領主・毛利氏当主。吉田郡山城主。父は毛利豊元。子に毛利興元、毛利元就、相合元綱、北就勝。

 ・生涯
 応仁2年(1468年)、安芸国の国人である毛利氏の当主・毛利豊元の長男として生まれる。毛利氏は周防国・長門国の守護大名・大内氏の勢力下である安芸国人領主の一人であった。
 文明8年(1476年)、父・豊元が死去し家督を相続する。文明11年(1479年)に大内政弘の加冠を受けて元服し、「弘」の偏諱を与えられて「弘元」と名乗る。
 明応4年(1495年)に大内政弘が死去すると、後を継いだ大内義興に嫡男・興元と共に従った。だが、その立場は管領・細川氏と大内氏の間で揺れ、さらに明応8年(1499年)には明応の政変で失脚した前将軍・足利義稙を保護した大内氏と、将軍・足利義澄を擁する室町幕府との間で揺れる。
 対立の激化した大内氏と細川氏の両者からの協力要請から逃れる為、明応9年(1500年)に嫡男・興元に家督を譲って隠居し、次男の元就らを連れて安芸国多治比の猿掛城へ移り住んだ。隠居先を猿掛城としたのは、吉田郡山城の西の拠点を確保し、北方に位置する国人・石見高橋氏に備えるためとも考えられている。
 しかし、その心労と酒毒により、永正3年(1506年)1月21日に死去した。享年39。墓所は広島県安芸高田市の悦叟院。

 ◆毛利弘元墓所

 毛利弘元は元就の父で、応仁2(1468)年に生まれました。9歳で毛利家を相続し郡山城主となりました。
 尼子と大内の狭間にいた明応九9(1500)年に長男興元に家督を譲り、二男の元就(4歳)を連れ、多治比猿掛城に隠居しました。永正3(1506)年1月11日に没しました。時に39歳でした。
 墓所は、多治比猿掛城の麓、弘元の菩提寺の悦叟院跡にあります。
 夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された。(説明看板より)

 WEB上で検索しますと、こんな色んな記載がありました(^-^)//"

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