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 安芸高田市歴史民俗博物館内には、毛利家ゆかりの宝物が数多く展示されてありますのでしょうけど、そんなにユックリしております時間もありませんから、館内の見物はそこそこに多治比猿掛城跡への山城歩きにと出発です。
 歴史民俗博物館前から、またバスに乗り込み、ここから4.5kmばかり北西部の浄土真宗「猿掛山教善寺」入口へと向かい下車。いよいよ山城歩きのスタートです(^.-)☆

 今回の訪問場所ではありませんけど、念のために「浄土真宗 猿掛山教善寺」のホームへページを覗いて見ましたら、こんな記載が(^-^)

 ◆浄土真宗本願寺派 教善寺

 ・沿革 -- 猿掛城趾(国指定史跡…元就は父弘元と共に4歳の時此の地に移り、1523(大永3)年郡山城に27歳で帰る)の寺屋敷廊群に在る。当山は1536(天文5)年天台宗より改宗。1564(永禄7)年本願寺より寺號許可。今日に至る。
 ・寺宝 -- 代々貧乏寺なので自慢できるものは何も無い。
 ・教化活動 -- 代々無能なので自慢できるようなことは何もしていない。
 ・所在地 -- 〒731-0544 広島県安芸高田市吉田町多治比1746

 …と、こんな記載に思わず笑ってしまいましたけど、大変親近感を抱いてしまいましたネ\(^o^)/
 教善寺入口から少し進みますと、「多治比猿掛城跡」の案内表示板が…

 ◆多治比猿掛城

 多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)は、安芸国(現在の広島県安芸高田市)にあった日本の城。国の史跡に指定されている。

 ・概要
 築城年は不明。吉田郡山城の支城として造られた山城。1500年(明応9年)に家督を毛利興元に譲った毛利弘元が隠居するために築城したという説も有力。国の史跡。

 ・歴史・沿革
 1500年に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に入城する。1506年(永正3年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となる。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動する(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。
 この城で毛利隆元や五龍局が生まれている。
 1523年(大永3年)に元就が宗家を継ぎ、多治比猿掛城は城主不在となる。その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。実際、1563年(永禄6年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊。その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。廃城年は不明。

 ・構造
 城跡は多くの郭が残り、比高120mの山頂の物見丸、丘陵先端の中心部郭群、斜面中腹の寺屋敷郭群、平野部の出丸に分けられる。出丸は平時の生活を重視した館的な区画であり、中心部郭群や物見丸が戦時の避難所となる役割だったと思われる。

 ・所在地
 広島県安芸高田市多治比。近隣には杉大方の墓、毛利夫妻の墓がある。

 ここから教善寺に向かって上って行きますと、教善寺手前に「毛利弘元墓所」の案内板が…

 ◆毛利弘元

 毛利弘元(もうり ひろもと)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。安芸国の国人領主・毛利氏当主。吉田郡山城主。父は毛利豊元。子に毛利興元、毛利元就、相合元綱、北就勝。

 ・生涯
 応仁2年(1468年)、安芸国の国人である毛利氏の当主・毛利豊元の長男として生まれる。毛利氏は周防国・長門国の守護大名・大内氏の勢力下である安芸国人領主の一人であった。
 文明8年(1476年)、父・豊元が死去し家督を相続する。文明11年(1479年)に大内政弘の加冠を受けて元服し、「弘」の偏諱を与えられて「弘元」と名乗る。
 明応4年(1495年)に大内政弘が死去すると、後を継いだ大内義興に嫡男・興元と共に従った。だが、その立場は管領・細川氏と大内氏の間で揺れ、さらに明応8年(1499年)には明応の政変で失脚した前将軍・足利義稙を保護した大内氏と、将軍・足利義澄を擁する室町幕府との間で揺れる。
 対立の激化した大内氏と細川氏の両者からの協力要請から逃れる為、明応9年(1500年)に嫡男・興元に家督を譲って隠居し、次男の元就らを連れて安芸国多治比の猿掛城へ移り住んだ。隠居先を猿掛城としたのは、吉田郡山城の西の拠点を確保し、北方に位置する国人・石見高橋氏に備えるためとも考えられている。
 しかし、その心労と酒毒により、永正3年(1506年)1月21日に死去した。享年39。墓所は広島県安芸高田市の悦叟院。

 ◆毛利弘元墓所

 毛利弘元は元就の父で、応仁2(1468)年に生まれました。9歳で毛利家を相続し郡山城主となりました。
 尼子と大内の狭間にいた明応九9(1500)年に長男興元に家督を譲り、二男の元就(4歳)を連れ、多治比猿掛城に隠居しました。永正3(1506)年1月11日に没しました。時に39歳でした。
 墓所は、多治比猿掛城の麓、弘元の菩提寺の悦叟院跡にあります。
 夫人は鈴尾城主の福原広俊の娘で、文亀元(1501)年12月8日、34歳で鈴尾城(福原城)内で逝去しました。大正10(1921)年、鈴尾城(福原城)の福原氏墓所からこの地に移葬された。(説明看板より)

 WEB上で検索しますと、こんな色んな記載がありました(^-^)//"

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