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 豊年橋の次は、一つ上手に存在します安政橋に到着です。創設は「安政元年」ですから「豊年橋」より1年前となりますネ(^.-)☆
 豊年橋の方が古いのかと思っておりましたら、安政橋の方が古いようです。知りませんでした(^-^;
 当時は、この橋が架けられまして豊年橋同様に、地域の皆様にとられましては、大変便利になったものと思います。

 安政橋の一つ上手には、今年、また一つ橋が架かりました。出来たばかりですけど、これは現代人のGONsan達が多少便利となりました。

 次は、水呑郵便局跡。
 そぅでしたネ、ここには、GONsanが小学生時代には郵便局が存在しました。次第に記憶から消えつつありますけど、う~ん、郵便局がありましたねぇ~
 そして、スグ近くに『浜貝塚』が。
 WEB上で「浜貝塚」を検索致しますと、こんな記載が…

 ◆水呑町の洗谷・浜貝塚(縄文早期の可能性はあるか?)

 ①貝塚の説明看板新設計画

 私が住んでいる福山市水呑町には、縄文貝塚遺跡の洗谷貝塚と浜貝塚がある。浜貝塚の東側は現在住宅地となり海から遠ざかっているが、江戸時代までは瀬戸内海と接する海岸線に立地していた。
 浜兩貝塚は昭和八年七月、水呑小学校の橘高武夫先生によって同一時期に発見された。最初の発掘調査は同月の三十日と三十一日、浜貝塚が同日に実施された珍しい貝塚である。
 発掘の成果は、浜貝塚から出土した土器が縄文後期と晩期が多かったことから縄文後期の貝塚と認定されてきた。貝塚の発見が他の遺跡と比較して遅かったためか、話題となる新発見や特徴も見当たらず、文化遺産としての評価が低かったためか史跡としての指定も行われず、説明看板も設置されるに至らなかった。
 説明看板の無いことを打開しようと、水呑町の民俗保存部会では本年度に看板の予算を計上し秋の文化祭までに完成させるよう計画された。そうした経緯から私に対して、貝塚関係記録の収集と分散遺物の調査並びに資料作製の支援要請があった。

 ②浜貝塚の縄文土器鑑定

 平成二十一年六月二十七日・二十八日の両日、東広島市の廣島大学構内文学研究棟において、「中四国縄文研究会二十周年記念大会。第二回西日本縄文文化研究会・環瀬戸内地域の打製石器石材利用」が、中四国縄文研究会。関西縄文文化研究会・九州縄文研究会によって合同開催された。
 大会の準備を進められたのは、洗谷貝塚の「集積遺構」から、中・四国地方の縄文後期の石器製作技術を解明され、洗谷型剥片剥離技術を学界に発表された廣島大学の竹広文明教授である。日本を代表される縄文文化研究の大家の集まりなので、私も大会に参加し浜貝塚の縄文土器の鑑定を行って頂けたら好都合と、願望を秘め竹広教授には無理は承知で大会に参加させていただいた。
 大会二日目の二十八日午後、第二部の合同討論シンポジューム「環瀬戸内地域の打製石器石材利用をめぐって」が開催されシンポジュームの司会を、京都大学の千葉豊教授と小南裕一教授が行われた。
 大会終了後同会場で、私が持参した土器の鑑定を司会された千葉教授にお願いしたところ快く引受けて頂いた。鑑定の結果は縄文時代後期・晩期の土器以外に、「縄文時代前期の磯の森式土器剥片十一個と、縄文時代中期の里木式土器剥片三個」があると鑑定していただいた。私が内心想定していた通り、浜貝塚は約六千年も以前から縄文人が定住していたことが明らかになった。
 浜貝塚の中心部は、江戸時代から鞆福山街道となっていたらしく、周辺地は宅地変更が早くから行われると同時に、江戸時代後期になると宏大な新田開発のため貝塚破壊は進行し貝塚の境域は不詳となった。浜貝塚の周辺地においては洗谷貝塚と同様、縄文早期土器の出土の可能性も夢ではなくなった。 

 …と、こんな記載でありまして、水呑のこの地区には約六千年も以前から縄文人が定住していたことが判明とはチョッと感激ですけど、6,000年も昔とはあまりにも大昔過ぎて想像すら出来ません(^-^;
 ですが、何となく感激しますGONsanなのであります(^-^)//"

GONsan のホームページ ↓
日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)