GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

福山市及び周辺のイベント

友人が、本日開催の〝時代行列&福山とんど祭り〟の画像を届けてくれました(^.-)☆

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 本日は、〝時代行列〟〝福山とんど祭り〟の開催で、友人も出掛けられましたようですネ。
 夕食を終えた頃、LINEへの画像送信に気付きましたけど、こんな画像が届いておりました。早速、今夜の絵日記の話題に頂きです(^-^)/
 これは、久松通りで撮られましたのでしょうねぇ~
 GONsanも出掛けておりまして、久松通りでしたら、この方々の後方辺りを付いて歩いておりましたかも…
 友人がズッとこの場所で撮っておられましたら、ひょっとしたら擦れ違っていましたのかも(^-^)
 ただ、GONsanは、カメラを構えておられます方々の前を通り抜けますのは気が引けますから、大概、そぅした方々の後方を通り抜けておりました。ですから、お互い気付きませんでしたのかも…
 もし、前を通り過ぎていましたら、お互い〝やぁ(^-^)/〟と声を掛けていましたのかも分かりませんねぇ~
 GONsanは、ゼントルマンだからして、カメラの前を通り抜けますのは、とてもとても(^-^)
 この日の様子は、GONsanも、結構、画像に納めましたけど、また後日、この絵日記に綴って行きたいと思います(^-^)//"

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ふ~ん、年が明けて、1/9(月)は〝時代行列・福山とんど祭り〟の開催ですか(^.-)☆

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 本日、福山市からLINEで、1/9(月)のイベントのご案内が(^.-)☆

 【福山城400年博フィナーレを一緒に見届けよう】
 1/9(月)は時代行列・福山とんど祭り
 水野勝成などゆかりの先人の甲冑や着物を着て、当時を再現した時代行列と福山とんどが城下町を練り歩きます。
 ぜひ沿道でご覧ください。
 ※ 開催に伴い交通規制を行います。規制時間・場所は画像をご確認ください。

 福山市のホームページで詳細を確認してみますと、

 ◆【2023/1/9開催】まるでタイムスリップ!“福山城築城400年記念時代行列・福山とんど祭り”

 (時代行列)
 福山城築城400年にあたり、記念事業、福山城400年博のフィナーレとして福山城にゆかりのある城主やゆかりの先人の時代行列を当時の衣装で再現し、福山のまちを練り歩きます。

 (福山とんど祭り)
 長い竹を円錐型などに組み立て、そこで正月飾りや書初めなどを焼くことで無病息災などを願うとんど。焼いている時に竹がはじける音からこの名が付いたとか。福山では福山城築城を祝い、竹のてっぺんに豪華な飾りを付けたとんどを担いで城下を練り歩いたのが始まりといわれています。とんどの点火式は迫力満点!色々な意匠を凝らした飾り付けをしたとんどが連なって、町中をとんど音頭を歌いながら練り歩く行進も計画中。

 【見どころ】
 江戸時代、とんどを担ぎながら町中を練り歩く福山とんどは勇壮かつ華やかで「日本一のとんど」と言われました。勝成公は特に吉津町の鶴亀とんど、上魚屋町の懸け鯛、笠岡町の諌鼓鶏、船町の宝船、下魚屋町の三方に伊勢海老という5つの町の飾りを褒めたので、以来、これらの町は同じ意匠を400年間作り続けています。

 このイベントのチラシはこちら
 概要
 日時 -- 2023年01月09日(月) 13:00 ~15:00
 場所 -- 中央公園~ひさまつどおり~宮通り~JOYふなまち~本通船町~本通~大黒町~城見通り~福山駅北口スクエア
 住所 -- 広島県福山市丸之内1丁目8 Google Map
 問い合わせ -- 福山城築城400年記念・時代行列事務局(株式会社夢絆社中内)084-944-5517

 【概要について】
 《福山城築城400 年記念 時代行列・福山とんど祭り》
 開催日時:2023 年(令和 5 年)1 月 9 日(月・祝)
 出発 13:00 到着 14:40
 行列コース:〔出発〕中央公園~ひさまつどおり~宮通り~JOYふなまち~本通船町~本通~大黒町~城見通り~〔到着〕福山駅北口スクエア(予定)
 練り歩き距離:約 1.8km
 ※ 雨天中止。中止の場合は当日7時に当サイトで発表します。

 《通行規制時間について》
 ①中央公園~ひさまつ通り 12:30~14:00
 ②ひさまつ通り~宮通り 13:00~14:30(※ひさまつ通りのみ商店街通常規制)
 ③JOYふなまち 10:00~04:00(※商店街通常規制時間)
 ④本通り 10:00~20:00(※商店街通常規制時間)
 ⑤大黒町 13:30~15:00
 ⑥城見通り 13:30~15:15
 ⑦福山城南側市道 14:00~16:30
 ※ ひさまつ通り・JOYふなまち・本通りは商店街既存規制で対応します
 ※ 行列が通ったら規制を解除します
 ※ 行事の進行上、通行規制時間を変更する場合があります
 ※ 雨天中止の場合は、通行規制は実施されません

 …と、こんな開催内容のようであります。
 賑やかそうで楽しそうですから、是非、当日は出掛けて楽しみたいですネ(^.-)☆
 降雨でありません事を祈りたいと思います(^-^)//"

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12/15(木)は、中村老人クラブの〝秋の研修会〟開催でした(^.-)☆

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 依然としてコロナ禍での行事ですけど、12/15(木)は、我が町内老人クラブの〝秋の研修会〟開催でありました(^.-)☆
 今回の講師は、3~4年前にもお願いしました、法宣寺(福山市鞆町)副住職sanによる『お坊さん落語』でありました(^-^)
 GONsanは、今回が初めての拝聴となりましたけど、我が老人会を始め水呑交流館では、何度か講師をお願いしております法宣寺副住職sanであります。
 定刻、A.M.10:00に老人会会長sanのご挨拶で、研修会スタートとなりました。
 法宣寺副住職sanの「お坊さん落語」につきましては、4年ばかり前に崇興寺ご住職の慶樹チャンがWEB上に綴っておられますので、これを転載で、本日の雰囲気をお伝えしたいと思います(^-^)/

 ◆お坊さん落語~法宣寺堤亭~

 --- 2018-03-05 18:18:27 https://ameblo.jp/soukouji/entry-12357831601.html ---

 広島県福山市のお寺・崇興寺(そうこうじ)の住職 枝廣慶樹です。
 今日は久しぶりに雨が降りましたね。自転車で出かけた私はびしょぬれになってしまいました(^^;
 ということで、今日は自転車で外出して「お坊さん落語」を楽しんで来ました。
 というのも、御門徒さんが自宅ガレージを改築して月一でサロンをしておられ、地域の方の憩いの場になっているんですが、
 そこに、この度は、お坊さんで落語をされる面白い方が来られるという情報をゲットしまして、これは行かねば!と、と行ってきた次第です。
 落語をなさるのは、鞆町法宣寺副住職の堤さん!
 なんとまだ29歳という若さ!私よりも三歳も若いです。
 芸名は、法宣寺堤亭とのこと(笑)
 落語の前に、自ら出囃子の三味線を演奏され高座に座られました。
 そこからは、怒涛の笑い笑い笑い!集まった30人のオーディエンスが大笑いです。凄いの一言。
 もともと、絵本の読み聞かせボランティアをなさっているようで、そこから派生して落語をなさるようになったそうです。努力の人ですね。
 「せっかくだから崇興寺のご住職も漫談しなさい!」とか無茶ぶりされましたが、丁重にお断りしました笑
 こうしてお坊さんが、どんどん外で活躍することは喜ばしいですね。
 私も真似はできませんが、頑張っていきたいと思いました。
 堤副住職とも何かしらで、コラボレーションできたらいいですね!
 というか、こんなサロンを毎月自宅でやってる御門徒のバイタリティーが凄いです。
 コーヒーと手作りケーキを振る舞って、参加費は投げ銭です。
 なけなしのお小遣いから、精一杯投げ銭してきました笑
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 浄土真宗本願寺派 明石山崇興寺
 〒720-0821 広島県福山市東川口町3-17-18 TEL:084-953-0779
 崇興寺Facebookページ https://www.facebook.com/soukouji1671/
 崇興寺HP https://soukouji.com/

 せっかくですから、法宣寺(福山市鞆町)sanも、WEB上の記載からご案内致しますと、

 ◆法宣寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 法宣寺(ほうせんじ)は、広島県福山市鞆町後地にある日蓮宗の仏教寺院。山号は大覚山。 国の天然記念物に指定されていた「天蓋松」があった寺として知られる。旧本山は、京都妙顕寺。
 創建は南北朝時代の1358年。開基は大覚僧正とされる。
 江戸時代は朝鮮通信使の宿泊所として利用された。江戸時代後期には加藤清正を祀る清正公堂が建立され、清正信仰の場であった。

 ・天蓋松
 開基である大覚僧正の手植えと伝わる推定樹齢630年の黒松で、国の天然記念物に指定されていたが、1991年に枯死した。幹の周囲は3.3m、枝張は30mに及んだ。
 ・仏像
 七面大明神像 - 江戸時代後期、木彫、像高53cm
 清正公大神祗坐像 - 総高14cm
 清正公大神祗の腹こもり坐像 - 総高40cm

 ◆法宣寺の天蓋マツ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 法宣寺の天蓋マツ(ほうせんじのてんがいマツ)は、広島県福山市鞆町後地の法宣寺境内に生育していたクロマツの巨木である。法宣寺の開基大覚大僧正手植えの木と伝えられ、推定の樹齢は630年とされていた。「まれに見るクロマツの名木」として1944年(昭和19年)に国の天然記念物に指定されたが、1991年(平成3年)夏に枯死している。

 ・由来

 法宣寺は山号を「大覚山」といい、創建は南北朝時代の1358年(正平13年)である。開基は大覚大僧正と伝えられ、日蓮宗大本山妙顕寺(京都市上京区)の末寺である。大覚は諱を妙実といい、日蓮宗の高僧として後光厳天皇の信頼が厚い人物であった。1358年、大覚は鞆に上陸して法華堂を建立し、この地を拠点として説法を始めた。それ以後、鞆は西国における法華布教の重要拠点となり、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院となって存続し、江戸時代には朝鮮通信使の宿所として使用されていた。

 法宣寺の本堂わきには、1本のクロマツの巨木が生育していた。このマツは大覚の手植えと伝えられ、その伝承が確かであれば樹齢は約630年であった。本堂の向かって左側から生え出たマツは、ほとんど本堂の前庭を覆うほどに大きく枝を広げていた。1984年(昭和59年)刊行の『日本の天然記念物5 植物III』によると、樹高こそ5メートル程度であったが、目通り幹囲は3.9メートル、根回りは5.2メートルあり、地上から1.6メートルのところで2つに分岐して北東方向と東南方向に枝を広げていて、北東方向へ伸びた枝は基部の周囲が2.76メートルあり、枝張りの長さは23.17メートルあった。南東方向へ伸びた枝は、基部の周囲が2.14メートル、長さは12.5メートルあった。この大きな枝張りから、枝葉の広がりの総面積は総面積は600平方メートルにも達していた。

 このマツが呈する独特の樹形が仏像などに差し掛ける装飾の「天蓋」に似ているため、「天蓋マツ」という名称で呼ばれるようになった。天蓋マツは「まれに見る名木」として評価され、1944年(昭和19年)11月7日に当時の史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき、国の天然記念物に指定された。

 天蓋マツは1980年代後半まで、旺盛な樹勢を保っていた。しかし、1991年(平成3年)の夏に松くい虫の被害に遭って枯死し、1993年(平成5年)7月16日付で天然記念物の指定も解除された。法宣寺の境内には、支柱や切り株などが残されている。

 …と、こんな『法宣寺』であります(^-^)//"

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『2022ふれあい文化祭』は、11/6(日)の「史跡巡り」に参加のGONsanでした(^.-)☆(13)

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 「水呑八幡宮跡」を後にしますと、今回の史跡巡りでの最後の訪問地「浄蓮寺」となりますが、時間の関係で現地訪問は省略となりました。
 市道から、説明を受けながら浄蓮寺を眺望となりまして、創樹会sanのバスが既に到着しています駐車場へと向かう事となりました。
 所要時間は、丁度、2時間の史跡巡りで、天候にも恵まれ、快適なウォーキングとなりましたネ(^-^)//"

 ◆妙蓮寺

 この寺は、水野勝成の慈母(芳名 法正院釈妙○尼)が死去し一周忌を迎えるにあたり、菩提寺として城南の方向(西桜町)に創建した建物は、当時、福山城築城の余材を持って創建したものである。
 また、この地に移転したには、1972年(昭和47年)頃との事です。ちなみに水呑のお寺は、日蓮宗6ヶ寺と妙蓮寺の7ヶ所あります。
 真宗大谷派妙蓮寺(東本願寺末寺)山号は宝池山、開基 福山藩主 水野勝成、開山 大貳上人創建、1624年(寛永元年)。

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『2022ふれあい文化祭』は、11/6(日)の「史跡巡り」に参加のGONsanでした(^.-)☆(12)

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 洗谷貝塚を後にしますと、次は「水呑八幡宮跡」に向かいます。

 ◆水呑八幡神社

 瀬戸町長和の福井八幡神社は、水呑八幡神社と祭神を同じくしていたが、長和と水呑で再三の口論があり幣皇を持ち帰り、現在跡地として石碑ある場所とは多少違っている(100m北側である)。
 奪い取った幣皇を志田原の彦坂神社の「おらび八幡」の所に持ち帰り、更に次の若者が幣皇を持って洗谷一本木(当時の海岸線)まで持ち帰ってここに投げ込んだ。ときに1570年(元亀元年)8月15日のことであったとのこと(1999年11月13日史跡巡りより引用)。その為ここを宮の段という。
 八幡神社のご神体については、水呑に限らず、我が村、我が地域に一つ祭って、八幡さんの年中行事の祭典の一つとして、皆で崇拝して楽しむと言うことは、その時代やその時に後世に伝えようとする大事な行事であったと思う。昔はことさらそうした精神的な拠り所が必要であって、その土地の人にとっては今以上に強烈なものがあったと聞いている。

 --- 当日貰った〝水呑歴史民俗資料保存会〟資料より ---

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『2022ふれあい文化祭』は、11/6(日)の「史跡巡り」に参加のGONsanでした(^.-)☆(11)

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 旧洗谷橋跡の市道を挟み対面には、何処からでも眼に付きます黄色のハデな建物が(^-^)
 以前には、ここには「松坂産業」の看板が掲げられました建物がありましたけど、数年前に取り壊され、この黄色の建物に(^-^)
 2020年3月末に竣工し、医療法人社団花園医療福祉会(花園町1丁目)が運営にあたる〝サービス付き高齢者向け住宅「清風花苑」〟が、2020年5月1日に開業です(^.-)☆

 法界碑を後にしますと、次は「洗谷貝塚」に向かいます。
 護岸工事で整備されました土手を進んでおりますと、途中に笑えます光景が…工事終了直後に、多分、三角コーンでも置かれて暫くは通行禁止となっていましたのでしょうけど、人とワンchanの足跡が(^-^)
 多分、ワンchan連れて散歩中の方が、つぃウッカリ歩かれましたのでしょうねぇ~
 苦笑しながら進んで行きますと、皆さん立ち止まり、なにか説明に耳を傾けておられます。う~ん、何の説明でしたのでしょうねぇ~聴いておりませんから記憶に有りません。う~ん、残念(^-^;
 洗谷貝塚に向かっておりますと、畑には色づいた美味しそうな柿が…鳥に食べられますのでしょうネ、ネットが張ってありました。
 もぅ数年前の史跡巡りで、「この界隈の畑から、未だに石器時代の鏃が出て来ます…」と、農作業中のご高齢の女性が言っておられたような(^_^)v
 洗谷貝塚に到着しますと、こんな説明板が…

 ◆洗谷貝塚

 此の場所と南西山側の丘陵地が洗谷貝塚で、約八千年以前の縄文時代早期以降の土器が出土している。貝塚の規模は東西約八十メートル・南北約六十メートル余りと貝塚面積は県下最大級の約四千平方メートル・貝層は一メートルに及び、福山湾内で人類が最初に定住したと想定される貝塚である。
 貝塚は昭和八年七月、水呑正月校の橘高武夫先生によって発見され、同月最初の発掘が行われた。その後、府中中学の豊元国先生に依る数回の発掘を経て、昭和四十六年八月の県・市合同発掘調査により、県内最初のサヌカイト(安山岩の讃岐石・坂出市金山産)原石(三十四枚四十五キログラム)の集石遺構が発見された。
 集石遺構に着目された広島大学の竹広文明教授は、更に研究され縄文後期の石器素材の剥片剥離技術を「洗谷型技法」と命名され昭和六十三年に学会に発表された。
 金山産のサヌカイトは、洗谷から周辺の貝塚や遺跡へ分散された拠点集落で、縄文の石材流通史を究明する上で学術上重要な貝塚である。

 出土遺物
 縄文式土器(早期~晩期)安山岩原石・石斧・石匙・石槍・石鏃・叩石・ハイガイ・カキ・ハマグリ・アサリ・カガミガイ・人骨・獣骨・魚骨・骨鏃

 -- 水呑学区まちづくり推進委員会 平成21年度 キーワード事業 --
 -- 水呑歴史民俗資料保存会 平成21年9月 --

 今回の史跡巡りで貰った資料には、

 ◆洗谷貝塚

 塚発見は昭和8年7月頃、水呑尋常高等小学校の橘高武雄訓導によって洗谷貝塚と水呑浜貝塚が同時に発見された。
 沼隈郡教育委員会会長小川清一氏、浜本鶴濱氏橘高訓導に依って発掘計画が立案され、誠之館中学の先生と生徒約50名の協力もあって同年月の30日と31日に発掘が実施された、その時の発掘遺物は小学校に持ち帰り、現在は水呑交流館と水呑歴史民俗資料保存会の資料室に保管されている。直径70~80mにおよび面積と出土遺物量は県内随一と呼称されている。専門家は「Aクラス級の遺跡」と高く評価されている。
 その後、1935年(昭和10年)と1941年(昭和16年)に、府中中学校豊元邦彦先生に依って発掘が勧められた。その時出土した石器や土器などは現在府中高校に保管されている。1970年(昭和45年)貝塚の東部の一部が埋設され、宅地造成が進められたことから、1971年(昭和46年)8月、県・市教育委員会によって50㎡が緊急発掘された。その際特に注目されたのが、貝塚が破壊されず保管状態が良好な点で、その際出土した土器はミカン箱20箱分に達した。また、従来の土中で発見されなかった安山岩(サヌカイト)の集積遺構が2ヶ所で発見された。縄文遺跡や貝塚でその量は安山岩34枚で重量45kgの多量であった。
 安山岩は縄文人が鉄の代わりに使った石器は硬度と加工性が要求された石であったが、福山地方では適当な石がなかった。四国の坂出市にある金山から産出した安山岩を使用していた。用途は包丁や矢尻の代わりとして使用した。洗谷縄文人は、60km先の瀬戸内海を渡り原石を持ち帰り、貝塚の下地に保管し、石器加工を行い周辺の縄文人に分配していた可能性が高い。多量の安山岩が発見され、他の地域との交流があったことが裏付ける。また、県内最古の港であったことは確かで、海と備後を結ぶ交易中継拠点だったようである。
 以上の発掘結果を総合的に判断すると、貝塚は約8000年前より始まり、安住して漁労や採取を行い生活していた。出土土器は縄文早期・前期・中期・後期・晩期に及んでおり、他に2400年以前に始まる弥生土器、1700年以前からの1300年前にかけての古墳時代の土器も出土している。出土品は石鏃(やじり)・石斧・石槍・石刀・安山岩原石や各種魚の骨、鹿・猪等の骨、各種の貝殻など多岐にわたっている。

 …と、こんな記載が(^-^)
 WEB上に「洗谷貝塚」で検索しますと、こんな記載も…

 ◆水呑町の洗谷・浜貝塚(縄文早期の可能性はあるか?)

 --- 2009年8月7日 備陽史探訪の会「備陽史探訪:149号」より 小林 定市 ---
 -- https://bingo-history.net/archives/12290 --

 (1)貝塚の説明看板新設計画
 私が住んでいる福山市水呑町には、縄文貝塚遺跡の洗谷貝塚と浜貝塚がある。両貝塚の東側は現在住宅地となり海から遠ざかっているが、江戸時代までは瀬戸内海と接する海岸線に立地していた。
 両貝塚は昭和八年七月、水呑小学校の橘高武夫先生によって同一時期に発見された。最初の発掘調査は同月の三十日と三十一日、両貝塚が同日に実施された珍しい貝塚である。
 発掘の成果は、両貝塚から出土した土器が縄文後期と晩期が多かったことから縄文後期の貝塚と認定されてきた。貝塚の発見が他の遺跡と比較して遅かったためか、話題となる新発見や特徴も見当たらず、文化遺産としての評価が低かったためか史跡としての指定も行われず、説明看板も設置されるに至らなかった。
 説明看板の無いことを打開しようと、水呑町の民俗保存部会では本年度に看板の予算を計上し秋の文化祭までに完成させるよう計画された。そうした経緯から私に対して、貝塚関係記録の収集と分散遺物の調査並びに資料作製の支援要請があった。

 (2)『福山市史』通説の見直し
 昭和三十八年に発刊された、『福山市史』上巻・資料編・第一編の原始時代「備後の縄文遺跡と遺物」の遺跡の古さを判定する縄文土器遺跡編年表に依ると、洗谷と浜貝塚は揃って縄文後期と記載されている。此の記録は四十六年も以前のもので、今後作成する説明看板には、新研究と新資料も加え新視点から最新の情報を詳しく記載する運びとなった。
 昭和四十年代福山市では急速に市街化が進められ、洗谷貝塚周辺でも農地の埋立て工事が進められた。そこで昭和四十六年八月、県と市の教育委員会に依る緊急発掘調査が行われた結果、従来の縄文後期土器以外に縄文早期・前期・中期の土器も新しく出土した。石器は四国坂出市金出産の安山岩の「集積(集石)遺構」が県内で最初に発見され四国との交流が明らかにされた。
 私の家は洗谷貝塚近隣地の西方に建てられており、専門家によって作製された縄文貝塚推定図面からは除外されていた。平成九年春、我が家では初孫の誕生が日前となり、庭先の農地に設置していた危険な野壺を取壊すことに決定。取壊す際壺周辺を試掘したところ多量の縄文後期土器の発掘に成功した。
 農地の表面には遺物は殆ど見当たらなくても、稀には土中に古代の遺物が包含されているものである。野壺を取壊し試掘した結果、貝塚が当初の推定面積より宏大であったことが立証された。
 平成十年三月、私宅から二・五km南にある浜貝塚の車道を通っていたところ、偶然母屋改築の為の基礎工事に伴う底土(縄文土)の山積みを発見した。早速土地所有者の伊東さんに、「水呑町のため迷惑を掛けないから底土の調査をさせて欲しい」とお願いしたところ了承され、調査を行ったところ縄文の土器・石器・貝類・獣骨などを採取した。
 発掘を終えた際には、浜貝塚が昭和八年の発掘面積より宏大であったことに満足していた。しかし、土器の中には明確に縄文後期の土器とは相違する、土器の厚さが三~五mm程度と薄い土器片も出土、器厚の薄い土器は縄文後期より古い時代の土器ではないかと推定していた。
 この度浜貝塚の時代不詳の縄文土器の時代解明が必要となり、今春福山市にある県と市の土器等文化財に関係ある部署に、土器の年代鑑定をお願いしたところ好回答を得られなかった。

 (3)浜貝塚の縄文土器鑑定
 平成二十一年六月二十七日・二十八日の両日、東広島市の廣島大学構内文学研究棟において、「中四国縄文研究会二十周年記念大会。第二回西日本縄文文化研究会・環瀬戸内地域の打製石器石材利用」が、中四国縄文研究会。関西縄文文化研究会・九州縄文研究会によって合同開催された。
 大会の準備を進められたのは、洗谷貝塚の「集積遺構」から、中・四国地方の縄文後期の石器製作技術を解明され、洗谷型剥片剥離技術を学界に発表された廣島大学の竹広文明教授である。日本を代表される縄文文化研究の大家の集まりなので、私も大会に参加し浜貝塚の縄文土器の鑑定を行って頂けたら好都合と、願望を秘め竹広教授には無理は承知で大会に参加させていただいた。
 大会二日目の二十八日午後、第二部の合同討論シンポジューム「環瀬戸内地域の打製石器石材利用をめぐって」が開催されシンポジュームの司会を、京都大学の千葉豊教授と小南裕一教授が行われた。
 大会終了後同会場で、私が持参した土器の鑑定を司会された千葉教授にお願いしたところ快く引受けて頂いた。鑑定の結果は縄文時代後期・晩期の土器以外に、「縄文時代前期の磯の森式土器剥片十一個と、縄文時代中期の里木式土器剥片三個」があると鑑定していただいた。私が内心想定していた通り、浜貝塚は約六千年も以前から縄文人が定住していたことが明らかになった。
 浜貝塚の中心部は、江戸時代から鞆福山街道となっていたらしく、周辺地は宅地変更が早くから行われると同時に、江戸時代後期になると宏大な新田開発のため貝塚破壊は進行し貝塚の境域は不詳となった。浜貝塚の周辺地においては洗谷貝塚と同様、縄文早期土器の出土の可能性も夢ではなくなった。

 (4)洗谷貝塚の安山岩原石
 前述の洗谷貝塚の安山岩(サヌカイト)の集積遺構であるが、遺構は二カ所に有って原石の総重量は四十五kg余り、石数は三十四点もあった。集積遺構は県内の縄文貝塚や遺跡からは未だ発見されていない遺跡で、四国との交流を示す貴重な遺構と喧伝されてきた。
 集積遺構は県内の縄文史を解明する文化遺産として、当初は高く評価されたのであるが、残念なことに市民に一度も公開される機会も無いまま、福山城の収蔵庫に三十八年間も死蔵され現在に至っている。
 洗谷貝塚の集積遺構に着目された廣島大学の竹広文明教授は、昭和六十三年六月(『考古学研究』三十五巻に「中国地方縄文時代の剥片石器」―その組成。剥片剥離技術―)を発表された。次いで平成十五年二月、『サヌカイトと先史社会』と題し、洗谷貝塚の原石剥離の研究書を渓水社から刊行された。
 両書に依ると、
 サヌカイトは後期旧石器時代以降、瀬戸内を中心とした地域で石器の主要な石材として利用されている。瀬戸内技法という独特の横剥ぎの技法で、ナイフ形石器が作られている。
 と、瀬戸内最初の石器製作技術を解説されている。縄文時代に入ると中国地方の剥片剥離技術は変化し、早期の早稲田山遺跡(広島市東区牛田早稲田山)では、基本的には角礫・円礫といった原石を利用する。そのため安山岩・黒曜石・頁岩・流紋岩など多様な石材に対応した剥片剥離技術によって石器素材剥片を生産する石器製作技術である…
 と変化の跡を究明され、旧石器時代と縄文早期の石器製作技法の相違点を明らかにされた。
 更に縄文後期の剥片剥離技術として、洗谷型技法では金山産のサヌカイトと強く結び付いている。交互剥離による剥片生産も行われるが、石理の顕著な板状石材を素材として、石核の側面部から石理の強さを利用して効率的な石器製作がおこなわれていた…と新説を明らかにされた。縄文時代の後期になると縄文人の石器製作の敲打技術は進化しその時点での最高水準に到達していた。
 吾々素人目には、旧石器時代の石器と縄文早期と後期の石器の割れ具合に変化が無い様に見えても、剥片剥離技術は大変進歩していたのである。竹広教授は集積遺構を手掛りとして研究された石器の剥離技術を、洗谷型又は洗谷技法と命名された。
 考古学に於いては、最初に発見されたり最初に確認された遺跡名から型とか技法を名付ける慣例があり、集積遺構が糸口となり石器の剥離技術と貝塚名が結び付けられ洗谷技法と名付けられた。
 洗谷貝塚の安山岩原石の活用方々に付いて、昭和の発掘報告書には石器の剥片屑に関しては何の記載も見当らない。剥片屑は不良品として無視され記録に止められなかった。
 農地が埋立てられる以前の鞆鉄道の東側畑地と線路上には、表面が自色化した剥片の膨大な量の加工屑が散乱していた。同所は海抜三~四mの土地で海岸からは十m以上離れていたものと推定する。白色系剥片は石器を製造した際の石屑で縄文工房の跡を物語る石屑であった。
 洗谷の縄文人は自給自足的な狩猟・漁猟・採集に加え、四国の金山から安山岩の原石を持帰り、原石の加工を通じて付加価値を高める工夫を行っていた。洗谷の集積遺構は県内の縄文石器の流通加工を考察する上で、学術上極めて重要な役割を果たしていたことが判明した。

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 「日蓮宗の南妙法蓮華経日蓮聖人」「浄土真宗の南無阿弥陀仏」の二つの法界碑を後にしますと、
 樋門→下部のみ残されました「道標」→旧鞆鉄道橋跡→旧洗谷橋跡→法界碑…と巡ります。

 ◆樋門--1919年(大正8)の大洪水で芦田川の決壊により被害甚大であった。この樋門は洗谷地区の排水用として造られたものであるが、時代の流れとともに宅地造成や道路の拡張により、次第に不要になっとしまった。しかしこの樋門は、今なお保存している。江戸時代のものは市内には残っていないので、堤防の規模として知ることが出来る貴重な遺構である。
 ◆旧鞆鉄道橋跡--大正15年当初の芦田川に架かる橋げたの一部である。
 ◆下部のみ残されました「道標」--当初は、ここに設置されましたのでしょうけど、現在は、上部を、妙見教会の石鳥居への石段上り口近くに移転されております。
 ◆旧洗谷橋跡--初期の洗谷橋の一部である。ちにみに、この道が堤防であった。
 ◆法界碑--造立1812年(文化9年)南妙法蓮華経日蓮大菩薩 水呑町内には、14の法界碑がある。

 …と、水呑歴史民俗資料保存会から貰った資料に記載。
 旧鞆鉄道橋跡・旧洗谷橋跡の橋げたが残ります「この道が堤防であった」…とは、当時の堤防は現在よりも随分低かったようですねぇ~何となく、不思議な気持ちにも(^-^)/
 旧洗谷橋跡近くには、こんな説明板が…

 ◆歩いてふれよう 水呑の歴史と風土〝ふるさと水呑〟案内

 ◇洗谷妙見山 別称 金鶏山・宝山

 福山近郊で妙見山といえば、標高約120mある宝山に鎮座する『洗谷妙見山社』が著名である。
 境内の玉垣から眼下の福山平野を望めば、西方に芦田川・正面に福山市街・東方に瀬戸内海・南方に熊ヶ峰山系と、近郊には見られない絶景が広がる。
 また西方には大砲岩、山頂には烏帽子岩があり、草戸稲荷の石鳥居も洗谷宝山産である。
 開基は天保14年(1843)で日蓮宗妙顕寺35世日英上人が大阪府能勢町の能勢妙見山から北辰妙見大菩薩の分像を勧請して安置したのが最初である。
 沿革妙見大菩薩を本尊とする洗谷妙見山社(妙見教会)は、旧峻な断崖に石垣を築き張り出した長石の上に玉垣を立てる珍しい工法で境内を拡張している。
 石垣は三期に分けて築かれており、玉垣は明治元年の銘が彫られている。
 北辰妙見大菩薩の他に稲荷大明神、清正公大神位が祀られ、その後日蓮聖人や三〇番神・鬼子母神が祀られている。
 梵鐘は妙顕寺と重顕寺と合わせて水呑三梵鐘の一つ。
 妙見菩薩像は崖上に中国風の甲冑をまとい、右手に受け太刀に構え、左手に金剛不動印に結んだ「利剣受け太刀」の煩悩を打破する勇ましい坐像である。参道は東と西と北の参道が順次整備され、参道に石鳥居が寄進され難所には石段が次第に建設された。

 ◇洗谷橋

 初代の橋は明治26年(1893)以前にあり増水すると水に浸かり洪水の度に流失する木製の橋であった。
 二代目は昭和31年(1956)にコンクリートパイル橋ができました。
 三代目は現在の橋が昭和55年(1980)に水呑大橋として生まれる。此れは県道福山鞆線であります。
 初代と二代目は現在の橋より上流200mの所にありました。
 水呑町史にはこんなことが載っていました。
 明治26年(1893年)10月14日の大洪水で橋は流され、草戸村からは芦田川の堤防が決壊したのは下流の洗谷橋が原因だと草戸村から訴えられ一審は敗訴し二審では水呑の勝訴となった此の事からも明治26年にはすでに橋は有った物と思われます。

 --- 水呑町史参考 水呑小学校調査書参考 令和4年2月吉日設置 ---

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 松尾神社を後にしますと、次は、この近くに存在します法界碑へと向かいます。
 水呑歴史民俗資料保存会から貰った資料には、こんな記載がありました。

 ◆法界碑
 1836年 日蓮宗の南妙法蓮華経日蓮聖人
 1914年 浄土真宗の南無阿弥陀仏の二つが並んで建立されているのは、非常に珍しい。一般的には、親しみを持って「法界さん」と言っている。法界とは宇宙万物の総称であって、仏法の広大なことを言っている。

 WEB上で「法界碑」を検索しますと、

 ◆集落自治体の象徴・法界碑
 日本には、古来より集落の自主独立の精神が随所にありました。水呑に限らず、全国アチコチで、いまも「法界(ほうかい)」という石碑が象徴的に建っています。西洋や中国なら町全体を城壁で囲むところです。
 「法界」とは、どの集落自治体も自分たちで守り、「どんな旅人もここへ一歩でも入れば集落の掟に従え」という仏教用語です。

 …と、こんな記載がありましたけど、うん、うん、この説明は仲々分かり易くてイィですネ(^.-)☆
 でも、洗谷の、この法界碑のように「日蓮宗・南妙法蓮華経」「浄土真宗・南無阿弥陀仏」の二つが並んで立っていますのは、仲々お目に掛かれませんし、実に珍しいですネ。
 それでは、次に、「樋門」へと向かいます。その途中、時代を感じさせます民家が…これを横目に通過となりましたけど、通りすがりに1枚パチリとなりました(^-^)//"

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 ◆松尾神社

 祭神は大山くい神(オオヤマクイノカミ)1756年の建立である。
 昔、荒尾という武芸者がおり狼の子を養育していた。ある日、狼を連れて山に猟に出かけた。荒尾が山中で倒れた大木に腰を掛け、一休みしようとして煙草を吸わんとした時、狼がけたたましく吠え出し主人の荒尾に噛み付くような行動に出た。荒尾は狼が山に帰ったことから野生の本能をあらわしたものと思い、うるさいので刀を抜いて狼の腰を切り殺害してしまった。再度大木に腰を掛けようとすると、大木が急に動き出したので驚いてよく見ると大木に見えていたのは大蛇であった。
 荒尾が山から帰り寝ていると、狼が夢枕に現れ「我は腰を斬られて死せり。我は大明神の化身なり、神として我を祀るならば里人および腰の病気の治療に効験あるべし。」との拓宣を告げた。夢から醒めた荒尾は狼が自分を助けようとした経緯を知り、そこで現在の地に社殿を建立して丁寧に祀った。

 --- 水呑歴史民俗資料保存会 ---

 ◆備後の歴史を歩くコミュの洗谷松尾神社

 --- https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=1818324&id=17820546 ---

 洗谷松尾神社(あらいだに まつお)福山市水呑町洗谷に鎮座する。
 広島県神社誌には祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」と記されているだけで由緒等は不明である。
 神社に設置されている石碑によると、創建は宝暦六年(1756年)11月に建立したとされる棟札があるそうだ。伝承として次の話が紹介されている。

 昔、荒尾という武修者が狼の子を飼っていた。ある日狼を連れて山へ狩りに出かけ、横たわっていた大木に腰掛けタバコに火を付けた途端、狼が吠えだし噛みつこうとした。
 武修者は狼が野生に戻ってしまったと思いこみ切り殺してしまった。再び大木に腰掛けようとしたら大木は急に動き出しだ。驚いてよく見ると大木は大きな蛇であった。
 ある日夢枕に狼が立ち、「我は腰を切られて死んでしまった。松尾大明神の化身なり。我を祀れば腰の病を治せる、祀らなければ祟る」と告げた。そこで狼を切った場所へ宮を建て祀った。「腰の病気にはよく効く」と評判になり参拝者が供えた御神酒の数は近郷随一といわれた…とある。
 腰痛をお持ちの方は一度参拝されてみればいかがでしょうか。祭神である大山咋神は比叡山の守護神で、全国に散らばる日吉大社・日枝神社・京都松尾大社、山王神社等の主祭神だ。
 「夢枕に立った松尾大明神の化身」とは京都西京区に鎮座する式内社松尾大社の祭神、大山咋神のことだ。本殿は廻縁が付く一間社流造り銅板葺き屋根に千木と三本の鰹木がのせてある。拝殿は入母屋造り本瓦葺き屋根で向唐破風向拝を持つ。

 …と、こんな松尾神社であります。
 挿入の中国新聞san記事の画像は、もぅ7~8年前に朝刊紙上に掲載されたものであります(^-^)//"

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 暫く進みますと、右手山側に石段が…石段を見上げますと上りきった所に鳥居が…妙見教会の鳥居は4ヶ所あり、その内の一つですネ。
 この石段を横目に直進です。

 ◆妙見さんの大鳥居


 妙見教会の鳥居は4ヶ所あり、その内一番大きな鳥居が北参道で、額・妙見大菩薩 弘化5年(1848)中春2月建立、施主岡本八右衛門他5名、高さ2.7m、幅2.7m、昭和49年(1906)3月建立(他の石鳥居は民族探訪2021年1月20日発行を参照して下さい)

 四つの内一番大きな鳥居が北参道で、最初に潜りました鳥居です。
 右手の石段を横目に通過し少し進みますと、また道標です。

 ◆道しるべ
 大正5年11月 ○記念 右 熊野、山南、左 営所(福山陸軍47連隊)、北 草戸、福山、南 田尻、鞆

 この道標は、下部が切断されておりまして、その切断された部分は他の場所に設置されておりますから、後でその場所に立ち寄りますとの事です(^-^)
 それでは道標とお別れし、松尾神社へと向かいます(^-^)//"

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 鞆鉄道・半坂駅舎跡に設置されました説明板には、こんな記載がありました。

 ◆歩いてふれよう 水呑の歴史と風土「ふるさと水呑」案内

 ・半坂駅舎鞆鉄道

 此の半坂駅舎は水呑最北側にあって、1929年から25年間有りました。
 これに伴い鞆鉄道のはじまりを紹介してみます。
 山陽線が開通するまでは輸送の主力は船でありました。瀬戸内海航路の船は大型船で、福山港現在の福山ポートプラザ辺りには入れず、鞆港に入港して荷を降ろしていました。鞆港からは小船に乗せ換えて福山港に運んでいました。
 その荷物を鉄道で運ぼうと鞆・田尻・水呑の有志が考えて鞆鉄道を立ち上げたそうです。
 其の理由は、
 1891年には山陽線が開通しました。これに遅れること22年、1913年鞆から野上間が開通しました。(建設期間一年半)水呑村には葛城駅・水呑駅・妙見駅と三駅できていました。
 その頃は、妙見駅の北側をすぐ東に向いて芦田川の中州を北上して地吹荒神社の方向に走っていました。現在も橋の基礎の石垣が残っています。
 開通1年後には野上から福山間が開通。1929年には写真の様な半坂駅が開通。
 新しい鉄橋は、西岸の半坂三叉路の10m南方から東岸は光小学校グランド南端になります。(水呑薬師駅は1928年完成)
 -- 参考資料 水呑歴史民俗資料保存会・水呑小学校調査書 --

 ・洗谷郷二ヶ所の古い樋門

 洗谷郷には洗谷新田と宮之下洗谷新田がありました。
 樋門の一つは熊野街道の入口付近の水門です。もう一つは隋入付近の水門です。宮ノ下の地名は洗谷の八幡宮跡を意味しています。創建当初は海岸端に建立されていました。(一本木)八幡神社は1651年に現在の場所に移されました。
 1660年頃に芦田川堤防が築かれ周辺は水田となった。その時代に此の二つの水門は出来たのではないかと思われます。
 寛文11年(1671)6月に備後沼隈郡身の水呑村新開坪詰帳に記されてあります。
 此の水門は洗谷地区の排水と海水の浸入を防ぐ為に作られたものであろうが、時代の流れとともに宅地造成や道路の拡張により、次第に不要な物となってしまいました。
 しかしこの樋門は、今尚保存され、江戸時代の物としては町内には残っていないので、堤防の規模として知ることの出来る貴重な構造物であるとのことです。
 
 -- 1999年11月13日 福山地方史論集小林定市書参考・水呑史跡めぐり等参考 --
 -- 令和4年2月吉日 設置 --

 次に向かいましたのが、妙見神社参道入口の鳥居です。
 半坂・宮迫地区の方々が妙見神社に参詣されます時には、この「妙見北の鳥居」を潜ってお参りされましたのですねぇ~
 この鳥居を過ぎますと、三叉路角に『←妙見道』の道標が…
 宮迫会館付近で右左折し芦田川土手側に進み、そして左折し歩行です。私たちが歩いています整備されました市道は、かっては鞆鉄道の軌道でしたのでしょうねぇ~

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 交流館内から駐車場に出ますと、テントに向かって長い列が(^-^)
 A.M.10:00・P.M.01:00に、餅つきの実演・配布がありますから、そのお餅を貰うため、早くもお集まりの方々ですねぇ(^.-)☆
 GONsanは、史跡巡りの受付に向かいますと、既に皆さんお集まりでありました。ザッと見廻しますと、多分、総勢28名での史跡巡りとなりそうですネ。
 受付で、資料とお茶を戴き、創樹会sanのマイクロバスに乗車です。
 今回の史跡巡りは、Aコース・Bコースの2グループに分かれての実施のようで、Bコース申し込みのGONsanは、

 ◆Bコース
 集合時間--10:00 出発--10:10
 集合場所--交流館東隣空き地
 行程--交流館⇒鞆鉄道半坂駅の看板→妙見北の鳥居→松尾神社→法界碑→洗谷の看板→洗谷新田の水門→旧洗谷橋跡→洗谷貝塚→本木跡→宮ノ下洗谷新田⇒交流館(⇒バス・→徒歩)

 …と、こんなルートで巡りますようであります(^.-)☆

 ◆社会福祉法人 創樹会(社会福祉法人 創樹会)

 創樹会は、知的な障がいがある人たちが幸せに活きいきと生きていけるように、日々の生活を通して援助していく施設で、児童園・成人寮・通勤寮・デイサービス・居宅介護事業など多目的機能を有しています。
 園訓は素直で 明るく たくましく
 (支援のかまえ)
 ・いつも子供たちの心と身体をみつめていよう
 ・いつも子供たちの心になって考えよう
 ・まわりの物や空気が子供を動かしていることを忘れまい
 「みんなダイヤモンド」の思いを旨に、「活き活きと生きる人たちを心を込めて大切にする“福六の心”」と故田中了諦園長の言葉「ハングリーな心を忘れず、弾力を持ってことに臨む」気概を大切に、役職員ともども激動する障害福祉の環境の中で独自の「嬉しいサービス」を組み立てながら創設 60 周年に向け果敢に挑戦してまいります。

 …と、こんな「創樹会」sanでありまして、水呑学区の行事には何かとお世話になっておりますから、有難いですネ。
 マイクロバスは、「セブンイレブン水呑半坂橋店」の駐車場到着で、ここで下車。丁度、真ん前のこんもりした山が「中山城跡」ですネ。
 いよいよ史跡巡りがスタートで、まず向かいましたのが「鞆鉄道半坂駅の看板」の設置場所。ここから対岸の光小学校辺りまで鉄橋が架かっておりまして、鉄道廃止後も暫く鉄橋は残っておりましたけど、いつしか撤去。土手の橋桁・半壊の鉄橋は、GONsanが中学生時代には未だ存在しましたけど、これもいつの間にか撤去。当時の面影は凡て無くなりましたネ。

 ◆鞆鉄道

 明治43年11月18日より鞆・福山の野上駅間11.784kmの工事を始め、大正15年12月19日に鞆鉄道株式会社となる。水呑町内には葛城・水呑・妙見で妙見駅より直ちに東折して、芦田川の木橋を渡っていたが、昭和2年、芦田川改修工事の結果、水呑、草戸の境界に近いところに半坂停留所を作り、延長375.21mの橋架17m鉄橋を架けて上流を渡るようになった。
 昭和3年8月開通、これにより水呑町内の同鉄道の路線延長は、5,487mと伸びた。昭和2年12月に造った水呑薬師停留所と共に5ヶ所の乗降場になった。
 昭和2年7月25日より、鞆・福山間の乗合自動車の運行を開始し、汽車8往復、乗合自動車32往復であった。
 昭和29年2月28日を最後に鉄道事業廃止した。この期間約40年間中約30年間用いた、機関車の煙突の方が辣(らっきょう)汽車の愛称を受けていた。馴染み深き辣汽車は永久に姿を消した。

 -- 水呑歴史民俗資料保存会 資料より --

 ※ 当時の鞆鉄バスには、『鞆鉄』でなくて『鞆鉃』と車体に記載されていましたネ。これは、『鉄』を使用すると『お金を失うから』との理由からでした。これには、未だ子供でしたGONsanですけど、さすがに笑えましたネ(^-^)//"
 それと、中学2年の社会科の授業中でしたか…この『鞆鉃』の記載に先生が、「何事も、充分な確認を行い、その上で実施しなければならない。『鞆鉃』の表示は、確認が不充分だから誤記となる。皆は、くれぐれも留意するように!!…」ですから、これにも随分笑えましたネ。学校の先生も、専門外の事項に関しては、結構、無知なんだ…と(^-^)/"

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『2022ふれあい文化祭』は、11/6(日)の「史跡巡り」に参加のGONsanでした(^.-)☆(4)

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 作品展を鑑賞していますうちに史跡巡りの集合時間が近づいて来ましたので、ソロソロ行かなくては…
 館内の廊下を歩いておりますと、常設の写真ではありますけど、またまた眼が向いてしまいました。何度も眼にしてはおりますけど、GONsanが幼少時に眼にしました景観もありますので、何度見ましても懐かしさが…
 福山~鞆間を結びます軽便鉄道…瓶の蓋をレール上に置き、潰して貰って遊んでおりました当時が懐かしく蘇ります(^-^)
 せっかくの便ですから、交流館出口脇の歴史民俗資料館にも少しだけ立ち寄りです。
 本日の史跡巡りで向かいます「洗谷貝塚」の説明を走り読みとなりました。
 水呑にも戦時中まで古墳が存在しましたのですけど、残念ながら戦後取り壊され、現在は跡形もありませんのが実に残念ですねぇ~

 ◆福山市水呑町の『洗谷貝塚』

 貝塚は古代(縄文時代・約8千年前)人類のゴミ捨て場のうち、当時の人々が捨てた貝殻が積み重なった物のことである。
 水呑町洗谷地区の西南山側の丘陵地が洗谷貝塚で、約8千年以前の縄文時代早期以降の土器が出土している。
 貝塚の規模は東西約80m~南北約60mと貝塚面積では県下最大級、貝層は厚さ1mに及び福山湾内で人類が最初に定住したと想定される貝塚である。昭和8年水呑小学校の橘髙武夫先生によって発見され発掘が行われた。
 その後の調査で県内最初のサヌカイト(安山岩の讃岐石、坂出市金山産)の集積遺構が発見された。
 広島大学の竹内文明教授は縄文後期の石器素材の剣片剥離技術を【洗谷型技法】と命名。金山産のサヌカイトは洗谷から周辺の貝塚や遺構へ分散された拠点集落で縄文石器を研究する上で学術上重要な遺跡である。
 《出土遺物》
 ◇土器 -- 縄文式土器(前期~後期)
 ◇石器 -- 安山岩原石、石斧(いしおの)、石叩(いしたたき)、石槍(いしやり)、石匙(いしさじ)
 ◇貝類 -- ハイガイ、カキ、アサリ、ハマグリ
 ◇その他 -- 人骨、獣骨、魚骨

 ◆福山市水呑町浜の『浜貝塚』

 貝塚は背後にある熊ヶ峰山系の妙顕寺山と龍王山のなだらかな傾斜地にあり、海抜3.4m、南北約70mの長さに至っている。
 昭和8年(1933年)水呑小学校の橘髙武夫先生によって発見された。縄文時代後期・晩期の土器と人骨一体に石器と多数の貝類が発見された。平成10年3月、貝塚前の市道工事中の残土から縄文土器に貝類が採取された。鑑定の結果約六千年前の縄文時代初期の「磯の森式土器」と縄文時代中期の「里木式土器」であることが判明した。縄文人は遺跡の中判明した。
 浜貝塚も試掘する場所を変えると、洗谷貝塚と同様に縄文早期土器が出土する可能性が濃厚となった。
 《出土遺跡》
 ◇土器 -- 縄文式土器(前期~後期)
 ◇石器 -- 石鏃(いしやじり)、石斧、石棒、敲石(たたきいし)
 ◇貝類 -- ハイガイ、アンニシ、カキ、ハマグリ、アサリ、ツメタガイ
 ◇その他 -- 人骨、獣骨、魚骨

 ◆水呑にもあった『新立古墳』と『小水呑塚丸古墳』

 貴方は水呑にも古墳があったのをご存知ですか。少なくとも二墓の古墳が報告されています。
 古墳は、1400年以上も前の有力者、権力者の墓です。
 日本固有の墓とされる『前方後円墳』や『前方後方墳』、『帆立貝型古墳』、『四隅突出型墳丘墓』、『方形周溝墓』等があり、地方の古墳はその権力の大きさに応じて大和政権が型を指定したものを造ったとする学説もあります。
 字名から命名された『新立古墳』の調査は、平成9年1月に実施され、周囲7キロの王ヶ峰丘陵にあった古墳の一つです。
 古墳周囲は戦中、戦後にかけて畑に開墾され、埋葬施設である横穴式石室の天井石は取り除かれ、石室は農作業小屋として利用されていました。
 墳丘は西の屋根をカットし、東側のみ最大幅3m、最大深さ0.75mの馬蹄形状に周溝を巡らせ盛り土をし、墳裾の所々に1~2m間隔に頭大の石材が配置され、築造時の古墳の範囲を示している。径11.5mの円墳と考えられている。
 埋葬施設はほぼ南に開口し、西側壁に袖を有する片袖式の横穴式石室であり、石材はすべて付近から産出する花醐岩である。
 出土遺物は玄室入口の東側で耳環二点一対、西側で須恵器平瓶一点が出土し、羨道埋土内からは須恵器杯片、鉄片が出土し、築造時期は出土品の特徴から六世紀後半から七世紀初頭と思われている。
 『小水呑塚丸古墳』は小水呑字塚丸にあった横穴式石室で戦時中には一部残っていたが、現在は全滅、消滅となっています。
 -- 参考文献『広島県遺跡地図Ⅶ』『新立古墳発掘調査報告書』--

 …と、こんな説明がありました(^.-)☆
 それでは、交流館から出まして、駐車場一角の史跡巡り受付へ(^-^)//"

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『2022ふれあい文化祭』は、11/6(日)の「史跡巡り」に参加のGONsanでした(^.-)☆(3)

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 出展者の皆様の力作ばかりですから、どの作品も素晴らしいですねぇ~その中でも、足が止まり、「んっ!?」と覗き込みましたのが、この廃材を使用して創作の『アルミ缶アート』(^.-)☆
 プルタブを使用して、自転車も上手に創っておられます(^_^)v
 きっと、この方のご自宅には、こんな作品がズラッと並んでいます事でしょうねぇ~展示作品を拝見しておりましても、大変楽しいです(^-^)//"

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『2022ふれあい文化祭』は、11/6(日)の「史跡巡り」に参加のGONsanでした(^.-)☆(2)

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 順番に画像に納めながら鑑賞です。
 うん、うん、嫁さんの作品もありましたから、これは、特に洩らさず撮っておきませんと、苦情の一つや二つありますかも(^-^)
 それにしましても、毎回、皆さんの力作が並んでいます。日々忙しく過ごしておられますのに、いつ創作に取り組んでおられるのだろう?…と、不思議な想いも生じます。
 好きな事に没頭します方々は、日中・夜間・深夜を問わず時間を捻出し、取り組んでおられますのでしょうねぇ~感心してしまいます。こぅいぅご趣味をお持ちの皆様は、一層楽しく充実した人生を歩んでおられますのでしょうねぇ~
 GONsanが出来ませんだけに、羨ましい気持ちも抱いてしまいます。
 どの作品も、イィですねぇ(^-^)//"

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『2022ふれあい文化祭』は、11/6(日)の「史跡巡り」に参加のGONsanでした(^.-)☆(1)

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 11/5(土)~11/6(日)に開催されました『2022ふれあい文化祭』ですけど、11/6(日)の「史跡巡り」に参加のGONsanでした(^.-)☆
 今回の「史跡巡り」は、10:00~12:00の2時間程度で、洗谷・宮迫地区を巡ります。何年か前にも洗谷地区を巡っておりますけど、多分、また同じようなコースでの史跡巡りと思います。
 集合は、水呑交流館ですから、少し早めに出掛けて、交流館に展示の「作品展」を拝見してみたいと思います。

 ◆作品展
 日本画、洋画、手芸、写真、生け花、押し花、グラスアートなど。
 水呑小6年の版画、向丘中美術部、福山商高美術部などの作品が展示されています。

 「ふれあい文化祭」は、通常、水呑小学校で開催されますけど、コロナ禍の関係で、規模縮小による水呑交流館での3年振りの開催となりました。
 それでは、「作品展」を鑑賞です(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(26)

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 それでは、駐車場へと戻って行く事に致します。
 帰路は、極力、駐車場への最短距離となりますよう、路地を斜め、斜めと歩行です(^.-)☆
 毎回そぅなんですけど、途中、祠の前に置かれましたウサギsanをパチリです。が、前回眼にしました時には、ウサギsanは右側の祠の前の石の上に存在しましたような…
 ふ~ん、この祠のお世話をされます方が、時々、配置換えをされますのかも(^-^)
 ところで、今回は、『鞆の浦 de ART 2022』の鑑賞で鞆を訪れましたのですけど、う~ん、いつの間にか、お寺巡りとなってしまいましたねぇ~何度訪れましても、お寺巡りも楽しいものであります(^.-)☆
 駐車場にと戻って来まして、料金の精算をしますと、所要時間は丁度3時間。正確には「3時間1分」でありましたが、図ったように3時間のお寺巡りでありました(^_^)v
 それでは、鞆の町とお別れです(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(25)

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 桑原一族の石塔脇には、説明書きが…これには、こんな記載がありました。

 ◆桑原伊賀守重信一族墓域修復碑銘
 桑原重信一族この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。
 そもそも桑原家は代々、備後国服部永谷に住し椋山城主たり。元弘の頃、備後一の宮櫻山慈俊と共に後醍醐帝に仕へ、南朝の忠臣として歴戦し、建武の中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ね、南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。先祖を偲び、同族相計りて、大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。村上正名撰文
 -- 昭和34年8月 桑原家同族会一同 --

 WEB上で、「桑原伊賀守重信一族墓域修復碑銘」を検索しますと、こんな記載も…

 ◆桑原伊賀守重信一族墓域修復碑姪

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10826188574.html ---

 南北朝戦火に吞まれた悲劇の武将【桑原重信】
 『大可島城跡案内板』より
 桑原重信一族この地に逝きて六百有余歳墓石散逸し、墓域荒廃す。そもそも桑原家は代々、備後国服部永谷に住し椋山城主たり。元弘の頃、備後一の宮櫻山慈俊と共に後醍醐帝に仕え、南朝の忠臣として歴戦し、建武の中興には従五位下刑部少輔に任ぜられ、沼隈郡山南石浦城主となり、鞆城代をも兼ね、南北分るるにのぞみても、あくまで南朝に属し、遂に大可島合戦に一族と共に死す。その後裔一族各地に残り今に至る。先祖を偲び同族相計りて、大可島城址の墓域を修復し、残存せる墓石を集めここに祀る。

 大可島城の築城時期は未だ判明しないが、鎌倉末期から南北朝期に築かれた水軍城であった。と云われている。
 南北朝時代、この城は北朝の拠るところであったが、康永元(1342)年五月、南朝方の伊予の軍船が鞆を攻め、南朝方の大将・金谷経氏はこの城を占拠。
 北朝方も中国地方の兵を鞆に集め、小松寺に布陣。大激戦が行われた。
 この間に南朝方の本拠地である伊予が、北朝の攻撃を受け苦戦中であるとの情報が入り、南朝方の武士は伊予に向って脱出。
 鞆近郷(沼隈町の石浦城主)の武士だった桑原重信は、金谷経氏に乞いて、大可島城に残り篭城。一族だけで北朝方の三千騎を受けとめ奮戦したが、最後は自刃して果てたという。

 …と、こんな歴史がありますようですネ。
 円福寺を後にしますと、次は、「福禅寺対潮楼」に向かいます。

 ◆福禅寺対潮楼
 -- 史跡:朝鮮通信使遺跡・鞆福禅寺境内 平成8年10月11日指定 --

 海岸山千手院福禅寺は、平安時代の天暦年間(950年頃)の創建と伝えられる真言宗の寺院です。
 本堂やそれに隣接する対潮楼は、江戸時代の元禄年間(1960年代)に客殿として建立されました。その客殿からの海島の眺めはすばらしく、特に1711年(正徳元年)朝鮮通信使は、この景観を「日東第一形勝」と賞賛し、従事官李邦彦はその書を残しました。また1748年(延享5年)には正使洪啓禧は客殿を「対潮楼」と命名し、洪景海がその書を残しています。ここが文化交流の場になっていました。福禅寺へ伝来する「対潮楼」などの書6点は、朝鮮通信使に関する記録としてユネスコ「世界の記憶」へ登録されています。

 そのほか、WEB上には、こんな記載がありました。

 ◆福禅寺対潮楼

 --- https://tomonoura.life/spot/12654/ 鞆物語 ---

 渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。
 平安時代の天歴年間(947~957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。
 のち、1638(寛永15)年に、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺の末寺に指定。その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、そのまま、今日に至っています。
 鞆の浦第一の景勝地として昔から愛されてきたこのお寺さん。その歴史を、受付のスタッフさんが親切に教えてくれますよ。ぜひ、お話を伺ってみましょう。

 ・「日東第一形勝」―その賛辞に相応しい絶景
 この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。
 ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」のCDジャケットにも使われたんですよ。
 ◇朝鮮通信使も絶賛した、この絶景

 ・海上安全と安産信仰を集めたご本尊 千手観音
 村上天皇の后となった、この地(備後国赤坂村)出身の新庄太郎実秀の娘・明子は、日頃から千手観音信仰に篤かったといいます。そこで、后となった明子は、故郷に千手観音を祀るお堂を建てたいと思い立ち、空也上人によって「福禅寺」の前身となる「観音堂」が開基されました。ご本尊の千手観音は長い間、本堂の厨子の中で秘仏として安置されていたものです。
 ◇良好な状態で保存されていたご本尊さま、華美

 ◆福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/sights-spots/94875.html ---

 「いろは丸事件」の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所。
 対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ、真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
 座敷からは、穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ、鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
 江戸時代、対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。
 1711年には、朝鮮通信使・李邦彦(イパンオン)がこの対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」と称賛しました。これは、「朝鮮より東で一番美しい景勝地」という意味です。この景色は、アニメ「サザエさん」のオープニングや、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち」のCDジャケットにも使われています。
 多くの人々を魅了した、江戸時代から変わることのない美しい風景を眺めることができます。

 本堂・対潮楼には上がらず、境内のみ拝見し退散のGONsanなのでありました(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(24)

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 ◆円福寺((福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 円福寺(えんぷくじ)は、広島県福山市鞆町鞆にある真言宗大覚寺派の寺院。山号は南林山。詳しくは、南林山 釈迦院 円福寺と号する。

 ◇歴史
 当寺院の前身は、釈迦堂と呼ばれ室町時代には存在していたようであり、沼名前神社の南に位置していた。
 当寺院の建つ場所は戦国時代以前は島であったが、慶長5年(1600年)頃の鞆城建造に伴い陸続きとなった。慶長15年(1610年)頃に大可島城(たいがしましろ)の跡地に移転し、建造されたと伝えられる。江戸時代は真言宗明王院の末寺となっていた。朝鮮通信使が来日した際には上官が宿泊した。
 いろは丸沈没事件の談判の際、紀州藩の宿舎に使用された。

 ◇文化財
 福山市指定史跡--大可島城跡附伝桑原一族墓地

 ◇所在地
 広島県福山市鞆町鞆10

 ◇関連項目
 桝屋清右衛門宅 - 紀州藩が円福寺に滞在したのに対して、海援隊側が宿とした場所。
 御舟宿 いろは - 旧魚屋萬蔵宅。円福寺と桝屋清右衛門宅の中間地点にあったことから、ここが談判会場となった。
 福禅寺 - 魚屋萬蔵宅と同様、談判会場となった。

 境内の一角には、芭蕉の句碑が…

 ◆【芭蕉の句碑】

 疑な うし保のはなも 浦の春

 「くだけちる波(潮)の花をみると、この浦までも新春のめでたさがある。この自然をつくられた神徳を疑うな」
 1777(安永6)年に建てた石碑を再建したものです。碑文は備後の俳諧の指導者、花屋庵鼎左(はなやあんていさ)の筆です。この句の前文に「二見の図を拝みて」とあり、1689(元禄2)年伊勢の絵を見てよんだ画賛です。なお、円福寺の夾明楼(きょうめいろう)は頼山陽の叔父頼杏坪(らいきょうへい)が美しい景色に感嘆して命名したものです。

 本堂脇には、こんな説明板も…

 ◆大可島城跡《たいがしま(おおがしま)しろあと》

 --- 市史跡 昭和39年3月31日 ---

 1342年(康永元年)四国伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力を持つ北朝足利方が燧灘で合戦となり大可島城にこもる南朝方は全滅しました。その後、戦国時代村上水軍の一族が大可島城を拠点に、海上交通の要所である鞆の浦一帯の海上権を握っていました。
 慶長年間(1600年頃)鞆城を築いた時、陸続きとなり、現在ある南林山釈迦院円福寺は、真言宗でこの年代に建てられました。現在の本堂は、昭和初期に再建されたものです。

 他にも、WEB上には、こんな記載がありました。

 ◆圓福寺(大可島城跡)

 --- https://tabi-mag.jp/hm0243/ ---

 広島県福山市の鞆の浦にある真言宗大覚寺派の寺が圓福寺。慶応3年(1867年)4月23日、海援隊を率いた坂本龍馬を乗せた蒸気船「いろは丸」が、紀州藩の「明光丸」と衝突・沈没した「いろは丸事件」。その際、紀州藩側の宿舎となった真言宗の寺が圓福寺。戦国時代前は大可島(たいがしま)という島で、中世の大可島城跡。
 大可島城は、鎌倉時代末期に城が築かれたと推測され、康永元年(1342年)、城主・桑原重信が足利氏に敗北した後は、村上水軍の拠点のひとつにもなっています。
 足利尊氏の庶子で足方直義(足利尊氏の弟)の養子となった足利直冬(あしかがただふゆ)は、貞和5年(1349年)、長門探題に任じられた際(足利尊氏が足利直冬を遠ざけるための策といわれています)、鞆の浦の大可島城に留まって、人心の掌握を図り、上洛を目指します。
 そのため、足利尊氏は直冬討伐令を出し、足利直冬は命からがら海上から九州へと逃れています。
 関ヶ原後に芸備移封の福島正則は、鞆城(現在の福山市鞆の浦歴史民俗資料館)の大改築に入った際、この大可島城を廃城にしています。
 大可島城周辺は埋め立てられ陸続きとなりましたが、辺りの海域を一望できる船番所だけは残されました。
 圓福寺が現在の沼名前神社の南、小松寺の東から大可島城跡に移築されたのは江戸時代初期の慶長15年(1610年)頃。
 幕末に起きた「いろは丸事件」では、坂本龍馬と海援隊は「明光丸」に乗り移り、「明光丸」が「いろは丸」を曳航していましたが途中で沈没。
 坂本龍馬の主張で、現場からほど近い鞆に上陸し、紀州藩は圓福寺を宿所に定めたのです。
 日本最初の蒸気船衝突事件ですが、強引な姿勢の坂本龍馬に、紀州藩は押されるかたちで交渉は進展します。
 往時を偲ぶものはありませんが、圓福寺は朝鮮通信使の上官の宿舎に利用され、歌会の舞台にもなりました。
 ただし、現在の建物は、檀家の森下仁丹創業者・森下博の寄附により昭和初期に再建されたもの。
 高台に位置することから、市街や瀬戸内に浮かぶ島々、晴れていれば四国も指呼のうち。
 鞆港に突き出した江戸時代の波戸場(大波戸)も眼下にします。
 本堂の裏手にある部屋が客殿の「夾明楼」(きょうめいろう)。
 福禅寺の対潮楼、かつての大坂屋の対仙酔楼とともに鞆を代表する客殿で、「夾明楼」という名は頼山陽の叔父で広島藩士・頼杏坪(らいきょうへい/儒学者)の命名。

 ◆大可島城跡(おおがしまじょうあと) 附 伝桑原一族墓地
  市指定史跡 昭和39年(1964年)3月31日指定

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64168.html ---

 ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があった。
 康永元年(1342年)、伊予の南朝軍は西国に勢力をのばそうとして、新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが病死したため、北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立った。南朝軍は金谷経氏を大将として土居、得能氏らが川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流された。そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えた。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返した。北軍は桑原氏を滅ぼし鞆は再び北朝側に帰した。
 世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられている。

 円福寺本堂裏に廻りますと、弁天島、そしてその後方に仙酔島が眺望出来ますけど、ここからの景観も美しいですネ(^_^)v
 円福寺境内に入ります入口の石段脇には、桑原一族の墓と伝えられています石塔が(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(23)

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 雁木沿いを歩いておりますと、胡神社の力石が…

 ◆福山市重要民族文化財「鞆ノ津の力石」

 --- 2000年(平成12年)9月22日指定 ---

 江戸時代、船積荷物の陸揚げ・積み込みに従事する仲仕たちが、祭礼の場などでこの力石を持ち上げて、その力と技を競ったものです。
 花崗岩製で、重さ140kg~200kg(37~54貫目)。
 ここに3個あり、沼名前神社に20個あります。

 --- 福山市教育委員会 ---

 円福寺に上がります北側入口には、「夾明楼 上り口」の石碑が…

 ◆【夾明楼(きょうめいろう)】

 大可島城跡は、毛利水軍(元就時代)の軍事拠点であり、現在でも当時の「舟隠場」が残されています。
同史跡内にあります円福寺の座敷「夾明楼」(きょうめいろう)は有料で公開されており、紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判るなど、水軍根拠地の意味を確認できます。
 慶長年間(1600)年頃陸続きとなり、現在ある円福寺は真言宗でこの時代に建てられました。
 円福寺の夾明楼という呼び名は頼山陽の叔父・頼杏坪が美しい景色に感動して銘々したもの。 江戸時代よりここで句会が盛んに開かれています。同史跡内にあります円福寺の座敷「夾明楼」(きょうめいろう)は有料で公開されており、紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判るなど、水軍根拠地の意味を確認できます。

 「夾明楼 上り口」の石碑下の路地を進みますと正面に、4つ星ホテル『汀邸 遠音近音』ですネ。

 ◆汀邸 遠音近音(Migiwatei Ochi-Kochi)

 --- 古きを温ね新しきを知る心の故郷 https://www.ochikochi.co.jp/ochikochi/ ---

 ・Ochikochi~汀邸 遠音近音~
 【遠音近音(をちこち)】:「遠近」と書いて、〝をちこち〟と読まれます。
 鞆の浦には、波のささやき、海鳥の歌、波間を渡る風の声、仙酔島にこだます船のリズムと、耳に快い幾つもの音が溢れます。「遠く(をち)、近く(こち)、奏でられる音色に包まれるとき、人はふと懐かしさで満たされるもの。心をそっと解きほぐす遠音近音(をちこち)に導かれ、想いは遥か海の彼方や古き時代へ。」広島県・鞆の浦温泉 汀邸 遠音近音(みぎわてい をちこち)で、心に残るひとときをお過ごしください。

 ・それは古きを温ね新しきを知る心の故郷
 瀬戸内海の中ほどに位置し、いにしえより海運の要所として栄えてきた鞆の町。歴史を鮮やかに彩ってきた面影が、今も何気ない風景のそこかしこに残っています。当館の顔である木造本瓦葦べんがら塗りの正面玄関は、往時の建築物を再生したもの。汀邸 遠音近音の前身、宿屋籠藤は、多くの文人に愛された宿でもありました。時代を闊歩した人々の息遣いが聞こえてきそうな、趣ある佇まいでお出迎えいたします。

 ・遠音近音のおもてなし
 手ごろなスタンダードツインから70㎡を越えるアッパースイートまで、多彩なゲストルームをご用意。ご夕食は新鮮な魚介をメインに四季折々、変化に富んだ瀬戸内の旬を厳選。ルーム・アメニティは上質なものをセレクト。居心地のよさを感じていただけます。お客様の特別な日を演出するオーダーメイドサービスで、鞆の浦での滞在がより素敵な時となりますように。

 …と、「汀邸 遠音近音」の公式サイトには、こんな記載がありました(^-^)
 それでは、石段を上がり円福寺へと向かいます。途中には、「崖の上の『ぼす・きゃっと』」が…

 ◆崖の上のレストラン ぼす・きゃっと

 ・住所--〒720-0201 福山市鞆町鞆
 ・電話番号--084-982-1920 御船宿いろは
 ・営業時間--予約制 営業日:月・水・木・金
 ・駐車場--あり
 ・紹介--2013年11月にオープンした予約制レストラン。鞆の街並みを見下ろす高台にあることから「崖の上のレストラン」と命名。料理は「御船宿いろは」のシェフが作る自家製天然酵母のパンを瀬戸内の旬の食材でいただくランチコース。一人前2,625円(4日前までに要予約)
 ※ 2013年11月21日放送分「ここからっ!TSS」」の情報です(^-^;

 「ぼす・きゃっと」入口付近にはネコ小屋が…このニャンコ達は、何者なんでしょうねぇ(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(22)

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 それでは、次に、常夜灯のあります鞆の港に向かいます。

 ◆常夜燈

 --- https://tomonoura.life/spot/12679/ 鞆物語 ---

 鞆港西側の雁木の南端に立つ常夜燈(とうろどう=燈籠塔)は、何と言っても鞆の浦の1番のシンボルです。「安政六年己未七月」(1859年)に建造されました。
 南に弓状の港を有する鞆の浦は多島海の天然の良港で、豊後・紀伊水道がぶつかる瀬戸内海の中央部に位置し、“潮待ちの港”として栄えました。
 1826年、オランダ商館の医師・シーボルトは『江戸参府紀行』の中で「活気に溢れた町」と記しています。その港町の海上安全を支えたのが、この常夜燈なのです。

 ・“海上闇夜東西を失いし時”の燈台―海上安全のために
 竿柱の南面に「金毘羅大権現」、北側に「当所祇園宮」の石額を掲げていて、海上安全の守護神に対する寄進燈籠という形式をとっています。
 1871年の公文書に「油一日五勺、燈しん一日五厘」とあり、当時は油(ニシン油)の燈火で海を照らしていました。
 ◇石額の文字―金毘羅さんも祇園さんも海上安全の神様なんです

 ・江戸時代の港湾施設5点セットの現存は奇跡的
 江戸期の港湾施設である常夜燈、雁木、波止場、焚場跡、船番所跡がほぼ完全な形で現存しているのは、全国でも鞆港だけなんです。
 ちなみにこの常夜燈は、海中の亀腹型石積まで含めると10mを越す大きさで、港の常夜燈としては日本一。瀬戸内の誇れる景観です。
 ◇威風堂々、常夜燈のある景観―これぞ鞆の浦

 ・鞆の浦にはもうひとつ常夜燈があった!?
 現在残る常夜燈は、太田家(当時は保命酒屋・中村家)がある西町が勧請して寄進したものです。対して、反対側の波止の先端には大坂屋が寄進した唐銅燈籠(からがねどうろう)が建っていたといいます。明治15年の水害で流されたもうひとつの幻の燈籠。
 ◇この湾を東西から挟むようにふたつの常夜燈が…ロマンですね

 「いろは丸展示館」前には、さすがに観光客が多いようでしたネ。

 ◆いろは丸展示館

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 いろは丸展示館(いろはまるてんじかん)は、広島県福山市鞆町にある、備後灘で1867年5月26日に起こったいろは丸と明光丸の衝突事件の概要を展示する博物館である。1989年(平成元年)7月に開設された。

 ・概要
 展示館は鞆の浦のシンボル「とうろどう」(常夜灯)のすぐ手前に位置する、「大蔵」と呼ばれる江戸時代築の土蔵(国の登録有形文化財)を利用している。
 同館では、慶応3年(1867年)に備後灘で沈んだ「いろは丸」の引き揚げ物などの関連資料を、沈没状況のジオラマとともに展示、紹介している。
 2階には坂本龍馬の隠れ部屋が再現されていて、高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作による等身大の龍馬の蝋人形が置かれている。
 地元の鞆酒造株式会社が運営している。

 ・展示内容
 沈没状況のジオラマ - 海底20mに眠るいろは丸の一部を原寸の70%で再現 壁面のイラスト、ジオラマの造形は高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作。
 いろは丸より引き揚げられた陶器や部品
 坂本龍馬の隠れ部屋ジオラマ(現実に滞在した邸宅の桝屋清右衛門宅も福山市鞆支所隣に現存し、公開されている。)手に万国航法を持ち鎮座するは、高知県の造形作家・岡本驍(たけし)の作による等身大の龍馬の蝋人形

 ◆鞆の港

 --- 福山市鞆町 ---

 瀬戸内の中央に位置する鞆は内海の潮の干満の分岐線にあたります。
 内海を航行する多くの船はこの潮に乗っての航法であったので「潮待ち」をここでおこないました。こうしたことが多くの伝説を生み、万葉集に歌われることとなり、中世から近世にかけて歴史上の舞台として度々登場してきたゆえんであるといわれています。
 この船着場の雁木は文化八年(1811年)に、常夜灯は(安政六年<1859年 再建>)に造られたもので、いずれも花崗岩製です。
 なお、船着場に臨む建物は背後の保命酒問屋旧中村家(県史跡鞆七卿落遺跡)に関連するものです。
 明治以降、鉄道の開通、汽船の就航等により「潮待ち」をする船もなくなってしまいましたが、今日でも、当時の港の活況を彷彿させる港湾施設がよく残っています。
 沖に突出する波止・常夜灯・雁木とよばれる階段状の船着場・港に面している豪商、廻船問屋とその土蔵等々、江戸時代の港町鞆の繁栄ぶりを示すものである。

 --- 2015年(平成27年)3月 福山市教育委員会 ---

 ◆太田家住宅・太田家住宅朝宗亭 鞆七卿落遺跡

 ・重要文化財 平成3年5月31日指定
 ・県史跡 昭和15年2月23日指定

 維新の夜明けも近い1863年(文久3年)8月18日、尊皇攘夷を主張する三条実美ら七人の公家は、公武合体派に追われ都落ちをしました。一行は、ここ旧「保命酒屋」に立ち寄り、その時、三条実美は、保命酒(竹の葉と表現)をたたえる和歌を残しました。主屋の太田家住宅と向いの別邸「朝宗亭」は、18世紀中頃~19世紀初期の建物であり、共に国の重要文化財に指定されています。
 『世にならす 鞆の港の竹の葉を 斯くて嘗むるも 珍しの世や』

 建物の2階軒先には「杉玉」が…別名 酒林(さかばやし)と呼ばれています。造り酒屋で新酒が醸造されると、緑の生き生きとした杉の葉で杉玉を造り、軒先に吊り下げて、新酒ができた事を知らせていたとの事です。

 ◆杉玉

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 杉玉(すぎたま、すぎだま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる。「搾りを始めました」という意味である。

 ・概要

 <発祥>
 奈良県にあるお酒の神様を祭る大神神社の文化だったといわれる。大神神社では、毎年11月14日に「おいしいお酒ができるように」という願いを込めて杉玉を飾ってきたが、その習慣が江戸時代初頭から全国の酒蔵へ広まった。大神神社がある三輪山周辺にはスギが多く自生し、三輪山のスギは聖なるものとされているため、スギを使った杉玉ができたとされている。本来は三輪山のスギで作られた杉玉を飾ることが習わしだったが、現在では各地の酒蔵が独自に製造したり、業者に依頼して作っていることが多い。

 <意味>
 杉玉はおおむね2月~3月に飾られるが、この時期は新酒の季節であり、杉玉には「今年も新酒ができましたよ」という目印になる。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。緑色(2月~6月頃)は新酒の季節、薄い緑(初夏~夏頃)は夏酒、枯れた茶色(秋頃)はひやおろしの季節というように、日本酒造りの時期と杉玉の色は同調しており、杉玉の色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を伝える。

 今日では、酒屋の看板のように受け取られがちであるが、元々は酒の神様に感謝を捧げるものであったとされる。
 俗に一休宗純の作とされるうた「極楽は何処の里と思ひしに杉葉立てたる又六が門」は、杉玉をうたったものである。
 スギの葉は酒の腐敗をなおすからスギの葉をつるすという説もある。

 …と、こんな「杉玉」であります。
 残念ながらGONsanは、吊るされたばかりの、まだ蒼々としている杉玉は眼にした事はありませんネ(^-^;
 それでは、鞆の港を眺めながら雁木沿いに進み、次は、「円福寺」に向かってみます事に(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(21)

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 それでは、次に、「鞆城跡」に上がってみます。ここには、「鞆の浦 de ART 2022」の作品の展示がありました。
 鞆城跡の広場周辺に存在しますモノをササッとご案内致しますと、

 ◆アブラハム・デイヴィッド・クリスチャン

 アブラハム・デイヴィッド・クリスチャンはドイツを代表する彫刻家のひとり。若干19歳でドクメンタ5(1972)に参加し、翌年のデュッセルドルフ美術館での初個展以降、ドイツやアメリカをはじめ世界各地で活躍。日本では神奈川県葉山町のアトリエを構え、長年にわたって制作拠点としている。
 ルネサンス美術、アルベルト・ジャコメッティやデイビッド・スミスら20世紀の抽象表現、そしてアフリカの原始美術や仏教美術に影響を受けてきたクリスチャン。紙やブロンズによる彫刻、またドローイングは、これらの要素が組み合わさりながら均衡を保っている。

 …と、こんなアーティストのようであります。
 そして、「ふくやまアートプロジェクト実行委員会」をWEB上で検索してみるのですけど、う~ん、よく分かりません。が、福山市内のアチコチで「ふくやま彫刻プロジェクト」により設置されましたアート作品は見掛けます。
 どぅにか『ふくやまアートプロジェクト実行委員会』に関します記述を見つけますと、こんな記載が…

 福山郵便局前交差点・北西(福山郵便局前)の、山本眞輔《躍動》(1996設置)。ふくやま彫刻プロジェクト。福山市、ふくやまアートプロジェクト実行委員会による設置。福山市とその周辺の市町村で、「ふくやま彫刻プロジェクト」を名乗った野外彫刻をよく見かける(先日行った尾道市御調町にもあったし、井原市でも見かけた)。これは1989年~1998年ころまで行われた「ふくやまアートプロジェクト」の一環として、福山市や周辺自治体と、ふくやまアートプロジェクト実行委員会が設置したもののようだ。他に展覧会なども開催しているようだが、ネットを検索する限りでは、今ひとつ実態がわからない。図録なども出ているようなので、近々チェックしたいと思っている。

 …と、こんな記載で、ふ~ん、「ふくやま彫刻プロジェクト」の実態は、よく分かりませんようですネ(^-^)
 それでは、何度も訪れています鞆城跡ですけど、暫し、敷地内を散策です。

 ◆佐藤 徹

 2021.08.30 広島県福山市に生まれる。
 名古屋芸術大学大学院を卒業。

 ・展覧会歴
 日本彫刻会 会員
 愛知県作家団体(石田清発足)創彫会 会員
 鞆の浦deアート運営委員
 広島市中区 三親電材 本店ビル内エントランスに大型作品「誠実・奉仕・躍進」
 福山市 双葉電機本社前にブロンズ作品「喜働」社内にもその他作品展示

 ・社会活動
 日本彫刻展
 創彫会彫刻展
 Metal Works34th
 鞆の浦deアート
 愛知県・東山動植物園
 緑の中の彫刻展
 ルクシアタふくやま

 ところで、佐藤徹san創作の、この『アマビエ』とは何なんでしょうねぇ~これも、WEB上で検索です。

 ◆アマビエ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 アマビエは、1846年5月(弘化3年4月)に現在の熊本県にあたる肥後国海上に出現したとされる日本の疫病封じの妖怪。海中から光を輝かせるなどの現象を起こし、豊作や疫病などに関する予言をしたと伝えられる。
 同種と考えられる存在にアマビコやアリエなどがある。

 ・概要

 江戸時代後期に製作されたとみられる瓦版に類する刷り物に、絵と文とが記されている。肥後国(現・熊本県)の夜ごとに海に光り物が起こったため、土地の役人がおもむいたところ、アマビエと名乗るものが出現し、役人に対して「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作がつづく。しかし同時に疫病が流行するから、私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行ったとされる。また、予言をするだけで、疫病の流行を鎮めるかについては言及がない。
 瓦版に弘化3年4月中旬(1846年)という記載があることから、その年に出版されたものであると考えられている。姿形については添えられた挿絵(アマビエを目撃したとされる役人がその場で姿を写した「アマビエの絵」が江戸に送られて来ており、その「写し」であると文には書かれている)が存在しているが、本文には「図の如く」(原文「づの如く」)とのみ記載されており、文章による具体的な特徴の描写は無い。
 アマビエについての記録の類は、上記1種類の瓦版でしか確認されていない(熊本県にそのような目撃譚や伝説が伝承されて来た事実も確認されていない)が、類似性の高い内容が記載されているアマビコと呼ばれる妖怪の資料群との比較から、アマビコが誤記された例のひとつではないかという説が、1999年に湯本豪一によって指摘されている。姿かたちなどは異なるが、予言と除災という内容を持つほぼ同様な性質で描かれた妖怪たちは、ほかに件、白沢、神社姫、海出人、亀女など数多く存在しており、これらも瓦版や写本などの形で残されており、アマビコやアマビエと大同小異の内容の文章がいっしょにつけられている。

 …との事であります。
 「鞆の浦 de ART 2022」の展示作品『アマビエさん忘れない』の付近には、「むろの木」と大伴旅人の歌碑が…

 ◆鞆之浦の 磯の杜松(むろのき)見むごとに 相見し妹は 忘らえめやも

 読み:とものうらの いそのむろのき みんごとに あいみしいもは わすらえめもや
 447 作者:大伴旅人
 ・現代語訳
 鞆の浦の磯のむろの木を見るたびに、これを一緒に見た妻が忘れられようか 必ず思い出すであろう。
 ・解説と鑑賞
 「めもや」は反語で、「忘れられるだろうか、いいや忘れられやしない」を短く言う時の表現です。

 ◆鞆城跡

 --- 市史跡 1976年7月13日指定 ---

 ここは鞆城の本丸跡で、丘陵を利用して壮大な二の丸・三の丸が築かれ、東端は福禅寺、北端は沼名前神社参道、南は港に面していた。毛利氏が築いた城を、慶長5年(1600年)安芸・備後の領主となった福島正則が修築した。慶長12年(1607年)の朝鮮通信使の日記に「崖上に新しく石城を築き、将来防備する砦のようだが未完成である。」と記しており、その時、建設中だったことが知られる。
 元和元年(1615年)の一国一城令に先立って廃城となり、正則のの後を受けて入封した水野勝成は、長子勝俊の居館を三の丸に置いた。勝俊が福山藩主となって以降は、江戸時代を通して町奉行所が置かれた。

 …と、こんな説明板も。
 赤い鳥居の神社もありますので向かってみますと、鳥居には『正一位早毛利稲荷神社』の記載。

 ◆早毛利稲荷神社

 この神社は鞆の浦を見下ろす小高い丘の上、歴史民族資料館の建つ鞆城本丸跡に鎮座しています。城跡には鞆城の案内は有ったのですが、この社の案内は無く、御祭神・勧請年月・縁起・沿革等は全て不明です。推測ですが、この地は安土桃山時代に毛利氏の所領となり、鞆の浦には毛利氏の擁護の元、室町幕府15代将軍足利義昭が滞在したこともあり、毛利氏にちなんだ社で、お城の鎮守社だったのではないかと考えています。

 …と、WEB上には、こんな記載がありましたネ(^-^)
 そして、楽聖「宮城道雄先生」の像が。台座の側面には、こんな記載がありました。

 ◆楽聖 宮城道雄先生を讃える

 宮城道雄先生(27年生 昭和31年没 1894-1956)は、鞆町出身、菅國治郎の長男として神戸に生まれた。
 8歳の時失明、志を箏曲の道に立て、二代目中島検校の門に入る。後、韓国の仁川京城を経て東京に居を定め、ひたすら邦楽の神髄を追求して新日本音楽の新境地を確立。演奏作曲の面においても斯道の縕奥を極め、その名は広く世界に知られている。
 先生は自らの魂の救いとして「我が故郷は鞆の浦」と、常に父祖の地への想いを馳せておられたと聞く。宮城音楽の不朽の名作「春の海」らは鞆の浦の海の香、潮騒などが表現されているように感じられる。
 文化勲章受章者圓鍔勝三先生制作のこの像は、鞆信用金庫創立60周年記念事業として建立された郷土の誇り宮城道雄先生の偉徳と功績を、とこしえに讃えるものである。

 -- 平成2年(1990)9月吉日 --

 それでは暫し、鞆城跡から鞆港を眺望です(^-^)//"

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 山門を潜り境内へ。
 地蔵院には全国で唯一、口元に歯をのぞかせている『木造十一面観音立像』が安置されていますようですけど、GONsanは、何度も訪れてはいるのですけど、今まで一度も拝観した事はありません(^-^;
 多分、本堂内に安置されていますのでしょうねぇ~
 WEB上の記載を引用し、地蔵院をご案内です(^-^)//"

 ◆地蔵院

 --- https://tomonoura.life/spot/12665/ 鞆物語 ---

 鞆城跡のこんもりとした高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。

 ・全国でもここだけ!歯をのぞかせた観音様?
 地蔵院には全国で唯一、口元に歯をのぞかせている「木造十一面観音立像」が安置されています。左足を一歩前に踏み出し、今まさに苦しむ人びとを救いに行かんとする構え。尊いです。また金剛健歯観音とも呼ばれ、歯の健康を守る珍しい仏様として全国より信仰を集めています。
 ◇わずかに歯を覗かせる観音様―衆生を慈しむ表情です

 ・静謐な中にやすらぎあり―、静かに佇む十三仏
 本堂の横には「仏庭十三仏・やすらぎ苑」があります。個性溢れる石仏がお祀りされていて、なんとも不思議な雰囲気を感じます。鞆の浦で見つけた、霊妙な地。ぜひ、この空気に触れてみて下さいね…さて余談。この境内には袈裟姿のタヌキの置物もあるんですよ。さあ、訪ねて見つけてみよう!
 ◇集まる石仏―梵字も相俟って、雰囲気あります

 ◆真言宗 地蔵院

 --- https://risetu.net/03mati_tanken/21fukuyama/338/3380/3380-4383Ajizouin/3380-4383Ajizouin_1.html ---

 福山市鞆町後地1323-1 標高:807m

 鞆城跡の高台の南西あたりに位置する「鶴林山地蔵院」。この地蔵院は、慶長年間の後半に徳川家康が立案し、徳川秀忠が発令した「一国一城令」のため廃城となった鞆城の二ノ丸の跡地に再建された、真言宗のお寺です。
 1408(応永15)年に宥真法師によって中興され、室町時代には将軍家の祈願所とされていたようです。金色に輝く本堂には、ご本尊である秘仏地蔵菩薩が鎮座。中国地蔵尊霊場第八番として信仰を集めています。また、山門や本堂脇には達筆なご説法が貼られており、じわっと心に染み渡ります。
 元和元年(1615)の一国一城令で廃城となったと言われていましたが、慶長14年(0609)、徳川家康の苦言を正則が受け入れて廃城となったというのが新説です。廃城の後は城山の北側の麓に町奉行所が置かれ、二の丸は地蔵院という寺に、三の丸は町家になりました。
 真言宗の祖「空海」は、『十住心論』というものを書いて、仏教を超えて世俗の教えから最高の教えである真言密教まで、全てを見事に体系化していきます。そこで完璧なものができてしまっているので、そこからさらに展開していくのが非常に難しかった。
 欧米と違い、日本では完璧なものは受け入れにくい面もあるようです。
 「曖昧」な部分があることで、いろいろな宗派が生まれた比叡山が日本の風土に合っているようです。曖昧さの中で、いろいろと新しいものが生み出されていますから。

 鞆の浦にも、事業に成功した豪商は、お寺を支援する風土があったのでしょうか。
 全国でもここだけ歯をのぞかせた観音様「木造十一面観音立像」がおられます。左足を一歩前に踏み出し、今まさに苦しむ人びとを救いに行かんとする構え、尊いです。また金剛健歯観音とも呼ばれ、歯の健康を守る珍しい仏様として全国より信仰を集めています。
 釈迦の没後、弥勒仏が出現するまでの無仏の期間、六道で苦しむ衆生を教化・救済する菩薩。日本では平安時代から広く信仰されるようになりました。密教などでは菩薩形をとるが、一般には左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、頭を丸めた僧形の像で親しまれています。六道の救済に当たることから六地蔵の信仰が生まれました。
 また、子供を守り、幼くして死んで賽(さい)の河原で苦しむ子供を救済すると信じられ、子守地蔵・子育地蔵などが生まれました。

 十三仏(じゅうさんぶつ)は、十王をもとにして、室町時代になってから日本で考えられた、冥界の審理に関わる十三の仏です。また十三回の追善供養(初七日~三十三回忌)をそれぞれ司る仏様としても知られ、主に掛軸にした絵を、法要をはじめあらゆる仏事に飾る風習が伝えられています。
 十三の仏とは、亡くなった人が極楽浄土へと進めるように導いてくれる閻魔王を初めとする冥途の裁判官である十王と、その後の審理(七回忌・十三回忌・三十三回忌)を司る裁判官の本地とされる仏達です。
 十三の仏は、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩、です。

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(19)

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 廃墟となりましたカフェ跡を横目に路地裏を下っておりますと、2ヶ所ばかり祠が…この狭い路地も医王寺への参道なのかも…
 民家裏の路地を下って行きますと、海岸沿いに到達で、鞆港~走島間を結びますフェリーが入港しておりました(^.-)☆
 そして、スグ近くには「渡守神社御旅所」が…WEB上で「渡守神社御旅所」を検索しますと、

 ◆渡守神社 御旅所

 福山市鞆町江ノ浦元町にある渡守神社御旅所は神功皇后が上陸された地で、綿津見大神が最初に祀られた地です。鞆港には昔、干潮時に船底を木の葉(松葉等)で薫したり、修理をする施設焚場跡があります。

 ◆渡守神社 御旅所

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10762850397.html ---

 【御旅所(おたびしょ)】
 神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩、または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。
 御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。
 御旅所には神社や祭神にまつわる場所や氏子地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮、摂末社や配偶神を祀る神社などのような社殿があるもののほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設けたり、氏子の代表(頭人)の家に迎える場合などがある。

 【渡守神社 御旅所】
 渡守神社御旅所は神功皇后が上陸された地で、綿津見大神が最初に祀られた地。
 棟札には「舟玉神を祀り渡守大明神と号す」と記されており、神功皇后伝説にちなんで、また同じ(沼名前神社)境内に鎮座する八幡神社の縁起もからみ諸説あるようです。

 ◆渡守神社

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10191924620.html ---

 【渡守(わたす)神社】沼名前神社境内に摂社として鎮座

 近世には、沼名前神=渡守大明神は隠岐の知夫利大明神を勧請した猿田彦命、船玉命(船の神霊)と考えられていた。幕末に『福山史料』を著した菅茶山はこれを批判した。
 「渡(わたす)明神」とは渡海安全を祈っての名であり、猿田彦命はあくまでも道路の神であって海の神ではない。他国に和多理(わたり)神社、度津(わたつ)神社あってみな海神を祀っており、渡明神もワタツミの神を祀ったものである」とした。そして、その説が踏襲される。
 その創祀伝承には諸説あるが、大筋では共通、現在は以下のように伝わっている。

 <創祀伝承>
 神功皇后が三韓征伐の時にこの地へ立ち寄られたとき、海中より方二尺余の霊石が浮かび上がった。皇后は不思議なことだと石を船にお上げになり、この地の名を訊ねさせた。
 問われた浦人たちは、「ここは吉備国の南海辺と申します」と奏上した。
 皇后はまた、この地に神はおわすかどうかを訊ねさせると、浦人は、「神はおわしになりません」と奏上した。
 そこで皇后は斎庭を設け、神籬を立ててその霊石をご神体としてお祭りし、自ら浦人に、「今より後、神社を建ててこの神を斎(いつ)き奉れ」と詔され、霊石をお渡しになった。

 他の伝承では、
 このときに皇后が武具の鞆などを浦人に授けた、あるいは御船の艫を港に着けていた、そのことから皇后がこの地を「トモ」と名づけた、という地名起源伝承となっている。
 また、素戔嗚尊が南海に渡る時にここへ鞆を落としたから、ともいう。
 地名については、古い地誌に「山の連なる地形と弓形の海岸線が射具の鞆を連想させることから名づけられた」としているものもある。
 伝説では素戔嗚尊は戸手(素盞嗚神社)で一泊した後、ここでも一泊したとされ、その時に宿を貸したという「しふかき」という者の子孫という「渋柿屋(志ぶがき屋)」の者が、神官の一人として祇園祭において重要な役割を果たしていたことが江戸時代の地誌に見える。

 …と、こんな記載がありました。
 渡守神社御旅所には、こんな説明板が設置されておりました。

 《渡守神社御旅所由来》
 神功皇后挑戦征伐の砌、此浦に泊し給ふ。
 尺餘の霊石海中より湧出たり。
 皇后奇まして御船に上せ給ひ、浦人に此處は何方ぞと問せ給へば、浦人等は吉備国の南浜辺と奏す。
 又此地に神在やと問せ給ふに、神在ずと奏せり。
 因て皇后斎場を設け、神籬を樹て、彼の霊石を神實と為て親ら綿浦人等に、今より後神社を建て、此神を斎き奉れと詔給て神實を渡し給ふ。
 此の地、すなわち綿津見大神御上陸の處と伝へ、古より渡守神社御旅所として今に及べり。

 …と、こんな『渡守神社御旅所』のようであります(^.-)☆
 それでは次に、「地蔵院」に向かってみます。その途中、「岡本亀太郎本店」を横目に通過となりました(^-^)//"

 ◆岡本亀太郎本店

 --- https://www.honke-houmeishu.com/kame/index.html ---

 ・中村家より受け継いだ、伝統と味
 江戸時代、独占した製造販売の許可をもらっていたのは最初に保命酒を造った中村家だけであります。
 保命酒は万治2年(1659年)大阪の漢方医であった中村吉兵衛氏によって、元々この地で醸されていた「吉備の旨酒(現在の味醂酒に準ずる)」に生薬16種を漬け込み作られた薬酒でした。
 その伝統の技を受け継いだのが、当時中村家と懇意にしていた岡本亀太郎です。岡本家は道具一式を譲り受け、保命酒の醸造に本格的に乗り出しました。
 店内に鎮座する『大きな龍の看板』も、当時中村家から譲り受けた由緒正しい看板です。

 ・店舗は市重文「岡本家長屋門」
 岡本亀太郎本店の蔵元直営店舗は、かつて福山城内にあった長屋門です。
 明治六年(1873年)廃城となり民間払い下げを行っていた福山城内の建物の一部を譲り受け、海路を船により運び、現在の地に移設されました。
 門扉や門構えは城内の長屋門としての形式を良く残しており、材質(けやき)・規模より考察して、江戸時代初期の福山城郭内の遺構として貴重な建物であるとして、福山市の重要文化財に指定されています。⇒ 福山市HP(https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/5158.html)

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(18)

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 観光客の皆様は、ソロソロ退散のご様子ですから、GONsanも医王寺からお別れです。太子殿に登って鞆の港を眺望したい気持ちもありましたけど、春に上がっていますので、今回はスルーします事に(^-^)
 観光客のグループは、往路の参道を下りて行かれましたから、GONsanは山門側の参道を下ります事に…山門の仁王像、永い歴史を感じさせます風貌ですネ。
 山門から少し下って行きますと、右手に「平賀源内生祠」が…説明板には、こんな記載がありました。

 ◆平賀源内生祠

 --- 県史跡 昭和46年2月23日指定 ---

 蘭学者、平賀源内(1728~79)は讃岐・志度村(現・香川県さぬき市志度町)の生まれで、植物学・科学・劇作など多くの分野で活躍した人物です。長崎で学んだ帰り、鞆の浦の溝川家に立ち寄りました。その時、ここで陶土を発見し、オランダや中国の陶法を取り入れた源内焼きの製法を伝えました。源内が自分の生前中に神としてまつるように言い残したので、1764年(宝暦14年)、溝川家は三重の石塔の三宝荒神をまつりました。生存中に神としてまつることを生祠といいます。

 それでは、近道して参道入口辺りに向かいます事に(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(17)

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 境内には、大伴旅人の歌碑が…
 『磯の上に根這う むろの木見し人を いつらと問はは 語り告げむか』

 ◆磯の上(うへ)に根這(ねは)ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか

 --- http://manyou.plabot.michikusa.jp/manyousyu3_448.html ---

 -- 巻三(四四八) --
 磯の上に根を這わすむろの木に、かつて見た人は何処に居るかと問えば語って教えてくれるだろうか。

 この歌も巻三(四四六)や巻三(四四七)の歌と同じく、大伴旅人(おほとものたびと)が、大宰師(大宰府の長官)としての三年近い任期を終えて奈良へ戻るときに詠んだ五首のうちの一首で、大宰府で亡くなった妻を偲ぶ歌。
 かつて共に妻が見たむろの木に、「あの時一緒におまえを見た妻はいま何処に居るかと問えば、語って教えてくれるだろうか。」と問い掛けているわけですが、これは見事な根を這わせ、人間よりも長く存在しているむろの木ならば、死んだ人間の行先も知っているだろうかとの意味が込められているのでしょう。
 旅人が大宰府に居る間に山上憶良たちと作り上げた筑紫歌壇といわれる新風は、歌の世界に広がりをもたらすと同時に、反面で後の世の歌につながる固定された美意識や世界感を生み出す一歩ともなったのですが、旅人自身の心の中にはまだまだ古来からつづく万葉人らしい神霊崇拝的な精神が深く残っていたようですね。
 この歌でも、「妻の魂の居場所が分かるならたとえあの世にだって今すぐにでも逢いにゆきたい」との、そんな旅人の切ない願いがひしひしと感じられる一首になっているように思います。
 (まあ、もっとも、その旅人の願いはそう遠くない未来に旅人の死によって叶うことにもなるのですが…)

 この歌碑の左側には、こんな説明板がありました。

 ◆大伴旅人
 「鞆の浦亡妻挽歌」三首の内の一首 万葉集巻三-四四八番歌

 天平二年(730)十二月、太宰府の長官だった大伴旅人は、大納言兼任となって都に上る途中、「鞆の浦のむろの木」を詠った三首の歌を残した。その三首目がこの歌で、他の二首の歌碑は対潮楼の崖下と歴史民俗資料館の前庭に建っている。
 「磯の上にしっかり根を張って立つむろの木よ。太宰府へ下る時、私は妻や息子といっしょにお前を見たのだ。しかし、その妻はもうこの世にはいない。私の愛する妻が今どこにいるのか尋ねたら、お前は私に教えてくれるだろうか。」
 こう、むろの木に問いかける旅人は、神亀五年(728)の初め太宰府に下ったが、まもなく妻を亡くし悲嘆にくれた。一方、奈良の都では、翌神亀六年二月の長屋王の変によって、光明皇后が誕生し、藤原氏の全盛時代を迎えようとしていた。
 子息 家持を伴い、亡き妻の思いを胸に帰京した旅人は、翌天平三年(731)七月、萩の花を気にかけながら、静かに六十七年の生涯を閉じた。

 -- 2010年4月27日 鞆の浦ロータリークラブ創立四十周年記念 --

 境内には、医王寺の説明板もありましたネ。

 ◆医王寺

 桃林山慈眼医王寺は、平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院です。
 本尊は木造薬師如来立像で県の重要文化財に指定されています。
 慶長年間(1600年頃)福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄蕃がこれを再興しました。現存する鐘楼は1642年(寛永19年)福山藩主水野勝成の建立、本堂は1685年(貞享2年)四代水野勝種の再建したものと伝えられています。
 ここから15分ばかり登った所にある太子殿からの展望はすばらしいものです。1826年オランダ商館長の随行医師シーボルトはツツジやなどの観察のためにこの小径を登り、植物・昆虫を採取しました。

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「水野勝成と徳川四天王」展…う~ん、残念ながら行けませんでした(^-^;

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 本日午後は、GONsanの安全パトロール当番日。定刻、10分ばかり前に安政橋東詰めに出掛けまして、暫し待機となりました。
 藤井病院の建設現場、工事は順調に進捗していますようで、次は3階部分の工事に入られますようですネ。我が家周辺に病院が増えますのは、高齢へと駆け足で向かっていますGONsanにとりましては嬉しいのでありますが、この周辺のお宅の皆さんは、どうなんでしょうねぇ~
 3階以上の建物が出来ますと、少々うっとぅしぃ気持ちになられますかも…う~ん、何とも言えませんねぇ~
 とりあえず、また2枚ばかりパチリです(^.-)☆
 ところで、孫達は、今月初めに、リニューアル後の福山城博物館に出掛けましたようです。ついでに、せっかくですから、ふくやま美術館にも入ればいぃのに、福山城博物館のみで退散しましたとか…で、使用しなかった入館券を貰っておりました。
 その内、出掛けよう…と思っていたのですけど、「水野勝成と徳川四天王」展は、昨日(11/20)までの開催でしたのですねぇ~
 つぃウッカリ、開催期限到来を忘れておりまして、う~ん、残念、行けませんでしたネ(^-^;
 また、いつの日か、こんな「水野勝成と徳川四天王」展の開催がありますのか否か分かりませんけど、せっかくの機会でしたのに本当に残念でありました(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(16)

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 後山山荘とお別れしますと、次は「医王寺」に向かいます。医王寺には、10名ばかりのクループの先客が…
 医王寺境内からは、眼下に、鞆の港・常夜灯・圓福寺・仙酔島・玉津島…等が眺望出来まして、実にイィ景観であります(^-^)//"

 ◆医王寺(いおうじ)

 平安時代、弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺。後山の中腹に建つことから、眺望の良さでも有名です。
 境内からの眺めはもちろん、裏山の中腹にある「太子殿」からは、鞆の町と瀬戸内の景観を一望することができます。
 本尊である木造薬師如来像は、県の重要文化財に指定されています。

 ◆医王寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12669/ 鞆物語 ---

 坂道や階段をえっちら上った先の後山(うしろやま)の中腹に、鞆の浦で2番目に古いお寺・医王寺があります。このお寺は826(天長3)年に弘法大師・空海によって開基されたと伝えられています。その後、火災で焼失していますが、慶長年間に、鞆城代・大崎玄藩により再興されました。
 高台にあるため眺めは最高で、鞆湾の全景が一望の下に見渡せます。1826年には、オランダ商館の医師シーボルトもツツジや松の観察のために、この小径を登ったのでしょうね。

 ・オリンピックよりも珍しい、6年に一度のご本尊のご開帳
 医王寺のご本尊は「木造薬師如来立像」。これは広島県の重要文化財にも指定されています。6年に一度しかご開帳されない、ありがたいご本尊です。
 山門には二体の金剛力士像が。 なんとなく愛嬌を感じるお仁王さまが出迎えてくれます。
 ◇山門のお仁王さま―ね、愛嬌あるでしょ?

 ・「太子殿」への583段のハイキング
 医王寺の境内からさらに上を目指してハイキング。長い長い階段を登っていくと、「583」と刻まれた階段が。その最後の階段を踏みしめて、ついに「太子殿」に到着!ハイキングのごほうびは、鞆の浦を一望できる最高の眺めです。
 (注)夏場は水分補給に気をつけて、笑。
 ◇階段を上った先には「太子殿」―最高の眺めをプレゼント

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(15)

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 明円寺とお別れし医王寺に向かって参道を上がっておりますと、途中、右側に「ギャラリー・カフェ『さらすわてぃ』」が…

 ◆心安らぐ、自然と一つになる場所を「さらすわてぃ」新田久子の物語り

 --- https://tomonoura.life/story/12394/ 鞆物語 ---

 海や草木、陽の光とともに息づく鞆の浦。そんな鞆の町を象徴するようなお店がある。そこを営むのは柔和な雰囲気の中に、力強く真っ直ぐな“芯”を秘めている女性。
 元々は福岡でギャラリーを営んでいたが、人の縁でここ、鞆の浦に辿り着いた。
 気張らない、温かみのあるものを提供したいという信条のもと、店内には選び抜いた置物やアクセサリーを並べている。
 鞆の浦の自然と語らいながら、訪れる人々の心に、穏やかさの灯をともしていく。
 「ギャラリー&カフェ さらすわてぃ」新田久子(にったひさこ)の物語り。-- <以下、省略> --

 そして、左側には赤い屋根のお宅が…この家が、「崖の上のポニョ」のモデル(舞台)となりましたネ。

 ◆崖の上のポニョ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 『崖の上のポニョ』(がけのうえのポニョ)はスタジオジブリ制作の長編アニメーション映画。監督は宮崎駿。宮崎の長編監督作品としては2004年(平成16年)の『ハウルの動く城』以来4年ぶり、原作・脚本・監督のすべてを担当するのは2001年(平成13年)公開の『千と千尋の神隠し』以来7年ぶりの作品。また、1979年(昭和54年)公開の『ルパン三世 カリオストロの城』から数えると10作目となった。
 海沿いの街を舞台に、「人間になりたい」と願うさかなの子・ポニョと5歳の少年・宗介の物語。
 2008年(平成20年)7月19日に東宝による配給で公開された。

 これらを横目に上がっておりまして、ふと、眼が止まりましたのが『後山山荘』の入口でした(^-^)
 普段、この後山山荘の入口は閉ざされているのですけど、何故か、この日に限って門扉が開放されておりましたネ。
 「んっ、今日は、公開しておられるのだろうか?…」と、入口から入り拝見させて頂きます事に(^.-)☆
 いゃぁ、別に一般公開しておられる訳でも無さそうで、ただ単に閉め忘れておられただけなのかも…

 ◆後山山荘

 --- http://ushiroyamasansou.com/introduction/ ---

 瀬戸内海国立公園のほぼ中心にある自然景観と歴史の町、鞆の浦(広島県福山市鞆町)を一望する高台に位置する「後山山荘」は、建築家・藤井厚二(1888-1938)が兄・与一右衛門のためにつくった昭和初期の鞆別荘を、現代建築家・前田圭介が受け継ぎ再生(2013)させた建築です。
 後山山荘は、藤井厚二の京都・大山崎「聴竹居」と同じデザインのサンルームがあり、天井に排気口があるなど藤井厚二自らが興した環境工学の考えを示していて、藤井厚二がつくった過去の建築と、前田圭介がつくった現代の建築を同時に見ることができます。
 また、ここには美しい景観や庭園、歴史や文化があります。
 後山山荘の南東方向には、瀬戸内海に浮かぶ島々と鞆の街並みの絶景を楽しむことができます。日の出から夜まで刻一刻と姿を変える海と町の景観に時が過ぎ行くのを忘れるほどです。西側の山手には、藤井のデザインによる日本庭園があり、四季折々に変化を見せるモミジを中心とした植栽、花々の移ろいを楽しむことができます。奥の木陰には「禽浴(きんよく)の滝」があり、小鳥が水浴をする姿が見られることもあります。
 さらに、結城素明(ゆうきそめい)筆「琴棋書画襖絵(きんきしょがふすまえ)」や、この山荘のために書いた藤井与一右衛門の漢詩「鞆八景」も残されています。鞆での生活やその自然景観、季節の移ろいなどが文化となり歴史となって積み重なっているのです。
 私たちは、後山山荘における建築的、景観的、文化的、歴史的な価値を掘り下げて見直すとともに、その価値をさらに高めるため利活用を促進し、地域に根差した生活の美学や空間の魅力を再確認しつつ、維持管理・保存し、もって地域の建築文化や観光の発展に寄与したいと考えています。

 --- 後山山荘倶楽部 共同代表  松隈 章・谷藤 史彦 ---

 WEB上の記載を引用しますと、こんな「後山山荘」であります。
 無断で入らせて頂きましたので、ササッと拝見します事に(^-^)
 細い進入路を進んで行きますと、左側に玄関へ上がります石段が。この石段を上がりますと正面に玄関が…この付近から数枚画像にパチリです。
 そして、入口へと引き換えしておりますと、ここにも進入路が…せっかくですから、この進入路を上がって行きますと、建物の南側と庭園が拝見出来ました(^_^)v
 またまた数枚パチリで、急いで退散です。建物には灯りが付いておりましたから、どなたかおられますようでありました(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(14)

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 「明円寺・医王寺」に向かいます参道の両側の民家の軒先には、こんな賑やかな飾り物が…これは、何なんだろう?…と、いつも思うのですけど、これは何で吊り下げられていますのでしょうねぇ~
 この上り坂の参道を進みますと、明円寺の山門が…早速、山門を潜り境内へ。

 ◆明円寺((福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 明円寺(みょうえんじ)は、広島県福山市にある真宗大谷派の寺院。山号は松江山。本尊は阿弥陀如来。

 ・歴史
 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が始まりとされる。当初は天台宗であったが、暦仁元年(1238年)山南村(現・福山市沼隈町)光照寺の明光の導きで浄土真宗に改宗。文明年間、山田村領主から日蓮宗への改宗を迫られたが改宗を拒み、鞆の浦に移転した。
 石山合戦時は、10代住職長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、東本願寺設立にも尽力した。その功績により本願寺12代教如から「松江山明円寺」の寺号を賜った。

 ◆明圓寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12649/ 鞆物語 ---

 承久年間、沼隈郡山田村に建立された小坊が元とされています。当初は天台宗を奉じていましたが、1238(歴仁元)年、山南村光照寺の明光上人の導きで真宗に改宗しました。
 鞆の浦への移転は文明年間、山田村の領主に日蓮宗への改宗を迫られ、これを拒否した直後のことです。戦国時代末期にあった織田信長と本願寺の戦い(石山合戦)では、住職の長存が備後門徒を集め、「進者往生極楽、退者無間地獄」の旗を掲げて奮戦し、その後は東本願寺設立にも尽力しました。「松江山明圓寺」の寺号はこれらの功績により、教如上人から授けられたものです。

 ・鞆の浦に根を張る、生きたお寺
 開祖親鸞聖人存命の頃から一貫して念仏の教えを説き、権力にも膝を屈さず、地域の門徒と共に歩んで来たこのお寺は、今も人々に教えを説き、悲喜を共にし、安心の源であり続けています。鞆の浦の諸寺の中で、最大の檀家数を持つとも言われる明圓寺。お墓の数も膨大で、明治時代に活躍し、フランス人ボクサーとの異種格闘戦でも勝利した力士「鞆の平」もこのお寺に眠っているとか。
 ◇海を臨む墓地に、今日も南無阿弥陀仏の名号が響く

 ・鞆の浦に二つだけ、江戸初期の梵鐘
 明圓寺の梵鐘は、鞆奉行萩野新右衛門らの寄進によって1644(寛永21)年に作られました。この時代に作られた鐘は、江戸末期と第二次大戦時の二度の金属供出でほとんどが失われ、鞆の浦でも残っているのはここと、阿彌陀寺の二箇所だけです。朝鮮鐘の形式が取り入れられた江戸初期の貴重な鐘。大晦日には除夜の鐘としてつくことができるそうです。
 ◇腰袴式の優美な鐘楼が、境内に気品を添えて―

 …と、こんな明圓寺であります(^.-)☆
 ここには、三桝正典sanの作品が展示されておりました。WEB上で「三桝正典」sanを検索しますと、こんな記載がありました。

 ◆三桝 正典(Masanori Mimasu)

 ・作家紹介/Artist Information
 三桝正典は、ジャパニーズ・モダンをテーマに、お寺や美術館・資料館の中にある和の建物の空間を彼の現代アートで埋め尽くす試みに取り組み、精力的に作品を発表してきた。
 新たにジャパニーズ・モダンをテーマに様々な桜を描き発表。また、東山三条の古川町商店街の依頼で三桝が手がけた屏風も併せて展示。ギャラリー白川ではこれまで6回の個展を開催。

 ・略歴/Biography
 広島県生まれ。1983年高知大学教育学部特設美術過程(版画科)卒業。
 2012年、桜下亭(広島:重森三玲作庭茶室)白雪楼(蘭島閣美術館・広島)。
 2013年、瑞峯院(大徳寺・京都)明喜庵(爽籟軒・尾道)ひろしま美術館壁画(広島)。
 2014年、明星院(広島:上田宗箇流和風堂写)、和心庵(広島市植物公園)。
 2015年、頼山陽史跡資料館居室(広島)、露滴庵(国宝浄土寺・尾道)。
 2017年、洗心庵(なかた美術館・尾道)龍泉山西性寺(鳥取県大田市)他。現在広島女学院大学文学部幼児教育心理学科教授。

 ◆三桝 正典(みます まさのり)
 (美術家・広島女学院大学児童教育学科教授)

 --- https://jakyosai-hiroshima.jp/hiroshimawindow/profile/1310/ ---

 1960年 広島に生まれる。
 1994年 第3回公募広島の美術展(大賞・広島市現代美術館)、第5回TAMON賞(優秀賞・柏市文化会館)、第5回青木繁記念大賞展(奨励賞・石橋美術館)
 2012年 「アートイン白雪楼」(蘭島閣美術館・白雪楼)
 2012年~各地にて襖絵・掛軸・屏風制作公開展示
 2019年 「三桝正典 ジャパニーズ・モダン展」(美術館あーとあい・きさ)
 2020年 「印象派のいろは展」新作襖絵・屏風特別展示(ひろしま美術館)

 …と、こんな方でありました(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(13)

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 南禅坊とお別れしまして、次に向かいましたのが「阿弥陀寺」です。
 山門入口脇には、こんな説明板が…

 ◆阿彌陀寺

 阿弥陀寺は、1565年に建てられました。
 本尊の阿弥陀さまは、「鞆の大仏」と呼ばれる高さ約2.6mの坐像で、台座を含め4メートルもあるとても珍しい仏様です。この仏様は、大慈悲円満で私たちすべての人々の幸せを願って常に見守ってくださっていると言われています。境内には、見事な石像の地蔵様もあります。

 WEB上にも、こんな「阿彌陀寺」の記載が…

 ◆阿彌陀寺

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12658/ ---

 1565(永禄8)年に創建された阿彌陀寺は、鞆の人たちからは「あみだいじ」と呼ばれ親しまれています。
 江戸時代の前~中期、10代目・雲洞上人の頃に中興を見ました。山門はとても立派で、鞆の浦の中でも随一。
 その山門の右の方に、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは五輪塔と宝篋印塔(ほうきょういんとう)を合わせた鞆独特のお墓です。お大名でなければお墓が建てられなかった時代に、庶民がこれだけの供養塔を造るんですから、鞆商人の財力のすごさが窺い知れるというものですね。

 ・鞆の大仏、きらきらひかる
 本堂には、「鞆の大仏」と称される「丈六阿彌陀如来坐像」が鎮座しています。光背までの高さは、なんと約5メートル。
 中興第10世の雲洞上人が現(うつつ)に阿彌陀如来のお姿を拝み、その尊容を京都の仏師・安清に伝え、5年かけて完成させたものです。きらきらひかる、その威容、息を呑みます。
 ◇一流の名工の作、そこに漂う心地よい緊張

 ・鞆にもふたつだけ―江戸時代の梵鐘
 境内には釣鐘もあります。この梵鐘は、1652(慶安5)年に「有磯町奈良屋」によって寄進されたものです。
 江戸時代から残っている梵鐘は、鞆でもとても珍しく、ここ阿彌陀寺のほかには、明圓寺に残るばかり。緑青の深い風合いが、歴史の深さを雄弁に物語っています。
 ◇美しい釣鐘、どんな深い声を出してくれるのかな

 ◆阿彌陀寺(あみだいじ)

 --- https://www.fukuyama-kanko.com/travel/tourist/detail.php?id=111 ---

 永禄年間(1558~1570)の創建。本堂には「鞆の大仏」と称される阿弥陀如来坐像が鎮座しています。江戸時代から残る梵鐘もあります。山門の右の方には、「鞆の津塔」と呼ばれる江戸時代前期の石塔が12基並んでいます。これは鞆独特のお墓で、大名でないとお墓が建てられなかった時代の庶民のお墓です。

 ◆阿弥陀寺

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10189588676.html ---

 宗派/浄土宗・智恩院末
 山号/心光山
 院号/法泉院
 開基/天誉上人
 本尊/阿弥陀如来
 住所/広島県福山市鞆町後地1344

 天誉上人開山の名刹、必見!「鞆の大仏」
 深津郡引野村に在ったが、天誉上人という高僧が永禄八(1565)年に鞆・古城山の西脇に移し、開山と称えたが、次代が慶長十二(1607)年に現在地に再転されたと記録されている。
 慶安五(1652)年、有磯町妓楼・奈良屋が梵鐘を寄進した。
 述宝年間(1673~1680年)に関町の豪商・大阪屋平左衛門が観音堂建立、同年、地蔵堂を道越町・堺屋が建立したものと伝えられる。
 江戸前期~中期にかけて十代目・雲洞和尚が時運を隆盛させた。
 元禄四(1691)年、雲洞和尚が京都の仏師・安清を呼び寄せ。二年がかりで彫作させたといわれる「阿弥陀如来像」。
 一説には…元禄十六(1703)年、鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」が造立。とある。
 ※ 鞆の大仏「木造阿弥陀如来座像」の詳細については下記参照

 境内には、江戸時代の多彩で見事な石造物が多くあり、鞆の町人文化の興隆振りもよくうかがえる。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 【眼明本尊の絵像(かいがんほんぞん)】
 多田満中の妻が我が子・美女丸の死を悲しみ慟哭のあまり失明してしまったのを不憫に思った恵心僧都(けいしんそうづ)が、衣の袖に弥陀の絵を描いて与えたところ、失明した両眼が再び光を得た。という由緒あるもの。
 多田満中:平安中期(960年頃)の武将。摂津国多田(兵庫県川西市)の多田源氏を称えた。別名:源満中。藤原氏に属し源氏発達の基礎を築いた武将。
 恵心僧都:平安中期の天台宗の僧。恵心流の祖。大和生。諱は源信、恵心僧都は通称。比叡山横川の恵心院に住んだため、この名が生まれた。
 良源に師事し、顕密二教を学ぶ。また『往生要集』を著し、のちに浄土宗信仰の展開に大きな影響を与え、宋でも高く評価された。寛仁元年(1017)寂、76才。

 【木造阿彌陀如来坐像(鞆の大仏)】光背までの高さ約4m
 雲洞住職の代の元禄十六(1703)年に作られた丈六の大仏。
 江戸中期の都仏師による実に堂々とした優作で、これ程の大きさの仏像は地方においては極めて珍しく、鞆の経済力を如実に示している。

 …と、こんな「阿弥陀寺」でありますけど、早速、本堂の「鞆の大仏」を参拝です。
 「鞆の大仏」様とお別れしまして、次は「明円寺・医王寺」に向かいます(^-^)//"

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(12)

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 ◆法宣寺の天蓋マツ

 --- 天然記念物 昭和19年11月7日指定 ---

 境内一面に枝葉を広げる黒松は「天蓋マツ」と呼ばれ国の天然記念物に指定されています。幹回り3.2m・高さ5.5m・枝張り東西19.3m・南北34.0mで枝葉の広がった総面積は約600㎡です。
 大覚山速心院法宣寺は、1358(延文3)年日蓮宗の高僧の大覚大僧正が、ここに法華堂を建立し布教したことに始まると伝えられています。鎌倉時代の法華教は、南北朝時代になって鞆の浦に伝わり、中国地方へ布教する拠点となりました。

 …との事ですけど、残念ながら現物は無く、1991年に枯死しましたようであります(^-^;
 それでは、次は、南禅坊です。

 ◆南禅坊

 南禅坊は、1600年頃に建てられました。
 福(禅)寺の(南)の僧(坊)の住むところという意味から、南禅坊という名前になったようです。
 「春の海」で有名な作曲家宮城道雄の先祖のお墓もあります。
 本堂と山門は、国の登録文化財になっています。鬼瓦にはいろいろな猿が彫られています。

 ◆南禅坊本堂(なんぜんぼうほんどう)・南禅坊山門(なんぜんぼうさんもん)

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64123.html ---

 登録有形文化財 平成26年(2014年)12月19日登録

 南禅坊は浄土真宗本願寺派の寺院で、天正年間(1573~1591年)創建。当初は福禅寺の南隣にあったが、江戸時代中期(正徳六年・1716年)現在地に移転した。『福山志料』には延享五年(1748年)、朝鮮通信使(第10回)の学士・書記と福山藩の学者伊藤大佐が南禅坊で接会し、漢詩文を唱和したことが記されており、江戸時代を通して朝鮮通信使の宿舎として使われた。本堂は、文政五年(1822年)火災にあったが、万延元年(1860年)再建した。
 本堂は、内部を内陣(ないじん)・余間(よま)・外陣(げじん)に区分し、前面に吹き放ちの広縁(ひろえん)、三方に落縁(おちえん)をめぐらしている。要所に組物を多用し、豪華な彫刻を用いるなど、幕末以降に流行する装飾的な真宗本堂である。
 山門は、一間一戸の四脚門の上部に、方一間で入母屋造(いりもやづくり)本瓦葺(ほんがわらぶき)の上層を増築し、鐘楼とする。木部には全体にベンガラが塗られ、上層正背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓(えんまど)がある。軒先には強い反りがあり、異国情緒を漂わせる。上層の懸魚に文化七年(1810年)の墨書があり、朝鮮通信使(第12回)の来朝予定に備えて増築され、現在の姿になったと考えられる。

 ◆広島県の文化財-南禅坊山門

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-3000113383.html ---

 一間一戸(いっけんいっこ)四脚門(しきゃくもん、よつあしもん)の上部に、一間四方で入母屋造本瓦葺の上層が増築され、鐘楼を吊る構造。
 ※ 現在梵鐘は無い。
 福山藩の命令により安政5(1858)年に供出されたことが寺の文書『梵鐘一件記録』から分かっている。
 懸魚(げぎょ)に文化7(1810)年の墨書があることから、上層は1811年の第12回通信使を迎える予定で増築工事を行ったものと考えられている。
 木部には全体に弁柄が塗られ、上層正面及び背面に火灯窓(かとうまど)、両側面に円窓がある。隅棟(すみむね)の鬼瓦にそれぞれ異なる形態の猿が彫られているのも特徴的。
 軒先の強い反りなど随所に、異国情緒を漂わせ、朝鮮通信使寄港地である鞆の浦の情景を彩る。

 境内の大鬼瓦の記念碑には、こんな記載がありました(^-^)//"

 ◆南禅坊 安政の大鬼瓦

 平成五年、南禅坊門信徒の篤信なる願いを受けて第十八世住職釋教壽法師が願主となり、本尊阿弥陀如来様の傘として永年の風雨から門信徒の聴聞の道場を護り続けた大屋根の全面修復工事を「平成の本堂、庫裡屋根大修復が」成就いたしました。
 その節、百三十年余りの間、鞆の町の風景であった南禅坊の大鬼瓦もその役目を終えて新しい瓦と交換されました。縦2m40cm、横3m20cmの鬼瓦は近隣伽藍の中でもまれにみる大きさを誇り、鞆の浦歴史民俗資料館に歴史的建造物の資料として保管されていました。今般その鬼瓦の返却に当たり碑を建てて後世に永くその姿を残すものといたします。
 尚、瓦の裏面には、「菊間瓦師 ヘ佐 安政七申四月(1860年) 細工人 岩見 忠○○」と記されています。

 -- 令和二年八月 第十九世住職 釋 龍壽 --

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(11)

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 次は、「静観寺」に向かいます。

 ◆静観寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12660/ 鞆物語 ---

 鞆の浦で最も古く、そして最も多難なお寺・「静観寺」。創建は806(大同元)年、最澄によると伝えられています。当時は、7,000坪の大敷地に七堂伽藍が建ち並んで、五重塔も天を衝き、たいへんに栄えていたといいます。
 ところが、相次ぐ戦乱や火災によって、多くの文化財は焼失。残念ながら現在では往時の栄華を物語るものは残されていません。
 それでも、この「静観寺」はしっかりと命脈を保ち、今でも、鞆一番の古刹として人びとに愛され続けているのです。時が止まったような、ほっと落ち着けるお寺さんです。

 ・松上げ地蔵尊、奇跡の脱出劇
 江戸中期、「静観寺」で大火災が発生しました。風強く、火の回りが早すぎて、時のご住職は身一つで避難。ああ、ご本尊を焼いてしまった…そう嘆きながら、ふと庭の松の木を見上げてみると、何とそこには、ご本尊である「お地蔵さん」が座っているではありませんか!
 そういう顛末から、ご本尊は「松上げ地蔵」と称され、現在でも守りの菩薩として信仰を集めているのです。
 ◇ご本尊の頬には、その時のヤケドの痕が残っているとか…

 ・鞆ねこも寄りつく、ご住職のお人柄
 この「静観寺」には、積もった歴史以外にも、注目ポイントがあります。それが、ご住職のざっくばらんな“鞆語り”。ご住職が洒脱な口調で、鞆の歴史を教えてくれるんです。そのご住職のお人柄は、人間だけでなく、ねこも呼びよせちゃう。にゃあと鳴いて、いつの間にか境内に居ついてしまった、このねこ君。きみにも、ここは居心地がいいんだね。
 ◇静観寺、鞆ねこもお気に入りの癒しのスポットです

 静観寺の山門下には、「鞆の浦 de ART 2022」の作品の展示が…
 WEB上で「ヨシダ コウブン」sanを検索しますと、こんな記載が…他の「山戸克展・ユキコフジイ」のお二人は、WEB上にはお名前が出て来ませんでしたネ。

 ◆ヨシダ コウブン

 1953年--熊本県生まれ、1996年--銅版画集「不思議な鳥」発刊、1997年--あうん展(ニューヨーク/128ギャラリー)、1997年--熊本国体記念 石のモニュメント制作、1997年--熊本県スカイドーム 大理石と陶板のレリーフ製作、2000年--ニューヨーク作家との交流展(ニューヨーク/WAセンター)、2001年--INTERNATIONAL SHOW(ニューヨーク/セーラムギャラリー)、2003年--個展「日常のメルヘン」(さいたま市/ギャラリー櫻守)、2004年--個展「白い鳥のカタチ」(福山市/ふくやま美術館)、2006年--個展「ケモノのカタチ」(大阪市/海月文庫)、2009年--個展「いのちのカタチ」(東京六本木/サボアヴィーブル)、2012年--AHAF HK12 ART FAIR(マンダリンオリエンタルホテル/香港)、2013年--個展「神のケモノ」(鳥取市・ギャラリーあんどう)、2015年--個展「ピュアーな天使」(東京八重洲・T-BOX)、2015年--グループ展「森羅万象」(東京下北沢/ギャラリーHANA)、2016年--むらいゆうこ・ヨシダコウブン二人展「天使たちの午後」(長崎市/ギャラリーエム)、2016年--小林雅子・ヨシダコウブン二人展 「冬の王国」(倉敷市/サロン・ド・ヴァンホー)、2016年--ヨシダコウブン個展「たおやかな天使」(今治市/薫林庵)、2017年--仲恵子・ヨシダコウブン二人展 「天使」(京都市/ギャラリーアイ)、2017年--ヨシダコウブン個展「ナツノハナ」(岡山市/ギャラリーゼット)、2017年--グループ展「森羅万象 Ⅱ」(東京下北沢/ギャラリーHANA)、2018年--安達知江・ヨシダコウブン二人展「いのちのかたまり」(東京日本橋/ルーニー247)、2018年--ヨシダコウブン展「ふたつとない世界」(神戸市/カン・フラワーデザイン)、2018年--對馬有輝子・ヨシダコウブン展「かみへのみつぎもの」(東京/ギャラリーHANA)、2019年--ヨシダコウブン個展「天使なケモノ」(岡山市/ギャラリーゼット)、2019年--グループ展「森羅万象 Ⅲ」(東京下北沢/ギャラリーHANA)、2019年--アートフェアーアジア2019(福岡市/ホテルオークラ福岡)、2019年--李ユンギョン・ヨシダコウブン展「RESULT・RESULT」(福山市/くわみつ)、2020年--ヨシダコウブン個展「飛べたよ、飛べたー」(玉野市/サンコア)、2020年--ヨシダコウブン個展「やさしいケモノ」(東京下北沢/ギャラリーHANA)、2012年~2021年--鞆の浦de ART キュレーター他、主に個展を中心に、立体、平面作品の発表を続ける。

 ノンビリとお寺巡りをしていましたGONsanですけど、そぅでした、今回の主目的は「鞆の浦 de ART 2022」の作品鑑賞でありました。静観寺に展示の作品が今回最初の鑑賞となりましたネ(^.-)☆
 GONsanが静観寺からお別れしようとした頃に、入れ替わりに、若者のグループが来訪です。
 それでは、次は、これもスグお隣りの「法宣寺」であります(^-^)//"

 ◆法宣寺

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 法宣寺(ほうせんじ)は広島県福山市鞆町後地にある日蓮宗の仏教寺院。山号は大覚山。 国の天然記念物に指定されていた「天蓋松」があった寺として知られる。
 創建は南北朝時代の1358年。開基は大覚僧正とされる。
 江戸時代は朝鮮通信使の宿泊所として利用された。江戸時代後期には加藤清正を祀る清正公堂が建立され、清正信仰の場であった。

 ・天蓋松
 開基である大覚僧正の手植えと伝わる推定樹齢630年の黒松で、国の天然記念物に指定されていたが、1991年に枯死した。幹の周囲は3.3m、枝張は30mに及んだ。

 ・仏像
 七面大明神像 - 江戸時代後期、木彫、像高53cm
 清正公大神祗坐像 - 総高14cm
 清正公大神祗の腹こもり坐像 - 総高40cm

 ◆法宣寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12650/ 鞆物語 ---

 1358(延文3)年、日蓮宗の高僧、大覚大僧正が鞆の浦に上陸し、法華堂を建立したのが法宣寺のはじまりです。日蓮宗きっての実力者であり、後光厳天皇の信任も厚かった大覚大僧正がこの地で説法を始めたことで、鞆の浦は一躍、西国法華布教の拠点となり、お堂も「大法華堂」と称されるようになりました。以後、多少の盛衰は経ながらも、法宣寺は三備(備前、備中、備後)日蓮宗の重要寺院でありつづけ、江戸時代には朝鮮通信使の宿所にもなっていました。

 ・治病除災に清正公参り
 友光軒の前の四つ辻から、鞆小学校前を経て法宣寺に至る道筋を、「清正公道(せいしょうこうどう)」と呼びます。これは江戸末期、法宣寺境内に加藤清正を祀るお堂があり、多くの参拝者を集めていた名残です。法華信仰の篤かった清正は、死後主に日蓮宗徒の間で治病除災の神として崇められたのです。清正公堂はなくなりましたが、今でも法宣寺には二体の清正公像があります。そのうち一体はなんと、清正公自彫りとの伝承も!
 ◇清正公も唱えた「南無妙法蓮華経」

 ・この世は無常、だが―
 かつて法宣寺には国の天然記念物がありました。大覚大僧正お手植えと伝わる黒松の巨木です。その枝ぶりから「天蓋マツ」とも呼ばれ、鞆の浦の人々の誇りでしたが、残念ながら、1991年夏、六百余歳で枯死しました。支柱と切株だけが残った跡地は、無常の想いを呼び起こします。ただ不思議なのは、老松が枯れて以来、今まで影が薄かった隣の紅梅が生気を得て、最近では新しい花の名所になっていることです。往く者あらば来る者あり。春の境内でそんな感慨にひたるのも「あり」かもしれません。
 ◇春になり雅に花をつける紅梅―、老松より生気を受け継いで

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10/9(日)は、「鞆の浦 de ART 2022」が開催中の鞆の街を散策でした(^.-)☆(10)

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 次は、「壽福山 顕政寺」に向かいます。

 ◆顕政寺
 鞆の浦の「寺町通り」に建つ日蓮宗のお寺、壽福山顕政寺。慶長年間(1596~1614年)の創建と伝えられています。江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあったそうです。顕政寺では、住職オリジナルの観心行という修行が体験出来る。

 ◆福山市鞆 観心行ができる「顕政寺」
 足利義昭が身を寄せていた(後ろ山の奥、熊野町の)常国寺の末寺であったが絶えて、慶長年間(1596~1614)1600年頃、福島正則(芸備藩主)によって、この顕政寺などの寺々をほぼ一直線に結ぶ寺町(町割り)が形成された。正善院日実は顕政寺を再建し、日蓮宗に改め二代・日運は、本堂と庫裡を拡張する事績を遺し、四代目の日富は、延宝年中(1673~1680年)に、奉行・藤井六郎右衛門に願い出て門前の境内を拡め、今日の基礎を築いた…と伝えられる。

 壽福山 顕政寺を出ますと、お隣りの「法昌山 玅蓮寺」へ。

 ◆法昌山 玅蓮寺(妙蓮寺)

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10189583402.html ---

 【法昌山玅蓮寺(妙蓮寺)】生髪鬼子母大尊神 厄難消滅・心願成就
 宗派/日蓮宗
 山号/法昌山
 開基/実相院日玖
 本尊/日饒上人大曼荼羅・釈迦牟尼佛
 住所/福山市鞆町後地1203-2

 慶長年間(1596~1614)に実相院日玖が創建したと伝えられる。
 寺宝の日饒(にちじょう)上人の御本尊大曼荼羅(寛永三年・1626年)が現存し、それを裏付ける。
 実相院日玖は年壮にして俗塵の交断ち、法宣寺十四世恵性院日親の徒弟となり、圓浄坊と結び引き蘢り、法華経を読すること40年、一万二千余巻におよび、福山藩主・水野勝成殊勝に思い、寛永の末(1644年頃)今の地を賜い、三人扶持十一石を給う。
 本堂は壇中、小林喜兵衛、佐久間七良衛門、石井庄右衛門等、主として浄財を募り建立。
 上京し、本山から山号・寺号を請受した。
 福山二代藩主・水野勝俊からの庇護もあり、その勝俊の位牌が伝わる。承応年間(1652~1654年)に建立したと伝えられる三十番神堂があり、二代・日護の時、延宝年中(1673~1681)奉行・藤井六郎右衛門に願い出て境内門前を広め、四代・日義、元文四(1739)年鐘を鋳、妙蓮寺本堂、鐘楼、山門とも元文年間(1736~1741)に再建され、六代日了、七代日行、本堂再建。
 江戸時代を通して、朝鮮通信使の常宿でもあった。

 【大曼荼羅】
 寛永三(1626)年、日饒(にちじょう)上人の御本尊曼荼羅で、京都の本山・妙顕寺より授与されたもの。妙蓮寺の創建を伝えるものと思われる。
 【水野勝俊の位牌】
 二代福山藩主(1598~1655年)1639(寛永16)年、二代藩主として襲封するまで鞆城に居住し、「鞆殿」と呼ばれていた。沼名前神社の石鳥居(県重文)を寄進するなど鞆との結びつきは強かった。
 【三十番神堂】
 承応年間(1652~1654)に建立
 番神堂の裏には現在はコンクリートで固められた井戸があり、どんな渇水でもこの井戸は涸れたことがないというこの井戸の水で山中鹿之助(鹿介)の首を埋める前に清めたとされる。
 【山号標】
 文政七(1824)年成就
 【鬼形鬼子母神安置一碑】
 天保七(1836)年三月浣日

 妙蓮寺を後にしますと、「ささやき橋」を通り「山中鹿介首塚」へ。
 案内板には、こんな記載が…

 ◆山中鹿介首塚 ささやき橋伝説

 <山中鹿介首塚>
 戦国時代の終わり、毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣山中鹿介は、主家の再興を願い兵を挙げました。1578年(天正6年)岡山県の高梁川「阿井の渡」で討たれ、毛利輝元や足利義昭に首実検をされました。岡山県の「阿井の渡」には胴塚があります。

 <ささやき橋伝説>
 応神天皇の頃、百済よりの使節の接待役・武内臣和多利と官妓・江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語り合っていました。それが噂になり二人は海に沈められました。それから密語(ささやき)の橋と語り継がれています。

 …との事であります。
 この「山中鹿介首塚」と「ささやき橋」の箇所は、右から左にと曲がった通りなのでありますけど、この道の片隅のブロック塀の傍らに小さな石仏が存在します。けど、何らの説明板もありません。が、いつもここを通ります度に気になりますネ。実に寂しく存在しますけど、これは何なんでしょうネ…

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 それでは、この辺で沼名前神社とお別れです。が、最後に随身門を覗いてみます事に…

 ◆随身門(随神門)

 --- https://ameblo.jp/rediscovery/entry-10773804613.html ---

 【随身門/随神門(ずいしんもん)】
 ※「ずいじんもん」とも呼ぶ
 享保二十(1735)年建造

 随身(ずいじん、ずいしん)とは、
 平安時代以降、貴族の外出時に警護のために随従した近衛府の官人のことであり、神社の門(随身門)の左右に、神を守る者として安置される随身姿の像のことも「随身」といい、この場合は随神とも書かれる。
 この二神は、閽神(かどもりのかみ)または看督長(かどおさ)とも呼ばれ、別名を矢大臣ともいう。
 弓矢を持った二人一組のもの。十五人揃いに属し、宮廷を警護する儀仗姿の武官。俗に左大臣・右大臣ともいう。
 左大臣(向かって右)といい、冠をつけ兵杖を帯した衛士。
 矢大臣/右大臣(向かって左)といい、剣を帯び矢を負うた老人と若人の衛士を飾る習わしがある。
 ※ 書物によっては、矢大神・左大神と記述されたものもあります。

 享保十一(1726)年、
 鞆奉行・堀金右衛門は祇園宮(現在の沼名前神社)の信仰篤く、社の一大改革を成し遂げた。その内容とは、本殿を従来より一段高い場所に遷し、拝殿を今までの本殿跡に据え、社庭を広く拡張するための埋立工事を行い、石垣を高く築き、高い石段を設けた。
 神饌所、接待所、神輿庫、絵馬堂、神馬舎などを増改築し、現在の社殿の基礎を固めた。
 この時の社を管掌する社人(神官)には、
 ◎大宮勘解由(かげゆ)/従二位:森下博祖先
 ◎中須賀宮内少輔/正三位(くないしょうゆう)
 ◎小林左京
 ◎縄稚右膳
 ◎篠原左門:篠原廻漕店祖先
 ◎野島斎宮
 なかでも、篠原左門は自家所有の土地を売却して随神門を寄進した。と子孫に伝えている。
 それから9年後の享保二十(1735)年、鞆奉行・加藤杢兵衛忠治により、改築を施された。

 …と、こんな随身門で、傍らには沼名前神社の案内板が…
 これには、こんな記載がありました。

 ◆沼名前神社

 この神社は渡守神社の「大綿津見命」と祇園宮の「素佐之男命」が一緒にまつられています。平安時代につくられた「延喜式」という法令にも記載されている古い神社です。渡守神社は海上安全祈願の神社で、祇園宮は無病息災を祈願する神社です。
 「お弓神事」(2月の第2日曜日)と「お手火神事」(7月の第2日曜日の前夜)は、福山市無形民俗文化財に指定されています。

 それでは次に、今まで一度も訪れた事がありません「小松寺」に向かってみます。

 ◆萬年山 小松寺(臨済宗)

 瀬戸内の要港にある古刹であり、同寺へは高憎や将軍の足利尊氏・義昭、朝鮮通信使等の多彩な歴史の足跡が刻まれる。
 特に、本堂に掲げられた琉球使節の扁額、境内の「琉球司楽向生碑」は、よく知られるところである。
 また、境内には昭和二十九年(1954)まで、国の天然記念物の見事な巨大・松があり、名所となっていた。オランダ人医師シーボルトもその松之図(版画)を収集している。なお、この松は寺伝によると、平清盛の長男の平重盛(武勇に優れて清盛の後継者として地位を確立したが、清盛より早く、42歳で死去した)が植えたと伝える。

 ◆小松寺

 --- https://tomonoura.life/spot/12657/ 鞆物語 ---

 沼名前神社の参道を西進して二の鳥居で左に折れ、狭い路地を進んでいくと、さわりと小松寺の山門が現れます。
 1175(安元元)年に、平清盛の長男・重盛が、静観寺(当時、天台宗)の境内に一宇のお堂を建立し、小松を植えてその古刹の支院としました。それが小松寺の起こりです。以降、頻々と歴史の舞台に登場する小松寺。平氏や足利氏との縁はとても深く、また朝鮮通信使や琉球使節などの足跡も随所に刻まれています。
 境内にひっそりと佇む「琉球司楽向生碑」— これは、鞆港で、弱冠22歳の若さで病死した琉球使節団の楽師・向生(しょうせい)の供養塔です。

 今はなき、「重盛手植えの松」
 小松殿・平重盛がこの地に植えた松は、地を這うような巨大さでした。しかし、1954(昭和29)年の台風を受けて倒壊し、枯死してしまいます。
 重盛が建立したこの小松寺は、以降、幾度も歴史の表舞台に登場。南北朝のころの「鞆合戦」では、足利尊氏・直義兄弟が陣所を構えたり、信長に追われた室町幕府最後の将軍・義昭も、このお寺で再興を期したり…歴史に縁深いお寺さんなんです。

 ◆小松寺(広島県福山市鞆町)

 --- カッチンの雑記帳 2020.11.16 https://kattinwalk.com/2020/11/10/s-tomo-komatuji/ ---

 広島県福山市鞆町 にある「萬年山 小松寺(こまつじ)」です。JR福山駅から鞆港までバスで約30分。その後、各社は殆どが隣り合ってるような近さなので、所要時間は省略します。
 鞆の町の西側(山側)の南北に沿って寺院が集中している通りがあります。正式名が有るのか無いのかも分かりませんので、勝手に「古寺通り」と呼ばせて貰います。
 古寺通りから沼名前神社の参道に入る辺り、二の鳥居の手前左手の路地から入って行った所に建っていました。
 本堂の入口は、サッシの扉で自由に開けて拝むことができました。本堂の左前の地蔵堂には珍しい髪の毛のあるお地蔵さんが祀られていました(言われないと髪があるの気が付かないと思います)。
 本堂の右前の庫裏のインターフォンを押してみるが反応無し。境内を掃除されている方がいらっしゃったので聞いてみると、御住職がお亡くなりになって、現在は無人との事でした。

 …と、こんな歴史のあります「小松寺」。
 境内には、こんな説明板もありました。

 ◆小松寺略記 臨済宗妙心寺派

 安元元年(1175)小松内府平重盛卿厳島神社参詣の途路護身の阿弥陀仏像を安置して一宇を建立し記念に沼畔に松樹を植う(樹齢850年の威容を誇りしが昭和29年台風により倒伏死す)
 寿永2年(1183)二男資盛の命により平貞能京より重盛公の遺髪を持参す、五輪塔を建立し盛大なる法会を営む。
 延元元年(1335)足利尊氏氏九州より大挙東上の途中弟直義と当寺に宿陣し軍議す。光厳院の院宣を受け錦旗を掲げ意気衝天す。
 暦応2年(1339)南北朝期当寺に本営を置きし北朝軍と大可島に陣する南朝軍との激戦十数日旧記什物は勿論殿堂灰燼に帰す、大永年中安国寺六世曇叟華禅師再建し禅刹とす。
 天正3年(1575)京を追われし十五代将軍義昭当地に宿陣の毛利輝元を頼り当寺に寓居、羽柴秀吉との和議成立するや常国寺に移住す。
 古人曰く「足利は小松に興り小松に亡ぶ」と慶安年中城主水野勝成当寺の寺域の大半を割き祇園宮の社地とす。
 元和9年(1623)九州久留米の梅林寺三世澤雲禅師再建す法系今日に至る。
 貞亨2年(1685)再び境内を割いて社地となし今日に至る。
 本堂前に祀る有髪薬師地蔵尊は非常に珍しい石仏で古来霊験顕著として遠近より参詣者多し。

 ふ~ん、『カッチンの雑記帳』には、「御住職がお亡くなりになって、現在は無人との事でした…」と記載がありますけど、これを綴られましたのは2020年の11月ですから、今から丁度2年前。今でも小松寺にはご住職は不在なんでしょうかねぇ…

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プロフィール

 ・名前 GONsan
 ・年齢 大人
 ・性別 男子
 ・地域 広島県福山市
 ・星座 牡牛座


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