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 本谷砂留を拝見後、この砂留の上流の親水公園を散策してみます事に。
 WEB上で親水公園を散策してみましたら、こんな記載が…

 ◆「親水公園」の草刈り作業

 --- 2019-06-23 09:14:21 https://ameblo.jp/sakabe478/entry-12484974819.html ---

 毎週日曜日、この時季は町内では何かの作業が続く。今朝は「親水公園」の草刈り作業をしている。 町内の一番高い山の中腹に一段と大きなため池があるのだが、更にその上にも4~5個のため池があり、合流して大雨の時には大量の水と土砂が流出してくるので、いわゆる「砂留」が何段にも造られている。古くから「本谷砂留」として有名で、市の重要史跡にも指定されている。今でも大雨が降ると、「砂留」を越えて大量の土砂混じりの大水が住宅地を流れる川に押し寄せる。「本谷砂留」を含む一帯が「親水公園」として整備され、季節の花や木々で美しい景観を作っている。駐車場は狭いが、時折人々が訪れ、憩いの場として徐々に定着し始めている。
 梅雨の大雨を前に、例年この時季に町内の元気な有志によって周辺の大規模な草刈りが行われる。
 草刈りの範囲も広く、草丈も長くてなかなか大変な作業だ。それに何段もある砂留の構造上、急な傾斜地が多く、かなりの危険が伴う。
 10年ほど前、傾斜した法面を草刈り中、足が滑って、草刈り機を肩に掛けたまま下の滝つぼへ転落する事故が起きた。
 幸い滝つぼへ仲間が飛び込んで救助したので、大した怪我もなく良かったのだが、危うく水死するところだった。
 この作業は厳しいし、危険も伴うが、美しい景観もさることながら、大雨による被害から住民を守る大切な作業だ。今日は午前中は晴れて作業が順調に進むだろう、午後は大雨の予想が出ているので、作業した人はゆっくりプロ野球中継でも観ながら休養してほしい。
 昨年はこの砂留を越えて、山から土砂と一緒に枯れた木が大量に下流の川に流れ込み、橋を破壊したり土手を崩したりの被害が大きくなった。もう集中ゲリラ豪雨はごめんだ。

 ついでに、「福山藩の砂留」も検索してみました。

 ◆福山藩の砂留

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福山藩の砂留(ふくやまはんのすなどめ)は、江戸時代に福山藩が藩内の備後地方、現在の広島県福山市に普請した砂防堰堤である。
 元禄13年(1700年)から普請が始まったとしている。主目的は農地保全つまり下流側の農地・民家・ため池を土砂災害から守るため、場所によってはその近くに城下町・宿場町・寺社・街道があるためそれらの保護とも推定されている。
 江戸期に造られ現存する砂防堰堤は、日本国内において特にこの地域に多く、増築・嵩上を続けて現在でも多数が砂防堰堤として機能している。ただし当時の記録資料自体が少ないため不明な点も多く、全体でいくつ造られたかわかっていない。近代に入り欧州からの技術導入により日本国内に砂防堰堤が造られたものの、福山の砂留はそれらとは完全に別の技術史を歩んでいる。

 ・地理

 備後地方は中国地方のほぼ中央に位置し、広島県内の東側を占める。福山市は県南部瀬戸内海沿岸に位置し一級河川芦田川中下流部の福山平野の上に形成された街である。県最大の穀倉地帯でもある。気候は瀬戸内海式気候で梅雨台風を除けば降水量は少なく温暖な気候が続く。
 芦田川は流域のほとんどを花崗岩で占められ、下流は風化した花崗岩が堆積して沖積平野を形成した。この風化した花崗岩が堆積したものを西日本では特に「マサ土」と呼ばれる。この土は崩れやすく、降雨の際には流出し河川下流域河底に堆積したりあるいは土砂災害となっていった。なお広島県は、瀬戸内海式気候であるため花崗岩の風化が進行しやすく、平野部が少なく山裾ぎりぎりまで都市化が進んでいることから、「日本一土砂災害危険箇所が多い県」である。
 古代および中世におけるこの地の中心は芦田川中流域であり、下流域は散村が点在していた。古代から中世山陽道は備中(岡山県)の井原から神辺(備後国分寺)-府中(備後国府)を経て三原にいたるルートであった。江戸時代に入ると安芸・備後両方を治めた福島正則は慶長7年(1602年)神辺と三原の間に今津宿(現福山市今津町)を設け近世山陽道(西国街道)を沿岸部に移した。また江戸時代初期には幕府直轄となった石見銀山から当時比較的安全だった陸路を用いて瀬戸内海側へ銀を運ぶため、大久保長安によって石州銀山道(石州街道)が整備された。いつ整備されたか正確な記録はなく、1607年から08年頃以降とも言われている。

 ・福山藩

 「備後福山藩」も参照
 幕府は正則を改易した後、この地を西日本の外様大名への防衛拠点“西国の鎮衛”として譜代大名を置くことにし、元和5年(1619年)水野勝成が入封し福山藩が興る。当時幕府は一国一城令の下で築城に厳しい制限を設けていたが、こうしたことから勝成に関しては石高に対して破格の規模の福山城築城が許可された。勝成は芦田川下流域に福山城下町を整備、藩運営のため治水・利水整備および産業育成を推進した。日本三大旧上水道の1つ福山旧水道や、備後三大ため池の瀬戸池・春日池・服部大池が造られたのはこの頃である。
 水野氏は無嗣により5代で断絶、天領・松平忠雅藩政を経て、宝永7年(1710年)から阿部氏が幕末まで統治した。阿部氏は正福が大坂城代を務めたのを初めとして、老中4人(正右・正倫・正精・正弘)輩出している。こうしたことから阿部氏藩主は1,000人もの家臣団とともにほぼ江戸にいたため出費がかさみ、阿部氏時代の福山藩は慢性的な財政難であった。
 領民側から見ると、水野氏時代は勝成から続いた領民重視の“善政”であったが、天領時の検地(元禄検地)での厳しい査定の結果重い年貢負担が幕末まで続き、阿部氏時代は老中就任に絡んで更なる増税が課せられた。そのため阿部氏時代の民は不作が続くと年貢減免を要求して百姓一揆を頻繁に起こしていた。

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