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 「田邉寺」に到着しますと、まず、案内板を拝見です(^.-)☆

 ◆田邉寺(でんべいじ)

 --- (如意輪山 無量寿院 田邉寺) 真言宗 大覚寺派 ---

 当山の縁起などによると、養老5年(721年)行基菩薩が開基し、無量寿院和光寺と称する。本尊は無量寿(阿弥陀)如来で、仏師春日が大和国長谷寺の本尊十一面観音を彫刻した余木で造ったといわれる。
 弘法大師が唐より帰国し、上京の途中大同2年(807年)当山に立ち寄り、塔を建立するなど当山を再興した。その後、当山は隆盛し、裏山には如意輪観音堂や鐘楼堂を建立し、更には大門を造るなど大寺院になった。
 和光寺は15~16世紀戦乱により堂塔を焼失し、永禄年間(1558~1570年)に毛利の武将田邉越前守光吉(串山城主)が和光寺を再建、田邉氏の氏寺としたため、田邉寺と改め今日に至る。
 「県重文」木造多聞天立像(1.14m=三尺八寸)藤原時代初期の作がある。廃和光寺跡出土の遺物(県重文)や田邉寺塔跡(県史跡)は廃和光寺の塔跡で塔中心礎石が出土している。

 --- 津之郷学区まちづくり推進委員会 ---

 ◆広島県史跡 田邉寺塔跡 -- 昭和18年3月26日指定 --
  広島県重要文化財 廃和光寺塔跡出土遺物 -- 昭和29年9月29日指定 --

 和光寺は、出土瓦等から奈良時代後期~平安時代初期の古代寺院と指定され、永禄5年(1562)に、この地の領主田邉光吉が再興して、田邉寺と称するようになった。
 昭和9・10年の調査で、現在の田邉寺の門前から風鐸や九輪の破片が出土したため、そこに塔跡の存在が推測されている。塔の中心礎石は、現在境内に保存されているが、原位置を動いており、また、他の礎石も確認されていないことから、伽藍配置は判明していない。
 塔跡の出土遺物のうち、風鐸片三点・九輪片三点・塔の中心礎石一個が指定を受けている。その他、地方色の濃い唐草文軒丸瓦、偏向唐草文軒平瓦が出土している。

 --- 福山市教育委員会 ---

 ◆広島県の文化財 - 廃和光寺塔址出土遺物

 --- https://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-202060010.html ---

 【解説】

 和光寺は奈良時代後期~平安時代初期(8世紀後半~9世紀前半)の古代寺院である。その後荒廃し、永禄5年(1562)、時の津之郷領主田辺氏が寺域の一角に田辺寺として再興し現在に至るという。
 塔の中心礎石は、縦115cm、横87cmのやや長方形の自然石に直径38cm、深さ22cmの穴があけられ、両側に幅24cm、深さ3cmの溝が彫られているが、元の場所から移動している。
 九輪の破片は、青銅製で、長さ43cm、38cm、32cmのものが3個である。本来、塔の頂部に建てられていたものである。
 風鐸(ふうたく)は、堂塔の軒先につるされていたものである。復元すると約20cmほどの大きさと推測され完全な姿が想像できる貴重な資料である。

 ふ~ん、「田邉寺」は、「でんべいじ」と読むのは知りませんでしたネ(^-^)
 それでは、田邉寺を拝見です(^-^)//"

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