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 ◆原動機自転車

 昭和27年頃より普通の自転車にガソリンタンクのついた原動機自転車が流行した。
 しかし、背が高く、故障も多かったので間もなく完成車としてオートバイ・スクーターなどが登場。大川町では昭和33年には329台、昭和41年には1,358台とまたたくまに普及した。
 因みに、自転車は、明治22年(1889年)富田村西村、根本伊太郎がおろしたのが最初で、鑑札許可願が出されている。

 ◆踏車や数珠車

 讃岐の農業はおだやかな気候と肥沃な土地条件に恵まれて発展したきた。しかし、稲作にとって最も大切な灌漑水には恵まれず、毎年、水の不足を心配し、水の確保と水の上手な使い方について先人は汗を流し、智恵を絞ってきた。このことは県下にある18,620ヶ所の溜池の数と各地にある水利慣行や、雨乞い、水げんか、番水(水ブニ)、引水(共同で水を水田まで引く)、夜水(夜不寝番で潅水)、どびん水(旱ばつのときに「ドビン」に水を入れ稲株にかける)、線香水(線香に火を付けて、くい入る長さによって潅水の時間を測る)、むくち(田植えのとき荒起して潅水後、牛鍬で再度、耕して土を練り、水保ちをよくする)など水不足に因むことばや作業が、その歴史を物語っている。
 潅漑用の農具では古くは「淀車」「踏車」「はね釣瓶」などが使用された。淀車は深井戸や湧水池などから水を汲み上げるときに利用したものであり、別名「数珠車」とも呼ばれた。直径1.4m、幅0.9mの木製の車を2人で足を踏み付けて回し、車にかかった鎖状につながった十数個の汲桶が井戸の水を汲み上げて、桶に流し込み潅漑する。この淀車は明治初期では大型の揚水用具であり、一般には桶を1つはね木に付けて、2人で汲み上げた「ハネ釣瓶」が使われた。
 踏車は寛文年間(1661年~1672年)大阪の京屋七兵衛により考案され、安永(1772年)のころに諸国に普及している。踏車は揚水の高さが30~35cm程度で、小川からの揚水に利用した。階段状になっている羽根板の外縁を1人で踏み下へ回し、羽根板で水を前方にかき出すようにしている。

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