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 本丸下の曲輪跡には展望所が設けられておりました。
 この展望所からは、熊野水源地脇の熊野~鞆間を結びます山田街道が、よく見通せます。

 ◆備後 一乗山城

 --- 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/bingo/ichijyosan-jyo/ ---

 ・歴 史
 築城年代は定かではないが、文明年間(1469年〜1487年)頃に渡辺越中守兼によって築かれたと云われる。 渡辺氏は渡辺綱を祖とする一族で、鎌倉時代末期に備後国山田荘に移り、始め下山田城、中山田城を居城としていたと考えられている。渡辺兼のときに毛利にしたがって功があり、山田三ヶ村を賜り一乗山城を築いたという。
 天文3年(1534年)大内・毛利軍が亀寿山城の宮親忠を攻めた時には渡辺兼もこれに従い、天文21年(1552年)の志川滝山城攻めでは渡辺房が毛利軍に加わっている。
 天正4年(1576年)足利義昭が毛利氏を頼って鞆に入ると、渡辺元と景父子が義昭の警固を務めた。
 関ヶ原合戦で毛利氏が防長二カ国に減封となると、渡辺景は浪人となったが、その子は福山藩主となった水野氏に仕えたという。

 ・説 明
 一乗山城は熊野ダム(水源地)の南に聳える標高190m程の山に築かれている。現在は主郭まで遊歩道が整備されている。
 一乗山城は山頂の主郭背後に櫓台を備え、南背後の尾根を五重堀切で遮断し、周囲に畝状竪堀群を設けた堅固な山城である。主郭の東西両下にある帯曲輪は何れも南端に分厚い土塁があり、主郭背後の側面に横矢を掛けることができる。
 主郭の櫓台周辺を含め小振りな石を用いた石積を所々見ることができるが、曲輪から北東山腹に降りる通路に大きめの石を用いた大石垣がある。この石垣は二段に分けて積み上げられており、天正年間(1573年~1592年)頃の遺構であろうか。

 ◆一乗山城(広島県福山市熊野町上山田・黒木谷)

 --- 西国の山城 https://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2011/07/blog-post_12.html ---

 --備後・渡辺氏--

 渡辺氏の出自は不明ながら、渡辺友綱が鎌倉末期にこの地域に入ったのが最初といわれ、その子・四郎兵衛尉持は、観応2年(正平6年:1351)、すなわち南北朝期の動乱のころ、石崎城(福山市駅家町大字中島:『城格放浪記』氏の「備後・石崎城」参照)で戦い、その子四郎兵衛尉究も、石成(現在の福山市上岩成・下岩成)で戦ったとされている。(芝山城(香川県高松市香西北町芝山)参照)
 一乗山城が築かれたのは、それから約100年後の文明年間である。4代目・兼(渡辺氏の名前は一字とするものが多い)は、天文3年(1534)、大内・毛利氏に属し、新市宮氏の亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)攻めに加わり、攻略後同城の監視役を務めた。
 天文21年、兼の子・出雲守房は父と同じく、毛利氏による宮氏の志川滝山城攻めに名を連ね、その子・源三高は永禄12年(1569)の神辺城(広島県福山市神辺町大字川北)参照)合戦に参加した。
 その後も渡辺氏は毛利氏に仕えたが、関ヶ原の戦いのあと、一乗山城は廃城、渡辺氏は浪人となったといわれている。
 ところで、一乗山城は戦国期を通じて一度も戦禍に遭わなかった珍しい山城である。
 また、現在一乗山城の麓には、上記渡辺氏の末裔とされる方が現在も住んでおられる。おそらく、江戸期ごろに先祖の供養をするために当地に戻ってきたと思われる。

 それでは、本丸跡に上がってみたいと思います(^-^)//"


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