01-720
02-720
03-720
04-720
05-720
06-720
06-721
07-720
05-720-555

 シバザクラとお別れし、内海大橋を渡りきりますと藤棚がありますので、この駐車場に車を駐め、ついでに厳島神社に立ち寄ります事に(^.-)☆
 マップ上には、この地点は『敷名の千年藤』と記載されております。WEB上で「敷名の千年藤(しきなのちとせふじ)」を検索しますと、こんな記載が…

 ◆敷名の千年藤(しきなのちとせふじ)

 福山市沼隈町常石の敷名浜から厳島神社へ上る参道入口にある藤のこと。
 『平家物語』巻4の「還御(かんぎょ)」によると、治承4年(1180)に高倉上皇が厳島詣での帰途、ここ敷名の浜に船泊りされた時「色ふかき藤の松にさきかかりけるを」手折らせて「歌あるべし」といわれたのに答えて、大納言隆季(たかすえ)が、
  千とせへん君がよはひに藤浪の
  松の枝にもかかりぬるかな
 と一首を献じた。以来この藤を「千年藤」と呼んでいい伝えて来たという。
 江戸時代の寛保3年(1743)には藩主が領内巡視のさい、ここに「千年藤」の立札を立てさせたという記録があり、そのときの藤は東西4間(約9メートル)、南北10間(約18メートル)もあったというが、以後も何代か入れ替っていて、現在のものはそれ程大きくはない。
 明治22年(1889)の合併によって誕生した旧千年村の村名や、千年小・中学校の校名は、この「千年藤」の故事によって名付けられたものである。

 ・メモ

 古来「千年藤」の故事を詠み込んだ歌や詩も多く、
 荒山何處舊行宮、嶋寺沙村煙霞中
 一去龍舟春幾度、紫藤花落暮灣風 (菅 茶山)
 千年經む君が齢の言の葉を添へて捧げし花や此の藤 (西川国臣)
 藤さける敷名が濱に風吹けば御船に寄する紫の波 (正岡子規)
 などがある。

 ◆敷名の千年藤

 『平家物語』巻4・厳島御幸によれば、治承4年(1180)高倉上皇が宮島からの帰路、沼隈町敷名の港に停泊した様子が記述されている。藤の花が色濃く咲いているのを見つけ、「千年へん君がよわいに藤波の松の枝にもかかりぬるかな」と詠みあげたとある。以来千年藤と呼ばれている。なお、古記録によれば、寛保3年(1743)阿部正福の領内巡見時の千年藤の大きさは、胴まわり2尺余、西に4間、南北10間であったと記す。現在の藤はこの藤の何代目かのものである。

 …との記載が(^-^)
 この駐車場にあります藤ではありませんで、敷名浜から厳島神社へ上る参道入口にある藤が、当時からの藤のようであります(^.-)☆

 駐車場の片隅には石碑が設置されておりまして、この石碑には、

 「平家物語」巻四に、沼隈町敷名の藤の物語があります。
 治承四年(1180)高倉上皇一行が、厳島参拝の帰り敷名の沖に停泊した時のことです。上皇は、敷名の浜に美しく咲いてる藤の花を称賛しました。その時、
 千とへん 君がよはいに 藤なみの
 松のえだにも かかりぬるかな
 と隆季の大納言が歌を作り、藤の花を松につけて差し上げました。
 敷名の藤は、この故事により後世、千年藤と呼ばれ、広く知られるようになりました。
 この藤の話を記念してここに石碑を建立しました。書は福山市柳津町の岡田研山氏によるものです。
 --- 平成四年三月 沼隈町 ---

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆
 この説明文の石碑の左側の石碑に刻まれていますのが、きっと原文なのでしょうねぇ~仲々読みにくいのですけど、『千とへん 君がよはいに 藤なみの 松のえだにも かかりぬるかな』と綴られていますようですネ(^-^)
 それでは、厳島神社に向かってみます事に(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)