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 展望台から古戦場の眺望を終えますと、また散策続行で、屋嶋城城門跡へと向かいます。
 旧ホテル「甚五郎」玄関横には、石森延男sanの句碑が…

 ◆石森延男 句碑

 碑 主--石森延男(1897年から1987年)

 ・所在地:屋島東町1831-5(屋島山頂談古嶺の旧ホテル「甚五郎」玄関横)
 ・碑文:「ある明月の夜、教え子たちとこの山にのぼる きみたちも虫を歌って月はるか あれから四十年 思い出をこめて ゆかりの人たち この碑を建てる」
 ・建立年月日:昭和41年
 ・備考:札幌市出身。教育者・児童文学作家。大正13年8月~15年3月まで高松師範学校で教師をしていた。この教育文学碑は、当時の教え子だった生徒たちが「石森先生の思い出」という作文集を発行して石森に贈る際、ともに建てられたもの。宮脇町に住んでいた石森は、栗林公園にもよく訪れたと随筆を残している。

 ◆石森延男

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ・来歴・人物

 北海道札幌市に、歌人で「われらが愛する北海道」の作詞者でもある石森和男の長男として生まれる。中央区南6条西9丁目に生誕地の碑がある。
 東京高等師範学校卒。在学中より詩作や口演童話に携わる。愛知県や香川県で中学校教師ののち、1926年から大連の南満洲教科書編集部に勤務し、『国語読本』を編集。満州唱歌の制作にも深く関わった。
 1939年、文部省図書監修官となり、国民学校教科書を編纂、戦後、最後の国定教科書を編纂する。そのかたわら1926年頃から児童文学の創作をし、日中戦争当時の満州国を舞台にした少年小説『咲出す少年群』(1939)で第3回新潮文学賞、北海道のアイヌを主人公とした『コタンの口笛』(1957)で未明文学賞、産経児童出版文化賞、『バンのみやげ話』(1962)で第1回野間児童文芸賞受賞。昭和女子大学教授をしながら国語教科書編纂を続けた。
 1981年に今江祥智、尾崎秀樹、河合隼雄、栗原一登、阪田寛夫とともに児童文学季刊雑誌『飛ぶ教室』の編集委員となり、同誌を創刊。主要著作をまとめた『石森延男児童文学全集』全15巻がある。日本児童文学学会初代会長。
 藻岩山ロープウェイ乗り場の隣に、石森父子を顕彰する「石森文学広場」がある。

 …と、こんな方のようであります。
 満開のツバキを横目に進んで行きますと、今度は、〝エドマンド・ブランデン〟の詩碑が…傍らの説明板には、こんな記載がありました。

 ◆屋島を訪ねて -- 1949・2・7 --

 --- A First to Yashima Edmund Blunden エドマンド・ブランデン ---

 まこと長い屋根のように、強者らが霊鎮まるこの丘は平地の上にかさむる。神の築くところ、冬の動風の中に
がっしりと立つ、緑と白銀の鎧に身を固めて。
 遅いわれわれの足どりもより高い斜面をいくつか踏みためて、巨松の下闇に白い梅が松明をかざす寺院の前にたどり着く。ここで武士道栄えし頃の名工と詩人達が立像と象徴と古字の言葉で巡礼人に話しかける。さらに行けばここにも亦土産店や茶店や街路がある。
 やがて、高い青空にかかる幻の月に見まもられつつ、展望台に立てば、突如眼前に開く新しき驚き、髣髴(ほう
ふつ)の青海原に無言の波が小皺を寄せ、飛ぶ雲が濃紫の班点を落している。
 あゝ(死の鎌と漏刻を持つ)時の老神よ、青と紫にかすむ彼方、大自然のなした鶏冠と王冠の何という拡がりと
力強さぞ。
 このながめ時空の中にありやといぶかる。と、頭上の深淵で鳥が輪を描く、その両翼に一刷の雪をつけて。

 詩碑について
 本詩碑は、昭和29年10月21日に完成し、同11月1・2両日高松市で開催された英語教育研究会四国大会に続き、屋島の現地で除幕式を行ったものである。
 詩は、大正13年から昭和2年まで東大文学部で英文学を講じ、第二次世界大戦後には英国の文化使節として特派された英国詩人エドマンド・ブランデン氏が、昭和24年2月7日夫人と共に屋島を訪ね、その印象を求められるままに、栗林公園内の掬月亭で書き下ろしたものである。
 詩碑の訳文は、同氏の東大在職時代に教えを受け、当時香川県英語教育研究会長・高松第一高等学校長であった故岡崎 隆によるものである。(詳細は、昭和29年10月23日付朝日新聞参照)
 -- 平成2年11月 英国祭佳日に記す --

 ◆エドマンド・ブランデン

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 エドマンド・チャールズ・ブランデン(Edmund Charles Blunden, 1896年11月1日 - 1974年1月20日)は第一次世界大戦の従軍体験を題材にした詩で知られるイギリスの詩人・文芸評論家。

 ・経歴

 ロンドンに生まれたブランデンは、4歳のときに教師をしていた父の転勤で、ケント州のヨールディング村に転居、当地で12歳までの幼少期を過ごしている。1909年、ブランデンは、400年の伝統を誇るパブリック・スクール、クライスツ・ホスピタル(Christ's Hospital)校に入学、古典を専攻したブランデンはラテン語を学ぶ日々を過ごす一方で、クリケットやラグビーにも熱中、文武両道というにふさわしい学生生活を送っていたという。

 第一次世界大戦勃発の翌年にあたる1915年、クライスツ・ホスピタル校を卒業したブランデンはオックスフォード大学クイーンズ・コレッジの奨学金を獲得後、ロイヤル・サセックス連隊に志願、イープルの戦いやソンムの戦いなどに従軍し、その勲功により、ミリタリー・クロスを受章している。ブランデンの戦争体験は、数々の戦争詩という形で文学的に結実し、特に1928年に発表された散文、『大戦微韻』(Undertones of War)はブランデンの従軍体験を題材にした作品でもっとも世に知られたものとなっている。彼の戦争詩はジーグフリード・サスーンやウィルフレッド・オーエンのそれとは異なり、戦場の生々しい描写というよりは戦場の風景を描いた作品が多いのが特徴といえよう。-- 以下、略 --

 …と、こんな人物であります(^.-)☆
 少し先には、こんな説明板も…

 ◆屋島の鳥

 日本で記録されている野鳥は、約500種です。このうち屋島周辺では約130種が観察されていますが、水辺、海岸部で約70種、この山間部では、約60種です。
 野鳥は、一年中ほぼ一定の地域に住んでいる留鳥の仲間や、春に日本にやってきてヒナを育てる夏鳥の仲間、秋に日本にやってきて冬を越す冬鳥の仲間があって、季節により違った種類の鳥を見ることができます。屋島は中国地方から四国に渡来するコースになっています。
 警戒心が強く、動きがすばやいので、野鳥を観察するには細心の注意が必要です。

 ・比較的見られる鳥

 *留鳥--①ウグイス②メジロ③キジバト④シジュウガラ⑤キジ⑥コガラ⑦イカル⑧トビ⑨ミサゴ⑩ヒヨドリ⑪ホオジロ
 *夏鳥--⑫サシバ⑬オオルリ⑭ホトトギス
 *冬鳥--⑮シロハラ⑯ツグミ⑰ジョウビタキ
 番号を見て名前をおぼえて下さい。mmは本体の大きさを示しました。

 途中、立ち止まり、説明板に眼を向けながらのノンビリとした歩行でしたけど、どうやら〝屋嶋城城門跡〟へと到着のようですネ(^-^)//

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