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 鞆鉄道・半坂駅舎跡に設置されました説明板には、こんな記載がありました。

 ◆歩いてふれよう 水呑の歴史と風土「ふるさと水呑」案内

 ・半坂駅舎鞆鉄道

 此の半坂駅舎は水呑最北側にあって、1929年から25年間有りました。
 これに伴い鞆鉄道のはじまりを紹介してみます。
 山陽線が開通するまでは輸送の主力は船でありました。瀬戸内海航路の船は大型船で、福山港現在の福山ポートプラザ辺りには入れず、鞆港に入港して荷を降ろしていました。鞆港からは小船に乗せ換えて福山港に運んでいました。
 その荷物を鉄道で運ぼうと鞆・田尻・水呑の有志が考えて鞆鉄道を立ち上げたそうです。
 其の理由は、
 1891年には山陽線が開通しました。これに遅れること22年、1913年鞆から野上間が開通しました。(建設期間一年半)水呑村には葛城駅・水呑駅・妙見駅と三駅できていました。
 その頃は、妙見駅の北側をすぐ東に向いて芦田川の中州を北上して地吹荒神社の方向に走っていました。現在も橋の基礎の石垣が残っています。
 開通1年後には野上から福山間が開通。1929年には写真の様な半坂駅が開通。
 新しい鉄橋は、西岸の半坂三叉路の10m南方から東岸は光小学校グランド南端になります。(水呑薬師駅は1928年完成)
 -- 参考資料 水呑歴史民俗資料保存会・水呑小学校調査書 --

 ・洗谷郷二ヶ所の古い樋門

 洗谷郷には洗谷新田と宮之下洗谷新田がありました。
 樋門の一つは熊野街道の入口付近の水門です。もう一つは隋入付近の水門です。宮ノ下の地名は洗谷の八幡宮跡を意味しています。創建当初は海岸端に建立されていました。(一本木)八幡神社は1651年に現在の場所に移されました。
 1660年頃に芦田川堤防が築かれ周辺は水田となった。その時代に此の二つの水門は出来たのではないかと思われます。
 寛文11年(1671)6月に備後沼隈郡身の水呑村新開坪詰帳に記されてあります。
 此の水門は洗谷地区の排水と海水の浸入を防ぐ為に作られたものであろうが、時代の流れとともに宅地造成や道路の拡張により、次第に不要な物となってしまいました。
 しかしこの樋門は、今尚保存され、江戸時代の物としては町内には残っていないので、堤防の規模として知ることの出来る貴重な構造物であるとのことです。
 
 -- 1999年11月13日 福山地方史論集小林定市書参考・水呑史跡めぐり等参考 --
 -- 令和4年2月吉日 設置 --

 次に向かいましたのが、妙見神社参道入口の鳥居です。
 半坂・宮迫地区の方々が妙見神社に参詣されます時には、この「妙見北の鳥居」を潜ってお参りされましたのですねぇ~
 この鳥居を過ぎますと、三叉路角に『←妙見道』の道標が…
 宮迫会館付近で右左折し芦田川土手側に進み、そして左折し歩行です。私たちが歩いています整備されました市道は、かっては鞆鉄道の軌道でしたのでしょうねぇ~

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