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 それでは、この辺で「木山捷平生家」からお別れです。
 訪れました道を引き返しておりますと、「木山捷平の墓」の案内表示板が…ですが、今回はパス。「長福寺」に向かってみます事に(^.-)☆
 WEB上に「長福寺」を検索しますと、こんな記載がありました。

 ◆長尾山 長福寺 (笠岡市山口778)

 ・本尊 -- 阿弥陀如来
 ・開基 -- 元慶年中理源大師聖宝
 ・中興 -- 元禄二年好圓和尚
 ・古墳群の中に伽藍構える

 笠岡市から矢掛町、美星町の三市町を結ぶ県道笠岡美星線を北上していくと北山手の中腹に新しい大きな屋根が見えてくる。長尾山長福寺の本堂である。道沿いに立てられている看板に従い、県道に沿って流れる小田川の支流・長迫川を渡って山道を登っていくと同寺に到り着く。
 長福寺の創建は元慶年中(877-885)。天平年間(729-749)に行基菩薩が開基したと伝えられる神護寺六坊の一つ長福坊として創建された。開山は理源大師聖宝である。延喜五年(905)にその長福坊が、現在の場所に移転して長福寺となった。移転後の寛文年間(1661-1673)には、国家儒教の影響で堂塔、宝物がことごとく焼失するという事態に遭っている。しかし、その後、元禄二年(1689)には好圓和尚によって再建中興されている。
 長福寺の本尊は阿弥陀如来立像。藤原末期作といわれている。本堂は昭和十四年圓明住職によって建てられたもので、庫裡は明治期のものである。屋根は平成五年から六年一月にかけて葺き替えられたばかりで、光輝き遠くから見た景観も素晴らしい。
 長福寺の裏山一帯には、笠岡市指定遺跡の「長福寺裏山古墳群」があり、四基と一群の古墳がある。
 この古墳群は、備中西部最大規模を誇るもので、東から東塚、仙人塚、一シ塚、二つ塚、七つ塚などで、古墳時代中後期のものが裏山尾根沿いに東西に存在している。
 昭和三十六年の調査でこの古墳群は、七つ塚を除いた残りの古墳は既掘のものである。東塚は南半のほとんどが開墾により崩されていたが、推定すると全長約五○メートル位の前方後円墳であったと推測されている。
 また、長福寺の近くには、太宰治らと「海豹」を創刊し、その後『出石』『初恋』『大陸の細道』『耳学問』『茶の木』などの作品を遺す小説家の木山捷平の生家もある。

 …と、こんな記載。
 長福寺の山門付近には、こんな案内表示板がありました(^-^)//"

 ◆長福寺と文化財

 長尾山長福寺は高野山真言宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来である。
 もとは甲弩にあった神宮寺六坊の一つとして創建されたという。すなわち六坊のうち長福寺が山口に移って長福寺となり、大坊は甲弩にあって神護寺となった。
 この裏山にある古墳群は、笠岡市指定史跡「長福寺裏山古墳群」として知られている。また、境内には、桃栽培の先駆者である長尾圓澄上人の頌徳碑がある。

 市指定 重要文化財(絵画) 『絹本著色愛染明王像図』 昭和38年2月20日指定

 長福寺に伝来する絵画で、南北朝時代の作と思われる。縦95センチ、横41センチも箱書によれば、天保元年(1830)仁覚僧正の時代、高野山宝亀院から伝来したものであるという。
 愛染明王像は、密教像の一つで、赤い日輪を背にして弓と矢を持ち、宝瓶の上で獅子冠をいただいた真紅の像として描かれている。愛欲の迷いを消し去り、浄菩提心(悟りの境地)にいたらしめる御利益があるとされる。傷みがあるが、力強い造形表現と色彩の鮮やかさに明王像としての威厳を保っている。岡山県下では作例が少なく貴重である。

 --- 笠岡市教育委員会 ---

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