GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

福山市及び周辺のイベント

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(35)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720

 一服しながら暫く周辺の景観に眼を向けておりまして、海面に眼を戻しますと、小魚が同じ場所でクルクル廻っておりましたネ(^.-)☆
 人間で言うなら、苦しそうにもがいていますかのように…
 どぅしたんだろう…と、海面を覗き込むように見つめておりますと、こんな姿がチビッコ釣り師の皆さんの眼に入りましたのかも…3人のチビッコ釣り師がGONsanの横に…
 そして、同様に「どぅしたんだろぅ?」と、海面を凝視です。
 その内、年長の釣り師が「網!網!!」と、下の男の子に指示。護岸から網ですくおうとするのですけど、あと少しのところで届きません。何度も繰り返しておりましたけど、どぅなりましたのでしょうネ。
 この段階で、GONsanは護岸から退散となりました。
 どうやら、この3人の釣り師の皆さんは、ご兄弟妹のようですネ。相変わらず、保護者のお二人は、スマホ・昼寝で忙しそうでありました。
 市営駐車場に戻り精算しますと、ふ~ん、約4時間近く鞆に滞在のGONsanなのでありました(^.-)☆
 翌日の中国新聞朝刊には、この日の「鞆の浦 de ART」の様子が記事掲載に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(35)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
07-721
08-720
03-720-555

 んっ!?…こちらでも、もぅお一人が(^.-)☆
 こぅして、いつもお二人でアチコチ出掛けられ、写生を楽しんでおられますのかも…
 駐車までの帰路は、いつもは通りません路地をランダムにノンビリと歩いて…そぅしますと、こんな所に祠が…そして、その前にはウサギsanが…
 福山市鞆支所方向に進み海岸沿いに出ておりますと、「龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅」まで戻って来ましたネ(^.-)☆

 ◆龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12672/ ---

 1867(慶応3)年4月23日夜、坂本龍馬ら海援隊士が乗った「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」とが岡山県六島沖で衝突し、「いろは丸」が沈没するという事件が起きました。この『いろは丸事件』の際、鞆港を訪れた龍馬らが宿泊したのが『桝屋清右衛門宅』。当時、廻船問屋を営んでいた桝屋は土佐藩や薩摩藩、大洲藩などとも取引があったと思われ、それらの縁でいろは丸救出に関わったのです。伝説的な龍馬の隠れ部屋が、今では一般に公開されています。

 ・朝鮮通信使にも利用された鞆の津の代表的町家
 1764(宝暦14)年、11次朝鮮通信使が鞆を訪れた際に、対馬藩御船奉公輿添役や買物方三使附通詞が、この『桝屋清右衛門宅』に宿泊したと記録されています。当時の鞆の津は海運業で隆盛を極めていて、歓迎提灯の明かりで夜でも昼のようだったといいます。
 ◇往時の廻船問屋の雰囲気が宿る桝屋清右衛門宅

 ・商家の粋な見栄っ張り -- 前流れを長くして威容を示す
 「桝屋清右衛門宅」の屋根に注目。外観の側面から見るとよくわかるのですが、屋根の前側(前流れ)を伸ばして、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけています。こういった手法は鞆では19世紀以降に流行。
 商家の見栄っ張りな気風がよく現れています。
 ◇大棟を後方にずらし大きく見せる -- 商家の知恵ですね

 ・雰囲気満点 -- ここが伝説の龍馬の隠れ部屋
 東側納戸から2階に通じる階段を上り、天井裏の隠し空間へ。さらに奥の階段を進むと、そこには8畳ほどの畳敷きの部屋が!
 これが、龍馬が隠れていたと言い伝えられている部屋だといいます。龍馬の息を感じるような雰囲気が保存されていて、説得力十分!
 ◇忍者屋敷のような隠れ部屋 - ここに龍馬が…

 今までGONsanは、一度も、この「龍馬の隠れ部屋」に入った事がありませんけど、今回もパス(^-^)
 護岸に出ますと、釣りを楽しんでおられます方々に眼を向けながら一服です。
 ふ~ん、チビッコ女釣り師ですか…イィですねぇ~ひたすら獲物が掛かりますのを待っておられますけど、母親は傍らでスマホいじり…そのまた傍らでは、気持ち良さそうに居眠りの父親…
 ここもまた仲々イィ光景であります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(34)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
04-720-555

 それでは、この辺で圓福寺とはお別れで、鳥居のあります表参道を下りようかとも思いましたけど、来た道を戻り「福禅寺・対潮楼」に向かいます事に(^.-)☆

 ◆福禅寺・対潮楼

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12654/ ---

 渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。平安時代の天歴年間(947~957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。
 のち、1638(寛永15)年に、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺の末寺に指定。その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、そのまま、今日に至っています。
 鞆の浦第一の景勝地として昔から愛されてきたこのお寺さん。その歴史を、受付のスタッフさんが親切に教えてくれますよ。ぜひ、お話を伺ってみましょう。

 ・「日東第一形勝」-- その賛辞に相応しい絶景
 この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。
 ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」のCDジャケットにも使われたんですよ。
 ◇朝鮮通信使も絶賛した、この絶景

 ・海上安全と安産信仰を集めたご本尊・千手観音
 村上天皇の后となった、この地(備後国赤坂村)出身の新庄太郎実秀の娘・明子は、日頃から千手観音信仰に篤かったといいます。そこで、后となった明子は、故郷に千手観音を祀るお堂を建てたいと思い立ち、空也上人によって「福禅寺」の前身となる「観音堂」が開基されました。ご本尊の千手観音は長い間、本堂の厨子の中で秘仏として安置されていたものです。
 ◇良好な状態で保存されていたご本尊さま、華美

 ◆福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)

 --- https://www.hiroshima-kankou.com/spot/8466 ---

 ・鞆の浦の素晴らしい眺めを一望

 「いろは丸事件」の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所。対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ、真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
 座敷からは、穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ、鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
 江戸時代、対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。
 1711年には、朝鮮通信使・李邦彦(イパンオン)がこの対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」と称賛しました。これは、「朝鮮より東で一番美しい景勝地」という意味です。
 多くの人々を魅了した、江戸時代から変わることのない美しい風景を眺めることができます。

 ◆福禅寺(福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福禅寺(ふくぜんじ)は、広島県福山市にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。山号は海岸山、院号は千手院。境内は「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されている。

 ・沿革

 創建は平安時代の950年頃、空也による創建と伝えられる。現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の元禄年間(1690年頃)に建立された。
 江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年(正徳元年)に従事官の李邦彦が客殿からの眺望を「日東第一形勝(日本一の景勝という意)」と賞賛し、1748年(延享5年)に正使の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた。

 この地の風景は対潮楼ができる以前からすでに朝鮮人に評価されており、1617年の従事官であった李景稜は「靹浦に到り、則ち最も明秀奇絶と為す」としている。他にも1655年の正使・趙珩による『扶桑日記』、同従事官・南龍翼による『扶桑録』、同訳官・金指南による『東槎日録』、1711年の通事・金顕門による『東槎録』、同従事官・李邦彦による『東槎日記』、1764年の正使・趙曮による『海槎日記』といった言及が現存している。
 1719年の製述官・申維翰が『海游録』にて言及するところ、「人みなここにいたると、第一の観なりと主張してゆずらない」というものであった。しかしながら1711年よりあと、いつしか寺も対潮楼も、無住ではないながらも荒廃してしまい、つぎの通信使が1748年にこの地を訪れたときには使館として別の施設が指定されていた。一行はこの有様に憤慨、新しい使館ではなく船中で一泊したのち、正使であった洪啓禧は無理をいって福禅寺までおもむき、福禅寺の僧侶を慰めるとともにかつての使館を対潮楼と名付けた。
 この銘は福禅寺行きに同行していたうちのひとり、洪啓禧の息子で軍官でもあった洪景海が書写し、僧侶に与えた。現存する扁額の文字はこれを写したものである。また、洪啓禧らが即興で作詩をし与えたものもいくつか残っている。つぎの通信使が1763年に訪れたときは修復が成っていたと、先述の『海槎日記』には感慨とともに記載されている。
 いろは丸沈没事件の際、海援隊と紀州藩の交渉の場となった。

 ・文化財
 朝鮮通信使遺跡 鞆福禅寺境内(国の史跡)
 福禅寺対潮楼朝鮮通信使関係史料(福山市重要文化財)
 木造千手観音立像(福山市重要文化財)
 木造地蔵菩薩半跏像(福山市重要文化財)
 木造役行者像及び二鬼(前鬼・後鬼)像(福山市重要文化財)

 …と、こんな「福禅寺・対潮楼」であります(^.-)☆
 何度も訪れていますので、中に上がりますのは今回はパス(^-^)
 境内には、「久保 極」sanのアート作品が…

 ◆久保 極

 ・1956年 -- 大阪に生まれる
 ・1978年 -- フィレンツェ国立美術アカデミア彫刻科卒業
 ・2008年 -- さわれないかたちをさわる 兵庫県立美術館
 ・2017年 -- シンガポール国際ミニチュア彫刻展
 ・2017年 -- 個展 ギャラリー勇斎(奈良)
 ・2018年 -- 台湾国際ミニチュア彫刻展
 ・2019年 -- 岡山現代彫刻の断片VOL3 奈義町現代美術館
 ・2019年 -- TOMONOURA de ART 2019(福山)
 ・2020年 -- 神宮の杜に集う彫刻家たち明治神宮廻廊(東京)
 ・2020年 -- イタリアという共通展 芦屋画廊kyoto(京都)
 ・2021年 -- 潮風にさそわれて 触れる彫刻展 木村眼科クリニック(福島)

 ◆彫刻家 久保 極について

 1956 -- 大阪に生まれる。
 1974 -- 18歳の時、横浜より、船 でナホトカに渡る。ナホトカよりシベリア鉄道でヨーロッパにはいる。目的地はイタリア。美術学校に入学の予定だったが、あてはなかった。イタリアを選んだのは物価が安かったからである。
 1978 -- フィレンツェ国立美術アカデミア彫刻科卒業。
 1983 -- 75~ピエトラサンタの大理石の工房チェルビエッティにて職人より技術を学ぶ。この時、すべて自分の手で作りあげることを学ぶ。
 1984 -- シルクロードを放浪して 帰国。
 2019 -- どこにも、所属せずフリーランスで彫刻の仕事をする。一番得意とするのは、大理石の彫刻。そして御影石。具象はすばらしいものがすでに存在している。したがってつくるものは抽象彫刻である。岡山市在住(今の所…)

 「久保 極」sanをWEB上で検索しますと、こんな記載がありました(^-^)/
 それでは、そろそろ我が家に帰ろう(^-^)
 ノンビリと市営駐車場方向に向かっていますと、途中、絵を描いておられます方が…GONsanなんぞは、眼には居ますもの凡てをパチパチと画像に撮るのみですから、こんな趣味がありますと、さぞ楽しいだろうなぁ~と、羨ましく見つめてしまいましたネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(33)

01-720
02-720
03-720
03-721
04-720
05-720
06-720
02-720-555

 右下 誠sanのアート作品を拝見後には、今度は、常夜灯方向を眺望です。
 正面山側に医王寺も眼に入ります。医王寺太子殿をカメラのズームを効かせて捜してみますけど、う~ん、分かりません(^-^;
 それでは、圓福寺から退散ですけど、石段を下りようとしますと、傍らに『市史跡 伝桑原一族墓地』と刻まれた石標が…うん、うん、この塀裏に石塔が存在しましたネ。
 WEB上で、『市史跡 伝桑原一族墓地』を検索しますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆大可島城跡(おおがしまじょうあと) 附 伝桑原一族墓地

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64168.html ---

 ・市指定史跡 昭和39年(1964年)3月31日指定

 ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があった。
 康永元年(1342年)、伊予の南朝軍は西国に勢力をのばそうとして、新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが病死したため、北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立った。南朝軍は金谷経氏を大将として土居、得能氏らが川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流された。そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えた。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返した。北軍は桑原氏を滅ぼし鞆は再び北朝側に帰した。世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられている。

 それと、圓福寺に隣接(南側)しますこの敷地は、何なんでしょうネ…庭園のようにも見えますし、建物跡のようにも…
 圓福寺隣接の民有地なのでしょうけど、以前にはどんな建物が建っていましたのでしょうねぇ~

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(32)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
02-720-555

 圓福寺の裏手・墓地側に廻りますと、弁天島・仙酔島が目前に…天気が良いと素晴らしい景観です(^_^)v
 ここで、この景観を何枚かパチリ(^.-)☆
 そして、また境内に戻りますと「右下 誠」sanのアート作品が…作品の説明は、「バブルの塔 右下 誠 素材:ビーズ・木材・金属」と記載がありました。

 ◆円福寺(えんぷくじ)

 いろは丸事件の際,紀州藩の宿舎として使用されました。
 南林山円福寺は室町時代から釈迦堂といい、現在の沼名前(ぬなくま)神社南側にありましたが、1610年頃に大可島(たいがしま又はおおがしま)城跡に円福寺と号して建立されました。
 頼山陽の叔父・頼杏坪(らいきょうへい)は、瀬戸の島々や四国の讃岐山脈を遠望できる景観を賞して座敷を「夾明楼(きょうめいろう)」と命名しました。こうした景勝地にあり、かつて朝鮮通信使の上官の常宿になっていました。
 江戸時代の漢詩会、歌会、句会の舞台にもなり、1827年再建の松尾芭蕉の句碑もあります。

 ◆圓福寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12648/ ---

 圓福寺の始まりは室町時代に遡ります。当時の圓福寺は「釈迦堂」といって、現在の沼名前神社の南、小松寺の東に位置していました。圓福寺と号したのは、1610年末頃(慶長年間末頃)、住職の快音によって大可島城の跡地に移転した後のことです。美しい瀬戸内の島々や四国の讃岐山脈が眺望できる景観を有し、江戸時代には朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿とされました。
 「山号扁額」は1711(正徳元)年の朝鮮通信使の写字官・花菴が大書した圓福寺の山号を木片扁額にしたものです。幕末のいろは丸沈没事件の談判では紀州藩の宿舎として使用されました。

 ・古の戦乱に思いを馳せる南北朝期の城址
 大可島は1600(慶長5)年頃に鞆城が築かれたときに陸続きとなるまでは独立した島でした。紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判る当地は海上交通の要所とされ、南北朝時代に大可島城が築城されました。1342(康永元)年、城主の桑原重信一族が足利氏に敗北した後は村上水軍の手に渡り、戦国時代には毛利元就の水軍の軍事拠点になりました。桑原一族の墓所は戦乱の名残を今に留めています。
 ◇過ぎ去りし日の兵たちは海上に何を夢見たのだろうか

 ・儒学者や風流人が愛した座敷、夾明楼
 圓福寺の座敷からの眺めは格別です。江戸時代後期、この景色に感嘆した1人の儒者が座敷を夾明楼(きょうめいろう)と命名しました。『日本外史』の著者・頼山陽の叔父である頼杏坪です。頼杏坪は農民の利益になるような政治を目指して藩に進言し、役人の不正を正すなど目覚ましい功績を上げた人物でした。彼が愛した夾明楼は、江戸時代を通して漢詩会や歌会、句会が催され、文化人の感興をそそりました。
 ◇浦の春を詠う松尾芭蕉の句碑

 「右下 誠」sanをWEB上で検索しますと、こんな記載が…

 ◆右下 誠

 --- https://www.storehouse-fukuyama.com/?p=1902 ---

 「人」や「関係」がおもしろい時代。
 みぎしたまこと/アーティスト、アートディレクター。1977年生まれ。広島県内での個展やワークショップを中心に県外にも活動を広げる。

 広島を中心に、2010年からアーティスト、アートディレクターとして活動する右下誠(mako)さん。さまざまな場所で個展を開催し、最近は企業の依頼を受けることも多くなってきた。アーティスト活動や企業とのコラボレーションについて聞いてみた。

 ・イラストのイメージは、どのように生まれるのでしょうか。
 右下:アイデアはいつでも浮かんでくるので、それを表現している感じですね。例えば、人と会って話している時には、相手が着ている服や身に付けているものが視覚から入ってくるので、そこからアイデアをもらうというか。あとは、「2つのものをくっつけたらどうなるんだろう」「この色を反転させたらどう見えるんだろう」と考えているうちに、新しいアイデアが浮かんできます。

 ・疑問からアイデアが生まれることがあるんですね。
 右下:「なんでコップに水滴が付くんだろう」とか「なんであれはああなってるの?」とか、周りの人や企業の人にも、いつもいろんなことを尋ねています。そうやって吸収した知識が、デザインとして還元されているんじゃないかと思います。

 ・企業からの依頼も多くなってきましたね。
 右下:今、刺繍会社と一緒に新しい商品開発をしています。ライフスタイルの分野では、カーテンを一緒に作る話も進んでいます。昔から、ライフスタイル関係のデザインやディレクションをしたいという気持ちがあったので、念願叶ってという感じです。そろそろ、自分の活動をまとめた本を作りたいと思っています。

 ・なぜいろんな方々とコラボレーションするのでしょうか。
 右下:人と人のつながりが好きで、いろんな人が集まれば、なんでもできると思っているからです。ほかにも、この人とこの人をつなげたらこんなデザインができるんじゃないかなと考えることも多く、お節介焼きな部分もあります。僕にとっての仕事は、生きているままというか、呼吸と同じ感覚。こう言うと語弊があるかもしれませんが、これを知りたい、あれを知りたいという欲求がたまたま生業となっています。仕事は遊びの延長であり、自分の欲求を満たすものです。

 ・これから実現したいことは?
 右下:僕の仕事は、自分にしかできないと思うのですが、地域や子供たちに何かの形で残すことができないかなと考えています。例えば、寺子屋みたいなもの。小さい頃、おじいちゃん、おばあちゃんに教えてもらったみたいに、そこに行けば自然とものごとを教われるような空間です。今までの活動を通じて出会った仲間と協力をしながら、形にできればと思っています。勉強ではなく、常識やコミュニケーションみたいなものが、今とても大事だと思います。(文=山﨑小由美)

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(31)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
02-720-555

 圓福寺に向かいます入口石段の脇には、「夾明楼 上り口」の石標が…

 ◆圓福寺・夾明楼(えんぷくじ・きょうめいろう)

 --- https://www.hiroshima-kankou.com/spot/5424 ---

 戦国時代、村上水軍の一族が、大可島城を拠点に海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。慶長年間(1600年頃)に鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在大可城跡に建っている南林山釈迦院円福寺は、真言宗の寺でこの年代に建てられたものです。

 住所:広島県福山市鞆町鞆10
 電話番号:084-982-2508
 アクセス:車--山陽自動車道福山東ICから約40分・福山西ICから約40分、公共--JR福山駅前11番乗り場から鞆鉄バスで約30分「鞆港」下車、徒歩5分
 備考:夾明楼の拝観料200円(要申込)

 …と、こんな「圓福寺・夾明楼」であります。
 境内を見廻しますと、芭蕉の句碑が…

 ◆芭蕉の句碑

 『疑なうし保のはなも浦の春』

 「くだけちる波(潮)の花をみるとこの浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑うな」
 1777年(安永6年)に建てた石碑を再建したものです。碑文は備後の俳諧の指導者、鼎左(ていさ)の筆です。この区の前文に「二見の図を拝みて」とあり、1689年(元禄2年)伊勢の絵をみてよんだ画賛です。なお、圓福寺の夾明楼は頼山陽の叔父頼杏坪が美しい景色に感嘆して命名したものです。

 ◆圓福寺夾明楼
 江戸時代から鞆では句会が盛んで、圓福寺の座敷は「夾明楼」と呼ばれ、漢詩会、句会の舞台にもなっていた。頼山陽の叔父である頼杏平がこの座敷を「夾明楼」と命名し、美麗な書を残した。

 ◆大可島(たいがしま)城跡

 福山市鞆町鞆の高台に円福寺という寺がある。
 康永元年(1342年)、四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力をもつ北朝足利方が燧灘(ひうちなだ)で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代に村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権をにぎっていました。
 慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。現在の本堂は、昭和初期に再建されたものです。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(30)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
02-720-555jpg

 退散時に気付きましたけど、ダンボールで作られましたこのトラックもアート作品でありました(^.-)☆

 ◆ズガコウサクとクリエイト

 大阪・神戸在住の、「岸川のぞむ」と「岡本和喜」の二人によるユニット。2009年よりズガ・コーサクとクリ・エイト(略してズカクリ)としての活動を始める。
 主に段ボールなどの廃材を使って、どこかに有りそうな 風景を作り出し続けている。
 二人の制作の方向性は全く違うが、面白い物を作りたいという情熱は同じ方を向いている。

 …と、WEB上にはこんな記載がありました。
 外に出まして屋根下に眼を移しますと、杉玉が(^-^)

 ◆知ってる?酒屋や酒蔵にぶら下がっている丸い玉「杉玉」の正体と重要な役割

 --- https://kurand.jp/blogs/magazine/387087269943 ---

 酒蔵や酒屋の軒先によく飾られている、丸い緑の玉。皆さんはこれを“ただの飾り”だと思っていませんか?
 この緑の玉は「杉玉」と呼ばれるもので、実は日本酒好きなら絶対に知っておきたい、重要な役割が秘められているのです!
 ということで今回は、そんな謎の玉「杉玉」をピックアップ。杉玉の役割や起源、そして杉玉の“とある変化”と共に楽しみたい、4タイプの日本酒を紹介します。

 杉玉とは、その名の通りスギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物です。読み方は、「すぎたま」「すぎだま」、または酒林と書いて「さかばやし」と呼びます。
 スギの葉のみで作られているわけではなく、針金で芯となるボール(できあがりの半分ぐらいの大きさ)を作り、それにスギの葉を下方から順に差し込んで固定し、上まで刺したら球状になるように、きれいに刈り揃えることで杉玉は完成します。
 「葉っぱの塊だから軽そう!」っと思っている方もいるかもしれませんが、実は完成したばかりの杉玉の重量は直径約50cmで20kg、約40cmで9~10kgほど。
 緑色の葉に含まれる水分が抜けどんどん茶色になっていく頃には、抜けた水分の量だけ製作時より軽くなりますが、取り扱いには気をつけましょうね。

 さて、軽く触れましたが上記のように杉玉は、緑色の場合と茶色の場合がありますよね。
 実はこの色の変化こそが、杉玉の重要な役割なのです!
 まず、日本を造る酒蔵などが、軒先に緑色の杉玉を吊すのは、新酒が完成したことを知らせるためです。「搾りを始めました」というアピールですね。
 新酒の季節に吊るされた杉玉は当然、徐々に枯れていき、どんどん茶色がかっていきます(深緑の杉玉を見られるのは数週間ほど)。
 そしてその変化は、新酒の変化、熟成具合と重なります。
 つまり、新酒が完成したことを伝える緑色の杉玉は、今度はその新酒の熟成具合を、道行く人に伝えているのです。ただ、酒蔵や酒屋によっては、何年も同じ杉玉を吊るし続けている場合もあるようなので、その点は注意してくださいね。
 杉玉の役割は、新酒の完成を伝えるのと同時に、葉色の変化により、その新酒の熟成具合を伝えること。
 …と説明しましたが、実は元々の役割は別だったと言われています。

 諸説ありますが、最も有力なのは奈良県の桜井市にある、大神神社(おおみわじんじゃ)を由来とするものです。
 大神神社は、古くからお酒の神様を祀るとして有名な神社。大和朝廷の神事の神酒(みき)を造るという、重要な役割を担っていた神社でもあり、お酒との関わりが深いことで知られています。
 そんな大神神社がある三輪山は、神南備(かみなび・かむなび)と呼ばれる神の通り道、拠り所とされている場所で、その場所にたくさん養生している杉にもまた神が宿ると言われています。
 そして、その神が宿った杉の葉を束ねて、酒屋の軒先に吊すという風習が生まれたそうです。
 “杉を束ねる”と書いたように、当時は球状ではなく、名称も「酒箒(さかぼうき)」や「酒旗(さかばた)」だったのだそう。
 江戸中期には、鼓のように束ねた杉の葉を「酒林(さかばやし)」と呼び、軒先にかけて酒屋の看板にしたと言われています。
 江戸中期の文献の一つには、既に球状で描かれている杉玉の原型があることから、江戸期の間に杉玉は急速に形を変えていき、江戸後期には現在に受け継がれる球状の杉玉が完成したと思われます。
 神が宿った杉の葉を吊るすことで、お酒の神様に感謝を捧げるものだったという杉玉。
 全国に広まった杉玉の風習は、酒屋が新酒を搾る頃に杉玉を飾ったことから、新酒が完成したことを知らせる役割を持つようになっていきました。
 そして現在では、お酒の神様に感謝を捧げるという一面よりも、前述したように、軒先の人に新酒の状態を伝えるという一面が強くなったのです。
 ただ、これはあくまでも一説であり、“スギの葉はお酒の腐敗を直すから吊るす”、という風習が広まったという説もあります。

 ◇杉玉の変化と共に楽しみたい4タイプの日本酒

 新酒の時期に吊るされる杉玉は当然、次の年の新酒の時期に交換されます。つまり、1つの杉玉が伝えてくれる新酒の熟成具合は1年間のみです。
 ということで最後に、杉玉の、1年間の葉色の変化と共に楽しみたい、4タイプの日本酒を紹介します。

 ・「冬酒(新酒・しぼりたて)」
 時期は冬(11月~3月頃)。
 秋に収穫された米から造った、その年の最初に搾ったお酒で、抜群のフレッシュさが特徴です。
 当然ながら熟成期間は殆どありません。そのため、角があるような荒々しさ、言い換えれば、その日本酒が持つ勢いをダイレクトに感じ取れるような味わいを楽しめます。

 ・「春酒」
 時期は春(3月~4月)。
 冬に搾ったお酒を春に出荷したものです。春らしい、上品な甘みとフレッシュな味わいのものが多く、多少熟成したことで、新酒より荒々しさが抑えられた仕上がりになっています。

 ・「夏酒」
 時期は夏(5月~7月)。
 冬に搾ったお酒を夏まで貯蔵して出荷したものです。夏らしい爽やかな味わいのものや、オン・ザ・ロックでも楽しめるような、高い度数のものや、味が濃いものがあります。
 熟成により、新酒の荒々しさが丸くなり、まろみのある、比較的柔らかな口当たりになっています。

 ・「秋酒(ひやおろし)」
 時期は秋(8月~10月)。
 一夏を超え、秋まで熟成されたお酒です。しっかりとした熟成による、円やかな口当たりと、コク深い味わいが特徴です。

 ・まとめ
 軒先に吊るされた杉玉の葉色の変化が、その年の新酒の熟成具合を伝えている。なんとも日本人らしい、風流な文化ではないでしょうか。
 四季に恵まれた我が国の国酒“日本酒”には、1年間という時間の中で、まるで各季節に寄り添うように、熟成という味わいの変化が訪れます。
 その変化を知る1つの指標として、これからは杉玉の色を少し気にしながら町を歩いてみてはいかがでしょうか?
 深緑の杉玉や、ほどよく枯れた杉玉を見つけたら、きっとその日は、いつもより味わい深い日本酒を楽しめるはずです。

 …と、こんな『杉玉』のようであります(^.-)☆
 それでは、次に、圓福寺に向かってみます事に。その途中で氏神様の「力石」をパチリです(^-^)//"

 ◆鞆の津の力石

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/13530/ ---

 鞆は海運の発展と共に栄えた港町。かつては多くの仲仕が船積荷物の陸揚げや積み込みなどに従事していました。重たい荷物を肩に担ぎ、積み荷を運んだ力自慢の仲仕達は祭礼の場などで、力石を使ってその力と技を競いあったようです。差し上げた石には名前が刻まれ、神社に奉納もされました。鞆の津には「東濱・港濱・西濱」の仲仕組合があり、互いに競い合っていたことが知られています。
 仲仕達の誇り、ここにあり!なんと石の重さは230kg!!
 沼名前神社に20個、住吉神社に3個、奉納されている力石です。すべて花崗岩製で楕円状を呈し、重さは61貫(230kg)から32貫(118kg)と様々で、石には重さと奉納者名などが刻まれています。製作年代のわかるものは5個あり、天保15年(1844年)から安政5年(1858年)までの年号が刻まれています。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

本日午後は、福山市役所鞆支所で期日前投票となりました(^.-)☆(1)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
07-720-555

 本日午後は、福山市役所鞆支所で、衆院選の期日前投票となりましたGONsanです(^.-)☆
 本庁に出掛けましてもイィのですけど、鞆支所の方が時間的に早く済みますので、ここ近年は、大概、鞆支所で期日前投票を済ませていますGONsanなのであります。
 ここですと、投票後には建物3階屋上で、真ん前の仙酔島・弁天島の景観を楽しめますし(^_^)v
 …と言う訳で、サッサと衆院選挙・最高裁裁判官国民審査を終えますと、投票記念カードを貰いエレベーターで屋上へ(^-^)

 屋上には先客が3名ばかり(^-^)
 GONsan同様に、投票を終え瀬戸内の眺望を楽しんでおられますのかも…
 面前の弁天島に眼を向けますと、丁度、「平成いろは丸」が航行中でありました(^.-)☆

 ◆平成いろは丸

 --- http://www.ryoma-den.com/shiryou/irohamaru.html ---

 ・坂本龍馬が率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を模した船「平成いろは丸」。船内は落ち着いたレトロ調で龍馬ゆかりの地としての紹介パネル記念写真コーナーや子どもがさわって楽しめるコーナーもあります。
 ・坂本龍馬の率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を模して造られた市営渡船。船内は落ち着いたレトロ調になっており、仙酔島まで約5分の船旅を楽しめる。
 ・かつて坂本龍馬率いる海援隊が乗り込んだ蒸気船「いろは丸」を再現した市営渡船。県道22号線沿いの渡船乗り場と周囲6kmほどの離島・仙酔島を繋いでいる。乗船時間は約5分のため、龍馬ゆかりの地として船内に設置された紹介パネルや記念写真コーナーなどを見ているうちにあっという間に到着。日中は1時間に3本のペースで運航しており、週末や連休中などは多くの観光客でにぎわう。

 ◆いろは丸沈没・事件

 いろは丸は江戸時代末期、いわゆる幕末に伊予国大洲藩(現在の愛媛県大洲市)が所有していた西洋式の長さ三十間、幅三間、深さ二間、四十五馬力、百六十トン、三本マストを備えた蒸気船。
 1862年イギリス・バーミンガムで建造、アピソ号と命名される。
 1866年6月大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が長崎において、龍馬の勧めによりオランダ人商人ボードインから42,500両で購入したというのが通説でしたが、大洲藩が「いろは丸」を購入した時のポルトガル語の契約書が見つかったことが2010年4月23日に愛媛県大洲市によって発表され、覆りました。
 発表によると、ポルトガル人領事・ロウレイロより購入したものだと判明。4万メキシコ・パタカ、10,000両相当で購入したようです。
 また衝突した時に支払いが済んでいなかったとの一説もありましたが、購入時に全額支払い済みであることもわかりました。契約書のサイズは縦は約30cm、横は約40cmだそうです。購入時に船名を「いろは丸」とすることを大洲藩が宣言しました。
 しかし、藩に購入についての許可を得ていなかった国島は責任を取り12月24日切腹。
 最初の航海で瀬戸内海、備讃瀬戸の六島(現在の岡山県笠岡市)で紀州藩の明光丸(887トン)と衝突し、近くの鞆港(現在の広島県福山市)に曳航しようとしたが、浸水のため宇治島沖で沈没した。

 ★いろは丸沈没事件とはどういう事件だったのか…

 「いろは丸」は海援隊が借用するまでの間は、赤地に白の蛇の目の紋旗を掲げて、数回に亘り海運業としての航海を行ったが、其の運用には菅野覚兵衛や、渡辺剛八、橋本久太夫、腰越次郎と云った亀山社中の同志があたっていた。
 こうして、「いろは丸」と亀山社中、そして海援隊は深い係わりを持つことになったのである。
 慶応3年4月23日午後11時頃、いろは丸は最初の航海で瀬戸内海の備中・六島沖を航行中、紀州和歌山藩船・明光丸と衝突し沈没。
 明光丸は紀州和歌山藩が、15万5,000ドルかけてイギリスから購入した、150馬力、880トン、鉄製内車(スクリュー推進)型蒸気船である。積載量は160トンあり、いろは丸の実に6倍近い巨船でありました。
 明光丸は一度いろは丸に衝突した後、あわてて後退し、またもや前進して二度にわたり衝突したといいます。
 いろは丸は自力航行不可能となり、坂本龍馬率いる海援隊乗組員が明光丸に乗り移った後、備中・宇治島沖で沈没しました。

 ★賠償の交渉

 その後は、55万石の紀州藩を相手に、海援隊は坂本龍馬をはじめ、総掛りで賠償の交渉にあたったそうです。
 お互いに航海日誌を提出し、衝突の原因と、責任について激しい攻防戦が行われたといいます。その後、交渉に土佐藩の後藤象二郎が加わり、事は土佐藩と紀州藩の事件に発展しました。
 最終的には土佐藩参政・後藤象二郎と、紀州藩勘定奉行・茂田一次郎とのトップ会談に持ち込まれ、遂に紀州藩は賠償金の支払に同意したのである。
 この決着の裏には、坂本龍馬や岩崎弥太郎の決死の根回しや、対応が実を結んだ物であることは見逃してはならない。
 龍馬の政治力、交渉力、広範囲な人脈を駆使した、傑出した戦いの勝利であった。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(29)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
01-720-555

 それでは次に、「太田屋住宅・新藏」のアート作品を拝見です。
 う~ん、ここには、7~8名の方々で密状態。サッサとアート作品を画像に納めて退散です。
 制作者は、「Mayumi Ono」sanですけど、お名前を検索しましても何にも出て来ませんでしたネ。詳細は、非公開なのかも分かりませんねぇ~

 ◆太田家住宅・新蔵

 --- http://tomonoura.com/tomoart/ootake/ 2021.09.01 ---

 1655(明暦元)年に大阪から鞆に移り住んだ中村吉兵衛は、1659(万治2)年に漢方薬酒・「十六味地黄保命酒」の製造・販売を始めました。
 「保命酒屋」(旧中村家)として、江戸時代の間は醸造販売権を独占し、隆盛。まさに鞆の経済の中心だったのです。
 幕末の政変によって都落ちした三条実美ら尊王攘夷派の公卿7人が、鞆に立ち寄った際に一時の憩いを得たのが、この太田家住宅(旧保命酒屋)でした。
 公卿らは保命酒に陶酔し、その美酒を褒め称える歌を残しています。
 太田家住宅のおもてなしの心、お見事。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(28)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
02-720-555

 鞆城跡からの眺望も見終えましたので、「鞆の浦歴史民俗資料館」に入ろうかと思いましたら、そぅですネ…本日は日曜日ですから、残念ながら休館日でありました(^-^)
 それでは、鞆城跡を下り常夜灯に向かってみます事に。
 石段を下っておりますと、「鞆の浦周辺観光マップ」の前で、ご家族連れが写真撮影を…どちらから鞆に来られましたのでしょうネ…
 常夜灯にヤッて来ますと、観光客の皆様は、飲食をお楽しみでした。時間はと見ますと、うん、うん、13:00少し前でありました(^.-)☆

 ◆常夜燈

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12679/ ---

 鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。
 南に弓状の港を有する鞆の浦は多島海の天然の良港で、豊後・紀伊水道がぶつかる瀬戸内海の中央部に位置し、“潮待ちの港”として栄えました。
 1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で「活気に溢れた町」と記しています。その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。

 ・“海上闇夜東西を失いし時”の燈台―海上安全のために
 竿柱の南面に「金毘羅大権現」、北側に「当所祇園宮」の石額を掲げていて、海上安全の守護神に対する寄進燈籠という形式をとっています。
 1871年の公文書に「油一日五勺、燈しん一日五厘」とあり、当時は油(ニシン油)の燈火で海を照らしていました。
 ◇石額の文字―金毘羅さんも祇園さんも海上安全の神様なんです

 ・江戸時代の港湾施設5点セットの現存は奇跡的
 江戸期の港湾施設である常夜燈、雁木、波止場、焚場跡、船番所跡がほぼ完全な形で現存しているのは、全国でも鞆港だけなんです。
 ちなみにこの常夜燈は、海中の亀腹型石積まで含めると10mを越す大きさで、港の常夜燈としては日本一。瀬戸内の誇れる景観です。
 ◇威風堂々、常夜燈のある景観―これぞ鞆の浦

 ・鞆の浦にはもうひとつ常夜燈があった!?
 現在残る常夜燈は、太田家(当時は保命酒屋・中村家)がある西町が勧請して寄進したものです。対して、反対側の波止の先端には大坂屋が寄進した唐銅燈籠(からがねどうろう)が建っていたといいます。明治15年の水害で流されたもうひとつの幻の燈籠。
 ◇この湾を東西から挟むようにふたつの常夜燈が…ロマンですね

 …と、こんな「常夜燈」であります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(27)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
03-720-555

 ◆早毛利稲荷神社

 --- 2008-11-23 00:19:47 https://ameblo.jp/shimakaze2002/entry-12549085702.html ---

 鞆城址、今の福山市鞆の浦歴史民俗資料館の裏手にひっそりと鎮座する社があります。早毛利神社です。
 この神社に関しては縁起・沿革等はよく分かりません。
 これはあくまでも私の推測ですが、この神社の名前は、戦国時代に鞆を支配下に置く毛利氏が築城した際に、お城の鎮守社として造営されたのではないかと思います。
 今の社殿は、基礎は古いものの建物は昭和のものだと思います。子供の頃、社の中に入ったことがありますが、その時に祭壇に立派な(古代の神獣鏡のような)鏡があったのを今でもはっきり覚えています。
 城山にひっそりと鎮座する早毛利神社、その存在は毛利氏が鞆を支配した450年前の足跡のひとつかもしれません。

 …と、こんな記述もWEB上にありましたけど、詳しい事は分かりませんようですネ(^-^)

 ◆鞆城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 鞆城(ともじょう)は、備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城。福山市指定史跡に指定されている。

 ・概略

 鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地であった。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていたが、市街部に城は存在しなかった。なお、建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地であった。
 鞆城の前身となるのが天文22年(1553年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害である。鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されている。天正4年(1576年)には京都を追われた足利義昭が毛利氏の庇護の下、この鞆要害で亡命政権(いわゆる「鞆幕府」)を樹立した。幕府としての実態は伴っていなかったというのが定説ではあるものの、藤田達生は義昭が鞆にありながらも歴代将軍と同様に一貫して京都五山をはじめとする幕府管轄下にある禅宗寺院に対して住持任命の辞令である公帖を発給していた事実などを挙げて「室町幕府の身分秩序や武家儀礼は形骸化しつつも、大名権力とは異なる上級政治勢力として存続」していたとしている(「歴史」参照)。

 江戸時代に入ると安芸備後を与えられた福島正則により鞆要害の築城が開始され、鞆城と呼ばれるようになった。鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。築城は慶長14年(1609年)まで続けられたが、瀬戸内海の中央で戦略的にも枢要な鞆において大きな築城は徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、福島氏の移封後はその後、西国鎮衛の役目で備後福山に配された水野勝成により福山藩が誕生し、鞆城跡には鞆奉行所が置かれた。

 鞆城跡の一角には、「宮城道雄」の像も…宮城道雄と言いますと、「春の海」が有名ですネ。

 ◆春の海

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 春の海(はるのうみ)は、日本の箏曲家であり作曲家の宮城道雄が作曲した箏曲。ヴァイオリン版も知られるが、本来は箏と尺八の二重奏である。新日本音楽を代表する楽曲である。日本では、小学校における音楽の観賞用教材として指定されているほか、特に正月には、テレビ・ラジオ番組や商業施設等でBGMとして使用されているため、今日では正月をイメージする代表的な曲の一つとして知られている。

 ・曲の特徴

 1930年の歌会始の勅題「海辺の巖」にちなみ、歌会始前の昭和4年(1929年)末に作曲された。宮城は曲のモチーフとして、大正6年(1917年)上京する際に航路で旅した瀬戸内海をイメージして描いている(随筆「『春の海』のことなど」より)。8歳で失明する前に祖父母に育てられて住んでいた瀬戸内の景勝地、福山市の鞆の浦の美しい風景が目に焼きついたのをイメージして描いている、という説は誤り。宮城道雄は幼少の頃に鞆の浦で過ごしたことはなく、初めて鞆に来たのは昭和23年8月のことであった(随筆「鞆の津」より)。

 箏とヴァイオリンによる二重奏のレコードの発売は、フランスの有名な女性ヴァイオリニストであったルネ・シュメーの来日に遡る。昭和7年(1932年)、シュメーが東京を訪れた際、演奏披露された宮城の『春の海』をとりわけ気に入り、自身もヴァイオリンで演奏するべく宮城へ申し入れた。シュメーは、滞在先の帝国ホテルで尺八のパートをヴァイオリンへ変更する編曲を独自で行った。一晩で仕上げたという彼女の才能と熱意に宮城は感銘を受けつつ、彼女と奏じたところ、宮城も言葉は通じないが音楽家として曲全体の符合を確信する。これにより2人の公開演奏が決まり、宮城の箏とシュメーのヴァイオリンによる二重奏での『春の海』が日比谷公会堂で演奏された。この宮城とシュメーによる『春の海』は、後に改めて日本で録音され、日本、アメリカ合衆国、フランスでレコード発売された。これが契機となり、日本国内のみでなく国外の人々にも認知され、また親しまれる曲となった。ギドン・クレーメルが来日時に吉野直子と共演した際、この例に倣って演奏・録音した。
 『春の海』は、江戸時代までの近世邦楽ではないが、現代においても日本の正月をイメージさせる曲として定着しており、その広がりから日本的な景色を強く印象付ける伝統的な楽曲とされる。

 ・初演

 『春の海』の初演は、1929年末に作曲者である宮城と尺八演奏家の吉田晴風により日比谷公会堂で行われた。事実上の初演は1929年末であるが、宮城は随筆『夢の姿』で何よりも歌会始めの勅題に因んだものであるから、本当の初演は翌年の春としていると述べている。

 ・著名な演奏

 1932年、東京の日比谷公会堂でのフランスの女性ヴァイオリニストのルネ・シュメーと宮城の演奏による『春の海』。
 戦後から1960年までの期間で、シュメーとの協演盤が20万枚、吉田晴風との協演盤が3万枚、春の海を収録したLP『宮城道雄名曲選集』は3万3,000枚、EPが5万4,000枚、このうち日本国外への輸出分が1万枚近くあり、ロングヒットを続けている。
 1968年、日本のエレキバンド井上宗孝とシャープファイブが『春の海』を演奏した。オルガンで尺八、エレキギターで箏をイメージさせる演奏でアルバム『春の海』に収録された。同年、[日本コロムビア]のLP売上1位を獲得している。
 クラブDJアーティストであるDJ OSHOWが、『春の海』をサンプリングした『踊ル皿』という曲を発表している。
 ドカンと一発60分!・みごろ!たべごろ!笑いごろ!(伊東四朗と小松政夫が母子になるコント「ツンツク親子」で本曲を口ずさんだ)
 ハンニバル・ライジング - 本作のヒロインである紫夫人(Lady Murasaki)が琴で春の海を奏でるシーンがある。オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!! - 番組冒頭、「正月特別番組」の表示が出された画面のBGMに使用。

 ◆宮城道雄は、今も鞆の浦から「春の海」を眺めている

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12655/ ---

 鞆の浦民俗資料館の前庭には、作曲家・箏曲家として名高い宮城道雄の像があります。1929年に発表した「春の海」で世界的にも評価された宮城道雄ですが、この曲は、父親の故郷であり、自身が幼少期を過ごした鞆の浦を思って創作したと言われています。宮城道雄は8歳で失明しており、光を失う以前に見た鞆の浦の海が、永遠の原風景として心に刻み込まれていたのでしょう。
 ◇宮城道雄の像―幼少期の追憶と共に

 …と、こんな「春の海」であります。
 そして、のどかな瀬戸内を臨めます崖淵には、「佐藤 徹」sanのアート作品『青い春の夢中』の展示が…

 ◆青い春の夢中
  佐藤 徹
  素材:鉄・プラスティック・ビニール

 ◆佐藤 徹 / サトウ トオル
 広島県福山市に生まれる。名古屋芸術大学大学院を卒業。
 ・展覧会歴--日本彫刻会 会員、愛知県作家団体(石田清発足)創彫会 会員
 ・鞆の浦deアート運営委員
 ・広島市中区 三親電材 本店ビル内エントランスに大型作品「誠実・奉仕・躍進」
 ・福山市 双葉電機本社前にブロンズ作品「喜働」社内にもその他作品展示
 ・社会活動--日本彫刻展、創彫会彫刻展、Metal Works34th、鞆の浦deアート、愛知県-東山動植物園、緑の中の彫刻展、ルクシアタふくやま

 …と、web上にはこんな記載がありました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(26)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
03-720-555

 地蔵院近くの石段を上がって行きますと、「鞆城跡」にと到着です。ここには、「鞆の浦歴史民俗資料館」が存在です。

 ◆鞆の浦歴史民俗資料館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福山市鞆の浦歴史民俗資料館(ふくやましとものうられきしみんぞくしりょうかん)は、広島県福山市鞆町後地にある博物館。「潮待ちの館」の愛称をもつ。

 ・概要

 万葉の時代から栄えた鞆の浦を中心とする瀬戸内の歴史と文化を紹介する施設で、福島正則が築いたとされる鞆城跡(福山市指定史跡)に建てられている。庭から鞆公園(国の名勝)や四国の山々を見渡すことができ、ここからの景色は一見の価値がある。
 なお、館の建設は城跡の十分な調査のないまま進められたため遺構が大きく破壊された可能性が指摘されている。また、資料館に通じる坂道にある石垣は建設地に存在した鞆城のものと思われる石材を集めて模擬的に組まれたものである。
 同館の運営は福山市であるが、後援会組織として鞆の住民及び福山市民を中心に組織された「福山市鞆の浦歴史民俗資料館友の会」が関連行事などの積極的支援を行っており、鞆の恒例行事にもなっている「鞆・町並みひな祭り」や「八朔の馬出し」などの行事は同会が運営の中心を担うなど、鞆の浦の歴史遺産を活かしたまちづくりを積極的に行っている。

 ・主な展示物

 鯛網漁のジオラマ
 イカリづくりの鍛冶場
 箏曲家・宮城道雄の愛用琴などの遺品
 国の史跡「朝鮮通信使遺跡」の歴史資料
 広島県指定史跡「備後安国寺」の歴史資料
 広島県指定史跡「鞆七卿落遺跡」の歴史資料
 市無形民俗文化財「お弓神事」、同「お手火まつり」、秋祭りの布団太鼓「チョウサイ」、「八朔の馬出し」等の民俗資料
 保命酒店先の復元模型
 鞆の歴史・祭り等の紹介ビデオコーナー

 …と、こんな「鞆の浦歴史民俗資料館」であります。
 この敷地の片隅に、ウッカリすれば見落としそうな場所に、「アブラハム・デイヴィッド・クリスチャン」制作の彫刻が…傍らには、
 '89 ふくやま彫刻プロジェクト
 作品名 -- 彫刻
 制作者 -- アブラハム・ダヴィット・クリスチャン(Abraham David Christian)
 設 置 -- ふくやまアートプロジェクト実行委員会 福山市  …と、こんな説明板が(^.-)☆

 アブラハム・デイヴィッド・クリスチャンsanをWEB上で検索しますと、

 ◆アブラハム・デイヴィッド・クリスチャン

 アブラハム・デイヴィッド・クリスチャンはドイツを代表する彫刻家のひとり。若干19歳でドクメンタ5(1972)に参加し、翌年のデュッセルドルフ美術館での初個展以降、ドイツやアメリカをはじめ世界各地で活躍。日本では神奈川県葉山町のアトリエを構え、長年にわたって制作拠点としている。
 ルネサンス美術、アルベルト・ジャコメッティやデイビッド・スミスら20世紀の抽象表現、そしてアフリカの原始美術や仏教美術に影響を受けてきたクリスチャン。紙やブロンズによる彫刻、またドローイングは、これらの要素が組み合わさりながら均衡を保っている。

 …と、こんなアーティストのようであります。
 そして、「ふくやまアートプロジェクト実行委員会」も検索してみるのですけど、う~ん、よく分かりません。が、福山市内のアチコチで「ふくやま彫刻プロジェクト」により設置されましたアート作品は見掛けます。
 どぅにか『ふくやまアートプロジェクト実行委員会』に関します記述を見つけますと、こんな記載が…

 福山郵便局前交差点・北西(福山郵便局前)の、山本眞輔《躍動》(1996設置)。ふくやま彫刻プロジェクト。福山市、ふくやまアートプロジェクト実行委員会による設置。福山市とその周辺の市町村で、「ふくやま彫刻プロジェクト」を名乗った野外彫刻をよく見かける(先日行った尾道市御調町にもあったし、井原市でも見かけた)。これは1989年~1998年ころまで行われた「ふくやまアートプロジェクト」の一環として、福山市や周辺自治体と、ふくやまアートプロジェクト実行委員会が設置したもののようだ。他に展覧会なども開催しているようだが、ネットを検索する限りでは、今ひとつ実態がわからない。図録なども出ているようなので、近々チェックしたいと思っている。

 …と、こんな記載で、ふ~ん、「ふくやま彫刻プロジェクト」の実態は、よく分かりませんようですネ(^-^)
 それでは、何度も訪れています鞆城跡ですけど、暫し、敷地内を散策です。

 ◆鞆城跡

 --- 市史跡 1976年7月13日指定 ---

 ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則が修築した。慶長12年(1607年)の朝鮮通信使の日記に「崖上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しており、その時、建設中だったことが知られる。
 元和元年(1615年)の一国一城令に先立って廃城となり、正則のの後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以降は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた。

 …と、こんな説明板も。
 赤い鳥居の神社もありますので向かってみますと、鳥居には『正一位早毛利稲荷神社』の記載。

 ◆早毛利稲荷神社

 この神社は鞆の浦を見下ろす小高い丘の上、歴史民族資料館の建つ鞆城本丸跡に鎮座しています。城跡には鞆城の案内は有ったのですが、この社の案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明です。推測ですが、この地は安土桃山時代に毛利氏の所領となり、鞆の浦には毛利氏の擁護の元、室町幕府15代将軍足利義昭が滞在したこともあり、毛利氏にちなんだ社で、お城の鎮守社だったのではないかと考えています。

 …と、WEB上には、こんな記載がありましたネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(25)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
04-720-555

 ◆鶴林山 地蔵院

 宗派 -- 真言宗大覚寺派・金剛峯寺末(広島県史社寺志)・草戸明王院末(備陽六郡志)
 山号 -- 鶴林山
 開基 -- 宵真法師
 本尊 -- 木造地蔵菩薩
 住所 -- 広島県福山市鞆町後地 1323
 30世 -- 山川聡明師

 応永十五(1408)年以前の寺歴は不詳。
 応永年間(1394~1427年)に宥真法師による中興。
 文安四(1447)年、越智通顕が瑞應寺に寄進したお経を室町幕府将軍・足利義昭の侍医・武田法印(竹田兵部)が天正十八(1590)年に地蔵院に「大般若経(全600巻の内、約380巻が現存)」を寄進。
 寛文年間(1661~1672年)には荒廃し、落莫したが、
 天和元(1681)年、深宣法印が再興し、今日に至る。

 福島正則寄贈の両界曼荼羅、毛利輝元寄贈の唐画、涅槃像。『徳川将軍家より祈祷申附の古文書』が存る。
 本堂正面の秘佛地蔵菩薩は「中国地蔵尊霊場第八番」の御本尊。脇室の十一面観音は全国で唯一の歯吹観音で県重文に指定され、「鞆の浦古寺めぐり」の御本尊である。
 走島の壇徒が多い。

 ・【脇室の佛像】

 正面:十一面観音(金剛健歯観音)(県重文)
 右脇侍:不動明王
 左脇侍:毘沙門天
 室町初期の作であり、 中央の十一面観音は木造寄木造玉眼入り、白毫をはめ、化佛十一面は完存す。歯を見せている(歯吹き)ところから金剛健歯観音として信仰をあつめている。

 ・【金剛健歯観音】
 正しくは十一面観音菩薩様です。
 口を少しお開きになり、歯をのぞかせて(歯吹佛)衆生に対し金口説法し足を一歩踏み出して、悩み苦しむ人々をすぐにでも助けに行こうとなさっている極めてまれなお姿をした仏様です。
 この歯吹観音は全国でも当山のものがただ一体で、皆様の歯の健康を守護する佛様として信仰を集めております。
 ご真言《おんまかきゃろにきゃそはか》

 …と、こんな「地蔵院」であります。WEB上で『金剛健歯観音』を検索してみましたけど、画像は出て来ませんでしたネ(^-^;
 写真撮影が禁じられていますのかも…残念(^-^)//"
 それでは、地蔵院とはお別れで、鞆城跡に向かってみます(^-^)/"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(24)

01-720
02-720
02-721
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
02-720-555

 医王寺~太子殿の石段は樹木の間を進んで行きますので、鞆の町並みを展望は叶いませんけど、途中、一箇所だけ可能な場所が。
 ここにはベンチも設けられまして、一息入れながらの眺望が可能です。ですからGONsanは、往路も復路でも、ここで一服となりました(^.-)☆
 境内にと戻って来ますと、医王寺とのお別れは表参道経由でとなりました。
 山門に降りておりますと、うん、うん、先ほどの若者が山門周辺でパチパチと(^-^)
 画像に撮りまくっておられましたネ(^_^)v
 そこでまた若者と合流し、平賀源内生祠へと向かいます事に(^-^)

 ◆平賀源内生祠(ひらがげんないせいし)

 --- 福山市 掲載日:2016年3月31日更新  ---

 ・県指定史跡 昭和15年(1940年)2月23日指定
 高松藩薬用方出身で蘭学者として知られる平賀源内は、諸国を遍歴し、鞆の溝川家に寄寓したことがある。この時、源内焼の製法を伝え、土の神、かまどの神、平賀源内大明神を三宝荒神として祀るよう言い残して去ったといわれる。この生祠は、溝川家が宝暦14年(1764年)に祀ったものである。

 ◆鞆の浦の観光スポット

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/13531/ ---

 ・平賀源内生祠
 医王寺は鞆の浦の絶景スポットとして知られていますが、その医王寺の参道脇に潜むように平賀源内生祠があります。高松藩薬用方出身で蘭学者として知られる平賀源内は、諸国を遍歴し、鞆の溝川家に寄寓したことがあり、この時に源内焼の製法を伝え、土の神、かまどの神、平賀源内大明神を三宝荒神として祀るよう言い残して去ったといわれています。この生祠は、溝川家が宝暦14年(1764年)に祀ったもの。1940(昭和15)年に広島県史跡に指定されました。

 ・平賀源内と鞆の津(鞆の浦)
 1752(宝暦2)年、源内は長崎に遊学して蘭学の諸技術を学び、翌年、故郷の讃岐への帰途、鞆の津の溝川家所有地で陶土を発見し、鞆の津に陶器造りを伝授しました。
 源内焼きはオランダ製の釉薬を使ったといわれています。ただ、溝川家では陶器造りは行わず、鞆の津の伝統産業である鍛冶の「ホクボ」(火床)や壁土の原料として、その陶土を販売しました。
 平賀源内生祠の周辺には、今でも多量の土を採取した跡があります。

 ・平賀源内ってどんな人?
 1728-1779(享保13年-安永8年)【本草学者】その才能、行動、発想、すべてが型破り。不幸な死が惜しまれる。本草学者。科学者。戯作者。讃岐国出身。25歳で長崎に遊学、大坂で医学・本草学を学んだ後、1756年江戸に出た。中川淳庵、杉田玄白らと親交を持った。翌年から日本初の物産会となる薬品会を催す。源内焼き・火浣布・寒温計・エレキテル(摩擦起電器)を創作。風来山人の名で戯作者としても活躍、浄瑠璃本、また洋画なども手がけ、司馬江漢、太田南畝らに影響を与えた。1779年人を誤って殺傷し、獄死した。浄瑠璃『神電知渡』、談義本『風流志道軒伝』のほか、『物類品隲』が有名。

 ◆平賀源内生祠

 --- 県史跡 昭和46年2月23日指定 ---

 蘭学者、平賀源内(1728~79)は讃岐・志度村(現・香川県さぬき市志度町)の生まれで、植物学・科学・劇作など多くの分野で活躍した人物です。長崎で学んだ帰り、鞆の浦の溝川家に立ち寄りました。その時、ここで陶土を発見し、オランダや中国の陶法を取り入れた源内焼の製法を伝えました。源内が自分の生前中に神として祀るように言い残したので、1764年(宝暦14年)、溝川家は三重の石塔の三宝荒神をまつりました。生存中に神としてまつることを生祠といいます。

 ◆生祀

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 生祀(せいし)とは、存命中の人間の霊を祀ること。生祠ともいう。功績があった存命中の他者の霊を祀る場合と、自己の霊魂を祀る場合とがある。

 ・概略

 -- 中国における生祠 --

 前漢の欒布が燕の丞相であった時、燕と斉の間にその社を立てて、「欒公社」と呼んだ。また、石慶が斉の丞相であった時、斉人は「石相祠」を建てた。これが生祠の始まりである。
 唐代では、現任の官員が碑や祠を建てることに一定の制限があった。『唐律疏義』によればみだりに生祠や德政碑を建てたものは、「諸在官長吏實無政跡輒立碑者、徒一年(官吏で功績がないのに石碑を建てたものは、徒罪一年)」と徒罪一年の処分を受けなければならなかった。『日知録』では、唐は「當日碑祠之難得」と称し、石碑や祠を建てることが難しかったと語る。
 明代では、滕州市の百姓が、当地で清廉な政治を行い燕京に赴任することになった趙邦清を記念して、生祠を作ったところ、「黃童白叟、羅而拜之(子供から年寄りまで、列をなして拝んだ)」という。
 明の天啓帝の時代、宦官の司禮監:秉筆太監であった魏忠賢は自ら政治を行って天下を支配し、媚びへつらうものや権勢を畏れるものは彼のために生祠を立てた。天啓七年(1627年)五月、国子監生の陸万齢は、「孔子は『春秋』を作り、忠賢は『要典』を作った。孔子は少正卯を誅し、忠賢は東林を誅した」ため魏忠賢は孔子と並び論じられるべきであると上書した。天啓七年四月、袁崇煥と兵部尚書の閻鳴泰は上奏して、魏忠賢の功德を讃え、前屯の両地に魏忠賢のため生祠を立てることを求めた。その後、魏忠賢の生祠は「天下にあまねく」、「祠ごとの費用は多くて数十万少くても数万を費やし」、「民の財を奪い、公けの金庫を侵し,伐られた樹木は数え切れない」という。黄運泰がを生祠作り塑像を迎えた時には「五拜三稽首」し、「文武の将吏を率いて階段の下に整列し、始めのごとく拝礼した」という。
 顧炎武が嘆いていうには「今の代には生祠を建てない官はいない。そして任を去ってから幾年も経たずにその像を壊し、その主人を替える。」という。

 -- 日本における生祠 --

 自己の霊魂を祀る生祀は、長命を得るため、あるいは死後に神となるために行われた。大国主命が自らの奇魂・幸魂を三諸山(三輪山)に祀った故事に由来するとされる。
 自己の霊魂を祀った生祀の文献上で最も古い事例は、平安時代の923年、伊勢神宮の外宮の神官であった松木春彦(824年-924)が、伊勢度会郡尾部で、石に自己の霊魂を鎮め、祀ったことである。江戸時代、松平定信が1797年、奥州白河城に自分の生祀を成立した例がある。生祀は江戸時代に増えたが、それは中国思想の影響であろうという。江戸時代に、山崎闇斎が儒教の礼式を参考に祭式を考案し、自らの霊魂を祀った。その生祀は1671年、京都の自邸の垂加霊社に成立したものである。これ以後も、神道家や平田派の国学者によって、それぞれ独自の祭式で自己の霊魂を祀った。
 生祀の研究は加藤玄智(1873年-1965年)が有名である。加藤によれば判明している生祀は670あり、新しい生祀は1931年8月、北海道日高国浦河町に祀られた西忠義(西義一の父)のものである。
 明治天皇の生祀は1876年(明治9年)宮城県石巻港に、1893年(明治26年)上伊那郡小野村の矢彦神社境内に、建立された。明治天皇、昭憲皇太后の生祀は1887年(明治20年)および1904年(明治37年)に2箇所に、大正天皇の生祀は1911年(明治44年)北海道日高国門別村に、貞明皇后の生祀は1913年(大正2年)広島県広瀬町に、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王の生祀は1924年(大正13年)姫路市同心町に成立した。
 昭和天皇の生祀は1923年(大正12年)北海道十勝国本別村義経山上に、昭和天皇、香淳皇后の生祀は1928年(昭和3年)広島市広瀬町に成立した。

 …と、こんな平賀源内生祠を拝見後は、そのまま表参道を下って海岸沿いに降りてもイィのですけど、下りの参道を左折し路地へ。この路地を抜けますと、民家の間を斜めに横断するルートとなりますから距離短縮に。
 途中、以前はカフェでした場所が取り壊されて…場所的に、今では来客が少ないのかも…
 そぅしていますと、渡守神社御度所まで下りて来まして、この辺で若者とはお別れで、GONsanは地蔵院方向へ…若者は静観寺方向へ…
 別れ際、「貴方は、銀行にお勤めですか?…」と声を掛けますと、驚きながら、「えっ、何で分かるんですか!?」に、「ここまでの会話と話し方、職場は2年半程度で異動、色んなモノをカメラで撮りまくっている動き…等と、同類としての匂いから…」と笑いながら返しますと、若者は怪訝な顔でGONsanを見送ってくれましたネ(^-^)

 今からGONsanが向かいますのは、アート作品が展示されています鞆城跡なんですけど、その途中に「地蔵院」に立ち寄りとなりました。

 ◆地蔵院

 ---  鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12665/ ---

 鞆城跡のこんもりとした高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。

 ・全国でもここだけ!歯をのぞかせた観音様?
 地蔵院には全国で唯一、口元に歯をのぞかせている「木造十一面観音立像」が安置されています。左足を一歩前に踏み出し、今まさに苦しむ人びとを救いに行かんとする構え。尊いです。また金剛健歯観音とも呼ばれ、歯の健康を守る珍しい仏様として全国より信仰を集めています。
 ◇わずかに歯を覗かせる観音様―衆生を慈しむ表情です

 ・静謐な中にやすらぎあり―、静かに佇む十三仏
 本堂の横には「仏庭十三仏・やすらぎ苑」があります。個性溢れる石仏がお祀りされていて、なんとも不思議な雰囲気を感じます。鞆の浦で見つけた、霊妙な地。ぜひ、この空気に触れてみて下さいね…さて余談。この境内には袈裟姿のタヌキの置物もあるんですよ。さあ、訪ねて見つけてみよう!
 ◇集まる石仏―梵字も相俟って、雰囲気あります

 ◆地蔵院

 中国地蔵尊霊場第八番です。全国で唯一、口元に歯をのぞかせている「木造十一面観音像」が安置されており、歯の健康を守る珍しい仏様として全国より信仰を集めています。本堂の横には「仏庭十三仏・やすらぎ苑」があり、個性溢れる石仏がお祀りされていて、なんとも不思議な雰囲気を感じる事ができます。

 ◆地蔵院

 地蔵院は、鞆城の二ノ丸跡地に建てられました。
 山門は1700年代に造られ、今も残っている大変貴重なものです。全国で唯一歯をのぞかせている「木造十一面観音立像」は、広島県の重要文化財で、歯の健康を守る珍しい仏様と言われています。

 --- ふくやま国際交流協会 広島地域留学生会 ---

 …と、こんな地蔵院であります。それでは、早速、山門を潜り境内へ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(23)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
05-721
06-720
03-720-555

 太子殿からの眺望を楽しみながら、次から次に眼に入ります景観を画像に納めておりますと、いつのまにか先ほどの若者も、ここまで上がって来られましたようです(^.-)☆
 で、暫し、雑談しながら二人で眺望となりました(^-^)
 どぅもこの若者、GONsanと同類の臭いがしますねぇ(^-^)まぁイィのですけど…
 若者も次々に太子殿からの眺望を画像に納めておられましたが、先を急がれますのかも…GONsanより先に下山です。が、GONsanはもぅ少し眼下の眺望を楽しみます事に。
 ズームを効かせて、何か変わった景観でも…と注視しますけど、別段変わった景観もありませんようであります。
 後で向かいますけど、圓福寺(大可島城跡)の境内にもアート作品が…でも、境内には人影はありません(^-^)
 太子殿に上がります前に、医王寺境内から圓福寺を眺望しましたら、4人の方々がアート作品に眼を向けておられましたけど…
 それではこの辺で、GONsanも太子殿からお別れです(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(22)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
02-720-555

 それでは、太子殿への石段を上ってみます事に(^.-)☆
 スタート間もなく気付きましたけど、石段には凡てナンバーが刻まれておりました。このナンバーは何で?
 太子殿にお詣りされます方々への道しるべ?…太子殿には583段の石段ですから、逆算しますと、現在の位置が大まかには分かります(^-^)
 それとも、当初、石段を設置されます際に、間違わないように採寸の上、場所決めのナンバーなのかも…
 石段を上ってお詣りと言いますと、まずは頭に浮かんで来ますのが香川県の金刀比羅宮(こんぴらさん)ですけど、こんぴらさんの石段は何段でしたか…

 ◆こんぴらさんの階段の数は何段?所要時間はどのくらい?結構きついけど達成感あるよ!

 --- SOMETHING PLUS https://something-plus.com/konpirasan-kaidan ---

 香川県にあるこんぴらさんこと金刀比羅宮といえば階段の数の多ささで有名ですよね。
 こんぴらさんの階段の数は本宮まで785段、奥社まで行くと片道で1,368段あります。しかも奥社まで行く場合の所要時間は、片道約1時間半、往復でも3時間はかかります。
 往復3時間もかかる階段数があるこんぴらさん、なかなか制覇するには手ごわいですが一度は上ってみたいですよね。
 「1,368段も上れないよ!」という方には、ほとんどの方が行かれる階段数785段目の御本宮までがおすすめです。

 …と、こんな記載がWEB上にありましたけど、そぅでした、本宮まで785段でしたネ。
 こんぴらさんと比べますと楽なもんですけど、とは言いましても太子殿に辿り着きますと、額から汗が流れ落ちましたねぇ~
 この太子殿から更に上がって行きますと、グリーラインに出れますのでしょうけど、太子殿の先には倒木と岩石で通行止めが…
 太子殿からの眺望も素晴らしいのですけど、随分昔に訪れました時よりも、周辺の樹木の成長で視界が狭くなったような…それでも充分美しい鞆港の眺望であります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(20)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
05-720-555

 アート作品の傍らには、大伴旅人の歌碑が…そして、説明板には、こんな記載が…

 ◆大伴旅人「鞆の浦亡妻挽歌」三首の内の一首
  万葉集巻三-四四八番歌

 天平2年(730)12月、太宰府の長官だった大伴旅人は、大納言兼任となって都に上る途中、「鞆の浦のむろの木」を詠った三首の歌を残した。その三首目がこの歌で、他の二首の歌碑は対潮楼の崖下と歴史民俗資料館の前庭に建っている。
 「磯の上にしっかり根を張って立つむろの木よ。太宰府へ下る時、私は妻や息子といっしょにお前を見たのだ。しかし、その妻はもうこの世にはいない。私の愛する妻が今どこにいるのか尋ねたら、お前は私に教えてくれるだろうか。」
 こう、むろの木に問い掛ける旅人は、神亀5年(728)の初め太宰府に下ったが、まもなく妻を亡くし悲嘆にくれた。一方、奈良の都では、翌神亀6年2月の長屋王の変によって、光明皇后が誕生し、藤原氏の全盛時代を迎えようとしていた。
 子息 家持を伴い、亡き妻の思いを胸に帰京した旅人は、翌天平3年(731)7月、萩の花を気に掛けながら、静かに67年の生涯を閉じた。

 --- 2010年4月27日 鞆の浦ロータリークラブ創立40周年記念 ---

 境内を見廻しておりますと、う~ん、先ほど法要を執り行っておられます所が本堂かと思っていましたら、本堂は、こちらでありました(^.-)☆
 本堂前には、こんな案内板も。

 ◆医王寺

 桃林山慈眼院医王寺は、平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院です。本尊は木造薬師如来立像で県の重要文化財に指定されています。慶長年間(1600年頃)福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄蕃藩がこれを再興しました。現存する鐘楼は1642年(寛永19年)福山藩主水野勝成の建立、本堂は1685年(貞享2年)四代水野勝種の再建したものと伝えられています。ここから15分ばかり登った所にある太子殿からの展望はすばらしいものです。1826年オランダ商館長の随行医師シーボルトはツツジや松などの観察のためにこの小径を登り、植物・昆虫をを採取しました。

 …と、こんな医王寺の経緯が。
 鐘楼から眺望します瀬戸内の景観…何度眼にしましても実にイィものであります。鐘楼下の崖淵には、女性お二人がノンビリと過ごしておられます。
 先客がおられましたようです。気付きませんでしたけど(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(19)

01-720
02-720
03-720
03-721
03-722
04-720
05-720
06-720
07-720
03-720-555

 後山山荘への入口を通り過ぎ、医王寺への石段を上がっておりますと、途中に、これもアート作品なのでしょうか…サクラの木の下に1台の自転車が…アーティストのお名前も作品名も表示がありませんから、アート作品ではありませんのかも(^-^)
 ここで暫し一服で、眼下を眺望です。
 うん、うん、あの赤い屋根の建物は、ジブリ映画「崖の上のポニョ」のモデルになりました家ですネ(^.-)☆
 WEB上で検索しますと、こんな記載が…

 ◆ジブリ映画「崖の上のポニョ」のモデルになった場所・舞台は日本!広島県なのです

  --- https://xn--t8j4aa4nqjmj045t3fpcjd.com/%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%AA%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E5%B4%96%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%83%A2%E3%83%87%E3%83%AB%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F/ ---

 2008年公開された宮崎駿監督によるジブリ映画「崖の上のポニョ」。
 2004年の「ハウルの動く城」以来4年ぶりになる宮崎ジブリということで、話題になり、大ヒットしましたね。『人間になりたいと願っている魚の女の子“ポニョ”と心優しい5歳の少年“宗介”の物語』
 崖の上の一軒家に住む5歳の少年・宗介は、ある日、クラゲに乗って家出したさかなの子・ポニョと出会います。アタマをジャムの瓶に突っ込んで困っていたところを、宗介に助けてもらったのです。
 宗介のことを好きになるポニョ。
 宗介もポニョを好きになります。
 「ぼくが守ってあげるからね」
 しかし、かつて人間を辞め、海の住人となった父・フジモトによって、ポニョは海の中へと連れ戻されてしまいます。
 “人間になりたい!”ポニョは、妹たちの力を借りて父の魔法を盗み出し、再び宗介のいる人間の世界を目指します。しかし、このポニョの行為は海の世界を混乱させ、津波となって宗介たちが暮らす町をまるごと飲み込んでしまうのです。
 さらに、「ぽーにょ、ぽーにょ、魚の子っ♪」という可愛くて軽快な曲も大ヒットしましたね。そんな崖の上のポニョのモデルになった場所が広島県福山市にある…

 ・鞆(とも)の浦 どのような港町なのか?
 自然の景色と素晴らしい街並みが美しい!以前訪れた朝鮮通信使が、「日本で一番美しい景色」と絶賛したそうです。
 そのような名所に宮崎監督は、2004年11月にスタジオジブリの社員旅行で訪れ、「大変気に入った!」そして2005年の春に鞆の浦の海沿いの一軒家に約2ヶ月間滞在しました。
 さらに2006年夏にも再び単身でやってきたそうな。
 こうして広島県福山市にある「鞆(とも)の浦」が次回作であった「崖の上のポニョ」の舞台として出来上がったのです。
 鞆の浦には今だ古い町並みが残っており、1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれました。
 江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみです。江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路もほぼすべて現存し、当時の町絵図が現代の地図としても通用します。そのような町は港町に限らず、全国でも鞆の浦以外には例がないほど貴重な町なのです。

 …と、こんな記載が(^.-)☆
 それでは、医王寺の境内へ向かいます。本堂では、法要が執り行われておりました。

 ◆医王寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12669/ ---

 坂道や階段をえっちら上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺・医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師・空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。1826年には、オランダ商館の医師シーボルトもツツジや松の観察のために、この小径を登ったのでしょうね。

 ・オリンピックよりも珍しい、6年に一度のご本尊のご開帳
 医王寺のご本尊は「木造薬師如来立像」。これは広島県の重要文化財にも指定されています。6年に一度しかご開帳されない、ありがたいご本尊です。
 山門には二体の金剛力士像が。なんとなく愛嬌を感じるお仁王さまが出迎えてくれます。
 ◇山門のお仁王さま―ね、愛嬌あるでしょ?

 ・「太子殿」への583段のハイキング
 医王寺の境内からさらに上を目指してハイキング。長い長い階段を登っていくと、「583」と刻まれた階段が。その最後の階段を踏みしめて、ついに「太子殿」に到着!ハイキングのごほうびは、鞆の浦を一望できる最高の眺めです。
 (注)夏場は水分補給に気をつけて、笑。
 ◇階段を上った先には「太子殿」―最高の眺めをプレゼント

 ◆石段の先に待つのは鞆の浦を見渡す最高の絶景 – 医王寺(太子殿)

 --- https://visittomonoura.com/2020/01/1161/ ---

 後山の中腹に鞆で2番目に古い寺『医王寺』があります。そこからさらに長い長い石段を上った先にあるのが『太子殿』。特に夏場だと心がくじけてしまいそうな長い階段ですが、がんばって上った人にだけ見ることができる最高の絶景というご褒美が待っています。鞆の浦の全景が一望できる太子殿からの景色。オランダ商館の医師・シーボルトもこの小径を上ったのかもしれません。

 ・医王寺を目指して表参道をえっちらおっちら
 「鞆に来たんなら、いっぺんは上がらにゃーいけん」と言われて、行かずにはいられなくなってしまった『太子殿』。絶景スポットとして必ず名前があがる『医王寺』から更に石段を上った先にあり、地元の人でもなかなか行かない隠れた名所です。地元の人によると、「医王寺には表参道を通って行くべし」とのこと。後山の中腹にある医王寺の表参道は、鞆港西側の焚場町と江の浦町の間にあります。
 表参道を進みはじめてすぐ、ひっくり返ってしまうほどの急な坂道に出会います。不安な気持ちを抑えつつ、一歩一歩、えっちらおっちらと上った先には仁王門があり、阿吽の仁王さまがお出迎え。
 医王寺の境内から眺める景色も抜群で、「ここでも十分じゃない?」と心折れそうな自分を鼓舞し、さらに上を目指します。

 ・長い石段を上った先に待つ絶景という名のご褒美
 看板を目印に太子殿へのトレッキングがスタート。つづら折りになった長い長い石段を踏みしめて上ります。うっそうと樹々が茂りとても気持ちが良いのですが、ゴールが見えないため「あとどのくらいあるんだろう…」と不安な気持ちがムクムク。
 途中にベンチが置いてあり、美しい景色を眺めてひと休みしながら前に進みます。すれ違う人たちから「もうすぐゴールよ、がんばれ!」と声をかけてもらいながらラストスパート。
 石段を上り切ったら急に視界が開け、展望台のようになっていました。ゴールに広がっていたのは、想像以上の絶景!鞆の浦の全体を見渡せるまさにベストスポットです。
 トレッキングは少し大変ですが、多少の苦労は吹き飛んでしまうほどの絶景。のんびり楽しみながら歩いてみてはいかが?
 → 坂道の先には絶景という名のご褒美が!「医王寺」

 …と、WEB上にはこんな記載がありましたけど、GONsanも後で「太子殿」に上がってみたいと思います(^.-)☆
 丁度、本堂前には、『修行 竹内康雄 素材:鉄』のアート作品が(^-^)
 ふ~ん、竹内康雄sanは、福山市のご出身のようであります。WEB上には、こんなご経歴の記載が…

 ◆経歴
 ・2011年 -- 福山工業高校卒業
 ・2013年 -- 溶接人杯準グランプリ
 ・2015年 -- 広島県美展奨励賞
 ・2016年 -- 国展、二科展入選
 ・2017年 -- 躍動する現代作家展福岡アジア美術館展示、名古屋個展、中目黒個展
 ・2018年 -- ZEN展東京埼玉展示努力賞、インドネシア展示
 ・2019年 -- ギャラリーフクヤマツイスト主宰発足
 ・2020年 -- 溶接人杯2020幕張メッセ審査員就任
 ・2021年 -- ZERO展大阪府知事賞

 この竹も、素材は鉄!?…手が届きませんので触れる訳にも行きませんから確認は不能。見た感じは「竹」に見えますから、素材は竹なんでしょうねぇ~

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(18)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
02-720-555

 明圓寺とお別れしますと、次は、医王寺に向かいます。が、途中に、「ギャラリー&カフェ さらすわてぃ」が存在しますから、建物内には入りませんけどチョッと立ち寄りとなりました(^.-)☆
 WEB上で「ギャラリー&カフェ さらすわてぃ」を検索しますと、こんな記載が…

 ◆ギャラリー&カフェ さらすわてぃ

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/gourmet/12618/ ---

 医王寺へと伸びる坂道を辿っていくと、その途中にナチュラルな一枚板の看板がふわりと目にとまります。そこから石段をさらに上へ。すると、目の前には素敵な住宅が…それが「さらすわてぃ」さん。
 大正時代の古民家を大改築して、懐かしくて新しい「ギャラリー&カフェ」に生まれ変わりました。昔の梁や柱を活かし、壁やフローリングにもこだわっています。独特な風合いを持つ白壁に、ダークブラウンの深みを湛えるフローリング。2階から望む鞆の浦の絶景も、最高です。
 夏には“涼”、冬には“暖”…穏やかに深呼吸ができる、そんな優しい場所へ、さあ、足を運んでみませんか。

 ・美しいものを眺めながらの一喫、それこそが最高の贅沢
 ウッドデッキから眺める中庭の調和、2階のお座敷から望む鞆の浦の絶景。そんな最高の景色を愉しみながら、おいしいコーヒーやアップルジュースを、すーっとのどに通す。厳選された直輸入の豆を使ったコーヒー、無添加100%のアップルジュース。それを、こだわりの器でいただく、その贅沢。うん、文句なし。
 ◇「コーヒー」500円(セット800円)、「リンゴジュース」500円

 ・こだわりが結実した、豊かなギャラリー
 屋敷内には、衣服やアクセサリー、それに、椅子などの調度類や可愛い置物などが、センス良く並べられています。これらはすべて奥さまが、全国のアーティストの作品の中から厳選したもの。「さらすわてぃ」さんが創り出す世界観は、調和していて、乱れなし。ほっと、なごませてくれる、優しいギャラリーです。
 ◇こだわりの品々―時間を忘れて、見惚れます

 ◆ギャラリー&カフェ さらすわてぃ 新田久子さん

 --- https://nipponianippon.or.jp/story/scene1/1158.html ---

 -- ぬくもりのアートを並べて ギャラリー&カフェ さらすわてぃ 新田久子さんの物語り --

 きっかけは、多くの人との縁でした―潮風の通り道となった古民家カフェで、自然と語らい、人の心に灯をともす
 心安らぐ、自然と一つになる場所を
 「さらすわてぃ」新田久子の物語り

 海や草木、陽の光とともに息づく鞆の浦。 そんな鞆の町を象徴するようなお店がある。そこを営むのは柔和な雰囲気の中に、力強く真っ直ぐな“芯”を秘めている女性。元々は福岡でギャラリーを営んでいたが、人の縁でここ、鞆の浦に辿り着いた。
 気張らない、温かみのあるものを提供したいという信条のもと、店内には選び抜いた置物やアクセサリーを並べている。鞆の浦の自然と語らいながら、訪れる人々の心に、穏やかさの灯をともしていく。
 「ギャラリー&カフェ さらすわてぃ」新田久子(にったひさこ)の物語り。

 階段の向こう調和するいろどり 古民家の名残がある空間
 医王寺へと続いていく参道の途中、控えめに現れる階段を上ったところに、「さらすわてぃ」はある。古い民家だったものを改築したせいもあり、その雰囲気は鞆の浦の景色と見事に調和している。
 高台に位置し、外に大きく開いた縁側をそのまま残してあるから、店内からは、鞆の浦の海を一望することができる。
 潮の香りを含んだ風を嗅ぎながら、刻々と色を変える陽の光を眺めていると、時間が経つのを忘れてしまう。
 店の中には、新田さんが選んだ、“アート”な作品群が並べられていて、それらを見ていると、普段眠っている心の奥深くが、やさしく刺激されるみたいで―。
 出される飲み物も、素材、器ともにこだわり抜かれていて、鞆の浦の景色を眺めながら、誰もが至福のひとときに身を浸すことができる。

 人が繋いでくれた新田さんの想い
 「潰れるなんて、もったいない」新田さんが鞆の浦にやって来たのは、まったくの偶然だった。
 もとは福岡で、まだ世に出ていない才能を、どこよりも早く発信するギャラリーを営んでいた。しかし、様々な事情により、店を一度閉めることに―。
 これからどうすればいいのか。そんなふうに思案していると、新田さんに声をかけてくれる人がいた。
 「こんな良いギャラリーが潰れるなんて、もったいない」新田さんのギャラリーを知る人が、鞆の浦に場所を貸してくれることになり、復活を後押ししてくれた。
 その後も、次々と、新田さんの理念に共感してくれる人たちが現れて、最終的には、古民家を持て余している、福山市在住の方に場所を提供してもらうことになった。
 ギャラリーというかたちで、この場所を甦らせてくれる新田さんにだったら、と、その人は古民家の改築にまで協力してくれた。
 こうして、「ギャラリー&カフェ さらすわてぃ」を、開けることになった。新田さんが困っているときには、いつも助けてくれる人が現れた。それはきっと、このギャラリーの持つ、不思議な魅力のおかげなのだろう。

 改築、そして―その建物は、鞆の浦を体現するかのようで、そうして、新たにスタートを切ることになった新田さん。
 改築には、彼女ならではのこだわりがあった。―“風の通り道”があるようなお店にしたい。
 その想いそのままに、店内を風が踊るようにして吹き抜けていく。ここでは、真夏でも、心地好い涼やかさを感じることができる。また、開放感のある構造が巧みにデザインされているから、「さらすわてぃ」には、古民家特有の暗さは感じられない。
 陽光や、海や石垣からの照り返しという光りが、自然な明るさをもたらしてくれる。それを、光りが歌う、と新田さんは表現する。
 改築の際、新田さんは、ずっと好みの音楽をかけていた。
 草木であれ、動物であれ、ワインであれ、良いメロディをともにすると、目が覚めるような成長、熟成を見せる。きっと、このお店も同じで、だから、「さらすわてぃ」全体から、新田さんの持つ優しさがにじみ出てくるのだろう。

 ギャラリーを飾る置物たち 心惹かれる、その色、そのかたち
 福岡にいた頃は新人発掘を主としていた新田さん。東京よりも、いち早く、と、“アート”に追われる日々だった。しかし、鞆の浦に移ってからは、違う風に考えるようになった。
 鞆の浦では緩やかな時間の流れが漂っている。その中で人は自然と一体となって、大事なものを受け取ることができる。
 新田さんはそうした気風を尊んで、気張らない、人のありのままの心を映してくれるような、自然体の作品たちを置くようになった。衣服も、調度類も、置物も、すべてが建物や外の景色と同じ雰囲気を身に纏っている。
 それらを眺めているだけでも心が安らぐし、どれかを購入して、お店の雰囲気を持ち帰れば、ここの安らぎを、いつでも思い出すことができるはず。

 「さらすわてぃ」を営む意味 人々に“気”を与えていく
 新田さんは、毎日草木の手入れをするなどして、自然と直に語り合っている。そうすることで、調和の度合いは一層濃密なものになり、調和から生まれる“気”は、置物ひとつ、コーヒー一杯にも宿っていく。
 人びとは、その“気”に触れることで、安らぎと元気をもらう。
 人づてにこの場所の存在が伝えられてゆき、そうして、“気”を共有する人の輪は、さらに、どんどん広がってゆく。
 元気をもらった人びとは、また自分の道を歩き出し、新田さんはそれを静かに、微笑みとともに見送る。その佇まいは、はるか昔より鞆の浦を見守ってきた、水先案内人のそれに似ていて―。
 海や草木、陽の光りの変化を楽しみながら、今日も新田さんは「さらすわてぃ」を営んでいる。

 …と、こんな『ギャラリー&カフェ さらすわてぃ』の説明が(^.-)☆
 そして、ここから少し上に上がっていきますと、「後山山荘」が…
 「後山山荘」には、予約がありませんと入れませんようであります。

 ◆後山山荘

 --- http://ushiroyamasansou.com/introduction/ ---

 瀬戸内海国立公園のほぼ中心にある自然景観と歴史の町、鞆の浦(広島県福山市鞆町)を一望する高台に位置する「後山山荘」は、建築家・藤井厚二(1888-1938)が兄・与一右衛門のためにつくった昭和初期の鞆別荘を、現代建築家・前田圭介が受け継ぎ再生(2013)させた建築です。
 後山山荘は、藤井厚二の京都・大山崎「聴竹居」と同じデザインのサンルームがあり、天井に排気口があるなど藤井厚二自らが興した環境工学の考えを示していて、藤井厚二がつくった過去の建築と、前田圭介がつくった現代の建築を同時に見ることができます。
 また、ここには美しい景観や庭園、歴史や文化があります。
 後山山荘の南東方向には、瀬戸内海に浮かぶ島々と鞆の街並みの絶景を楽しむことができます。日の出から夜まで刻一刻と姿を変える海と町の景観に時が過ぎ行くのを忘れるほどです。西側の山手には、藤井のデザインによる日本庭園があり、四季折々に変化を見せるモミジを中心とした植栽、花々の移ろいを楽しむことができます。奥の木陰には「禽浴(きんよく)の滝」があり、小鳥が水浴をする姿が見られることもあります。
 さらに、結城素明(ゆうきそめい)筆「琴棋書画襖絵(きんきしょがふすまえ)」や、この山荘のために書いた藤井与一右衛門の漢詩「鞆八景」も残されています。鞆での生活やその自然景観、季節の移ろいなどが文化となり歴史となって積み重なっているのです。
 私たちは、後山山荘における建築的、景観的、文化的、歴史的な価値を掘り下げて見直すとともに、その価値をさらに高めるため利活用を促進し、地域に根差した生活の美学や空間の魅力を再確認しつつ、維持管理・保存し、もって地域の建築文化や観光の発展に寄与したいと考えています。

 --- 後山山荘倶楽部 共同代表 松隈  章・谷藤史彦 ---

 見学の可能な日時:下表の定期公開日の10時~15時。次のいずれかの時間帯。
 10時~/11時~/13時~/14時~(1回あたりの見学時間は概ね50分とします)
 ※ 定期公開日以外の見学について
 見学人数が10人以上の場合、定期公開日以外でもご相談に応じます。
 人数制限:回あたり原則20人まで。
 内部空間をゆっくり実感していただく為に、サンルーム内部へ入る人数は10人までとします。
 引率・解説:簡単な解説を行います。自由閲覧用資料も準備してあります。
 マナーの徹底:後山山荘は、個人所有の別荘です。以下の禁止事項を遵守し、節度ある見学が望まれます。
 室内、敷地内、近辺は禁煙
 窓、襖、障子を開閉したり、家具・備品などを勝手に移動させないこと
 室内での写真・ビデオ撮影原則禁止
 大型の荷物の持込み禁止(手荷物は玄関に保管)
 駐車場:近所の市営駐車場をご利用下さい。近隣のご迷惑となるため、路上駐車は禁止です。
 見学料:1,000円/大人 500円/学生(小学3年生以下は入場できません)

 ◆後山山荘

 --- arch-hiroshima http://arch-hiroshima.info/arch/hiroshima/ushiroyama.html ---

 鞆の浦の高台に建つ住宅建築。建築家 藤井厚二が兄の与一右衛門のために昭和初期に建てた別荘であり、かの「聴竹居」とも共通する要素が織り込まれた名品であったが、空家となり廃屋同然となってしまう。
 相談を受けた前田の提案で残存箇所を修復しながら再生を図ることになり、新旧が絶妙に融合した建築作品となった。なお、本作は個人住宅をオーナーの好意により見学できる状態とされており、見学は特定の日に予約した上で行うことになる。
 訪問してみて最も印象深かったのは鞆港を一望できるすばらしい眺望と、それを巧みに切り取るデザイン。聴竹居と同じとも言われるサンルームは居心地の良い空間に仕上がっているし、追加された箇所もディテールに隙がない。鞆を訪問するなら、ぜひ予約したうえでここまで足を伸ばしてみて欲しい。本作にはそれだけの価値がある。
 内観写真はここには掲載しないが公式サイト(http://ushiroyamasansou.com/category/spe-galle/)で見ることができる。

 …と、こんな「後山山荘」であります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(17)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
11-720
03-720-555

 民家と民家の間の石畳の参道を上って行きますと、参道沿いの右手の山門に、武士の顔が描かれました大きなノレンが…
 山門傍らには、『白象侍図 KAI 素材:布地・アクリル絵具・墨』説明が(^-^)

 ◆明圓寺

 --- 9月26日 17:17 https://www.facebook.com/tomomyoenji/posts/2362858390511853 ---

 鞆の浦 浄土真宗 明円寺(真宗大谷派・東本願寺)
 「TOMONOURA de ART」の作品を展示。今年は山門にKAIさん(岡山市)の作品があります。
 この作品を見てどのようなことを感じますか?三百年前の本堂と、新しい作品を感じて下さい。

 ◆松江山宝泉院明圓寺(しょうこうざん ほうせんいん みょうえんじ)

 --- http://www.myoenji.com/ ---

 当山は浄土真宗の寺院で、真宗大谷派(東本願寺)の末寺です。正式には、松江山 宝泉院 明圓寺 といいます。
 鞆の浦の中心を抜け、石畳を上ると明圓寺はあります。
 現在は鞆の浦にありますが、天文年間(1532~1554年)山田村に創建されたと伝えられています。
 元は天台宗でしたが、2代目が山南 光照寺の明光上人に化導され、歴仁元年(1238年)に真宗に改宗しました。
 文明年代末期(1486年頃)山田村の豪族から日蓮宗に改宗を迫られましたが改宗せず、室町末期(1570~1580年)に鞆の浦に移転しました。
 石山合戦の時「進者往生極楽 退者無間地獄」と書かれた薄黄色の手織り木綿の旗を掲げ、石山本願寺に駆けつけました。その功績により本願寺12代教如上人から「松江山明圓寺」という寺号をいただきました。
 その後、鞆の地で多くの御門徒さんとともに長い時を歩んでまいりました。御念仏の道場として常に荘厳され、御同行の薫りのする場所へ是非お参りください。

 ・明圓寺の鐘楼

 明圓寺には江戸時代初め寛永21年(1644)に作られた鐘と珍しい袴型(はかまがた)の鐘楼(しょうろう)(鐘(かね)がつられている建物)があります。
 江戸初期に作られた鐘は、外国船の来船で騒がしくなった幕末と大東亜戦争の時に、その多くが供出されました。
 しかし、幸いにも明圓寺の鐘は御先祖方の御尽力で残りました。そのため私たちは江戸時代初めの音を今も聞くことができます。鐘をつきながら祖先の方々の思いを聞いてみたいと思います。
 また、この鐘は朝鮮鐘の形式も取り入れられているので貴重とされています。この鐘は除夜の鐘のとき皆さんも突くことができます。

 ・住職:松江長親(まつえ ながちか)

 昭和48年に鞆の地で生まれました。小学校4年生の冬に父が亡くなり、それから母と二人きりの生活。高校から京都に行き、25歳で住職になりました。まだまだ若いので元気に走りまわっています。
 現在、妻と長男・長女・母の5人家族です。

 ◆明圓寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12649/ ---

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。

 ・鞆の浦に根を張る、生きたお寺
 開祖親鸞聖人存命の頃から一貫して念仏の教えを説き、権力にも膝を屈さず、地域の門徒と共に歩んで来たこのお寺は、今も人々に教えを説き、悲喜を共にし、安心の源であり続けています。鞆の浦の諸寺の中で、最大の檀家数を持つとも言われる明圓寺。お墓の数も膨大で、明治時代に活躍し、フランス人ボクサーとの異種格闘戦でも勝利した力士「鞆の平」もこのお寺に眠っているとか。
 ◇海を臨む墓地に、今日も南無阿弥陀仏の名号が響く

 ・鞆の浦に二つだけ、江戸初期の梵鐘
 明圓寺の梵鐘は、鞆奉行萩野新右衛門らの寄進によって1644(寛永21)年に作られました。この時代に作られた鐘は、江戸末期と第二次大戦時の二度の金属供出でほとんどが失われ、鞆の浦でも残っているのはここと、阿彌陀寺の二箇所だけです。朝鮮鐘の形式が取り入れられた江戸初期の貴重な鐘。大晦日には除夜の鐘としてつくことができるそうです。
 ◇腰袴式の優美な鐘楼が、境内に気品を添えて―

 ◆明円寺(福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 明円寺(みょうえんじ)は、広島県福山市にある真宗大谷派の寺院。山号は松江山。本尊は阿弥陀如来。

 ・歴史
 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が始まりとされる。当初は天台宗であったが、暦仁元年(1238年)山南村(現・福山市沼隈町)光照寺の明光の導きで浄土真宗に改宗。文明年間、山田村領主から日蓮宗への改宗を迫られたが改宗を拒み、鞆の浦に移転した。石山合戦時は、10代住職長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、東本願寺設立にも尽力した。その功績により本願寺12代教如から「松江山明円寺」の寺号を賜った。

 …と、WEB上で検索しますと、こんな「明円寺」であります(^.-)☆
 「白象侍図」の制作者・KAIsanも検索しますと、

 ◆KAI:岡山市

 アーティスト名:KAI
 時代劇や歌舞伎、ブラックミュージックなどから影響を受けた作品を多く発表。展覧会だけでなく、ウォールアートの制作や、イベントポスターなどのイラストも手掛ける。
 ・経歴 -- <1994年>1994年生まれ 岡山市在住、<2003年~>活動開始 以来、毎年展覧会を開催‬

 …と、こんな記載がありましたネ。
 それでは、山門の作品を潜って、境内を拝見です(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(16)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
06-720-555

 阿弥陀寺の境内・庭園をノンビリと拝見しておりましたら、ニャンコガ…樹木の陰で昼寝でもしておりましたのかも…
 突然の来訪者のGONsanに、警戒しながら…振り返りながら…本堂方向に去って行きましたけど…
 どなたもおられません境内・庭園を一巡し退出しますと、近くのブロック塀に「明円寺 50M →」「医王寺 150M →」の案内表示が…そうですネ、次は「明円寺」を訪問し、その後で「医王寺」に向かってみます事に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(15)

01-720
02-720
03-720
04-720
04-721
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
02-720-555

 法宣寺の次は、「南禅坊」を訪問です(^.-)☆
 ここも、アート作品の展示はありませんので、本堂・山門を拝見です。

 ◆南禅坊本堂(なんぜんぼうほんどう)・南禅坊山門(なんぜんぼうさんもん)

 --- 登録有形文化財 平成26年(2014年)12月19日登録 ---

 南禅坊は浄土真宗本願寺派の寺院で、天正年間(1573~1591年)創建。当初は福禅寺の南隣にあったが、江戸時代中期(正徳六年・1716年)現在地に移転した。『福山志料』には延享五年(1748年)、朝鮮通信使(第10回)の学士・書記と福山藩の学者伊藤大佐が南禅坊で接会し、漢詩文を唱和したことが記されており、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われた。本堂は、文政五年(1822年)火災にあったが、万延元年(1860年)再建した。
 本堂は、内部を内陣(ないじん)・余間(よま)・外陣(げじん)に区分し、前面に吹き放ちの広縁(ひろえん)、三方に落縁(おちえん)をめぐらしている。要所に組物を多用し、豪華な彫刻を用いるなど、幕末以降に流行する装飾的な真宗本堂である。

 山門は、一間一戸の四脚門の上部に、方一間で入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の上層を増築し、鐘楼とする。木部には全体にベンガラが塗られ、上層正背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓(えんまど)がある。軒先には強い反りがあり、異国情緒を漂わせる。上層の懸魚に文化七年(1810年)の墨書があり、朝鮮通信使(第12回)の来朝予定に備えて増築され、現在の姿になったと考えられる。

 所在地:鞆町後地 南禅坊
 員 数:2棟
 構造・年代:
 <本堂> -- 木造平屋建、入母屋造、本瓦葺、一間向背を付している・<山門> -- 木造二階建、本瓦葺、一間一戸の四脚門の上部に、方一間で入母屋造本瓦葺の上層を増築、鐘楼門
 <本堂> -- 江戸末期、昭和40年・平成7年改修
 <山門> -- 江戸中期、文化7年(1810年)改修
 規模・法量:<本堂> -- 桁行14m、梁間17m・<山門> -- 桁行2.3m、梁間2.1m

 ◆広島県の文化財 -- 南禅坊山門

 ・【解説】

 一間一戸(いっけんいっこ)四脚門(しきゃくもん、よつあしもん)の上部に、一間四方で入母屋造本瓦葺の上層が増築され、鐘楼を吊る構造。※ 現在梵鐘は無い。
 福山藩の命令により安政5(1858)年に供出されたことが寺の文書『梵鐘一件記録』から分かっている。
 懸魚(げぎょ)に文化7(1810)年の墨書があることから、上層は1811年の第12回通信使を迎える予定で増築工事を行ったものと考えられている。
 木部には全体に弁柄が塗られ、上層正面及び背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓がある。隅棟(すみむね)の鬼瓦にそれぞれ異なる形態の猿が彫られているのも特徴的。
 軒先の強い反りなど随所に、異国情緒を漂わせ、朝鮮通信使寄港地である鞆の浦の情景を彩る。

 ◆南禅坊(なんぜんぼう)

 天正年間(1573~1592)に創建。江戸中期に現在地に移転。異国情緒を漂わせる鐘楼山門は、国の登録有形文化財です。本堂も国の登録有形文化財となっており、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われています。境内には、筝曲「春の海」で有名な宮城道雄の先祖墓があります。

 …と、WEB上で確認しますと、こんなお寺でありました。
 次に、お隣りの「阿彌陀寺(あみだいじ)」を訪問です。ここもまた、アート作品の展示はありませんようです。

 ◆阿彌陀寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12658/ ---

 1565(永禄8)年に創建された阿彌陀寺は、鞆の人たちからは「あみだいじ」と呼ばれ親しまれています。
 江戸時代の前~中期、10代目・雲洞上人の頃に中興を見ました。山門はとても立派で、鞆の浦の中でも随一。
 その山門の右の方に、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を合わせた鞆独特のお墓です。お大名でなければお墓が建てられなかった時代に、庶民がこれだけの供養塔を造るんですから、鞆商人の財力のすごさが窺い知れるというものですね。

 ・鞆の大仏、きらきらひかる
 本堂には、「鞆の大仏」と称される「丈六阿彌陀如来坐像」が鎮座しています。光背までの高さは、なんと約5メートル。
 中興第10世の雲洞上人が現(うつつ)に阿彌陀如来のお姿を拝み、その尊容を京都の仏師・安清に伝え、5年かけて完成させたものです。きらきらひかる、その威容、息を呑みます。
 ◇一流の名工の作、そこに漂う心地よい緊張

 ・鞆にもふたつだけ―江戸時代の梵鐘
 境内には釣鐘もあります。この梵鐘は、1652(慶安5)年に「有磯町奈良屋」によって寄進されたものです。
 江戸時代から残っている梵鐘は、鞆でもとても珍しく、ここ阿彌陀寺のほかには、明圓寺に残るばかり。緑青の深い風合いが、歴史の深さを雄弁に物語っています。
 ◇美しい釣鐘、どんな深い声を出してくれるのかな

 ◆阿弥陀寺

 --- 釈迦・弥陀を拝む鞆の大仏 ---

 阿弥陀寺がある鞆(とも)は瀬戸内山陽道の中央に位置し、古代から行き交う船の潮待ちの港として栄えてきた。寺社も多く、「鞆の浦古寺めぐり」があるほどで、港町と古都の魅力を兼ねそなえた町である。
 阿弥陀寺は永禄8年(1565)に開かれた古刹。寺に参ってまず驚かされるのが本尊の阿弥陀さまで「鞆の大仏」と呼ばれる丈6(約2.6メートル)の座像、元禄時代の作という。造像を発願した中興(ちゅうこう=寺を興隆したことに対して贈られる称号)雲洞上人は、多くの人々を救いたいと願っていたところ、現に阿弥陀さまが現れ、その姿をもとに仏師に願いこの像を作ったという。
 仏像には恵心僧都作の御首をいただき、生地は当時の高僧の袈裟に経文を書き記して着せたのちに黒漆を塗り、眉間の白亳には唐の鑑真和尚招来の仏舎利(お釈迦さまの遺骨)を、胸中に経文、胎内には当時の念仏講の過去帳と信者の手によって描かれた百万遍念仏図説が収められているという。
 それにより、この像を拝むことにより、釈迦、阿弥陀さま、そして経典までも1度に拝めるということで多く信者を集めている。また、以上のことを何も知らない外国人及び若者でも、接すれば美しい慈悲のお相に心うたれる仏様です。

 ◆阿彌陀寺(あみだいじ)

 永禄年間(1558~1570)の創建。本堂には「鞆の大仏」と称される阿弥陀如来坐像が鎮座しています。江戸時代から残る梵鐘もあります。山門の右の方には、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは鞆独特のお墓で、大名でないとお墓が建てられなかった時代の庶民のお墓です。

 ◆阿彌陀寺

 心光山阿彌陀寺。永禄年間(1558~1569年)の開基と伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目の雲洞和尚が時運を隆盛させた。それを伝える丈六、阿彌陀如来坐像「鞆の大仏」など目を見張る数々の寺宝がある。
 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 ・木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏)
 光背までの高さ約4m、雲洞住職の代の元禄16年(1703)に作られた丈六の大仏。
 江戸中期の都仏師による実に堂々とした優作で、これ程の大きさの仏像は地方においては極めて珍しく、鞆の経済力を如実に示している。

 ・鞆の津塔群
 江戸前期に鞆の商人が建立した鞆独特の大規模な石塔で町人階級のものとしては格段に立派なものである。
 この「鞆の津塔」が阿彌陀寺境内には、12基もまとまって現存し、当時の鞆の商人の隆盛振りを如実に示している。

 ・石造地蔵菩薩坐像 像高67cm 総高219.3cm
 延宝3年(1675)に、わざわざ遠方の名石工・肥前州小城郡の富永仁右衛門に製作を依頼したもの。
 鞆の商人が先祖の供養につくったもので、その豊かな経済力もみてとれる。木彫仏に迫る細密な表現で、また精神性の込もった近世日本で屈指の石仏に入ると思われる傑作である。

 …と、こんな「阿彌陀寺(あみだいじ)」であります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(14)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
04-720-555

 続いて、「遙かなるもの 素材:クスノキ」「大切なものはいつだって 素材:クスノキ・焼き黒色」「今ここにあるもの 素材:クスノキ・焼き黒色」…と、拝見です。
 そぅしていますと、3名ばかり女性のグループが来訪です。サッサと本堂に上がって来られましたので、この辺でGONsanは退散となりました。
 次の訪問は、アート作品の展示はありませんけど、静観寺のお隣りの「法宣寺」です。
 少し先に山門がありましたけど、少し手前から法宣寺へ…

 ◆法宣寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12650/ ---

 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後光厳天皇の信任も厚かった大覚大僧正がこの地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。

 ・治病除災に清正公参り
 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!

 ・清正公も唱えた「南無妙法蓮華経」
 この世は無常、だが―
 かつて法宣寺には国の天然記念物がありました。大覚大僧正お手植えと伝わる黒松の巨木です。その枝ぶりから「天蓋マツ」とも呼ばれ、鞆の浦の人々の誇りでしたが、残念ながら、1991年夏、六百余歳で枯死しました。支柱と切株だけが残った跡地は、無常の想いを呼び起こします。ただ不思議なのは、老松が枯れて以来、今まで影が薄かった隣の紅梅が生気を得て、最近では新しい花の名所になっていることです。往く者あらば来る者あり。春の境内でそんな感慨にひたるのも「あり」かもしれません。

 ・春になり雅に花をつける紅梅―、老松より生気を受け継いで

 ◆法宣寺(ほうせんじ)

 1358年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりで、西国法華引導最初の道場として、中国地方布教の拠点となりました。江戸時代には朝鮮通信使の宿泊所として利用され、江戸時代後期には加藤清正を祀る清正公堂が建立され、清正信仰の場でもありました。

 ◆法宣寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 法宣寺(ほうせんじ)は広島県福山市鞆町後地にある日蓮宗の仏教寺院。山号は大覚山。 国の天然記念物に指定されていた「天蓋松」があった寺として知られる。旧本山は、京都妙顕寺。
 創建は南北朝時代の1358年。開基は大覚僧正とされる。
 江戸時代は朝鮮通信使の宿泊所として利用された。江戸時代後期には加藤清正を祀る清正公堂が建立され、清正信仰の場であった。

 ・天蓋松
 開基である大覚僧正の手植えと伝わる推定樹齢630年の黒松で、国の天然記念物に指定されていたが、1991年に枯死した。幹の周囲は3.3m、枝張は30mに及んだ。

 ・仏像
 七面大明神像 - 江戸時代後期、木彫、像高53cm
 清正公大神祗坐像 - 総高14cm   
 清正公大神祗の腹こもり坐像 - 総高40cm

 …と、WEB上で検索しますと、こんなお寺でありました(^.-)☆
 境内には、こんな案内板が…

 ◇法宣寺の天蓋マツ

 --- 天然記念物 昭和19年11月7日指定 ---

 境内1面に枝葉を広げる黒松は「天蓋マツ」と呼ばれ国の天然記念物に指定されています。幹回り3.2m・高さ5.5m・枝張り東西19.3m・南北34.0mで枝葉の広がった総面積は約600㎡です。
 大覺山速心院法宣寺は、1358(延文3)年日蓮宗の高僧の大覺大僧正が、ここに法華堂を建立し布教したことに始まると伝えられています。鎌倉時代の法華経は、南北朝時代になって鞆の浦に伝わり、中国地方へ布教する拠点となりました。
 
 …と、こんな案内板の説明ですけど、肝心の「天蓋マツ」は、全国的に猛威をふるった松喰い虫の被害と老齢により、平成3年夏に枯死したようであります。
 それでは、先へ急ぎます事に。退散は、山門からとなりました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(13)

01-720
02-720
03-720
03-721
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
02-720-555

 本堂に展示のアート作品を暫し外から拝見後、また境内に展示されました作品を再度、鑑賞。そして、玄関内の作品を拝見です。
 この女性の像の作品のタイトルは、「『空と大地』三舛明子 素材:クスノキ・オイルステイン」と記載がありました。
 ふ~ん、「オイルステイン」とは何なんでしょう?
 WEB上で調べてみますと、こんな記載が…

 ◆オイルステインとは?
 オイルステインとは木材に染み込んで着色してくれる「ステイン塗料」の一種。名前通りオイルをベースに作られており、油性ならではのツヤ感や木目の輝きが人気です。
 ステイン塗料には水性のものもあり、匂いの薄さや後処理のしやすさで言えば水性ステインの方が取扱いやすいかもしれません。しかしオイルステインには水性のものにはない濡れたような深いツヤがあり、その高級感から木製家具などによく使用されます。人気のオスモカラーもオイルステインの一種です。

 そぅでしたか…DIYを楽しんでおられます方には、日常、当たり前に使用されていますものでしょうけど、塗料の一種とは…初めて知りました(^-^)
 玄関から、また、本堂に並べられましたアート作品を眺めておりましたら、「どぅぞ、上がって、ジックリ鑑賞下さい…」と、いつの間に現れましたのか、ご住職。
 お言葉に甘えて、上がらせて頂きます事に(^.-)☆

 三舛明子sanの作品が何点か展示されておりまして、タイトルに順番に眼を通して行きますと、「終わらない詩 素材:低温陶土」「空想の彼方にある風景 素材:低温粘土」「昼と夜 素材:クスノキ・焼き黒色」…と。
 タイトルとアート作品を対比しながら拝見のGONsanですけど、アーティストの皆様のタイトルは、どれも皆、難解で(^-^;
 GONsanなんぞは、分かったような顔をして鑑賞していますけど、何でこんなタイトルなんだろう?…と、意味不明。ちんぷんかんぷん(^-^;
 三舛明子sanの作品の多くは、『顎から上の頭像などで、見る人が作られていない部分を想像することにより、様々な印象をいだき易いように制作されています』ようですけど、凡人のGONsanには、これまた何を想像してイィものやら(^-^;
 とにかく、どれもこれも難解な作品なんではありますけど、単純に画像に納めながら拝見しますのは、大変楽しいものではありますネ(^.-)☆

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(12)

01-720
02-720
03-720
04-720
04-721
05-720
05-721
06-720
07-720
04-720-555

 静観寺の境内に足を踏み入れますと、まず眼に入りますのが、都築繪理菜sanのアート作品です。
 WEB上でお名前を検索してみましたら、こんな記載がありました。

 ◆都築繪理菜 -- 2021.09.01 --
 短大で日本画を専攻。卒業後は一般企業に就職し カメラマンやフラワーアレンジメントなどの仕事に従事。近年では 画家として立体作品を加えながら各地で展示会を開催している。

 …と、こんな簡単な記述が(^-^)
 境内に展示の作品を、暫し拝見となりました(^.-)☆
 本堂の方に向かいますと、玄関入り口の引き戸に『TOMONOURA de ART 三舛明子先生 彫刻作品堂内展示』の表示が…まずは、外から本堂内の作品を拝見となりました(^-^)
 三舛明子sanをWEB上で捜してみますと、

 ◆三桝明子

 多くの作品は顎から上の頭像などで、見る人が作られていない部分を想像することにより、様々な印象をいだき易いように制作されています。また作品の表情も、明確な喜怒哀楽を示すことはなく、曖昧さを残すことで、一層見る人の想像性を刺激しているようです。
 見る人の自由度が大きいということは、多くの想像に耐える器を持つ作品であることでもあります。それは、作家が人物のフォルムや内面性などを追い求める中で、ある一瞬ではない普遍的な造形を研ぎ澄ました結果、可能にした表現だと思います。

 ◇Profile

 高知市出身広島市在住
 1996年 -- 第4回ひろしまナイト美術大賞展 優秀賞受賞(’01,’02同)
 1997年 -- 第5回ひろしまナイト美術大賞展 大賞受賞
 1998年 -- 個展 (星ヶ岡アートヴィレッヂ・高知)
 1999年 -- 第51回広島県美術展彫塑部門 奨励賞受賞、第28回現代日本美術展立体部門 入選 (東京都美術館ほか)
 2000年 -- 第6回公募「広島の美術」「みんなが選ぶベスト賞」受賞、個展(はつかいち美術ギャラリー・広島)、『ハノーバーとヒロシマの美術交流展Ⅲ』(ギャラリーKUBUS・ドイツ)
 2001年 -- 第7回公募「広島の美術」優秀賞受賞
 2002年 -- 『広島の今・女性作家の鼓動』(東広島美術館・広島)
 2003年 -- 個展(ルネッサンス スクエア・兵庫)
 2004年 -- 『樹の声展』(海田町ふるさと館・広島)、第17回チャリティーのためのミニアチュール展(ルネッサンス スクエア~(現在))
 2006年 -- 『HUMAN CHESS』(ギャラリー椿GT2・東京)
 2008年 -- 八千代の丘美術館 第7期入館作家(広島)
 2009年 -- エマージング・ディレクターズ・アートフェア「ウルトラ002」(スパイラル・東京)
 2014年 -- 第10回現代作家展(ルネッサンス スクエア,2005年 第7回~)
 2015年 -- 『ART FACE』(アトラクト・ラルゴギャラリー・高知)
 2016年 -- 『ART FACE』(ラピスギャラリー・広島)、『ART FACE』(ここちComfort Gallery 器・広島)
 2017年 -- 個展(ルネッサンス スクエア・兵庫)、『ART FACE』(ギャラリー椿GT2・東京)
 2018年 -- 個展(ラピスギャラリー・広島)、第6回新県美展・招待出品(広島県立美術館・広島)、Art Wave Exhibition vol.51~創造のイノベーション~(レクトヴァーソギャラリー・東京)、『littie different life』個展(ここちComfort Gallery 器・広島)
 2019年 -- オフィス展示・3ヵ月 (株式会社システムアリカ・東京)、廿日市市市制施行30周年記念企画展出品((はつかいち美術ギャラリー・広島)、八千代の丘美術館TOKUBETU企画展【H・I棟】三桝明子展(八千代の丘美術館・広島)、鞆の浦deART 2019(Vol.8)出品(後山山荘,トモテツバス車内・広島)
 2020年 -- 第12回現代作家展(ルネッサンス スクエア)

 …と、こんなアーティストでありました(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(11)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
02-720-555

 顕政寺を出ますと、お隣りは「法昌山 妙蓮寺」ですネ。
 妙蓮寺sanでは、特にアート作品の展示もありませんから、本堂のみ拝観です(^-^)
 山門を入りますと、庭園の手入れをしておられます方が…きっと、この方がご住職sanなのでしょうけど、会釈して擦れ違いです(^-^)
 WEB上で検索しますと、こんな記載が…

 ◆広島県福山市鞆の浦 法昌山妙蓮寺 本堂

 --- https://omairi.club/spots/106437/point ---

 ご本尊は釈迦如来様で、鬼子母神と日像菩薩が両脇に祀られています。本堂内には立ち入ることが出来、書置き御首題が置かれています。
 この日は、御首題箱には1枚もなく、再訪して頂く事にしました。

 ◆散歩道:妙蓮寺(広島県福山市鞆町)

 --- https://kattinwalk.com/2020/11/12/s-tomo-myouren/ ---

 広島県福山市鞆町にある「法昌山 妙蓮寺(みょうれんじ)」です。JR福山駅から鞆港までバスで約30分。その後、各社は殆どが隣り合ってるような近さなので、所要時間は省略します。
 鞆の町の西側(山側)の南北に沿って寺院が集中している通りがあります。正式名が有るのか無いのかも分かりませんので、勝手に「古寺通り」と呼ばせて貰います。
 古寺通りで少しクランク状になってる辺り、静観寺の隣、ささやき橋に接する所に建っていました。道を挟んだ向が公園になっていました。
 当初予定に無かったのですが、現地で頂いたご朱印マップでご朱印があると分かったので、帰りに寄って見ました。
 山門入ってすぐ、御住職と思われる方が庭いじりをされていたので聞いてみたら、「本堂の前においてあるので、ご自由にどうぞ」との事でした。本堂の入口前に長テーブルが置かれていて左端の木箱の中にご朱印が入っていました。

 …と、こんなお寺でありました。
 そして、山門を出て静観寺に向かっておりますと、手前に「ささやき橋・山中鹿之助首塚」が…

 ◆ささやき橋

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12659/ ---

 静観寺のすぐ近くに、ささやかに盛り上がった小さな橋があります。ほんの1、2歩で渡れてしまう、橋ともつかない、橋—「ささやき橋」。ここに、悲恋の伝説があるのです。
 1500年以上も昔のこと。応神天皇の招きで、百済から王仁博士(わにはかせ)が、大陸の進んだ文化や技術を伝える渡来人の一行と共に来日してきました。さて、その一行が鞆の浦に寄港した時のことです。大和朝廷は、“接待官”として武内臣和多利(たけのうちのおみわたり)を、“官妓”として江の浦(えのうら)を派遣。この出逢いが、悲劇の始まりでした。
 ・今も昔も、忍び難きは恋心
 渡来人の接待役として派遣された和多利と江の浦でしたが、ふたりは役目を忘れるほどの恋に落ちました。当時の鞆の浦は“七島(ななしま)”と呼ばれる、橋で繋がれた中州でした。その橋のたもとで、夜ごと、ふたりは逢瀬を重ねます。
 しかし、間もなく上官の知るところとなり、結果、もはや抱き合えぬようにと後ろ手に縛られて、ふたりは海に沈められてしまったのです。
 ◇昔の鞆は7つの島から成っていたんですね
 ・ささやかれる、悲恋の伝説
 ふたりが海中に没して、いつしか、ひとつの噂が実しやかに流れるようになりました。橋のたもとで、毎夜、和多利と江の浦の“ささやき声”が聞こえるというのです。そして、誰ともなしに、この橋を「ささやき橋」と呼ぶようになりました。
 時は過ぎ、鞆の“七島”も地続きになりましたが、地元の人たちは、この悲恋を語り継ごうと、橋のあった場所に碑を建てました。それが現在の「ささやき橋」です。
 ◇今も昔も恋心は、変わらず…

 ◆ささやき橋

 --- 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/hirosima/sasayaki.html ---

 【ささやきばし】
 鞆の浦にある石畳の道の途中にある橋である。ただし2歩もあれば渡りきってしまうほどの短さであり、おそらく欄干がなければ全く道の一部と思って通り過ぎてしまうような橋である。
 第15代応神天皇の頃、百済より王仁博士が来日。一行を乗せた船が鞆の浦に到着した。朝廷はこの賓客をもてなすため、接待官として武内臣和多利、官妓として江の浦を当地に派遣した。ところが、この二人は仕事で何度も会ううちにすっかり恋仲となってしまったのである。橋のたもとで逢瀬を重ねる二人の仲はやがて上官の知るところとなり、密会を止めるように忠告された。しかしそれを止めることが出来なかった二人は罪を問われ、お互いが抱き合えないように後ろ手に縄で縛られると、そのまま海に沈められてしまったのである。
 ところが、和多利と江の浦が密会していた橋のたもとで、夜ごと二人がささやきあう声が聞こえるという噂が立った。そしてその橋はやがて“ささやき橋”と呼ばれるようにあったという。
 <用語解説>
 ・鞆の浦
 古代より潮待ちの港として栄える。『万葉集』にも鞆の浦を詠んだ歌が残されている。
 ・王仁
 『日本書紀』によると、応神天皇15年に百済より日本に来る。また『古事記』によると、『論語』と『千字文』を日本にもたらしたとされ、日本に漢字と儒教を持ち込んだ最初の人物であるとされる。

 ◆山中鹿之助首塚

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/13528/ ---

 山中鹿之助は、毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人。
 天正六(1578)年7月3日、尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、山中鹿之助は囚われの身になりました。7月17日の護送中、高梁川と成羽川の合流点にある「阿井の渡し」で殺害され、備中松山城に在陣していた毛利輝元は、そこで首実検をする。鹿之助の首は備中松山城から鞆城へ送られ、当時の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられています。鹿之助の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられており、現在でも静観寺では毎年7月17日に「首塚祭」の供養が行なわれている。

 ◆山中鹿之助首塚

 --- 観光スポット https://www.fukuyama-kanko.com/travel/tourist/detail.php?id=27 ---

 山中鹿之助は、毛利氏に滅ぼされた尼子十勇士の1人です。高梁川の阿井の渡で討たれた鹿之助の首は鞆城に送られ、鞆にいた室町幕府最後の将軍・足利義明が首実験したと伝えられています。

 ◆静観寺の前に立つ、山中鹿介の供養塔、と、ささやき橋

 --- http://www.sawasen.jp/tomonoura/annai/yamanaka/index.html ---

 戦国時代の武将・山中鹿介は尼子氏の再興に生涯をかけ、織田信長の援助をのもとに、毛利氏と対決していた。
 美作・備前の国境にある播磨の佐用郡上月城に、尼子勝久を将として、鹿介は立て籠もりました。山陰道から吉川元春、山陽道から小早川隆景の毛利氏の軍勢三万に取り囲まれ、秀吉の援軍は三木城攻撃で手いっぱいもあって、孤立無援の上月城は落城しました。1578(天正6)年7月3日、尼子勝久、氏久兄弟は切腹し、鹿介は囚われの身になりました。
 7月17日護送中、高梁川と成羽川の合流点にある「阿井の渡し」で殺害された。
 備中松山城に在陣していた毛利輝元は、そこで首実検をした。鹿介の首は備中松山城より鞆城へ送られ、その時、鞆にいた最後の将軍・足利義昭も首実検したと伝えられる。
 鹿介の首は、この首塚の近くに埋葬されたと伝えられる。今でも静観寺では毎年7月17日に「首塚祭」の供養が行なわれている。

 首塚の右手に見える小さな橋が「ささやき橋」。
 官妓「江の浦」と都から来た役人が恋に落ち、人目を忍んで愛をささやいたが、それが噂となり、罪を問われた悲恋の舞台だと言い伝えられてます。

 ◆山中鹿之助首塚(やまなかしかのすけくびづか)

 --- 幕末トラベラーズ https://www.japanserve.com/bakumatsu/spt-tomo-shikanosuke.html ---

 お家再興をめざす尼子家の遺臣・山中鹿之助は、毛利家打倒のため織田信長の支配下にはいって奮戦したが、播磨国上月城の戦いで毛利方に捕らえられ殺されてしまった。その首が鞆の浦に運ばれ、(前)将軍の足利義昭、毛利輝元がこれを確認(首実検)したあと、現地に葬られた。これが現在首塚として残っている。

 ・山中鹿之助首塚

 戦国時代、中国地方の覇権を目指した毛利家と尼子家の争いは、永禄9年(1566年)第二次月山富田城(がっさんとだじょう)の戦いで毛利側が勝利したことで決着がついた。しかし、尼子家の忠臣・山中鹿之助は何とか主家を再興させようと、織田信長に助力を依頼した。信長が毛利を滅ぼせば尼子家は復活できると考えたのだ。
 織田家中で中国戦線担当だった羽柴秀吉は、天正5年(1577年)に獲った播磨国上月城(こうづきじょう)の守備を山中鹿之助らにまかせた。ところが翌天正6年(1578年)に毛利軍は3万の兵力で上月城を攻囲、鹿之助の奮戦もむなしく上月城は落城。鹿之助は捕らえられ、護送される途中、備中国阿井の渡しで殺されてしまった。
 当時毛利家は対信長戦のため、本陣を鞆に置いていた。また信長に京都を追放された室町幕府15代将軍足利義昭も鞆にあって毛利家の庇護を受けていた。山中鹿之助の首は鞆の毛利本陣に送られ、足利義昭、毛利輝元の首実検を経て、静観寺住職により当地に葬られたのだった。
 ちなみに山中鹿之助は、正しくは「山中鹿介(本名・山中幸盛(ゆきもり))」。

 …と、こんな「ささやき橋」と「山中鹿之助首塚」であります。
 山中鹿之助首塚を通り過ぎますと、静観寺の山門が…

 ◆静観寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12660/ ---

 鞆の浦で最も古く、そして最も多難なお寺「静観寺」。創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7,000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 ところが、相次ぐ戦乱や火災によって、多くの文化財は焼失。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。
 ・松上げ地蔵尊、奇跡の脱出劇
 江戸中期、「静観寺」で大火災が発生しました。風強く、火の回りが早すぎて、時のご住職は身一つで避難。ああ、ご本尊を焼いてしまった…そう嘆きながら、ふと庭の松の木を見上げてみると、何とそこには、ご本尊である「お地蔵さん」が座っているではありませんか!そういう顛末から、ご本尊は「松上げ地蔵」と称され、現在でも守りの菩薩として信仰を集めているのです。
 ◇ご本尊の頬には、その時のヤケドの痕が残っているとか…
 ・鞆ねこも寄りつく、ご住職のお人柄
 この「静観寺」には、積もった歴史以外にも、注目ポイントがあります。それが、ご住職のざっくばらんな“鞆語り”。ご住職が洒脱な口調で、鞆の歴史を教えてくれるんです。そのご住職のお人柄は、人間だけでなく、ねこも呼びよせちゃう。にゃあと鳴いて、いつの間にか境内に居ついてしまった、このねこ君。きみにも、ここは居心地がいいんだね。
 ◇静観寺、鞆ねこもお気に入りの癒しのスポットです

 ◆静観寺

 --- https://nipponianippon.or.jp/story/scene1/1341.html ---

 ・住職に教わる歴史 静観寺の物語り

 かつて、商業港として華々しく栄えた港町。長い歴史を経てもなお、色濃く残る独自の文化がある。鞆でもっとも古い寺の住職に聞く、鞆の歴史の物語り。
 ただ、静謐、鞆の町の静かな古刹・静観寺の物語り。鞆湾から鞆町後地に向かって、北に伸びる一本の通り。
 この「寺町通り」と呼ばれる南北の筋には、その呼び名に相応しく、各宗派のお寺さんが軒を連ねている。
 その「寺町通り」のちょうど真ん中あたり、山中鹿之助の首塚を正面に見て、それから、左に視線を移す。すると、年を経た本瓦葺きの山門が、さわりと目に映じる。臨済宗・正覚山静観寺の表門。
 門をくぐると、空気の流れが、しんと変わった。時をぴたりと留めたかのような清閑な境内には、わずかな葉擦れの音があるばかりだった。ただ、静謐。
 ぼくは、陽の光に透けた桜若葉を眺めながら、古刹の佇まいを見せる本堂へと、足を進めた。

 ・ご住職の洒脱な「鞆の寺町語り」

 時代の趨勢と共に歩んだ、鞆の寺町の歴史。本堂に入ると、ご住職が迎えてくれた。その福相に浮かぶ笑顔は、とても大らかだ。居室に通してもらい、そこでお話を伺う。
 「ここの山門を境に雰囲気が、しんと変わったような気がしました。なんだか、境内の空気が止まっているみたいな。」
 ぼくがそう言うと、ご住職は放胆に答える。「この町自体が止まってるようなものだからね」あははと笑い、それから、ご住職の「鞆の寺町語り」が、はじまる。
 「この静観寺は鞆で一番古いお寺で、八〇六年に最澄が開基したと伝えられています。それまでの仏教ってのは、政治、つまりは貴族のものだったんだけど、最澄、空海あたりから、庶民にも拡まっていった。
 そうすると、この鞆の町にも、あれよあれよとお寺が増えてね、最盛期、江戸中期には四十数軒のお寺さんが建っていた」
 ぼくは、「この小さな町に?」と驚いて聞く。「そう、猫の額のような、この鞆の町の中に」
 ご住職は笑いながら続ける。「檀家のために建てられた寺っていうよりも、豪商や大名のマイテンプルっていうかね」
 マイテンプル?
 「昔の鞆港は、今で言うと横浜並みの港湾機能を持った港でね。補給もメンテナンスも出来た。で、船乗りが遊ぶ場所もいっぱいあると。鞆は、そういう商業港として、発展を遂げたところだった」
 ぼくは、多くの商人や船乗りたちが活発に行き交う、往時の鞆港の喧騒を思い浮かべた。
 「でも、当時はまだ、入船の詳細なタイムスケジュールなんてなかった時代で、『待ち船は、どうも桜の散るころには来そうだ』なんてね」
 ご住職はかんらと笑いながら、続ける。「しかも、支店や出張所なんて概念もなかった。そうすると、地方から鞆港に出張ってくる商人なんかは、今と違って車があるわけでもなし、だから、前もって宿に泊まり込んでなきゃしょうがないと」
 なるほど、だからマイテンプルなんだ。
 「そう。自分のお寺を建てとけば、そこを根城に出来る。あるいは西国あたりの大名が、参勤交代の中継基地として使う。また、朝鮮通信使が江戸に向かう途中に、大使はどこ、副使はどこ、通訳はどこ、って按配で役職ごとに分宿させたりね。そういうふうに、ホテルとか旅館みたいな機能が、その頃のお寺にはあったわけ」
 さすがは、当時の国際的商業都市だ。そういったお寺さんの宿泊サービスからは、からっとした開放的な合理精神が感じられる。
 「でも、明治に入って以降、海運から陸運へと物流のあり方が変わって、いっしょに商業の考え方も変わっていった。そうして、いわゆる豪商はみんなこけた。加えて、廃仏毀釈(きしゃく)。
 まあ、仏教弾圧って言うと少し語弊があるけれど、そういったことによって、鞆の寺院の数はいっぺんに減って、二十数軒に。後に、さらに統廃合されて、今残ってる寺は、十九軒」
 十九軒―減ったとはいえ、町の面積あたりの数を考えると、まだまだ十分に多い。
 「まったく、四十軒もお寺が建ってた頃は、庶民はどこに住んでたんだっていうね」
 ご住職は、そう言って、また気持ちよく笑った。

 それでは、静観寺の山門を潜ってみます事に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

今朝は、15名参加のグラウンドゴルフでした(^.-)☆

01-720
02-720
03-720

 もぅ10月の中旬に向かおうかと言いますのに、朝から、まだまだ暑さを感じます今朝のグラウンドゴルフ。
 15名の参加で、前半8ホール、後半8ホールを終えますと、結構な汗。
 本日の福山市の天気予報は、
 今日は雲が多くスッキリしない空。雨の降ることがあり、強雨や雷雨のおそれもあります。外出の際は雨具を持って。昼間は気温が高く、蒸し暑くなります。
 …と、こんな予報でありましたが、降雨こそありませんでしたけど、こんな感じの福山市でありました。
 前半のラウンドを終え、休憩の合間に中村グラウンドゴルフクラブの掲示板に眼を向けますと、11月に入り11/2(火)・11/9(火)と2回の大会が予定されていますようです。
 うん、うん、GONsanは、11/2(火)はダメですけど11/9(火)は参加出来そうであります。
 11月に入りますと、澄み切った青空の下、さすがに秋らしい気配が漂っているものと思いますけど、さて、どうなんでしょうねぇ~

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(10)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
10-720
03-720-555

 境内に足を踏み入れますと、3名の女性とご住職がお話し中でありました。ふくよかなお顔から、この方が副住職の鈴木省我sanなのでしょうネ(^.-)☆
 会釈しながらこの方々の傍らを通り抜け、本堂へ。
 本堂に上がり、振り返りますと、左右の壁面をスクリーン代わりに、2機のプロジェクターで映像作品を放映中でありました。本堂内では3名の方々が視聴しておられます。
 そんな中、GONsanは、映像アート作品よりも本堂内をジックリと拝観です(^.-)☆
 本堂内を一通り画像に納めまして、それでは映像作品を鑑賞しようと振り返りますと、いつの間にか副住職sanが…
 遅ればせながら、「本堂内を画像に撮らせて頂きました…」と許可を求めますと、「あぁ、イィですよ。ご自由に構いませんよ。でも、何処かでお会いした事がありますネ…」ですから、眼が点に(^-^;
 今まで、何度か鞆のお寺巡りをしておりますGONsanですけど、どちらのお寺でもご住職と会話しました事は一度もありませんから、どなたかと勘違いしておられますのかも…
 鈴木副住職sanも、暫し、記憶を呼び戻しておられますようなお顔で…
 そして、「確か、玉泉寺の難波前住職の通夜の場で…貴方は、玉泉寺の総代をしておられますか?…」ですから、もぅビックリ。
 難波前ご住職の通夜と言いますと、令和元年の11月でしたから、既に2年近くも昔の事に…
 この通夜にはGONsanも出掛けておりまして、最初、玉泉寺境内から通夜が始まりますのを待っておりましたけど、ズッと立ちっ放しもしんどいですし、本堂内に眼を向けますとイスの空席が目立ちましたから、何の躊躇も無く本堂へと上がり、正面に向かって左側端に座りましたような(^-^)
 そして、通夜が始まります前に、スマホを取りだしパチパチと…
 そぅそぅ、思い出しました。本堂の正面に総代・役員の皆様、右側にご親族関係者、左側に日蓮宗関係のご住職の皆様…と、ご列席でありました。
 そのような厳粛な環境下で、お構いなしにパチパチやっておりますGONsanでありました。
 勿論、本堂内の皆様凡てを洩れなく画像に(^.-)☆
 そぅですねぇ、ご列席のご住職の皆様にスマホを向けています時でしたか…お一人のご住職と、スマホのレンズを通してバッチリと視線がガッチンコ(^-^)
 あまりに眼光が鋭いこの方をズームアップで更に2枚ばかりパチリ。
 うん、うん、今から当時を思い出しますと、その方は、多分、鈴木副住職sanでしたのでしょうねぇ~ですから、GONsanを憶えておられましたのかも…
 GONsanにとりましては、鈴木副住職sanは大勢の中の単なるお一人でしたけど、あぁ言う場で特異な動きをしています者は、礼儀知らずの不心得者として強く印象に残られましたのでしょうねぇ~
 それにしましても、この日は、帽子もマスクも着用していますにも拘わらず、「確か、玉泉寺の難波前住職の通夜の場で…」ですから、本当に驚いてしまいました(^-^;
 「私は総代でも何でもなくて、単なる檀家の一員です。空席がありましたから、座っていました。写真撮りますのも容易ですし…」と弁解しますと、一層、GONsanの顔を、改めて、まじまじと見つめておられましたネ(^.-)☆
 その内、話題は映像アート作品に…
 「福山大の学生sanの作品ですけど、仲々素晴らしい出来栄えですよ…一見の価値ありですよ…」と、副住職の太鼓判。
 なら早速…と、スクリーンに眼を向けましたら、エンドロールの段階でありました。
 副住職sanはと眼を向けますと、既に他の方達と談笑中。これをイィ事にサッサと本堂から退散のGONsanなんでありました(^.-)☆
 山門に向かっておりまして眼に入りましたのが、「南無日親大聖人」の石碑でありました。

 ◆日親

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 日親(にっしん、応永14年9月13日(1407年10月14日) - 長享2年9月17日(1488年10月21日))は、室町時代の日蓮宗の僧である。埴谷重継の子。「不受不施義」を初めて唱えたとされている。久遠成院と号す。

 ・生涯
 上総国に生まれる。妙宣寺において父の実弟にあたる日英に学び、中山法華経寺に入門する。応永34年(1427年)に上洛し、鎌倉や京都など各地で布教活動を行う。永享5年(1433年)には中山門流の総導師として肥前国へ赴き、門徒を指導したものの、その厳しい折伏に対して反発を買い、同流から破門された。
 同9年(1437年)再び上洛し、本法寺を開く。日親は諸寺院を日蓮宗に改宗させ、6代将軍足利義教への説法の機会を得た際に他宗の喜捨を説いて建言を禁止された。永享12年(1440年)2月、禁に背いたために投獄され、本法寺は破却となる。拷問を受けた際に灼熱の鍋を被せられたまま説法を説いたという伝説が誕生し、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。翌嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で義教が殺されたことによって赦免され、本法寺を再建。寛正元年(1460年)肥前で布教したために再び本法寺を破却され、8代将軍足利義政からの上洛命令を受けた。同3年(1462年)11月、千葉元胤によって京都に護送され、細川持賢邸に禁錮となるが、翌年(1463年)赦されて、町衆の本阿弥清延の協力を得て本法寺を再々建する。長享2年(1488年)に入寂、享年82。

 ・日親と不受不施義
 日蓮の法華経に対する純粋な姿勢も、南北朝の戦乱や室町時代に入ると宗派が勢力を拡大していく過程の中で、他宗派との妥協や他宗派の信者からの施しを受けるなど、次第に変質していった。特に中山法華経寺に代表される中山門流は本来他宗派に対して比較的寛容であったとされ、同寺の寺宝である立正安国論(現在国宝とされている日蓮真蹟本)が建武3年(1336年)に律宗寺院であった鎌倉・普恩寺(現在は廃絶)に貸し与えられて書写されていた事が記録されている程である。このような状況の中で、日親は不受不施を主張した。

 ・日親の活動
 日親は京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。また、日親は法華経によって、当時の乱れた世の中を救うべく(同時代は正長の土一揆や後南朝勢力の反乱などの動乱が続いた)、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄されて、舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれる。

 …と、こんな日親上人であります。
 日蓮宗のお寺巡りをしておりますと、時たま、綿帽子のような白い綿を頭に被りました仏像を眼にしますけど、この仏像が「鍋かぶり上人」であります。
 顕政寺sanと、日親上人sanとの間に、どんな関わりがありますのか分かりませんけど、立派な「南無日親大聖人」の石碑が存在ですから、次回、再訪の機会がありましたら、お尋ねしてみます事に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(9)

01-720
02-720
03-720
04-720
04-721
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
04-720-555

 慈徳院とお別れしますと、次は、「鞆の津ミュージアム」に立ち寄りです。
 ここでは、外人sanが絵画の展示を…安国寺で貰いましたパンフレットを確認してみますと、「Tyler Stenlund」sanの絵画の展示でありました。
 まだ準備中のご様子でしたけど、「拝見して構いませんか?」と尋ねますと、「はい、いぃですよ、どぅぞ、どうぞ(^-^)」と流ちょうな日本語(^_^)v
 WEB上でお名前を検索してみますと、こんな方でありました(^.-)☆

 ◆Tyler Stenlund (タイラー・ステンランド)

 アメリカ人画家・彫刻家 2015年より日本在住、現在香川県直島で創作活動をしている。

 私の最近の作品は、緩やかな画面構成を生み出すためにオリジナルの素描のエネルギーを保存し、強烈な身振りの要素を用いようとしている。以前の作品では、宗教的モティーフのような明確な心象イメージを利用しながら、意識や異国趣味といったテーマを直接的な形で探求していた。
 しかし最近の私の作品は、より原始的なレベルでこの意図を実現しようとする。
 したがって、私は文化的な参照項を捨象し、画面構成を私の想像力を基礎とした要素へ還元することによって、より個人的なアートの創造しようと努めている。

 ・経歴
 1979年 -- カリフォルニア州サクラメント生まれ
 2003年 -- カリフォルニア州立大学チコ校でグラフィックデザインの学位を取得。
 2014年 -- Redwood Art Association New Year Exhibition、RAA Galleryカリフォルニア州 ユリイカ
 2014年 -- Primary Colors, RAA Galleryカリフォルニア州 ユリイカ
 2014年 -- Return, solo exhibitionカリフォルニア州 ユリイカ
 2014年 -- Redwood Art Association56th Spring Exhibition, RAA Galleryカリフォルニア州 ユリイカ
 2014年 -- Larotica 2014, Art Point Gallery 東京 日本
 2019年 -- 第8回モンカーダ国際芸術祭 下津井村/野崎官邸 、児島 日本
 2019年 -- Pedestals, solo exhibition, Tofu Gallery 直島 日本
 2021年 -- Island Voices, Art Island Center 直島 日本

 …と、こんなアーティストのようであります。
 それでは、沼名前神社を正面に進みながら、手前で左折し「顕政寺」に向かいます事に。

 ◆顕政寺

 鞆の浦の「寺町通り」に建つ日蓮宗のお寺、壽福山顕政寺。慶長年間(1596~1614年)の創建と伝えられています。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあったそうです。顕政寺では、住職オリジナルの観心行という修行が体験出来る。

 ◆修行を体験できる開かれた寺院

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/story/12347/ ---

 迎えるのは福々しい笑顔の副住職。鞆の浦の「寺町通り」に建つ日蓮宗のお寺、壽福山顕政寺(じゅふくざんけんしょうじ)。
 その顕政寺で「観心行」という修行を体験できると、噂で聞いた。いったいどんなものなのだろう?
 薄曇りの日の午後、顕政寺を訪れてみた。いきなり訪問して観心行を体験できるのだろうか…
 そう思いながら山門をくぐり、境内に足を踏み入れる。本堂をのぞいてみると、「こんにちは」と声を掛けられた。副住職の鈴木省我さんだった。
 突然の訪問者に驚くことなく、静かな笑みを浮かべている。観心行に興味があることを伝えると、本堂に招き入れてくれた。
 「観心行は、日蓮宗の修行なんですけど、うちでは私がオリジナルで作ったものをやっているんですよ。特に宣伝もしていないので、口コミで知った人だけが時々来られるんです」と鈴木さんはにこやかに話す。
 観心行は、文字通り「心を観る行」。
 日常の中で自分が行なった良いことや悪いことを思い出して、それらを見つめ直し、手放していく修行だそうだ。修行といっても10分程度のシンプルなもので、誰にでもできるらしい。
 たまたま出先から戻ったところだという鈴木さん。今ちょうど時間があるということで、観心行を体験させてもらえることになった。

 ◆壽福山 顕政寺(日蓮宗)

 --- http://risetu.net/03mati_tanken/21fukuyama/337/3379/3379-4385Akenseiji/3379-4385Akenseiji_1.html ---

 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614年)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成された。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた。と伝えられる。
 自分を見つめ直すことができる癒しのお寺として、「観心行」を行っています。観心行は、日蓮宗の修行ですけど、ここではオリジナルが行われています。特に宣伝もしていないので、観心行は、文字通り「心を観る行」。日常の中で自分が行なった良いことや悪いことを思い出し、それらを見つめ直し、手放していく修行。ここでは10分程度のシンプルなものでになっています。
 ここの観心行では、目を閉じて合掌をしがら、太鼓を叩きに合わせて、南無妙法蓮華経とお唱えながら、自分の心の中を見つめてます。
 様々な日々の出来事を思い出して、「あれは悪いことをしたなぁ」、「こんな良いことがあったなぁ」と思い出しながら、お題目をお唱えます。そうすることで自分自身がきれいになっていくことを感じてください。
 良い出来事は改めて感謝し、悪い出来事は反省する。そして、それらに固執することなく、手放していく。これは心に溜まった垢を洗い流すということ。心がきれいになれば、また新しいものが入ってくるようになります。

 …と、こんな「顕政寺」であります。
 ここでは、福山大学メディア・映像チームの映像が視聴出来ますようです(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(8)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
03-720-555

 正法寺とお別れしますと、次は「慈徳院」を訪問です(^.-)☆
 WEB上で「慈徳院」を検索してみますと、こんな記載が…

 ◆慈徳院

 臨済宗妙心寺派、山号は大悲山、院号は慈徳院。
 慶長年間、備後国を領有した福島正則によって、鞆の浦の寺々はほぼ一直線に結ばれ、寺町が形成されました。その寺町筋に位置するお寺のひとつが、この慈徳院です。福島正則が大檀越(だいだんおつ/「檀越」とは、仏教を後援する人のことをいいます。仏僧に帰依し、衣・食・住に関してのお布施をしたり、お寺の経営を支えたりします)となり、ご本尊・聖観世音菩薩像を寄進。そして、高僧・松雪得松禅師が開基したと伝えられています。その後、中興の祖・月湛(げったん)亮和尚がご本堂を再建し、現在でも、境内に美しい緑をたたえながら、鞆の浦の町に静かに佇んでいます。

 ・思わず息を飲む、山門の見事な意匠、鬼瓦
 慈徳院の山門は、寺伝によると昭和17年ごろに再建されたものだといいます。この山門は薬医門の形式をとっており、屋根には立派な鬼瓦が見られます。その山門をくぐると、ふわりとした空気が流れる静かなお庭が迎えてくれます。四季折々で表情を変えるお寺さんのお庭、鞆っこにとっての癒しの空間です。

 ・静かに佇む薬師堂、先進的な国際的商業港のなごりが、ふわり
 国際的な港町の先取の気風、宗派問わない薬師堂。
 境内には薬師堂がしんと佇んでいます。当時の芸備藩主・福島正則がキリスト教に対し寛容であり、また、国際的な商業港としての開放的な鞆の浦の気質も相まって、この薬師堂には、宗派を超えた信仰が集まっています。いかにも、鞆の浦らしい、大らかにして開明的な、信仰の“かたち”ですね。

 ◆慈徳院 御縁起

 慈徳院の開創由来は、口伝によると戦国時代に韓国の釜山港から伝来の薬師如来仏に帰依し信者となった数十人が小舎な薬師堂を建設し安置したことから始まりました。
 そのまとめ役となった梅雪得松禅師は、浄財を集め本堂庫裡を建立、時を同じく芸備藩主となられた福島正則公の帰依を受け、本尊として聖観世音菩薩像を安置、慶長六年(1601年)福島正則公を開基(大檀越)とし梅雪得松禅師を開山として創建されました。
 薬師如来仏は仏の悟りを感じ生まれつきの体の障害や様々な病気を治すとされ、慈徳院の本尊である聖観世音菩薩像は、苦難除去、病気平癒、厄除け、極楽往生、現世利益など幅広いご利益があると伝えられています。

 --- 慈徳寺公式ホームページより ---

 ◆臨済宗 慈徳院

 大悲山慈徳院。慶長6年(1602)、福島正則を大檀越として松雪得松が開山すると伝えられる。
 その芸備藩主の福島正則は、キリシタンに対して友好的であり、妻子は洗礼を受けたと言われる。
 海駅であった鞆には、そうした藩主の中でキリシタン文化が広まった。元禄3年(1690)の文書には「備後国沼隈郡鞆商売人切支丹宗信次女本人…旦那寺同所禅宗慈徳院ニ而土葬ニ取置…」『芸備キリシタン史料』とあり、慈徳院とキリシタンの関係は深かったのである。
 こうした新しい文化、宗教を受容したのが港町鞆の特徴の一つである。
 境内には、薬師堂があり、宗派を問わない信者がある。現在は京都・妙心寺派に属する。

 …と、こんなお寺のようであります(^_^)v
 早速、中に入ってみます。ここには、片岡幸夫sanの作品が(^-^)

 作品のタイトルは『たたずむ』(素材:万成石)で、片岡幸夫sanのFacebookには、こんな自己紹介が…

 ◆片岡幸夫

 --- https://www.facebook.com/dandy.ishiya1027/ ---

 ・自己紹介
 児島高校 美術教師、出身校:東京造形大学 彫刻科、岡山大安寺高校に在学していました

 本業は、高校の先生なんですねぇ~

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(7)

01-720
02-720
03-720
03-721
04-720
05-720
06-720
07-720
02-720-555

 何度か訪れています正法寺で見慣れた景観ではありますけど、今回もまた境内巡りを(^-^)
 頬寄せ合ったり、万歳したり、ほんとうに愛嬌がありますお地蔵さんであります(^.-)☆

 ◆ハナズオウ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ハナズオウ(花蘇芳、Cercis chinensis)は中国原産のマメ科ジャケツイバラ亜科の落葉低木で、春に咲く花が美しいためよく栽培される。蘇芳花(スオウバナ)とも呼ぶ。
 高さは2-3mになり、葉はハート形でつやがあり、葉柄の両端は少し膨らむ。早春に枝に花芽を多数つけ、3-4月頃葉に先立って開花する。花には花柄がなく、枝から直接に花がついている。花は紅色から赤紫(白花品種もある)で長さ1cmほどの蝶形花。開花後、長さ数cmの豆果をつけ、秋から冬に黒褐色に熟す。花蘇芳の名は、花弁の色がスオウ(蘇芳)で染めた色に似ているため。

 ・ハナズオウ属
 ハナズオウ属は北半球温帯に数種が分布する。地中海付近原産のセイヨウハナズオウ(C. siliquastrum)は落葉高木で高さ10mほどになり、イスカリオテのユダがこの木で首を吊ったという伝説からユダの木とも呼ばれる。このほかアメリカハナズオウ(C. canadensis)などが栽培される。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(6)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
03-720-555

 山門横には、『のぼるばかりの 登山なし いかに上手に 降りていくか』の書が…どなたが書かれましたのでしょうネ(^-^)
 境内に入りますと、小林照尚sanのアート作品『SHI・RU・SHI』(素材:万成石)が、まず眼に入ります。
 広島県のお生まれで岡山県在住のアーテイストのようであります(^.-)☆

 ◆経歴

 -- 作品出品・受賞 --
 1981年 日展 入選(~83) 東京都立美術館
 1984年 JAPAN牛窓芸術祭実験彫刻展 岡山県牛窓町
 1986年 岡山県現代彫刻選抜展 岡山県総合文化センター
 1987年 汎瀬戸内現代美術展(以後89,91,93,95) 岡山県総合文化センター
 1990年 現代日本木刻フェスティバル入選(以後92) 岐阜県関市、「岡山の美術・現代作家の眼」展 岡山県総合文化センター
 1991年 足立区野外彫刻コンクール入賞 東京都足立区、ふくやまアートプロジェクト具象彫刻展 福山・ふくやま美術館
 1993年 第7回神戸具象彫刻展で読売賞,神戸市民賞 神戸市、'93日向現代彫刻展で日向市民大賞('94も出品) 宮崎県日向市
 1994年 新潟市野外彫刻展 入選 新潟市、彫刻公募ln能生 入選 新潟県能生町
 1996年 第8回神戸具象彫刻展 佳作賞 神戸市
 1997年 岡山市文化奨励賞 岡山市
 1998年 仙台市彫刻のあるまちづくり事業 第2期 第9作品制作 仙台市泉区

 ◆万成石

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 万成石(まんなりいし)とは、岡山県岡山市北区の万成または矢坂地域から産出される角閃石黒雲母花崗岩である。
 日本の銘石のひとつとして東日本の本小松石、西日本の庵治石と共にブランド化された万成石は、桜色の美しさから、昔も今も多くの人々に愛され、近年も需要は非常に高い国産の石材である。

 ・特徴
 淡紅色のカリ長石、白色の斜長石や石英、黒色の黒雲母等で構成された、完晶質・中粒の花崗岩である。
 万成石の特徴は、「桜御影」と呼ばれるだけあって、桜色がかった色をしている。日本で桜御影というと、第一にこの万成石の名が挙げられる。一見、桜色という色が柔らかそうな石のイメージだが、実際は国内の石材の中でもトップクラスの硬さを持つ石である。
 圧縮強度 - 15,000N/cm2
 比重 - 2.61g/cm3
 吸水率 - 0.17%
 その桜色がかった優美な石目の万成石は、石原裕次郎、横山やすし、朝倉文夫、イサム・ノグチなどの著名人の墓に使われている。歴史上の人物・偉人の像の台座や、古くから親しまれている建築の建材としても、これまで様々な使われており、永い時を経ても変わらず、風化に強く、気品あふれ、高級感を生み出す石材として、ブランド化されている。
 万成石の山は、ひとつひとつの玉石の積み重なった山である。大きな物では、2,000トン以上の大きな玉石もあり、様々な需要に応えられ、また、長期に渡る安定供給の歴史、見通しがついている。

 ・歴史と現状
 万成石の歴史は、天保年間(1830年 - 1843年)に自家用石材のみの採石として始まったとされている。商業採石が本格化したのは、1888年(明治21年)光田石材によるものという。昭和末期から平成初期にかけては採石業者が9社11丁場存在したものの、現在も採石している業者は有限会社武田石材と有限会社浮田石材の2社(2丁場)のみとなっている。
 採掘量は以前と変わらず、年間20,000才以上も容易に採掘・出荷でき、採掘元のひとつである武田石材では、2010年4月に8m3の石材や挽材・4尺角以上・10尺以上の長尺物と大材も採れ、安定した供給量が見込めるとしている。

 正法寺のお寺には、ご住職が各地を回って集められた個性あふれる可愛いお地蔵さんが、たくさん並べられていますので、「これもアート作品?」…と、多少の戸惑いもありましたネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(5)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
09-720
04-720-555

 安国寺の庭園を充分拝見しましたので、それでは本来の目的でありますアート作品を鑑賞です。
 彫刻のタイトルは『種』、素材は鉄のようですネ。
 んっ!?…アーティストのお名前は「大前和之」sanで、このお名前に、一瞬、眼が止まってしまいましたネ。大前和之sanのお名前で、まずGONsanの頭に浮かびますのがプロゴルファーの大前和之sanなんです。
 ゴルファーとしてのみでなくアーティストとしてもご活躍なんだろうか?…との想いが脳裏をよぎりましたけど、同姓同名なのかも…との想いも。
 早速、WEB上でお名前を検索してみますと、うん、うん、やはり同姓同名でありました。倉敷市ご出身のアーティストでありました(^.-)☆
 それではこの辺で安国寺とお別れし、次に、「臨済宗妙心寺派 正法寺」に向かいますことに(^-^)//"

 ◆正法寺(しょうぼうじ)について

 --- http://www.shoubouji.net/about.html ---

 ・創建から四百有余年 鞆の町とともに歩んだお寺の歴史

 正法寺(しょうぼうじ)は広島県福山市鞆の浦にある臨済宗妙心寺派のお寺です。
 当寺は慶長三年(1598年)京都・臨済宗東福寺派の守意を開基とし、元和九年(1623年)深溪和尚(しんけいおしょう)により妙心寺の末寺として再興されました。
 深溪和尚は布教とともに庭造りにも熱心で、奇木や珍石を多く集めて庭に数奇を凝らしたといわれ、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用されました。
 創建から400年が経った現在においては、枯山水の中に数々のお地蔵様が佇み、境内のお堂には鞆町の多くの信者から寄進いただいた十六羅漢像、そして堂内鬼門には毘沙門天を安置し、鞆の町において心の癒やし場として親しまれております。

 ・正法寺こぼれ話①

 当寺の北隣に「安国寺」という1273年から続くお寺があります。当寺創建時にその安国寺の住持を務めていたのは安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)という人物でした。
 恵瓊は戦国時代から安土桃山時代にかけての人物で、京都の東福寺と更には安芸と鞆の両安国寺の住持を兼務する臨済宗の僧でありながら、毛利氏三代(毛利元就・隆元・輝元)に仕えた武将としても名を馳せました。
 更には豊臣秀吉にも重用され大変な実力者となりましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に与し敗北。後に捕まり死罪となってしまいました。
 それにより安国寺は衰退。東福寺の力が薄れた安国寺が江戸初期に京都妙心寺の末寺となったことから、安国寺と関わりが深かった当寺もそれと同じ道をたどり、東福寺派から妙心寺派へと改まったものと考えられます。

 ・正法寺こぼれ話②

 当寺を再建した深溪和尚は庭造りに大変熱心だったと伝わっていますが、400年の時を経た現在、和尚の庭がどのようなものであったのか、残念ながら見ることはできません。
 ですが、ある僧が和尚の庭を眺めた折に遺した一句からその姿を窺い知ることができます。

 「ひとやあらぬ花はむかしの作庭」
 (直訳:この庭を作られた風流な方は既に故人と聞いているが、きれいに咲いている花々は故人にかかわりなく競い咲いているようだ)
 天和元年(1681年)「あくた川のまき」より

 この句は和尚が当寺の住持となってから60年程後に詠まれたものです。庭の数寄に感じ入り、庭を作った人への追憶、そして人間の儚さが秘められたこの一句から、和尚の庭は花が咲き誇り、思わず発句したくなるような素晴らしいものであったことが推察されます。

 ◆正法寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12663/ ---

 1598(慶長3)年に創建された臨済宗の「正法寺」。京都の東福寺派・守意を開祖とした400年の長い歴史を持つお寺で、江戸時代には朝鮮通信使の常宿としても利用された名刹です。境内のお堂には、鞆町の信者により寄進された十六羅漢像が安置されていますが、実はもうひとつ、隠された十六羅漢があるのです。それが、奥座敷にある十六羅漢の屏風絵です。この水墨画は、鞆の絵師・門田勝人さんの筆によるもの。ふたつの十六羅漢、ぜひ鑑賞したいものです。また、お寺の鬼門の北方には、毘沙門天も安置されています。

 ・愛嬌あるお地蔵さまの居るお庭
 正法寺のお寺には、個性あふれる可愛いお地蔵さんが、たくさん並べられています。頬寄せ合ったり、万歳したり、ほんとうに愛嬌があります。ご住職が各地を回って集められたとのこと。
 枯山水の閑雅な庭に、水琴窟の音がカララララ…と鳴り響きます。
 可愛らしい表情のお地蔵さん - 見ていて飽きません。

 ・願いが叶えば、思うつぼ
 お寺の玄関前には壺があります。その名も「思うつぼ」!この中には、「多羅葉(たらよう)」という葉っぱが入っています。葉の表面を棒でなぞると文字が刻みつけられるという、特殊な葉っぱです。
 昔、紙と筆の代わりに使われたもので、これが“葉書(はがき)”の語源だという話。願いを書いて壺に入れると、叶うって?それじゃあ、試してみようか!
 ご住職の遊び心溢れる「思うつぼ」、そのネーミングに思わずにんまり。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(4)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
03-720-555

 ◆楷の木

 中国山東省済寧曲阜にある孔子の墓所「孔林」には弟子の子貢が植えた「子貢手植の楷」の子孫が今も美しい姿をとどめている。
 日本へは大正4年、白澤保美博士が初めて孔林から種子を持ち帰り、育てた苗を各地の孔子廟や儒学に関わりの深い場所に配布した。その中の2株が、岡山県閑谷学校で今も見事な紅葉を見せている。
 しかし、楷は雌雄異株のため日本で自然に殖えることはなかったが、昭和38年に、朝比奈貞一博士が人工交配に成功し、多くの種子が得られるようになった。
 平成に入っても孔林の楷は各地で育てられ、ここに植えられている2本の楷も足利市から贈られたものである。
 足利市の本貫地である栃木県足利市には足利学校があり、そこに大正世代の楷の木が植えられている。鞆の安国寺は、足利尊氏が諸国に置いた安国寺の一つで、足利の縁でこの地に楷の木を植えることにした。

 --- 福山市教育委員会 ---

 ◆県史蹟 安國寺本堂跡

 ・創建の由来

 瑞雲山安國寺は(臨済禅宗)暦応2年(西暦1339年)法燈國師の法孫愚谷尚が足利尊氏(鎌倉時代)の命に応じて以前の金宝寺を安國寺と改名して開創されました。
 一時地方宗教界の権威を握り末寺九ヶ寺寺領境内頗る広かりしが足利氏失すると共に漸く衰頽し殿字荒廃せしを一時恵瓊長老が京都南禅寺より住し(天正元年)(1572年)毛利輝元を大檀越として再営に着し釈迦堂及び庭園が再興されしが恵瓊長老京にて処刑され徳川の世に移るや又々荒廃せり其の後寛文の初め仁山和尚再興もあり又万國和尚松永承天寺より移住し領内六郡に石五分の化を課し本山に摸せる方丈の本堂を再建せりと云う。広く廻廊になり庭園を眺めらるゝ本堂は近在に無き素晴らしき本堂であったろうと想像されます。
 其の堂宇庭園も明治大正頃には無檀家故に住する者も無く庭は土砂に埋り堂宇荒廃し大正9年11月30日雨宿りの浮浪者が火を失して蒼古七百年来の仏像法具遂に灰となりかろうじて隣寺の和尚法燈國師の像を持ち出されしと云われています。
 現在は境内地と共に県史蹟として保存されております。-- 山主日 --

 ◆安国寺庭園

 --- 県史跡 昭和30年1月31日指定 ---

 この庭園は枯山水式庭園で、白砂や岩石で滝や流水を表し、室町末期の作庭と推定されています。三途の川には石橋がかかり、蓬来山には岩石で仏様を表し、蓬来式庭園ともいいます。中央部の鶴島にはソテツを配し、亀島には松を植え、鶴亀式庭園ともいいます。鶴亀式庭園は戦国時代に流行し、武将は自分たちや主家の繁栄を願い、作庭しました。そして石橋の矢穴や長さ高さが桃山期の手法で1599年(慶長4年)安国寺恵瓊が改造したといわれています。

 ◆安国寺(あんこくじ)のソテツ

 --- 県指定天然記念物 昭和36年(1961年)4月18日指定 ---

 ソテツは九州南部から琉球列島に分布する常緑の裸子植物であるが、関東以西の各地で植栽され巨大な株に生長している名木・大木も少なくない。
 安国寺のソテツは安国寺釈迦堂(重文)の背後にある枯山水の庭園内にあり、2株となっている。根廻りは5.65mと5.45m、樹高約9mで、県内有数の大木で庭に風情をそえていたが、白蟻と台風の被害を受けて倒れ、現在その根株から新しい葉茎が伸び、昔日の面影をわずかにとどめている。

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(3)

01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
07-720
08-720
01-720-555

 眼に入りますモノ凡てを順番に画像に納めていましたら、こんな案内板がありましたネ。

 ◆木造阿弥陀三尊像の拝観について

 木造阿弥陀如来像及び両脇侍像は現在保存・修理のため、下記の期間は当該仏像の拝観をすることができません。
 ご拝観を予定されていた皆様にはご不便をお掛け致しますが、文化財を後世に伝えるための修理ですので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。

 <保存・修理期間>
 2020.06 ← 両脇侍像(修理) → 2021.03 ← 阿弥陀如来像及び光背(修理) → 2022.03

 事業名:重要文化財「木造阿弥陀如来像及両脇侍像、木造法燈国師坐像」保存修理事業

 --- 宗教法人 安國寺 ---

 ◆国重文 木造阿弥陀如来および両脇侍立像 -- 鎌倉時代 --

 鎌倉時代に流行したいわゆる善光寺如来。この種木造としては日本一最大なものである。一光三尊の巨大な船形光背(高さ3.13m)をもち、本尊の高さ1.7m、脇侍1.3mの等身像である。寄木造りで胎内に銘文をもち、文永11年(1270)金宝寺の尊像として勧進され、胎内納入品として経巻、念仏記、勧進帖、願文、袈裟(けさ)、横笛、短刀、漆塗箱、数珠など12件20点が存在し、文永11年3月の銘記などがあり、重文に指定されている。

 ◆国重文 木造法燈国師坐像 -- 鎌倉時代 --

 法燈国師は安国寺の創建者と伝える愚谷和尚の師で、開山とされている。この像は国師69歳の寿像で内部に水晶五輪塔と法燈国師の建治元年(1275年)12月18日付の文書と寛文4年の修理記が存在した。

 「← 史跡庭園」の案内表示に従って、庭園に向かってみます事に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)
QRコード
QRコード
ジャンル(絵日記)
日常生活を通じて眼にしたこと、感じたこと、出掛けた先の景観…等を、備忘録代わりに絵日記として綴っております(^-^)/"
ギャラリー
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
  • 10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(7)
  • 10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(7)
  • 10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(7)
  • 10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(7)
プロフィール

 ・名前 GONsan
 ・年齢 大人
 ・性別 男子
 ・地域 広島県福山市
 ・星座 牡牛座


GONsan's ホームページ 「日本全国通過旅」


Since '00/04/19  ブログパーツUL5




GONsanの「気まぐれ独り言」 - にほんブログ村

↓ 何となく笑えます(^.-)☆








↓ 落書きですけど、お上手ですネ(^_^)v









↓ 今は亡きGON子です



  • ライブドアブログ