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 浄土寺の拝観を終えねまた正門方向に向かいますと、次に眼に入りましたのが「源三位 頼政公墓所」の案内板でありました。なら、ここにも立ち寄らなくては(^.-)☆
 不動院に入りますと、その境内の一角に「源三位 頼政公墓所」が…
 早速、最勝院に入ってみる事に致しました。不動堂は最勝院の本堂のようですネ。

 ◆宇治平等院・最勝院

 治承4年(1180年)、以仁王の令旨…平家打倒の文書が出され、源頼政公もこれに応じます。しかし計画は事前に露見。
 奈良に逃れようとした以仁王勢は宇治平等院で平家の追討軍と戦うこととなりました。『平家物語』によれば以仁王側は千騎あまり。二万騎以上の平家方には多勢に無勢でした。
 この戦いで頼政公は息子や養子など多くの味方を失い、ついに自害。享年77。
 頼政公最期の地とお墓は宇治平等院内に今も残っています。平等院の表門拝観受付入ってすぐ左側に小さな道があります。その奥、観音堂の横に緑の一角が。

 ◆源頼政

 源 頼政(みなもと の よりまさ)は、平安時代末期の武将・公卿・歌人。兵庫頭源仲政の長男。朝廷で平家が専横を極める中、それまで正四位下を極位としていた清和源氏としては突出した従三位に叙せられたことから源三位(げんざんみ)と称された。また、父と同じく「馬場」を号とし馬場頼政(ばば の よりまさ)ともいう。
 保元の乱と平治の乱で勝者の側に属し、戦後は平氏政権下で源氏の長老として中央政界に留まった。平清盛から信頼され、晩年には武士としては破格の従三位に昇り公卿に列した。だが、平家の専横に不満が高まる中で、後白河天皇の皇子である以仁王と結んで挙兵を計画し、諸国の源氏に平家打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、そのまま平家の追討を受けて宇治平等院の戦いに敗れ自害した(以仁王の挙兵)。

 …と、こんな歴史の記載がWEB上にありました(^-^)/"

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