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 御湯殿の次は、いよいよ「鐘櫓」へ向かいます。
 筋鉄御門を正面に見ながら、伏見櫓と鐘櫓の間の広場へと移動です。

 ◆御湯殿

 京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていた。建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間に分かれていた。
 昭和20年の戦災により焼失したが、昭和41年秋、天守閣とともに外装、内部ともに復原されたものである。
 現在は貸会場として利用されている。

 ◆筋鉄御門

 福山城本丸の正門で西向きに建っている。元和8年(1622年)伏見櫓と共に伏見城から移築したものといわれている。
 下層の各柱には根巻き金具を付け四隅に筋金具を打ち、鏡柱の見付けと見込みに大小の乳金具を打ち付けている。門扉は内開き二枚建てで12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾っている。
 上層は正面左端に出入口を設け、正面中央・右端と南側にそれぞれ格子窓を設け、内部床は拭(ぬぐい)板敷き、小屋梁天井となっている。
 外部は柱・土台・長押の木地型を出し、たるき・屋根妻・破風板・懸魚にいたるまですべて白亜塗りとしている。

 ◆伏見櫓

 この櫓は元和8年(1622年)城主水野勝成の福山城築城にあたり、将軍徳川秀忠が伏見城の一部移築させたという。昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やぐら」とあるのが発見され、移築の伝えが正しいことが明らかになった。
 櫓は初層と二層は同じ平面の柱割で、東西方向に棟を付け、さらにその上に下層よりやや小さい三層を載せ、南北棟の入母屋造りの屋根としている。内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井とし、外部は東・西・南に多くの窓を開いている。北を正面に建てられている。
 これらの構造や手法は、城郭研究史上初期の様式を残す、慶長年代の建物の典型として貴重である。また、伏見城の確かな遺構としてきわめて価値の高いものである。

 広場では、鐘櫓の見学前に最後のクイズ出題となりました。

 ★問9
 筋鉄御門の規模は次のうちどれでしょう?
 ①9×3間 ②9×4間 ③10×3間 ④10×4間
 正解:③

 ★問10
 廃城後、鐘櫓の裏に建てられた施設は何でしょう?
 ①招魂社--戦後、備後護国神社に合祀される ②遙拝所--鐘櫓の場所にあった ③勇鷹神社--備後護国神社の旧称 ④忠魂碑--黄金水井戸北側にあった日露戦争の祈念碑
 正解:①

 これで凡ての出題が終わりましたけど、実に難解でありました。
 GONsanが分かりましたのは、問1・問6の2問のみ(^-^;
 全問の正解者はおられませんでしたけど、10問の内6問正解までの方々が見事、賞品をゲットしておられましたネ(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)