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 この墓地でも、二箇所の五輪塔をチェック確認となりました。二つとも、一つの石から彫りだされた小柄な一石五輪塔(いっせきごりんとう)でありました。
 ここもまた、別段、変動は無いようですネ。リーダーは、確認が終わりますとサッサと来た道へ(^-^)
 柏迫池まで戻って来ますと、墓地に上がります前に眼に入りました「保護樹木ヤマモモ」をパチリです。
 福山市のホームページを覗いてみますと、保護樹木に関してこんな記載が…

 ◆保護樹木・保護樹林

 良好な緑の環境を確保し、美観風致を維持するために必要のある樹木等を保護樹木や保護樹林として指定します。また、樹木または樹林の所有者は、指定を申請することができます。
 ・保護樹木等の所有者は、枯損の防止その他その保護に努めなければなりません。
 ・保護樹木等には、福山市都市開発基金による補助金制度があります。
 ただし、市街地(都市計画法に定める市街化区域とその周辺)内の樹木等に限ります。
 次の指定基準に該当し、健全で美観上優れている樹木・樹林を募集します。

 ・指定基準
 保護樹木:高さ150cmの幹周が120cm以上、樹高12m以上、株立ち樹木の樹高が3m以上、はん登性樹木の枝葉の面積が30平方メートル以上
 ・保護樹林
 面積が300平方メートル以上、生垣の長さが30m以上

 …と、こんな説明が(^-^)
 因みに、この「保護樹木ヤマモモ」は、
 指定番号--31、樹種--エノキ、所在地--福山市沼隈町大下山南、幹の周囲--277cm、高さ--16.5m でありました。

 ◆ヤマモモ

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 ヤマモモ(山桃、学名:Morella rubra)は、ヤマモモ科ヤマモモ属の常緑樹。また、その果実のこと。

 ・名称
 和名の由来は、山に生えモモのような果実をつけることから。中国名・漢名は楊梅(ようばい、ヤンメイ、(拼音:yángméi)、別名として山桜桃、火実などがあり、古代から和歌などにも詠まれる。ベトナムでも漢名をそのまま用いて「dương mai」ズオンマイと呼ぶ。

 ・分布、生育環境
 中国大陸や日本を原産とし、暖地に生育し、暑さには強い。日本では関東以南(房総半島南部、福井県以西)の本州、四国、九州、沖縄の低地や山地に自生する。本州南部以南では、海岸や低山の乾燥した尾根など、痩せ地で森林を構成する重要樹種である。
 日本国外では、朝鮮半島南部、中国、台湾、フィリピンに分布する。中国では江蘇省、浙江省が有名な産地で、とりわけ寧波市に属する余姚市や慈渓市、あるいは温州市甌海区は古くから知られた産地であり、千年に及ぶとされる古木も多く残る。他に福建省、広東省、広西チワン族自治区、台湾なども産地である。
 自然分布以外にも、人の手によって公園などにも植えられる。

 ・形態、生態
 常緑広葉樹の大高木で、成木は樹高20メートル(m)ほどになる。樹冠は、こんもりした円形となる。生長は遅く、幼木は日陰を好むが、成木は日なたを好む。幹の樹皮は灰白色で滑らか、一年枝は灰褐色で多数の楕円形の皮目を持つ。古くなると縦の裂け目が出ることが多い。
 葉は密に互生し、多くは枝先に束生する。葉身は革質、つやのある深緑で、5-12センチメートル(cm)の倒披針形か長楕円形、もしくは倒卵形をしており、成木では葉は滑らかな縁(全縁)だが、若木では不規則な鋸歯が出ることが多い。葉の裏側に芳香を出す油点(ゆてん)がある。葉柄は5-10ミリメートル(mm)程度と短い。葉腋には円筒形の花芽がつく。
 雌雄異株で、花期は3-4月。葉の付け根から花序を伸ばして、数珠つなぎに小さな桃色の花弁4枚の目立たない花をつける。
 雌株につく果実は直径1.5-2cmのほぼ球形で、6月頃に紅色から暗赤色に熟し、食べられる。表面に粒状突起を密生する。この突起はつやがあるので、外見的には小粒の赤いビーズを一面に並べたように見える。
 枝先には葉芽がつき、円錐形で黄色い腺点に覆われている。雌雄異株であることから、雌花序の冬芽と雌花序の冬芽は別々の株につき、雌花序のほうがやや細い。

 …と、WEB上には、ヤマモモに関し、こんな記載がありました(^.-)☆
 それでは、近くではありますけど、また車で、「浄土真宗北峰山南泉坊」へと移動です。

 ◆福山市沼隈町「浄土真宗北峰山 南泉坊」
 福山市沼隈町草深奥組に在り、浄土真宗本願寺派、本尊阿弥陀如来。応永二十一年(1414)明順により創建と伝える。はじめ天台宗であったが後、浄土真宗に改宗。境内に中継表の発明者長谷川新右衛門道久墓(墓と刻むが実は顕彰碑)がある。

 南泉坊では五輪塔のみ拝見し退散ですから、「長谷川新右衛門道久」の石碑は眼に出来ませんでしたネ(^-^;
 でも、「長谷川新右衛門道久」sanとは、何者なんでしょう?
 WEBには、こんな記載が…

 ◆長谷川新右衛門(はせがわ-しんえもん)
 1531-1612 織豊-江戸時代前期の殖産家。
 享禄(きょうろく)4年生まれ。備後(びんご)(広島県)の人。慶長5年ごろ畳表(たたみおもて)の製法でそれまでの引通(ひきどおし)表にかわって、みじかいイグサを活用した中継(なかつぎ)表の製法を考案し、備後表の生産をさかんにした。この功績で7年郷士となる。慶長17年2月13日死去。82歳。名は道久。別名に菅野十郎左衛門。

 …と、こんな人物でありました(^_^)v
 それと、マップ上には、『山本滝之助ゆかりの地・南泉坊』と記載がありますけど、またまたWEB上で「山本滝之助」sanを検索です。

 ◆山本滝之助

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 山本 滝之助(やまもと たきのすけ、1873年11月15日-1931年10月26日)は、明治~昭和期の社会教育家、思想家。「青年団運動の先覚者」。広島県福山市出身。

 ・経歴
 広島県沼隈郡千年村(現・福山市)に農家の長男として生まれる。小学校卒業後、1889年尋常小学校雇となり、以後22年にわたり小学校教師、その間、1905年校長に就任。教師生活のかたわら、居村を中心に地域の若連中の改善に取り組み1890年、「好友会」という青年会を結成し青年団運動を始める。
 また多くの青年団体機関誌を発行。特に1896年、24歳のとき自費出版した代表的著作『田舎青年』は、地方にも近代社会に目覚めた青年がいることを主張して注目された。当時、青年と言えば立身出世を目指す都会青年のみを意味し、実際人数の多い田舎青年は自己の希望を満たされず、世間から忘れられた存在であった。
 山本はこの著作の中で、都会青年も田舎青年も平等であると主張。「田舎に住める、学校の肩書なき、卒業証書なき青年」に目を向けるよう呼びかけ、田舎青年の教育の重要性を指摘した。また「青年会を設くべし」と全国を巡講して実際を指導、各地の青年団の結成及び全国的な組織化に尽力。これらの活動は日本青年館の建設、大日本連合青年団結成を促した。山本の長年の功労に報いるため、財団法人日本青年館に設けられた顕頌会によって死後まもなく『山本滝之助全集』が刊行されている。

 …と、こんな方でありました(^.-)☆
 お二人とも、この南泉坊にお墓が存在しますのかも分かりませんねぇ(^-^)//"

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