GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

福山市内の何でもない景観

10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(7)

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 曲輪群跡を見終えますと、本日の探訪はこの辺でオシマイです(^.-)☆
 3台の車に分乗で、訪れた道を四川ダムまで戻りダム駐車場に到着しますと、改めて滝山城跡を見上げます。
 そぅですネ、確かにダム側の正面から滝山城を攻略しますのは難しいですけど、西側からですと可能に見えますねぇ~
 この滝山城を有名にしましたのが、備南に勢力を持った宮氏と、安芸の毛利氏とが神辺平野の覇権をめぐって争った戦い「志川滝山合戦」の舞台となりましたからのようですけど、遠い戦国の世に想いを馳せますと、この地で激しい戦いが行われたのだと、感慨深い気持ちが生じます。

 滝山城西側に続く尾根筋には、電波の反射板が…この反射板は、正式には何と言い、その役割は何なんでしょうねぇ~
 WEB上で検索しますと、ふ~ん、「無給電中継装置」と言うようですネ(^.-)☆

 ◆無給電中継装置

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 無給電中継装置(むきゅうでんちゅうけいそうち)とは、無線通信において、増幅装置を持たない中継装置である。パッシブリピータ(passive repeater)ともいう。
 金属の板によって電波を反射させるものが主流だが、2基のパラボラアンテナを背中合わせに組み合わせ、片方のアンテナで受信した電波を導波管でもう片方のアンテナに伝送し放出する形式も存在する。いずれの場合も電波の指向性を利用しており、主に3GHzから30GHz帯の周波数で利用されている。電力が不要であるため、一般的な無線中継施設と比べると低いコストで建設することができる。

 ・概要

 通常、SHF帯の電波による無線通信を行う際には、無線局間に障害物がないこと(見通し内伝搬(英語版))が必須である。そのため、山間部などの障害物が多い場所においては、一旦別の無線局で電波を受け、それを再送信する中継局が必要である。通常は、受信機及び送信機によって中継を行うため、給電が必要だが、特定の条件では、電波を反射させる鏡状のものを設けることで中継ができる場合がある。その条件とは、反射板と片方の中継局との距離が比較的短距離であること、反射板への入射角が一定以上であることなどである。
 電波の反射に適した素材で出来た板(パラボラアンテナの反射器を平面状にしたようなもの)を設置するが、装置自体にアンテナの機能がなく(あくまでも電波を反射させるだけ)給電装置がないため無給電中継装置と呼ばれる。効率的に伝送するためには、反射面には平滑性が求められる。降雪や着氷は大敵であり、降雪・寒冷地域ではその防止のために、風でなびいて反射面をこすることで除雪を行う紐状のものが反射板前面に設置されている。
 能動的に中継を行うマイクロ波中継装置(英語版)(中継局)と比較して、無給電中継装置は遥かに単純で、メンテナンスが少なくて済み、電源を必要としない。中継局ではフィードバックを防ぐために送受信の周波数を変える必要があるが、無給電中継装置ではその必要がない。欠点は、増幅を行わないので、反射された信号が弱くなることである。

 ・実際の使われ方

 山間部の集落やダムとの通信を行う機会の多い防災無線や、谷あいに設置される水力発電所近辺でよく見られる設備であり、山頂や山の中腹に板状の物体が見られることがある。2枚の反射板を組み合わせることで、元々到来してきた経路とほぼ同じ方角へ電波を中継することも多い。
 実例が少ないものの、この装置は放送の分野でも用いられる。テレビ山口とエフエム山口は、山口市にある本局の演奏所(スタジオ等)と送信所である大平山(防府市)との間に稜線が立ちはだかっているため、それぞれ山口市内の山腹に自局用の無給電中継装置を設けている。

 …と、こんな電波反射板のようであります。
 それでは、ダム駐車場で解散ですから、我が家へと帰る事に致します(^-^)//"

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(6)

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 曲輪群跡を探訪ですけど、こんな状態の中を歩くのですから、大変(^-^;
 GONsanなんぞは、皆さんの後をついて歩くのみ。
 そぅしていますと、案内して貰いましたのが「溜め井(ためい)」跡。
 山城での水の確保には、井戸のみでなく「溜め井」の方法もありましたようですから、この滝山城では、湧き水や谷筋を流れる水を、ここに溜めていたのでしょうねぇ~
 こぅして山城跡を散策しますと、いつも、飲み水等はどのように確保していたのだろう?…と、こんな素朴な疑問も生じます。まぁ山城を築きます際には、こうした問題も充分考慮した上で、行うのでしょうけど(^-^)
 WEB上で、「山城での飲み水確保」と検索してみますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆山城にとって井戸はどれほど重要だったの?

 --- https://shirobito.jp/article/1010 ---

 初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、人の生存に欠かすことのできない「水」。山城を登ったさい、「飲み水はどうしていたんだろう?」と疑問に思ったことはありませんか?籠城戦の可能性が宿命づけられた城にとって、水の存在は不可欠。水を確保するための、先人たちのたぐいまれな努力を見ていきましょう。

 ・水の手は城のマストアイテム
 人体にとって、「水」は必要不可欠な物質です。人は食べ物が得られなくても、数週間から1カ月は生き延びることができるといいますが、水の場合はそうはいきません。いっさいの水を断たれたら、人は3~5日程度で死の危険にさらされるそうです。小学校の頃、「人間の体の70%は水でできている」と習った記憶はありませんか。人体の構成要素として、子どもの頃は70%程度、成人以降だと50~60%が水分で占められており、水分量の20%が失われると生体機能はストップしてしまいます。それほど、人体にとって水は不可欠な存在です。

 前置きが長くなってしまいましたが、城を築くさい、「水をどう確保するのか」は必須の課題でした。人が住み、活動するために必要であることはもちろんですが、城には「籠城戦」の可能性が宿命づけられています。もし、水の手がない城で籠城して、数日でも城外からの運搬が断たれるとしたら、たちまち死活問題になってしまうからです。
 それでは、城内で水をどう確保していたのでしょうか?真っ先に思い浮かぶのが井戸ですね。枯れたら困るので、井戸はひとつだけではなく、複数設けられるのが普通でした。築城名人とされる加藤清正は、居城の熊本城(熊本県)に100以上の井戸を設けたといわれており、今でも20近い井戸が残されています。清正は朝鮮出兵で過酷な籠城戦を戦っているので、飲み水を確保することに強迫観念にも似た思いがあったのでしょう。
 とはいえ、当たり前ですが掘ればどこからでも地下水が湧くわけではありません。城を築くには絶好の地なのに、どうしても水が確保できないということもあったでしょう。その場合、解決策のひとつとして、城に面した河川があれば、そこから運び入れるという方法がとられました。
 その例として、天竜川沿いに築かれた二俣城(静岡県)がありました。二俣城では井戸櫓(または水の手櫓)と呼ばれる専用の高層櫓が築かれ、水の運搬をしていました。ところが武田軍に攻められたさい、武田軍は川に大量のいかだを流して井戸櫓を破壊したため、城兵は開城を余儀なくされます。水の手に目をつけるとは、さすが武田軍は戦上手ですね。

 城内に井戸がない場合、水路や樋によって引き入れたという例もあります。江戸は玉川上水などの水路が整備されていたことが知られていますが、神田川や水堀に懸樋(かけひ)が架けられ、そのまま江戸城内へと給水されていました。ただし、籠城戦で水路や樋を破壊された場合は一巻の終わりですので、水路や樋は補助的な手段だったといえるでしょう。
 なお、城内で水を得るための場所や施設を「水の手」と呼びます。水の手のための曲輪が築かれ、土塁や石垣で囲んで守りを固めている例も少なくありません。城を訪れたさいに「水の手曲輪」「清水曲輪」「井戸丸」という水に関する曲輪名を見つけたら、はは~ん、ここがこの城の水の手だったんだなと思ってもらってほぼ間違いはないです。

 ・山城の水の手は1,000貫(1億円)の価値があった!
 さて、ここまではお城一般の水の手事情について解説してきました。それでは、山城ではどうだったのでしょうか?
 なんとなく想像がつきますが、山城は平城よりもずっと、水の手を探し当てるのが困難でした。城を築くにはベストポジションなのに、どれだけ探しても給水ポイントが見つからず、築城自体をあきらめたということも多かったことでしょう。補給基地や見張り台のような小さな山城では水の手がない例もありますが、ある程度の規模の山城ではたいがい、現在も井戸跡など給水ポイントの痕跡が残されています。
 井戸の伝承を追いかけると、山城で水の手を探すのがいかに困難だったかがわかります。例えば、伊予松山城(愛媛県)の本丸にある井戸は、2つの峰を埋め立てて本丸を整地するさいに、谷底にあった泉を井戸として残したと伝わります。実際、井戸は深さ44.2mとたいへん深いもの。伝承の真偽は定かではありませんが、水の手を確保するときの苦労が込められているのでしょう。

 水の手は城の縄張り(構造)にも大きく影響しました。敵に攻められたさい、すぐに水の手を奪われてしまったら籠城戦どころではないからです。特に最後の砦となる本丸(主郭)の内側や裏手に水の手があることが理想です。
 毛利元就の本拠だった吉田郡山城(広島県)には、本丸の直下に釣井の壇が設けられていました。曲輪名からもわかるとおり、櫓づくりの釣瓶があったと想定され、現在も石積みの井戸が残されています。また、上杉謙信の居城である春日山城(新潟県)でも、本丸の裏手に井戸曲輪が存在しており、城の大手からは隠れた位置になります。このように便利な水の手があったからこそ、春日山城も吉田郡山城も長く戦国大名の居城たり得たのでしょう。
 山城での水の手は、井戸だけではなく「溜め井(ためい)」という方法もありました。山の鞍部などに貯水池を設けて、湧き水や谷筋を流れ落ちる水を溜めておく施設です。土づくりだとすぐにしみこんでしまうので、岩盤を掘削して貯水池としました。
 こうした溜め井を築いた山城に、岐阜城(岐阜県)があります。岐阜城の建つ金華山(きんかさん)は別名「一石山」と呼ばれているとおり、全山が岩塊で成り立っており、井戸の掘削は不可能です。そのため、現在確認されているだけでも、山頂に溜め井が4箇所も設けられていました。溜め井の水は何日間も放置されることがあるため、井戸に比べると衛生面におとりますが、背に腹はかえられないということでしょう。

 最後に、お城で井戸を見つけたら、是非その名称に注目してみてください。特別な名前が付けられている井戸がとても多いことに気づくでしょう。例えば、石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県)のメインの井戸は、「千貫井(せんがんい)」といいます。千貫(ざっと1億円ほど)もの価値がある井戸ということです。先ほど紹介した岐阜城の水の手は「金銘水(きんめいすい)」と呼ばれます。「金ほど尊い」ということでしょうか。ちなみに、山城ではありませんが、大坂城(大阪府)にも「金明水」という名の井戸がありますね。
 また、羽衣石城(鳥取県)の「お茶の水の井戸」には、昔々、天女がここで水浴をしている隙に、農夫が羽衣を奪ってしまったという伝説が残ります。「羽衣石」という城名はこの伝説に由来しており、井戸は現在も水が湧き出し、枯れ果てることがありません。
 これらのありがたい名称からも、山城において水の手の確保がいかに重要かつ貴重だったかがわかるでしょう。水の手は天守や虎口や堀などとは違う意味で、しかしそれに負けず劣らず城にとって必要不可欠な施設だったわけです。

 …と、こんな記載ですけど、山城において水の手の確保は、大変でしたのでしょうねぇ(^-^)//"

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 暫し四川ダム周辺の景観を眺望し山頂部を後にしますと、次は、曲輪群跡を探訪です。樹木が生い茂っておりますから、一人で訪れますと、どちらに向かってイィものかサッパリ分かりませんでしょうねぇ~

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 ここが、四川ダムから見上げますと、丁度、正面で、山頂部の南端ですネ(^.-)☆
 ここからですと、神辺平野一帯が眺望可能で、その向こうには蔵王山も…確かに、ここに城を築きますと、備後の山間部から備後南部の平野部への進出拠点としては絶好の位置ではあります(^_^)v
 足元に眼を向けますと、基準点が設置されておりました。

 ◆基準点
 基準点とは、地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された電子基準点、三角点、水準点等から構成され、地図作成や各種測量の基準となるものです。これらの基準点は、すべての測量の基礎として、公共測量、地籍測量、地殻変動観測等に使用されます。
 また、都市計画、都市基盤整備、電力・ガスの事業計画や管理、観光開発、交通網の整備、環境管理、福祉計画等に必要な地図作成に基準点が使用されます。

 そして、周辺には、登頂記念の表示板が…『2017.02.07 登 ○○○○』の記載ですけど、んっ!?…このお名前は、他の山頂でも眼にしましたような(^-^)
 つぅ事は、きっと、出掛けます度に、こんな表示板を作成し持参しておられますのでしょうねぇ~

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 要所要所では、リーダーが、堀切・曲輪群等を説明です。
 山城としての志川滝山城は、地形によって大きく東西二つの部分に分かれており、後世の本丸に当たるのは西側の曲輪群でしたようです。
 前方が開けて来ましたので、ヤッと山頂部に到着しましたようであります。
 「城は、この四川谷の最奥部の、谷筋を二分するように東南に突出した標高三九二メートルの尾根を大規模な堀切によって独立させ、その東の山頂部を削平して山城としたもので、地理的には神辺平野の中心部からは隔絶した位置にあるが、山頂部からは南側の山波越しに神辺から更に福山方面を見通すことが出来、『備後外郡』と呼ばれた備後の山間部から備後南部の平野部への進出拠点としては絶好の位置を占めている。」ようですから、山頂部からの眺望が楽しめるものと思います(^-^)//"

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 ダンプ等の工事用車輌が上から降りて来ますと離合は出来ませんから、リーダーは事前に工事施工会社と連絡を取っておられ、工事用車輌との遭遇はありません。
 滝山城跡上り口付近には、特に駐車場はありませんから、走行可能な所まで上がり路上駐車のようですネ。
 工事現場進入口からもぅ少し先に進んだ所に、これも工事用に造られましたものでしょうか…チョットしたスペースがありまして、ここでUターンし、バックでもぅ少し上がり路上駐車。
 そして下車ですけど、右は崖、左は樹木と雑草が生い茂り、下車しますにもままならない状況での路上駐車でありました(^-^;
 その際に初めて気付きましたけど、本日の参加者は9名の方々のようでした。四川ダム駐車場での10数名は、他のグループの方々も含んでいましたようですねぇ(^-^)
 それでは、標高392mの山頂部の尾根に構築されていました城郭跡に向かって探訪スタートです(^.-)☆
 駐車場所から少し歩いて進みますと、樹木に囲まれました中に民家が…もぅどなたも住んではおられないのでしょうねぇ~

 「四川滝山城跡」をWEB上で検索してみますと、こんな記載がありました。

 ◆志川滝山城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 志川滝山城(しかわたきやまじょう)は、戦国時代に備後国(現在の広島県福山市)にあった日本の城(山城)。

 ・概要
 志川滝山城は戦国時代に備後国で一大勢力を誇っていた国人「宮氏」によって築かれたといわれ、神辺平野の北部、芦田川水系四川の水源地に近い急峻な山中に位置している。城郭は標高392mの山頂部の尾根に構築されたもので、神辺平野を一望できる位置にある。曲輪は山の山頂部を削平した長大な主郭を中心に周囲に帯郭、腰郭を配置し、更に東側には3条の堀切で隔てた出丸とも呼べる曲輪があり、この西端には櫓台が配されている。しかし、西側はなだらかな斜面であるにも関わらず明確な防御施設が設けられず、この城の弱点となっており、実際、志川滝山城はこの部分から攻められて落城している。

 ・歴史
 江戸時代後期の地誌『西備名区』によると、志川滝山城は山野の戸屋ケ丸城主宮三郎義兼が明応元年(1462年)に築城し、以後3代にわたって居城としたとされる。天文21年(1552年)、中国地方の覇権を掌握しようとした毛利氏が備後国へ侵攻すると、尼子氏傘下であった宮氏は志川滝山城に篭城し、「志川滝山合戦」が勃発した。
 江戸中期の軍記物語「陰徳太平記」によると、合戦は7月23日に行われ、籠城する宮光音以下380人に対し毛利元就は3,800の兵で押し寄せ、1日で落城したという。宮光音は備中国に逃亡し、この結果、毛利氏は備後南部を勢力下に置くことになった。

 ・現状
 志川滝山城跡の南側にある渓谷には現在四川ダムが設置されており、当ダムの貯水湖は滅亡した当城にちなみ「城山湖」と名づけられた。なお四川ダムまでは大きな道路が整備されているが、そこから直接城跡に行くのは急峻な崖であり難しく、さらに上流の大谷池(明治期の貯水池)の土手に行きそこから目指すしかない。

 ◆志川滝山城跡(福山市加茂町北山)

 --- http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/taguti_teacher/012/index.html ---

 福山市の中心から、国道182号線を北へ約30分、車は吉備高原に刻まれた加茂の谷あいに入る。ここでさらに道を山野方面にとると、やがて加茂町大字粟根に至る。備後宮氏最後の拠点となった志川(四川)滝山城跡は、ここからさらに西に入った、四川谷の最奥部に存在する。現在、城の麓に「四川ダム」が建設され、ダム湖の名称は滝山城に因んで「城山湖」と命名された。

 城は、吉備高原の南縁の溺れ谷に望む尾根の突端部を利用して築かれたもので、標高395mの山頂部に南北3段からなる本丸を築き、東南に張り出したほぼ同じ高さの尾根上に4段からなる出丸を配している。主郭背後の尾根上と、主郭と東南の曲輪群の間には堀切が見られる。本丸と出丸に挟まれた東側のくぼ地には石垣で構築された井戸曲輪が残り、本丸西の断崖面には城名の起こりとなった、降雨後のみに流れ落ちる枯れ滝がある。
 江戸時代の郷土史書『西備名区』によると、滝山城は、山野村(現福山市山野町)戸屋ケ丸城主であった宮三郎義兼が明応元年(一四九二)に築き、越後入道光音、常陸守光寄と三代にわたって居城としたという。義兼の系譜は明らかではないが、山野は室町時代初期、宮氏の有力な一族宮次郎右衛門尉氏兼が領しており(『山内首藤家文書』八三号)、氏兼を祖とする宮彦次郎家の惣領かその一門に連なる者であろう。

 この城が攻防の舞台となったのは、天文二十一年(一五五二)夏のことだ。前年九月の大内義隆滅亡後の混乱した政情のなかで、同年四月、時の将軍足利義輝は、出雲の尼子晴久を備後など八カ国の守護職に任命し、中国地方の安定勢力と認めた。これによって尼子の勢力は再び中国山脈を超えて備後に南下し、庄原の山内氏をはじめ、これに応ずる者が現れた。なかでも宮入道光音を盟主とした宮一族は、一族を糾合して備北から南下し、滝山城に拠って宮氏再興の旗を挙げた。宮氏は、天文年間、尼子氏に味方して大内、毛利氏の攻撃を受け、備後南部でほとんど勢力を失っており、この機会に失地を回復しようとした。
 宮氏の挙兵に対し、安芸の毛利元就は、芸備の国人衆に激を飛ばして、大軍を備後南部に向けた。合戦は、七月二十三日に行なわれ、篭城将士の奮闘も空しく、城は陥って光音は備中に逃走した(『陰徳太平記』巻十八など)。『毛利家文書』二九三号などによると、高所を占める城方は、さかんに飛礫を用いて抵抗したが、この城の弱点となっていた「尾首(西北峰続き)」の城壁を突破されると、持ちこたえられず、一挙に勝敗が決まったようだ。
 (主要参考文献)『福山市史』上巻、田口義之『備後の山城と戦国武士』、備陽史探訪の会刊『山城探訪』

 ◆志川滝山城跡(福山市加茂町北山)

 --- https://bingo-history.net/archives/1596 ---

 神辺平野の北縁は、吉備高原の山波が急傾斜で平野部に落ち込み、高原に水源を持つ小河川によって侵食された幾つもの谷筋によって形成されている。戦国時代、備後宮氏と安芸毛利氏の雌雄を懸けた決戦が行われた志川滝山城は、こうした吉備高原から流れ出た小河川の一つ、加茂川流域に開けた加茂町の平野から、更に西に分かれた同町四川の谷合の一番奥まった所に位置する。
 城は、この四川谷の最奥部の、谷筋を二分するように東南に突出した標高三九二メートルの尾根を大規模な堀切によって独立させ、その東の山頂部を削平して山城としたもので、地理的には神辺平野の中心部からは隔絶した位置にあるが、山頂部からは南側の山波越しに神辺から更に福山方面を見通すことが出来、「備後外郡」と呼ばれた備後の山間部から備後南部の平野部への進出拠点としては絶好の位置を占めている。
 山城としての志川滝山城は、地形によって大きく東西二つの部分に分かれる。後世の本丸に当たるのは西側の曲輪群で、標高三九二メートルの山頂を削平して南北一〇〇メートルに達する長大な曲輪を築き、更にそれを守るように周囲に一段切り下げて幅五~一〇メートルの帯曲輪をめぐらせている。山頂からは鞍部を隔てて東方に尾根が突出し、この部分に東側の曲輪群が設けられている。その中心は尾根上を削平した、東西約八〇メートルの曲輪で、幅最大一〇メートルを測り、東に二段の腰曲輪、西端には長径一八メートルの櫓台を築き、防備を固めている。

 以上の城郭要部を守るために築かれたのが、西側に続く尾根筋を断ち切った大堀切である。ただし、加工の痕跡はそれほど明瞭ではなく、この城の唯一つの弱点となっており、後に述べるように天文二一年七月の合戦で毛利勢が攻め寄せたのもこの方面からであった。なお、堀切は東側曲輪群と西側曲輪群を隔てる鞍部にも認められるが、加工の度合いは低く、曲輪の切岸が不明瞭な点と相俟って、全体的に未完成の印象を与える。このこともこれだけの天険を擁しながら城側があっけなく敗れた要因の一つであろう。
 『西備名区』等の郷土史書によると、この地に初めて城を築いたのは、山野の戸屋ケ丸城にいた宮三郎義兼という者で、明応元年(一四六二)のこととしている。しかし、この城を一躍有名にしたのは、言うまでもなく、この地が天文二一年(一五五二)七月の所謂「志川滝山合戦」の舞台となったからである。
 志川滝山合戦は、南北朝時代以来、備南に勢力を持った宮氏と、安芸の毛利氏とが神辺平野の覇権をめぐって争った戦いで、これを大きな視野でとらえれば、出雲の戦国大名尼子氏と、大内義隆を殺し、大内氏の実権を握った陶氏、及びその与党の毛利氏が、備後南部の支配権をめぐって争った一連の合戦の一部である。すなわち、天文一八年(一五四九)九月の神辺城の陥落によって備後南部の足場を失った尼子氏は、天文二一年(一五五二)四月、将軍義輝より備後など八ケ国の守護職を与えられると、再び中国山脈を越えて南下の姿勢を示し、これに同じく毛利氏の圧迫によって備南での地位を失いつつあった宮氏が、入道光音を盟主に応じ、この合戦となったものである。

 その初動は、同年六月には始まっていたようである。同月七日、陶晴賢は芸備の国人衆に充てて、「備後境目動之儀」について、江良丹後守を上使として派遣したから、元就と相談して出兵するよう指令を発している(閥閲録一〇四)。「備後境目」とは国境の意ではなく、強敵尼子氏の勢力圏との接点を指していることは言うまでもない。そして、翌七月、備後に出兵した毛利元就は、同月二十三日、一気に総攻撃を決行して、宮氏の籠る当城を落とした。当日の城攻めは、城の「尾首」、すなわち、先に述べた当城の弱点、西方尾根続きから行われたようで、元就が家臣に与えた感状にも「尾首構際に至り」という言葉が見られる(閥閲録一二八等)。しかし、毛利方も二二六人に達する戦死傷者を出しており、城方の抵抗もかなり激しかったことを窺わせる(毛利家文書二九三号等)。

 城跡を訪ねるには、バス利用だと井笠バスの山野・加茂方面行きに乗車し、「四川別れ」で下車する。ここからは自分の足が頼りである。四川の谷を登って行くと、前方に険しい山肌を見せる山が迫って来る。これが志川滝山城跡である。正面からの登りは危険で、一旦突き当たりの大谷池の土手へ出て、西方から城跡を目指す。

 …と、こんな歴史のあります『志川滝山城跡』であります(^-^)//"

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(2)

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 備陽史探訪の会では、後日、「四川滝山城跡探訪」を予定しておられまして、今回は、その探訪コースの下見とか(^-^)
 滝山城跡には、四川ダム側から上れればイィのでしょうけど、結構、険しい岩壁ですから素人にはとてもムリ。登城道もありませんし危険ですので、反対側(北側)へ大廻りし、車で近くまで向かい、反対側から歩いての登城となりますようです。
 いつの間にか集合時間となりまして、駐車場には10数名の方々がご集合です。が、肝心の、今回の滝山城跡探訪のリーダーは、少し遅れて到着されますとの事。
 そして、10分少々遅れでリーダー到着。いよいよ探訪開始です。
 ダム駐車場からは、3台の車に分乗し、市グラウンドゴルフ場・広瀬小中学校方向へと進み、182号線に抜ける狭い市道を北上し「滝山城跡」入口へ。
 『← 滝山城跡 3.1km』の案内表示があります場所を左折し小さい橋を渡りますと、後は1本道ですから…

 この『← 滝山城跡 3.1km』の案内表示に眼を向けておりますと、既に9年ばかり昔の事となってしまいましたけど、平成24年(2012年)10月の出来事が、つぃ最近の事のようにGONsanの脳裏に…
 平成24年10月3日に、GONsanの町内のグラウンドゴルフクラブの皆様が、加茂町北山の「市グラウンドゴルフ場」にヤッて来られプレー。その際に、お一人が、A.M.10:00頃にゴルフ場から出られ近辺を散歩されましたようです。
 広瀬保育所前を歩いておられますのを保育所職員が見掛け、以降は、行方不明となられました出来事がありました。
 一週間経ましても行方が分からず、町内の有志の方々で、グラウンドゴルフ場周辺を捜索で何度か出掛ける事となりました。
 GONsanも、土・日曜日を利用し捜索のメンバーに加わりまして、「← 滝山城跡 3.1km」の案内表示を横目に歩きながら直進し、182号線に出ましたところで、また同一ルートを丹念に捜索しながら戻った事がありました。
 こんな経緯がありますだけに、この案内表示を9年振りに眼にしまして、実に感慨深い想いが…
 そぅなんですねぇ~結局、色んな方々の捜索も空しく、依然として、行方不明は続いておりますネ…あれから早や、丸9年を経ますのですねぇ~

 そんな感慨に浸っておりましたら、いつの間にか、滝山城跡上り口近くまで来ましたようですネ(^-^)
 車から降りますと、いよいよ探訪開始です。
 下車しますと丁度、真正面方向に削り取られ整地された山肌が…これは、何の工事をしておられますのでしょうねぇ~
 不便なへんぴな場所ですから、産廃処理場の建設でも始まりますのかも…

 それから、余談ではありますけど、当時、捜索しておりましたら、前方から車が来ましたので、運転者に「こんな方を見掛けませんでしたか?」と、チラシを手にお尋ねしますと、「うん、見掛けてないなぁ~ワシは地元の人間だが、今までも、この地区では4人ばかり行方不明者が出ているんだ。うち1人は、上空でカラスが廻っていたので、その方向の谷底に降りてみたら、既に亡くなっていた。あとの3人は行方不明のままだ。この近辺の山の中には産廃処理場が何ヶ所かあるので、そぅいぅ場所で処理されたら、もぅ分からんなぁ…」と、事件性を臭わすご発言を…
 当時、警察は、事件に巻き込まれた可能性は低いように見ておられましたが…
 地元でも3名の方が行方不明とは、結構、ショックではありましたネ。

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(1)

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 10/3(日)には、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加のGONsanでした(^.-)☆
 集合は、四川ダム管理事務所の駐車場に、A.M.9:00でしたから、少し早めに我が家を出まして、歴代のゴンチャンが眠ります「福山ペット霊園」で久し振りに墓参りを兼ねます事に(^-^)
 ペット霊園に到着は、A.M.8:30。霊園には、どなたもおられないものと思いましたら、霊園関係者の方がお独り草取りを…
 お金持ちの方々のペットは、立派なお墓で眠っていますのでしょうけど、我が家のゴンチャン達は、観世音菩薩像の下に共同納骨。
 我が家の歴代のゴンチャンは、ニャンコが嫌いでしたけど、あの世では色んなペット達と仲良く眠っていますのでしょうねぇ~何度訪れましても、生前の元気でした当時の面影が蘇って来まして、懐かしさと同時に哀しさも…
 穏やかに眠ってくれていましたら宜しいのですが…
 日頃ご無沙汰しておりますから、充分に時間を要しまして、菩薩像の下のゴンちゃん達を供養です。
 そぅして時間を見ますと、既にA.M.9:10。そろそろ四川ダムに行かなくては…
 ダム駐車場到着は、A.M.9:20。
 駐車場には、数名の方がおられましたので、「備陽史探訪の会の方ですか?」…と尋ねますと、「違います」との事でありました。結構、慌ててペット霊園を去ったのですけど、四川ダムには、どうやら一番乗りのようですネ。
 ダム管理事務所建物の後方が、「四川滝山城跡」なんです。
 待ち時間を利用し周辺に眼を向けておりますと、駐車場には「海上自衛隊」と記載されました車輌が…まさか本物の海上自衛官sanの車ではないでしょうねぇ~か、どぅか、よく分かりません(^.-)☆
 とりあえず、一枚パチリとなりました(^-^)//"

 ◆四川ダム

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 四川ダム(しかわダム)は広島県福山市加茂町にある、一級河川・芦田川水系加茂川支流四川上流部に建設されたダムである。
 広島県が施工した都道府県営ダムで、現在は広島県四川ダム管理事務所が管理を行う堤高58.9メートルの重力式コンクリートダムである。加茂川治水計画の一環として洪水調節と不特定利水(既得取水の安定化、河川環境の保全等)を目的とした補助治水ダムである。ダムによって形成された人造湖は、かつてダムのすぐ北側の絶壁上に存在し、毛利元就に攻略され消滅した宮氏の居城志川滝山城にちなんで城山湖(しろやまこ)と命名されている。

 ・概要
 芦田川水系加茂川の支流である四川の上流には、大正時代に建設された大谷池という灌漑用ダム(1925年竣工、1990年改修)があったが、このダムには洪水を調節する機能がなかった。そのため、四川と谷尻川の合流点に建設されたのが当ダムである。
 河川の環境維持の目的と80年に一度の大洪水にも耐えられる洪水調節のためのダムとして建設されたものである。

 ・周辺
 前述のように上流には灌漑用のため池「大谷池」がある。このダムの堰堤は中国自然歩道のコースになっている。また下流の粟根地区には小説家の井伏鱒二の生家があり、大谷池からの四川沿いは「朽助のゐる谷間」「丹下氏邸」「白毛」といった作品の舞台となっている。

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11/9(火)は、三町親善グラウンドゴルフ大会に参加でした(^.-)☆(3)

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 こぅして商品を手にしておられます方々のお顔を拝見しておりますと、皆さん実に楽しそう(^.-)☆
 こぅした大会は、参加します事に意義もあるのでしょうけど、とは言いましても、何らかの商品をゲットしませんと、GONsanなんぞは実に詰まらない(^-^)
 とかなんとか言いながらも、こんな皆さんのご様子を画像に納めていますのも、結構、楽しいGONsanなのでありました(^-^)
 スコアーの方ですけど、せめてYsanよりは良くて、「成績は、Ysanよりは良かったぞぉ~」と嫁さんに報告したかったのですけど、それは成らず残念でしたネ(^-^)//"

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11/9(火)は、三町親善グラウンドゴルフ大会に参加でした(^.-)☆(2)

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 前半の8ホールが終わりますと、暫しの休憩です。
 Ysanの本日の前半は、調子も今一のご様子。
 Ysanの鍛冶屋自治会は、週に3日の練習と言っておられましたような…我が中村は毎日なんですけど、GONsanは、基本的に水・木・金の3日をサボり週に4日の練習。
 GONsanの方が1日練習日が多いのですけど、そぅ単純にもいきません。まあとにかく、前半は、Ysanよりは1打リードのGONsanでした。
 が、後半の8ホールがスタートで、Ysanとは似たりよったりのスコアで推移。相変わらずYsanの調子は上がりませんようでしたネ。
 そして、迎えた最終ホール。ヤッと調子が上がりましたYsanは、最後の最後でホールインワン。悪いながらも、さすがでありました。
 それに引き替えGONsanは、最後の最後で、実力が出まして、ガックリの4打でありました。
 Ysanとは、「お疲れ様でした…」と、笑顔で挨拶を交わしたものの、面白くも何とも無いこの日のGGでありました。
 全員のプレーが終わり集計後は、お楽しみの表彰式。
 GONsanは、毎回そぅなんですけど、今回も何にも無し。
 Ysanはと見ておりますと、うん、うん、飛び賞・ホールインワン賞を受賞しておられましたネ(^_^)v

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(15)

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 高泉寺の五輪塔を確認しますと、今回の「中世石造物調査(沼隈町)」は凡て終了です。
 高泉寺の境内に引き返そうとしていますと、女性のお一人が「こんな所にも五輪塔が…今まで気付かなかったのに…」と。これにはリーダーも「んっ!?」と確認です。
 今までリーダーも気付かれませんで、現在に至っておられますようです。他の3人の皆様も同様のようでありました(^-^)
 リーダーは、「このメンバーで中世石造物調査を行うと、必ず1箇所は新しい発見があるんですよ…」と、GONsanに(^-^)
 そして、「カメラを取って来るから、皆さん、ここで待っていて下さい…」と、リーダーは車まで。
 この間を利用して、GONsanは、高泉寺の景観をパチパチと(^.-)☆
 リーダーはカメラを片手に戻って来られ、持参資料に追記です。この五輪塔も中世に創られましたモノなんでしょうねぇ~
 今まで存在に気付かれませんでしたのは、樹木・草花に囲まれ、隠れていましたからなのかも…とにかく、これで、調査完了です。
 本日の調査結果は、リーダーが取りまとめて、後日、会報で報告されますのでしょうねぇ~
 墓地側の常石造船sanの社宅駐車場に戻りますと、「私達は、また集合場所のユーホー駐車場に戻りますけど、どぅされますか?」とリーダー。これに、「初めて中世石造物調査に参加しましたけど、大変勉強になりました。有難うございました。私は、熊野町までリーダーの車の後を追走しますけど、そのまま真っ直ぐ、福山沼隈線・県道72号線を洗谷に抜けて帰ります。お世話になりました。」と、GONsanです。
 この方々は、水呑の妙性山墓地にも何度か出掛けられていますのでしょうネ。「水呑は、妙顕寺裏の墓地に、沢山五輪塔がありますネ…」と、女性のお一人が(^-^)
 中世石造物ド素人のGONsanでしたけど、この4名の皆様の会話に耳を傾けていますのみでも、結構、学びました事は多かったですねぇ~
 次回、また、こんな機会がありますのか否か分かりませんけど、時間が許せば、また参加してみたいですネ(^-^)//"

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11/9(火)は、三町親善グラウンドゴルフ大会に参加でした(^.-)☆(1)

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 11/9(火)は、我が町の三自治会の皆様との「三町親善グラウンドゴルフ大会」が開催で、GONsanも参加となりました。
 今月は、何だかんだと行事が多くて、グラウンドゴルフは三つの大会が開催されますけど、GONsanは、この大会のみ参加が可能。
 大会のお世話をされますのは持ち廻りのようで、今大会は、我が自治会が当番との事。
 で、GONsanは役員でもありませんけど、お手伝いしなくては…と、少し早めに出掛けましたのですけど、ほとんど準備は済んでおりました(^-^;
 掲示板に組合せ表を貼りながら、GONsanの組のメンバーを見てみますと、う~ん、嫌なお名前が…嫁さんの友達のYsanが同じ組でありました(^-^;
 この大会は、嫁さんは参加しておりませんけど、出掛ける前に「同じ組にYchanがいるけど、商品泥棒と言われるくらい上手だから、『主人はド素人で下手だから、指導してあげて』と頼んでおいた…」と、余計な事を。
 それを耳にしたばかりに、改めて組合せ表で、同じ組にYsanのお名前を確認し、即、憂鬱に…当のご本人は、GONsanの顔を捜してニタニタと(^-^)
 そぅしていますと、定刻少し前に開会式が始まりました。その後で、一通りルール説明。そして、プレー開始となりました。
 GONsanの組は8ホールからのスタート。
 日々の練習でも下手ですから、本番で上手く行くハズも無いのですけど、とにかくYsanにだけは負けないようにしませんと(^-^)//"

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昨夜は、部分月食が楽しめましたネ(^_^)v

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 昨夜は、部分月食で、

 ◆「たいへん深い」部分月食を見てみよう

 --- https://www.nao.ac.jp/astro/sky/2021/11-topics03.html 国立天文台(NAOJ) ---

 11月19日の夕方から宵にかけて、全国で部分月食が見られます。
 月食は、月が地球の影に入ることによって起こります。地球の影(本影)によって全て隠される「皆既月食」と、一部が隠される「部分月食」があります。今回は部分月食ですが、月の大部分が影の中に入り込みます。
 部分月食の始まりは、16時18.4分です。ただし、北海道や東北地方北部を除く地域では、月食の始まりは月が地平線の下にあって見られず、月が欠けた状態で空に昇ってくる月出帯食(げつしゅつたいしょく)となります。今回の月食は、とくに前半で月の高度が低いので、東の空が開けた場所で観察しましょう。
 月が最も欠けて見える、食の最大は18時02.9分です。皆既月食の場合には、完全に影の中に入った月が赤黒い色(赤銅色とも呼ばれる)になって見えることが多いのですが、一方で、多くの部分月食では影の部分の色は暗いだけではっきりしません。ただ今回の部分月食では月の大部分が影に入りますので、食の最大の頃には影の部分が色づいて見えるかもしれません。
 月はその後、空を昇りながら地球の影から出ていきます。19時47.4分には月が影から離れ、部分月食が終わります。

 …と、こんな昨夜の部分月食でありました。
 挿入の画像は、11/19(金)--18:05、19:35、20:20、11/20(土)--06:35に撮りましたものなんです。
 今朝、お月様に眼を向けておりましたら、何処からかムクドリの集団がヤッて来まして、お月様を背景に旋回です。
 これはイィ景観だなぁ~と、急いでカメラを持ち出しますと、既に旋回は終わり電線に着地でありました。
 その内に、またお月様を背景に旋回を始めるのかも…と、暫く待機しておりましたけど、う~ん、根負け。諦めて室内へ(^-^)
 そして、10分後に再度出てみましたら、予期はしておりましたけど、ムクドリの集団は何処へか飛び去っておりましたねぇ~もぅ少し、辛抱強く待っていれば良かったのでしょうけど…残念。
 空飛ぶ絨毯のように、お月様を背景にイィ景観でしたけど、う~ん、残念でありました(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(14)

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 「五地蔵堂」を後にしますと、また車で移動。次は、「奥山観音・河野神社」に向かいます。
 河野神社の脇に、五輪塔が存在です。リーダーは、ここでも確認のみでありました(^.-)☆
 そして、また車に戻りますと、次は最後の訪問地「高泉寺」であります。
 高泉寺には、墓地側の常石造船sanの社宅駐車場らしき空地に車を駐めさせて頂き、境内へ(^-^)そして、本堂左側を奥に進みますと、五輪塔が…
 リーダーは、ここでもまた確認のみのようでありました(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(13)

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 南泉坊境内の五輪塔を確認後は、また少し東方に移動し、近くの市道に車を駐め、歩いて「五地蔵堂」に向かいます。
 ここでも、石仏と言うか地蔵を確認です(^.-)☆
 山裾に旨く組み込んだお堂です。堂内には石造地蔵仏が五体あるが、向かって右端は何か不明。五輪塔の片割れなんでしょうねぇ~
 リーダーに質問することも無く、パチパチと画像に納めますGONsanなのでありました(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(12)

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 この墓地でも、二箇所の五輪塔をチェック確認となりました。二つとも、一つの石から彫りだされた小柄な一石五輪塔(いっせきごりんとう)でありました。
 ここもまた、別段、変動は無いようですネ。リーダーは、確認が終わりますとサッサと来た道へ(^-^)
 柏迫池まで戻って来ますと、墓地に上がります前に眼に入りました「保護樹木ヤマモモ」をパチリです。
 福山市のホームページを覗いてみますと、保護樹木に関してこんな記載が…

 ◆保護樹木・保護樹林

 良好な緑の環境を確保し、美観風致を維持するために必要のある樹木等を保護樹木や保護樹林として指定します。また、樹木または樹林の所有者は、指定を申請することができます。
 ・保護樹木等の所有者は、枯損の防止その他その保護に努めなければなりません。
 ・保護樹木等には、福山市都市開発基金による補助金制度があります。
 ただし、市街地(都市計画法に定める市街化区域とその周辺)内の樹木等に限ります。
 次の指定基準に該当し、健全で美観上優れている樹木・樹林を募集します。

 ・指定基準
 保護樹木:高さ150cmの幹周が120cm以上、樹高12m以上、株立ち樹木の樹高が3m以上、はん登性樹木の枝葉の面積が30平方メートル以上
 ・保護樹林
 面積が300平方メートル以上、生垣の長さが30m以上

 …と、こんな説明が(^-^)
 因みに、この「保護樹木ヤマモモ」は、
 指定番号--31、樹種--エノキ、所在地--福山市沼隈町大下山南、幹の周囲--277cm、高さ--16.5m でありました。

 ◆ヤマモモ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ヤマモモ(山桃、学名:Morella rubra)は、ヤマモモ科ヤマモモ属の常緑樹。また、その果実のこと。

 ・名称
 和名の由来は、山に生えモモのような果実をつけることから。中国名・漢名は楊梅(ようばい、ヤンメイ、(拼音:yángméi)、別名として山桜桃、火実などがあり、古代から和歌などにも詠まれる。ベトナムでも漢名をそのまま用いて「dương mai」ズオンマイと呼ぶ。

 ・分布、生育環境
 中国大陸や日本を原産とし、暖地に生育し、暑さには強い。日本では関東以南(房総半島南部、福井県以西)の本州、四国、九州、沖縄の低地や山地に自生する。本州南部以南では、海岸や低山の乾燥した尾根など、痩せ地で森林を構成する重要樹種である。
 日本国外では、朝鮮半島南部、中国、台湾、フィリピンに分布する。中国では江蘇省、浙江省が有名な産地で、とりわけ寧波市に属する余姚市や慈渓市、あるいは温州市甌海区は古くから知られた産地であり、千年に及ぶとされる古木も多く残る。他に福建省、広東省、広西チワン族自治区、台湾なども産地である。
 自然分布以外にも、人の手によって公園などにも植えられる。

 ・形態、生態
 常緑広葉樹の大高木で、成木は樹高20メートル(m)ほどになる。樹冠は、こんもりした円形となる。生長は遅く、幼木は日陰を好むが、成木は日なたを好む。幹の樹皮は灰白色で滑らか、一年枝は灰褐色で多数の楕円形の皮目を持つ。古くなると縦の裂け目が出ることが多い。
 葉は密に互生し、多くは枝先に束生する。葉身は革質、つやのある深緑で、5-12センチメートル(cm)の倒披針形か長楕円形、もしくは倒卵形をしており、成木では葉は滑らかな縁(全縁)だが、若木では不規則な鋸歯が出ることが多い。葉の裏側に芳香を出す油点(ゆてん)がある。葉柄は5-10ミリメートル(mm)程度と短い。葉腋には円筒形の花芽がつく。
 雌雄異株で、花期は3-4月。葉の付け根から花序を伸ばして、数珠つなぎに小さな桃色の花弁4枚の目立たない花をつける。
 雌株につく果実は直径1.5-2cmのほぼ球形で、6月頃に紅色から暗赤色に熟し、食べられる。表面に粒状突起を密生する。この突起はつやがあるので、外見的には小粒の赤いビーズを一面に並べたように見える。
 枝先には葉芽がつき、円錐形で黄色い腺点に覆われている。雌雄異株であることから、雌花序の冬芽と雌花序の冬芽は別々の株につき、雌花序のほうがやや細い。

 …と、WEB上には、ヤマモモに関し、こんな記載がありました(^.-)☆
 それでは、近くではありますけど、また車で、「浄土真宗北峰山南泉坊」へと移動です。

 ◆福山市沼隈町「浄土真宗北峰山 南泉坊」
 福山市沼隈町草深奥組に在り、浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。応永二十一年(1414)明順により創建と伝える。はじめ天台宗であったが後、浄土真宗に改宗。境内に中継表の発明者長谷川新右衛門道久墓(墓と刻むが実は顕彰碑)がある。

 南泉坊では五輪塔のみ拝見し退散ですから、「長谷川新右衛門道久」の石碑は眼に出来ませんでしたネ(^-^;
 でも、「長谷川新右衛門道久」sanとは、何者なんでしょう?
 WEBには、こんな記載が…

 ◆長谷川新右衛門(はせがわ-しんえもん)
 1531-1612 織豊-江戸時代前期の殖産家。
 享禄(きょうろく)4年生まれ。備後(びんご)(広島県)の人。慶長5年ごろ畳表(たたみおもて)の製法でそれまでの引通(ひきどおし)表にかわって、みじかいイグサを活用した中継(なかつぎ)表の製法を考案し、備後表の生産をさかんにした。この功績で7年郷士となる。慶長17年2月13日死去。82歳。名は道久。別名に菅野十郎左衛門。

 …と、こんな人物でありました(^_^)v
 それと、マップ上には、『山本滝之助ゆかりの地・南泉坊』と記載がありますけど、またまたWEB上で「山本滝之助」sanを検索です。

 ◆山本滝之助

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 山本 滝之助(やまもと たきのすけ、1873年11月15日-1931年10月26日)は、明治~昭和期の社会教育家、思想家。「青年団運動の先覚者」。広島県福山市出身。

 ・経歴
 広島県沼隈郡千年村(現・福山市)に農家の長男として生まれる。小学校卒業後、1889年尋常小学校雇となり、以後22年にわたり小学校教師、その間、1905年校長に就任。教師生活のかたわら、居村を中心に地域の若連中の改善に取り組み1890年、「好友会」という青年会を結成し青年団運動を始める。
 また多くの青年団体機関誌を発行。特に1896年、24歳のとき自費出版した代表的著作『田舎青年』は、地方にも近代社会に目覚めた青年がいることを主張して注目された。当時、青年と言えば立身出世を目指す都会青年のみを意味し、実際人数の多い田舎青年は自己の希望を満たされず、世間から忘れられた存在であった。
 山本はこの著作の中で、都会青年も田舎青年も平等であると主張。「田舎に住める、学校の肩書なき、卒業証書なき青年」に目を向けるよう呼びかけ、田舎青年の教育の重要性を指摘した。また「青年会を設くべし」と全国を巡講して実際を指導、各地の青年団の結成及び全国的な組織化に尽力。これらの活動は日本青年館の建設、大日本連合青年団結成を促した。山本の長年の功労に報いるため、財団法人日本青年館に設けられた顕頌会によって死後まもなく『山本滝之助全集』が刊行されている。

 …と、こんな方でありました(^.-)☆
 お二人とも、この南泉坊にお墓が存在しますのかも分かりませんねぇ(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(11)

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 この墓地での五輪塔ですけど、前回調査より別段変わりもありませんようで、リーダーの前回調査資料の確認もありません。
 それでは、また、下山です(^-^)
 歩行もそれなりにキツイのではありますが、イィ運動にはなりますねぇ(^_^)v
 この方達は、訪れます先々の中心部に車を駐め、凡て歩きがイィですねぇ~「浜組の地神」を横目に千年郵便局辺りまで戻って来ますと、次は、車で移動です。
 柏迫池の堤下のチョットしたスペースに車を駐めて下車。
 堤下の石碑に眼を通しますと、こんな記載がありました。

 ◆柏迫池

 ・由来

 江戸時代中期、草深地域に新田が完成すると、灌漑用水の確保が必要となる。草深は、谷が浅く水源の乏しい地域であった。
 そこで、新涯に近い柏迫に溜池を築く事にし、奥組の谷川から山を廻して弐粁米の取水路を柏迫に引くことにした。
 測量器機のなかった當時で、取水路の測量は闇夜に地元の老若男女がこぞってローソクを手に持ち、山すそに一列に並び、高台からその火を見通して高低差の測定をした。
 新田開発灌漑用水の池を造る工事は、當時としては大事業であり、多くの民、百姓の厳しい労働と多くの費用をかけて歓声に至った。

 --- 平成4年10月吉日 地域振興指定事業記念 土居地区 ---

 こんな柏迫池の脇の市道から山側へ…う~ん、これがまた急な上り坂。しかも、距離が長い(^-^;
 相変わらず4名の皆様は、休む事も無く歩行続行。タバコ吸いのGONsanは、息が続かず何度立ち止まりました事やら(^-^;
 目的地の墓地到着時には、ゼェーゼェー状態でありました(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(10)

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 寄ノ宮八幡神社から降りて来ますと、千年小学校を横目に千年郵便局方向に歩いて、「浜組の地神」脇の市道を進み山側の墓地へ。この墓地への上り道が、GONsanにはキツイのなんの(^-^;
 にも拘わらず、この4名の皆様は、相変わらず涼しい顔でドンドン歩いて行かれますから、もぅ脱帽(^-^;
 墓地では、五輪塔を確認となりました(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(9)

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 本殿前の境内に到着しますと、まずは参拝を…かと思いましたら、境内を通り抜け、随身門を潜り常夜燈と言うか石灯籠に向かわれます。
 そして、石灯籠の脚部を入念にチェック・確認となりました。
 脚部には、多分、作られた石工のお名前が刻まれていますのでしょう。鳥居と同じ「尾道石工平三郎」と刻まれていましたのでしょうけど、この『平三郎』のお名前が「ヘイザブロウ」と読みは同じなのですけど、漢字が異なって刻まれていますのでしょうねぇ~4名の皆様は、その点を会話しておられましたが、GONsanは社殿を見廻しておりまして、その会話をシッカリとは聴いていませんでした(^-^;
 でも、多分、そんな内容の会話だったものと推察です。
 後で、脚部の刻み文字を確認したのですけど、経年のせいか、何と刻まれていますのか、よくは分かりませんでしたネ(^-^;
 リーダーは、資料を取り出し加筆・修正をしておられますようでしたネ。
 裏参道から境内にヤッて来ましたから、GONsan達は随身門から出て行きましたが、表参道からヤッて来ますと、随神門を潜りますと狛犬が迎えてくれます。
 この狛犬の台座には、「尾道石工丈介」と、刻まれておりました。

 ◆尾道石工丈介

 随神門の随神は立像のようです。随身門裏側にも随神と狛犬がいます。浪速型ですが尾道石工丈介の作です。
 尾道石工の名工達の初期の作は浪速型の模倣から始まっています。寛政十二年(1800)、石工 尾道住 丈介 作。丈介は棟梁格の石工で安永から作品を残しています。
 徳島県の新宮本宮両神社に丈介作、安永六年(1777)尾道石工銘の最古の狛犬がいます。広島県三原市に天明六年(1786)の丈介作がいます。
 県内最古の尾道石工銘入り狛犬です。

 WEB上に、「尾道石工平三郎」で検索しますと、お名前程度しか出て来ませんけど、「尾道石工丈介」で検索しますと、こんな記載がありましたネ(^.-)☆
 随神門周辺を見廻しておりますと、「寄ノ宮八幡神社」の説明板が…

 ◆寄の宮(よりのみや)

 もとは下山南の菅野にあったものを、現在地に移したもので、亀山八幡神社ともいいます。天暦年間(947~57)の創祀と伝えられ、1247年(宝治元年)、1539年(天文8年)、1602年(慶長7年)、1712年(正徳2年)に社殿が再建され、社殿のあちこちに、室町時代の面影を残す美しい蟇股(かえるまた)が使われています。
 境内には多くの石造物があり、最も古いものは1699年(元禄12年)の灯籠で、参道の両脇にある常夜燈は、1824年(文政7年)の作です。1723年(享保8年)に作られた鳥居は市の重要文化財に指定されています。

 --- 2013年(平成25年)3月 福山市教育委員会 ---

 …と、こんな記載でありました。
 大変立派な神社ですから、後日、また機会がありましたら、独りで再訪してみたいものであります(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(8)

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 下から見上げますと、なだらかな坂に見えましたけど、歩いて上がって来ますと、それなりにキツい、そして、長い上り坂でありました(^.-)☆
 ですが、この4名の皆様、何ともない…とでも言いたそうなお顔ですから、感心してしまいます。
 日頃、運動等で鍛えておられますようにも見えないのですけど、とにかくお元気。この方々は、何者なんでしょうねぇ~
 とにかく、本殿にと到着です(^_^)v

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(7)

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06-720
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 荒神社の石仏・五輪塔の確認後は、また車で移動し、「寄(より)ノ宮八幡神社」へと向かいます。
 神社の近隣に車を駐め、神社までは少し歩いて…
 神社参道の石段を少し上がりますと、まず眼に入りますのが「寄(より)ノ宮八幡神社」と刻まれました比較的新しい石標です。そして、その先に「亀山八幡神社鳥居」が…
 石標には「寄(より)ノ宮八幡神社」なのに、鳥居脇の案内板には「福山市重要文化財『亀山八幡神社鳥居』」ですから、何で!?…

 WEB上で、「寄ノ宮八幡神社」を検索しますと、こんな記載が…

 ◆寄(より)ノ宮八幡神社

 --- 福山市沼隈町草深(平成20年3月23日) ---

 この神社は千年小学校の西に鎮座しています。社号標、鳥居の建つ北参道入口から、狛犬が二対もいる随神門までは約230m位でしょうか、階段や緩い坂の参道脇は豊かに木々が茂り、気持ちの良いミニハイクの気分が味わえます。境内は広く明るく開放的な感じで、大きな拝殿や立派な本殿、現役の神楽殿やしっかりと作られ祀られている境内社数社が点在し、静かで清々しい気分になれます。
 社名は神功皇后が瀬戸内海航行の途中、ここに船を寄せたことに由来し、天歴年間(947)の草創と伝えらます。宝治元年(1247)、天文8年(1539)、慶長元年(1603)と再修理されたことがわかっています。現在、社殿のあちこちに、室町時代の面影を残す美しい蛙又が使われています。
 参道の両脇にある常夜燈は、文政7年(1824)の作で刻まれた文字は、頼山陽の直筆ともいわれており、享保7年(1722)に書かれた三十六歌仙は特に素晴らしい宝物のひとつです。(沼隈町教育委員会)

 …と、こんな記載が。
 鳥居脇の案内板に眼を向けますと、

 ◆福山市重要文化財「亀山八幡神社鳥居」

 --- 福山市沼隈町大字上山南 1995年(平成7年)4月20日指定 ---

 享保8年(1723年)「山南草深惣氏子」によって寄進されたもので、高さ約4m、幅3.7m。製作は江戸時代後半に瀬戸内沿岸部を中心に活躍した尾道の石工平三郎によるものです。
 この鳥居の特徴は、笠木の両端に鳥衾を置いていることですが、現在向かって右側の鳥衾は欠落しています。鳥衾の付いた型式の鳥居は、全国的に数少なく、現在、沼隈半島南東部に3基(鞆町1基、沼隈町2基)確認されています。

 --- 福山市教育委員会 ---

 …と、こんな説明でありました。WEB上にも、似たような記載が…

 ◆亀山八幡神社鳥居(かめやまはちまんじんじゃとりい)

 --- 福山市市指定重要文化財 平成7年(1995年)4月20日指定 ---

 この鳥居の特徴は、笠木の両端が反り上がり、鳥がとまっているよう見える「鳥衾」を乗せていることだが、右の「鳥衾」が欠落しているのが残念である。この地方では、この形式の鳥居は3基確認されている。
 なお、銘文によると享保8年(1723年)に尾道の石工平三郎が造り、草深の惣氏子が寄進したものであることがわかる。

 …と、こんな記載も。
 リーダー達4名の皆様は、鳥居の左側脚部を注視され、何やら会話中。後でGONsanも見てみますと、「尾道石工平三郎」と刻まれた部分でありました。
 「亀山八幡神社鳥居」の案内板にも「製作は江戸時代後半に瀬戸内沿岸部を中心に活躍した尾道の石工平三郎によるものです」と記載がありますけど、何か問題でもありますのでしょうか?
 後で時間が取れましたら、お尋ねしてみようと思います。
 それにしましても、社殿へと続きますこの参道…結構、急な坂道で、おまけに距離も長いようです(^-^;
 この神社のお祭りが、どんな形で行われますのか分かりませんけど、御神輿を担いで上がるのでしたら、結構、体力が要りますかも(^-^)

 それにしましても、亀山八幡神社・寄ノ宮八幡神社と二つの神社名は何で?
 この疑問解消の為、WEB上で捜しておりましたら、こんな記載にヤッと納得となりました(^.-)☆

 ◆八幡(はちまん)神社。

 --- にっぽんのじんじゃ http://flxsouko.web.fc2.com/tohoFSSjinja_hiroshima02-4-2.html ---

 福山市沼隈町草深に鎮座。千年小学校のすぐ西。
 往古、この一帯は下山南まで達する深い入海になっており、山南川河口付近には葦などの草が非常に生い茂っていたために「草深」と名づけられたといい、もとは山南村の一部だった。
 入海は現在の県道47号線、現在の山南川沿いに深く入り込んでいて、山の方からはその出口が見えなかったため、この地にあった泊りは「口無しの泊(無口泊)」と呼ばれた。
 源俊頼の歌集『散木奇歌集』の第六巻「悲歌」は、大宰府で亡くなった父の亡骸を伴って海路・水路にて帰京する途上に詠まれた歌を収めているが、口無泊について、「口なしのとまりときけば身にしみて いひもやられぬ物をこそ思へ」と詠まれている。
 水野家が福山藩主となってからこの地の新涯(新開地)開拓が行われ、入海は塞がれて農地となり、船の繋留所としての役割を終えた。
 現在は数多くのスーパーが立ち並び、沼隈南部の中心地となっている感じ。
 この八幡神社は、草深の産土神。
 もとは下山南の菅野というところに鎮座していたが、おそらくは入海の後退によって現在地に遷座した。その由緒によって「寄ノ宮(よりのみや)八幡宮」、あるいは社地の山名をとって「亀山八幡宮」と通称される。
 創祀は天暦年中(947-957)と伝わる。
 もとは山南にあったため、山南三村(上山南・中山南・下山南)の民もこの社を産土神としており、江戸時代には、まず八月十五日に山南村が先に祭を行い、草深村は二十五日に祭を行っていた。
 祭神は応神天皇、神功皇后、姫神と、宇佐八幡宮と同じ三神を祀る。
 八幡宮が遷座してくるまではこの地には地主神の津大明神が祀られており、八幡宮遷座後は末社となっている。
 この山も津大明神が向かいの田島から引っ張ってきたものという伝承があり、当時はこの辺りが海辺だったのだろう。
 また、岡崎宮・有安宮という二末社も鎮座している。岡崎宮は、岡崎悪四郎の霊を祀る。
 岡崎悪四郎義実は三浦氏庶家で、岡崎氏の祖。源氏の家人で、頼朝の挙兵時よりつき従い、鎌倉幕府御家人となった。伝承によれば、彼の孫の岡崎千太郎実忠は建暦三年(1213)の和田合戦に敗れ、この地に逃れて草深城を造り居住したといい、この地にはその子孫が多いという。
 調査によると、この社地は草深城跡とみられており、草深城の跡地に神社が建てられているとのこと。

 …と、こんな記載がありまして、うん、うん、納得のGONsanなのでありました(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(6)

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 墓地とお別れしますと、次は東方の山側へ歩いて移動です。
 挿入の衛星画像で言いますと、⑦⑧⑨の順番で中世の石造物を巡ります。
 民家と畑の間の小径を進みますと正面に石仏が…これも中世の作なんでしょうねぇ~何気なく足元に眼を移しますと、干からびた蛇の死骸が…
 続いて、⑧に向かいますけど、⑦~⑧間は距離的にはスグ近くですけど、一旦、来た道を戻りますから、それなりの距離が…ここには、石仏と五輪塔の一部が…
 ⑨の荒神社にも石仏と五輪塔の一部が…
 これらは、永い年月の間に解体・散乱していたものを、近くに集め祀られていますのかも…リーダーは、持参の資料を取り出されませんでしたから、前回調査以降、何にも変わりはありませんのでしょうねぇ~

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(5)

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 この墓地内には、何ヶ所か五輪塔が存在しますようで、順番に廻ってチェック・確認されますようであります。
 GONsanは、この方達の後を付いて歩きながら、相変わらず画像に納めますのみですけど、それでも楽しい(^.-)☆
 墓地内を歩いておりますと、またまた永い歴史を感じさせます法名碑に(^_^)v
 拝見しますと、「初代 高城主 田中河内守 寛永3年(1462)2月22日~14代 寛文13年(1673)」と記載です。反対側(裏面)にも勿論、延々と続いております(^-^)
 つぃ先ほども凄い法名碑に眼が止まりましたけど、こちらの法名碑…ではありませんネ、墓誌碑も、一層凄いものでありました(^_^)v
 数ヶ所の五輪塔を確認しましたけど、リーダーは、過去の資料への加筆はしておられませんから、以前の調査以降、変わりはないのでしょうねぇ~
 「初代 高城主 田中河内守」が何者なのか、WEB上で検索してみるのですけど、詳しい記述はありませんで、かろうじてこんな記載が…

 ◆福山市沼隈町 -- 日蓮宗法星山本光寺

 福山市沼隈町下山南樫隈にある本光寺。本尊は久遠の釈迦牟尼仏。創建は健保二年(1214)天台宗であったが寛正元年(1460)成就院日信は、高城主田中河内守と共に京に上り日蓮宗に改宗、現在の寺号を授かる。境内に田中氏の墓石、妙見堂•八王子堂、裏山の山頂に竜王堂があり、尾根伝いに要山城がある。水呑妙顯寺と本光寺の関係も掲載。2014.06.02。

 …と、こんな記述が…
 「高城主 田中河内守」は、どんな方でしたのでしょうねぇ(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(4)

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 曽我神社から降りて来ますと、また来た道を逆戻りし、木の葉荒神社の石段上り口右脇の祠に立ち寄りです。
 ここでは、散乱しています石造物を確認です。以前も調査しておられますのでしょうか…リーダーは、過去の調査資料を確認しながら、何やら加筆しておられます。
 これらは、五輪塔や石仏の一部なのでしょうか…よく分かりませんモノをここに集めて保管しておられますのかも…
 こぅした五輪塔や石仏がバラバラとなったものを、一つ一つ組み立てて修復されますから、時たま実にバランスの悪い五輪塔を見掛けますのかも分かりませんねぇ(^-^)
 ここに置いてありますものは、組み合わせようがなく、凡てバラバラなモノなんでしょうねぇ~
 木の葉荒神社を後にしますと、暫く進み、民家の間の路地を抜け墓地へ…この墓地でも、五輪塔の調査・確認なのでしょうネ。
 墓地内には、先祖何代も続きます法名碑に眼が止まってしまいました。
 見ますと、初代の慶安4年(1651年)3月10日~明和9年(1772年)1月1日までの記載。う~ん、慶安4年と言えば「由井正雪の乱」の頃ですねぇ~
 反対側と言うか裏面にも、延々と法名が記載されていますのでしょうねぇ~ついでに、拝見すれば良かったのかも…それにしましても、実に由緒ありますお宅のようです。凄い\(^o^)/

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(3)

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 木の葉荒神社の次は、「曽我神社」に向かいますけど、途中、「地蔵堂」に立ち寄りです。道端の山際に存在します小さな祠ですから、立ち寄りと言いますよりも、眺めながら通過です(^-^)
 この地蔵堂を過ぎますと、細い道を山登り(^.-)☆
 ですが、スグに曽我神社にと到着です。ここには、五輪塔の一部が祀ってありました。祀ると言うよりも、無造作に置かれています状態でありましたネ。

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ゴミステーション付近に、BS/CSアンテナが放置されておりました(^-^;

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 本日は月曜日ですから、学童の皆様の下校時、安全パトロールの当番日です。
 定刻10分前に、いつものように、GONsanの担当場所であります安政橋東詰めに出掛けまして待機です。
 暫く学童の皆様のヤッて来ますのを待ちながら周辺を見廻しますと、浜自治会ゴミステーション近くに、BS/CSアンテナが放置されておりました(^-^;
 何やら張り紙がありますので、確認してみますと、うん、うん、そぅいぅ事でありましたか(^-^)
 張り紙には、『収集できません、理由は次の項目のとおりです。収集日が違います。不燃(破砕)ゴミ 福山市 11/1』と記載です。どぅやら、ゴミ出し日が違いましたようですネ。
 ですが、11/1(月)の安全パトロール日には、このBS/CSアンテナは見掛けませんでしたけど…
 既に一週間経ていますけど、ズッとここに放置されていますのでしょうねぇ~一週間もあれば、当のご本人は気付かれますのでしょうけど、知らぬ顔なんでしょうか…
 それとも、浜自治会に所属されません方が、通りがけにゴミステーションに廃棄されましたのかも…
 それにしましても、一週間の期間中に不燃(破砕)ゴミ回収日もありましたのですけど、福山市は回収されませんのですねぇ~それに、浜自治会の方もこのBS/CSアンテナにお気付きなんでしょうけど、放置のまま…何とも(^-^;
 皆さん、片付けたい気持ちは充分お有りなのでしょうけど、本人への周知のため、敢えて、ズッと放置状態なのかも…
 とにかく、苦笑のGONsanです。
 お互い、ルールは厳守しなければなりませんネ。我が自治会でも同様なケースは発生していますのでしょうけど、困ったものですネ(^-^)//"

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(2)

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 沼隈町草深の道路沿いに存在します五輪塔を確認されますと、次は歩いて「木の葉荒神社」へ向かいます。
 ここでは祠の片隅に置いてあります石を手に、リーダーが確認。五輪塔の一部なのでしょうけど、本体は何処に…近辺の石仏を整理しておられます時に発見され、この祠に祀ってありますのかも…
 リーダーと3名の方が会話しておられますけど、内容が難解ですから、GONsanにはよく分かりません(^-^;
 それにしましても、この4名は、何者なんでしょうねぇ~ヤケに、中世の石造物に詳しいです。GONsanをノケ者にして(GONsanには難し過ぎる)会話をしておられます。
 この方達の現役時代の本職は、何しておられましたのでしょうねぇ~
 学校の先生?…市役所の史跡担当部署にお勤め?…単なる趣味で、その道を究めて詳しい?…
 こらぁ、せっかく参加している一般ド素人のGONsanに、もっと初歩的な説明をしろぉ~!!…と言いたいところですけど、レクチャーされましても分かりませんかも…まぁ、GONsanも質問もせず、写真を撮りまくっているのみですから、それで構わないのではありますが(^.-)☆

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(^.-)☆(1)

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 コロナの影響で、久しく備陽史探訪の会の行事に参加しておりませんでしたGONsanですけど、9/27(月)は、久し振りに「備陽史探訪の会『中世石造物調査(沼隈町)』」への参加となりました。
 WEB上で申し込みしておりまして、当日の集合場所であります「サファ福山・ユーホー北駐車場」に到着は、定刻の15分前。
 駐車場内を見廻しましても、それらしい方々のお姿は無し。一服しながら暫し待機となりました。
 集合時間の5分前くらいに、GONsanが佇んでいます脇のベンチに男性お二人が来訪。このお二人に眼を向けましても、備陽史探訪の会の関係者なのかどうかは分かりません。
 その内に、女性がお一人、このお二人に合流です。
 この3名の方の会話に耳を傾けておりましたら、話しの内容で、何となく「中世石造物調査」の参加者のようにも感じられ、「あのぉ、備陽史探訪の会の方でしょうか?…」とお尋ねしますと、「あぁ、そぅです…」のご返答。
 「本日の中世石造物調査に申し込みをしています○○です…」とお伝えしますと、「本日の参加者の確認をせずに来たけど、貴方も参加されるのですネ…」ですから、「んっ!?…」のGONsanでありました(^-^;
 なんでも聴くところによりますと、中世石造物調査には参加者が少なく、いつも4名で行っておられるとの事。
 ですから、この日の参加者は、いつものように、女性2名・男性1名、そしてリーダーらしき男性1名の計4名での実施を予定しておられましたようであります。
 これには、随分前から申し込み済みのGONsanは、唖然としてしまいましたネ。
 まぁそこは、大人のGONsanですから、グッと我慢あるのみ(^-^)
 とにかく定刻を少し過ぎて、女性1名が来訪。全員が揃いましたようであります。とは言いましても、確認しておられないのですから、GONsanのような申込者がおられますのか否かは、皆さん分かりません。
 それでも、定刻を過ぎましたから、いざ沼隈町へと出発です。が、4名の方々はリーダーの車に同乗で、GONsanは自分の車で追走となるようですねぇ~
 まぁ実にエェかげんなリーダーであります(^-^;
 それにしましても、危ないところでしたネ。たまたま声を掛けて備陽史探訪の会関係者と確認出来ましたから良かったものの、ズッと待っていましたら、サッサと置いて行かれますところでしたよ。
 それに、ユーホー駐車場内の別の場所におりましたら、いつまでも分かりませんでしたかも…いゃいゃ、実にヒドい、この日のメンバーの皆さんでありました。

 それはともかく、『中世石造物』とは何なんでしょうねぇ~
 WEB上で「中世石造物」を調べてみますと、宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔(ごりんとう)・板石塔婆(いたいしとうば)等の石塔を意味しますのかも…
 まぁよく分かりませんけど、この方々の後を付いて歩きますと、何を調査しますのか分かる事と思います。
 とりあえず、最初に向かいましたのが沼隈町下山南で、福山市沼隈体育館近くの山南川沿いの「辻堂」でありました(^.-)☆
 こぅした辻堂の屋根下には、よく観音菩薩が祀られていますけど、4名の皆様は、屋祢下の石仏を確認です。
 以前にも調査しておられますのでしょうネ…リーダーは、過去の調査書をめくり加筆しておられましたから(^_^)v

 そして、その後で、リーダーがGONsanにレクチャーです(^.-)☆
 「この石仏のように、上部の両端が脊側に反り返っているのが中世の創作で、そぅでないのは近世の作…」と言っておられましたような…
 う~ん、このレクチャーを受けます際には何にもメモもしておりませんGONsanですから、せっかくド素人のGONsanを相手に初歩的なレクチャーでありましたのに、今となっては詳細を憶えておりません(^-^;
 ですから、その都度、色々教えて頂きましたけど、哀しいかな凡て記憶から薄れてしまいましたので、当時を想い出しながら綴りますと、間違った事を綴りそうですので止めときます(^-^;
 辻堂とお別れしますと、次は、沼隈町草深の道路沿いに存在します五輪塔へ。
 ふん、ふん、今回の「中世の石造物調査」は、五輪塔のようであります(^.-)☆

 ◆五輪塔

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓として使われる塔の一種。五輪卒塔婆とも呼ばれる。
 一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。
 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。
 石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。

 ・材質と形態

 立体化された五輪塔の材質は石造のものが主体をなし、安山岩や花崗岩が多く使われている。古いものには凝灰岩のものが見られる。他に木製、金属製、鉱物製(水晶)、陶(瓦)製、土製の塔もある。
 五輪塔は下から四角(六面体)・丸(球)・三角(四角錐または三角錐)・半丸(半球)・上の尖った丸(宝珠型)または尖っていない団子型(団形)を積み上げた形に作られる。製作された時代・時期、用途によって形態が変化するのが特徴である。石造のものは変化に富んでおり、例えば鎌倉時代に多く作られた鎌倉型五輪塔とよばれるもの、一つの石から彫りだされた小柄な一石五輪塔(いっせきごりんとう)、火輪(三角の部分)の形が三角錐の三角五輪塔(伴墓の重源塔に代表される)、地輪(四角)の部分が長い長足五輪塔(ちょうそくごりんとう)、火輪の薄い京都型五輪塔とよばれるものなどがある。京都高山寺の明恵上人(1232年寂)の廟堂内にある五輪塔の火輪には反りがなく軒口もわずかに面を取る程度の珍しいもの。石造五輪塔の火輪は「三角」とするものの、屋根面と軒に反(そ)り、そして厚い軒口を持ちあたかも屋根のように造形するのが一般的である。ただし宝塔の笠によく見られる棟瓦や軒裏の垂木の造り出しは決して見られない(唯一の例外が京都革堂の五輪塔で軒裏に垂木様の刻み出しが見られる)。また、板碑や舟形光背(ふながたこうはい)に彫られたものや、磨崖仏として彫られたものもあり、浮き彫りや線刻(清水磨崖仏などに見られる)のものもある。石造火輪にはまれに「噛み合わせ式」のものが見られる。これは普通は火輪の上部を削平したうえに風輪を載せるのに対し、あたかも火輪の先端を風輪に突き刺したかように一体化したものであり、代表例として高野山西南院五輪塔(二基)が挙げられる。また古い五輪塔では火輪の上部に層塔の屋根のように露盤を刻みだすものがある。

 経典によれば、五輪はそれぞれ色を持ち、地輪は黄、水輪は白、火輪は赤、風輪は黒、そして空輪は全ての色を含む(「一切色」「種種色」)とされ、木造五輪塔の中にはこうした着彩が施されたものがしばしば見られる(空輪は青に塗る)。

 特殊な例としては、一般的に塔婆や卒塔婆と呼ばれる木製の板塔婆や角柱の卒塔婆も五輪塔の形態を持つが、五輪塔とは言わず、単に塔婆や卒塔婆という。卒塔婆(ソトウバ)はインドにおける仏舎利を収めたストゥーパの中国における漢字による当て字で、日本では略して塔婆や塔もといわれる。ただ、塔は近現代の一般的な塔の意味との混同があるため、現代では仏塔という場合が多い(詳しくは、仏塔や塔を参照)。つまり、五輪塔の形=仏塔のように扱われている。木製の角柱の卒塔婆は石造の墓を作るまでの仮の墓として使われることも多い。

 ・構造

 五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形または団形=空輪(くうりん)によって構成され、古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた五大を象徴する。これらは『大日経』などの経典に現れる密教の思想の影響が強い。それぞれの部位に下から「地(ア अ [a])、水(バ व [va])、火(ラ र [ra])、風(カ ह [ha])、空(キャ ख [kha])」の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。四方に種子を刻む場合は四転、例えば地輪に刻むアなら→アー→アン→アクという具合に刻む方角によって変化する。種子は密教の真言(密教的な呪文のようなもの)でもあるので下から読む。

 宗派によって、天台宗・日蓮宗では上から「妙・法・蓮・華・経」の五字が、浄土宗では上から「南・無・阿弥・陀・仏」の文字が、禅宗では下から「地・水・火・風・空」の漢字五文字が刻まれる場合もあるが、宗派をとわず種子を彫ることも多い。日蓮正宗では必ず上から「妙・法・蓮・華・経」の五字を刻む。また、種子や文字のない五輪塔も多く存在する。
 木製の板塔婆(板卒塔婆)も五輪塔の形態を持つ。これには表に下から「地(ア अ [a])、水(バ व [va])、火(ラ र [ra])、風(カ ह [ha])、空(キャ ख [kha])」の梵字による種子を、裏には仏教の智慧をあらわす金剛界の大日如来の種子鑁(バン वं [vaṃ])を梵字で書くことが多い。木製には他に角柱の卒塔婆もあり、真言や念仏がかかれることが多い。

 ・歴史

 五大思想(宇宙の構成要素についての考え)は元来インドにあった思想で、五輪塔の成立にはインド思想を構築し直した密教の影響が色濃くみられる。インドや中国、朝鮮に五輪塔造形物は現存しないところから、五輪塔の造立がはじまったのは平安時代後半頃の日本においてと考えられている。『大日経』の解釈書である『大日経疏』や善無畏『尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀』などには五輪塔図が現れるが、これは日本において書写されるうちに塔状に書きなおされたもので、本来は五大(四角、丸、三角、半円、宝珠型)がそれぞれ単独ばらばらに描かれていた。これからも五輪塔が日本において初めて成立したと推定できる。

 また、桃山時代の文献でしか知られていないが、醍醐寺円光院の石櫃には応徳二年(1085年)七月銘の高さ一尺ほどの銅製の三角五輪塔が収められていた(『醍醐寺新要録』)。内部に遺骨が納められていたというこの塔はいまも石櫃の中にあるはずで、これが今のところ年代が確かな立体的造形物としては最古の例と考えられる。実際に確認できる石造五輪塔では、奈良春日山石窟仏毘沙門天持物塔(保元二年(1157年)銘)や岩手県平泉町・中尊寺願成就院の有頸五輪塔(宝塔と五輪塔の中間タイプ)、同町・中尊寺釈尊院の五輪塔(「仁安四年(1169年)」の紀年銘)、大分県臼杵の中尾嘉応塔(嘉応二年(1170年)銘)などが最古例である。丸瓦瓦当に刻出された五輪塔も平安期にしばしば見られその最古の例として保安3年(1122年)創建の法勝寺の例が挙げられる。また天養元年(1144年)創建にかかると考えられる「極楽寺」の経塚からは陶(瓦)製の五輪塔が発掘されている(兵庫県姫路市香寺町常福寺蔵)。金属に遺された例では兵庫県徳照寺の梵鐘(長寛二年(1164年)銘)に鋳出された五輪塔像がある。絵画では、平清盛献納の『平家納経』の箱蓋に描かれたものや平安末期~鎌倉初期に描かれた『餓鬼草紙』が古い例として知られている。木製のもので在銘最古の五輪塔は京都市左京区久多の志古淵神社蔵の「久多の五輪塔」で、高さ29.3㎝と小型だが、「平治元年(1159年)十二月九日」の年紀などが墨書されている。

 木製五輪塔はしばしば仏像胎内から発見され、特に運慶ないしその弟子による作品に発見されることが多い。近年海外流出が心配されて騒ぎになった運慶作(推定)の真如苑大日如来坐像(重文)の胎内にも木製五輪塔(歯を伴う)が収められていることがX線調査の結果分かっている。石造五輪塔が一般的に造立されるようになったのは鎌倉時代以降で、以後、室町時代、江戸時代を経て現在に至るまで供養塔や墓碑として造塔され続けており、現存するもの以外に考古遺物とし出土するものがある。

 初期の五輪塔の普及の要因としては、高野聖による勧進の影響といわれる。平安末期に『五輪九字明秘密釈』を著した覚鑁も元は高野聖といわれる。高野聖による五輪塔による具体的な勧進としては、五輪塔の形をした小さな木の卒塔婆に遺髪や歯などを縛り寺に集め供養する。
 真言律宗の僧叡尊や忍性も五輪塔の普及に係わったとされる。
 鎌倉時代の奈良東大寺再建にあたり、重源に招かれ宋より日本に渡り、日本に石の加工技術を伝え、後に日本に帰化した石大工伊行末(い・ゆきすえ)の子孫で伊派(いは)といわれる石工集団や、忍性と共に関東へ渡った伊派の分派大蔵派といわれる石工集団が、宋伝来の高度な技術で石塔などの製作を行った。それまで加工の容易な凝灰岩を使った石造五輪塔が一般的だったのに対し、鎌倉期以降花崗岩など硬質の石材を使ったものが多くなるのはこのためと考えられる。伊派や大蔵派が中心になり鎌倉時代以降に作られた五輪塔の形を後に鎌倉型という。また地輪を受ける基礎石の上面に返花座を刻みだしたものを大和式と呼び、これは大和地方から山城南部辺に鎌倉末期から南北朝期にかけての優品が残る。
 代表的なものには、当麻北墓五輪塔、石清水八幡宮にある航海記念塔(高さ6メートル)や岩船寺塔(高さ2.35メートル)などがある。三角五輪塔では奈良市三笠霊園内の伴墓五輪塔(伝重源墓塔)がある(以上いずれも重要文化財)。

 ・五輪塔の意義

 仏教で言う塔(仏塔)とは、ストゥーパ(卒塔婆)として仏舎利と同じような意義を持っている。しかし、小規模な五輪塔や宝篋印塔、多宝塔(石造)は当初から供養塔や供養墓として作られたのであろう。中世の一部五輪塔には、地輪内部に遺骨等を納めたものが現存する。また、供養塔・供養墓としての五輪塔は全国各地に存在し、集落の裏山の森林内に、中世のばらばらになった五輪塔が累々と転がっていたり埋もれていたりすることも稀ではない。現在多くの墓地で見られるような四角い墓は、江戸中期頃からの造立であるが、現在でも多くの墓地や寺院で一般的に五輪塔は見ることができる。覚鑁は経典の記述に基づき、五輪を人の五体になぞらえた図を残している。これが入定の姿と解されて墓塔や供養塔として多用されたものと考えられる。

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本日正午前頃の空…真夏並みの真っ白い雲でキレイでした(^.-)☆

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 本日の午前中、樹木の枝切りでもしようか…と、取り掛かったものの日差しの下で暑いのなんの(^-^;
 10分も経ません内に余りの日差しのキツサにダウン、もぅダメ!中止です(^-^)
 空を見上げますと、真夏並みの真っ白いキレイな雲。暑いはずです。
 枝切りは後日に廻して、とりあえずカメラを持ち出し数枚パチリ。
 午後は晴れたり曇ったり、小雨がパラついたり、妙な天気でありました。既に11月に突入だと言いますのに…そろそろ紅葉を求めて山歩きに行こうか…と言うのに、いつまでも汗ばみますねぇ(^-^)//"

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解体作業も完了し、キレイな更地となりましたネ(^.-)☆

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 毎週月曜日は、学童の皆様の下校時の安全パトロールの当番日のGONsanで、出迎え場所の水呑交番へと向かいます(^.-)☆
 安政橋東詰めがGONsanの待機場所なんですけど、バス道路を挟み対面の建物解体作業現場に眼を向けますと、解体作業も凡て完了し、キレイな更地と化しておりました。
 随分前に解体されましたJA水呑支店の跡地と合わせますと、結構、まとまった空き地となりましたけど、この跡地の今後の利用は?…
 ここ最近は、こぅした町内事情に疎いGONsanですから、嫁さんにでも聴いてみましょうかねぇ~個別住宅・賃貸物件建設用地として売却?…どぅなんでしょう…
 それにしましても、老朽化しました建物を解体撤去の業務は、見ていますと楽しく思えますけど、作業に従事しておられます方は危険と隣り合わせかも…ですが、こうして完了しました時点のサッパリした現況を眼にしますと、達成感とか喜びも生じますのでは…
 なら、お前がヤッてみろ!!…と言われましたら、チト躊躇。
 GONsanなんぞが解体作業に従事しますと、1時間も経ません内に屋根から落っこちて、骨折して救急車の中にいますかも(^-^)
 まぁとにかく、「今まで、どんな建物が建っていたのだろう…」と、以前の建物の存在も記憶から薄れてしまいます。
 つぃこの前まで建物がありましたのに、その建物が、どんな建物だったのかなぁ~と思い出しますのにも時間を要しますから、歳をとりますとイケませんねぇ~
 それにしましても、実にサッパリとスッキリとした景観になりましたネ(^-^)//"

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本日午後は、福山市役所鞆支所で期日前投票となりました(^.-)☆(2)

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10/26(火)午前中は、妙性山墓地の草取りで…

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 10/26(火)は、グラウンドゴルフから戻って来ますと、そのまま妙性山墓地へ草取り行きとなりましたGONsanです。
 お寺の駐車場に到着しますと、幼稚園児の皆様が、境内から我が町を眺望中でありました(^.-)☆
 園児の皆さんにも、お寺からの眺望は癒やされますのでしょうねぇ~
 駐車場の一角には、無料で利用できます望遠鏡が設置されていますのですけど、園児の皆様には眼が届きませんから無理なんですけど、小学生になりましたら使用出来ますかも(^.-)☆
 墓地に上がりますと、さほど生えてはおりませんでしたけど、小さな草が点在です。
 この小さな草を一つ一つ手で穫りますのも面倒ではありますが、一応、凡て除去。そして、いつものように全面に除草剤を散布です。
 亡き母は、墓地で除草剤を使用しますのを嫌がっておりましたけど、お墓の中で怒っていますかも(^-^)
 草取り後は、再度、眼下の眺望をパチリです。
 芦田川の対岸、西新涯町の河川敷では、5台の消防車が訓練中なのでしょうネ…タマに放水訓練を行っておられますのを眼にします事も…
 いつもの事ですけど、こぅして眺望しておりますと、心が和むイィ景観であります(^-^)//"

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ハンターズムーン…曇天で見れませんでしたけど、翌日もキレイでしたネ(^.-)☆

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 一昨日の10/20(水)でしたか…「今夜は『ハンターズムーン』だけど、あいにくの曇天で残念…」と嫁さん。
 何だ、それは!?…のGONsanでしたけど、念のため夜空を見上げますと、お月様なんぞ全く見えません(^-^;
 翌日の昨夜も、あいにくの曇天で月は雲間に…でも、暫く待てば見れるかも…と、暫く待機しておりましたけど、少々肌寒く、夜空を見上げますのは断念のGONsanでありました。
 そして数時間後、時間を見ますと、A.M.3:00少し前。
 結構冷たい気温の中、外に出まして夜空を見上げますと、もぅ少しで雲間からお月様が顔を出しそうでありました。
 急いでカメラを持ち出し、暫し待機。
 そして、ヤッと撮れましたのがこの画像なんであります(^.-)☆
 ふん、ふん、昨日見れましたら『ハンターズムーン』なんでしょうけど、1日遅れですから何とも(^-^)
 GONsanの低性能カメラでは、お月様が明る過ぎて、上手くは撮れませんで今一画像。
 とにかく1日遅れではありましても、とりあえず撮れましたので、WEB上で「ハンターズムーン」を検索です。

 ◆10月の満月は「ハンターズムーン」

 --- tenki.jp https://tenki.jp/forecaster/k_shiraishi/2021/10/20/14546.html#sub-title-a ---

 20日(水)は満月です。10月の満月は「ハンターズムーン」とも呼ばれます。太平洋側では見られる所が多いでしょう。冷たい北風が吹きますので、月の鑑賞は、寒さ対策をしてお楽しみください。
 満月には英語圏で様々な呼び名があります。8月は「スタージャンムーン」、9月は「ハーベストムーン」など、月ごとに呼び方が変わります。10月の満月は、「ハンターズムーン」と呼ばれます。10月は月明かりを頼りに、ハンターたちが獲物狩りをするそうです。

 …と、こんな「ハンターズムーン」でありました。
 ふ~ん、英語圏では、毎月の満月にそれぞれ名前が付いていますようです。それぞれの名前に謂われがあるのでしょうけど、来月も、気が向きましたら『ビーバームーン』を眺めてみましょうか(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(21)

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 鐘楼から見渡します眺望を暫し楽しみましたから、それでは、太子殿に上がってみます事に(^.-)☆

 ◆太子殿

 医王寺の裏山の中腹にある。ここからは鞆港や瀬戸内の島々の展望が素晴らしい。
 お寺自体が山の中腹にあり、本堂(?)からの眺めも佳景と言えますが、その上にある太子殿まで登ると、さらなる絶景が待っています。高所だけあって、鞆の浦の街並み全体のみならず、仙酔島を始め遠くの島々まで見渡せます。案内板には上まで15分とか書かれていますが、足に自信がある人なら往復で15分でしょう。階段が整備されていますから、ぜひ行ってみてください。

 …と、こんな記載がWEB上に(^.-)☆
 でも、往復15分は厳しいかも。せめて、往復20分ですねぇ~
 太子殿への石段を目前に振り返りますと、境内に若者がお一人…この若者とは、「明圓寺」辺りから言葉を交わしましたような(^-^)
 明圓寺sanの駐車場の一角で一服しておりましたら、この若者も喫煙者なのかも…灰皿方向に近付いて来られましたので、「何処から来られました?…」と尋ねますと、「職場の異動で鞆に来まして4ヶ月なんです。出身は、広島市の南区です…」と言っておられました。
 GONsanも南区(東雲)には永年暮らしておりましたから、それを契機に暫し会話。
 以降も、顔を会わします度に談笑。
 医王寺の境内では、「私は、今から太子殿に上がろうと思います…」と言ってお別れでしたけど、若者は境内のアチコチにカメラを向けておられましたネ(^_^)v

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これは、学童の皆様の下校時の、安全パトロール時の一コマなんです(^.-)☆

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 毎週月曜日は、学童の皆様の下校時の安全パトロールで、GONsanの当番日なんであります(^.-)☆
 担当区間は、水呑交番前の安政橋東詰め~我が家の近隣間でありまして、これは、10/11(月)・10/18(月)に、それぞれ2枚ずつ撮りましたものなんです。
 10月に入りましてから、老朽化しました家屋の解体工事が始まりまして、10/11(月)には、クレーン車を使用して瓦の撤去作業が行われておりました。
 それから丁度一週間後の本日は、建物は既に解体され撤去。最終段階に入っておりまして、油圧ショベル(ポクレン)を使用して整地作業が進行中。解体作業も、ほぼ完了のようですねぇ~
 解体現場の隣接地には、以前、JA福山・水呑支店の建物がありましたけど、新設移転に伴い旧建物は解体です。
 今回の老朽建物解体で更地となりますと、二つの土地を合算しますと、それなりにまとまった敷地となりますので、今後の利用予定はどぅなんでしょうネ…
 何か商業施設の建設…戸建て住宅の分譲地…今後の利用計画は知りませんけど、GONsanが安全パトロールを続けます限り、毎週月曜日はこの場所を眼にします。その内、また工事でも始まりましたら、カメラを向けてみたいと思います(^-^)//"

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日常生活を通じて眼にしたこと、感じたこと、出掛けた先の景観…等を、備忘録代わりに絵日記として綴っております(^-^)/"
ギャラリー
  • 11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)
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  • 10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(7)
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  • 10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(7)
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 ・地域 広島県福山市
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