GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

2019年09月

台風17号の接近で「第4回ふくのやまよさこい」は、中止のようですネ(^-^;

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 明日・9/22(日)開催の『第4回ふくのやまよさこい』は、台風17号の接近で中止となりましたようですネ(^-^;
 今年は「福山夏まつり」も台風の影響で中止になりましたし、大きなイベントが相次いで中止となりますのは哀しいですねぇ~

 ◆台風17号

 大型で強い台風17号は、21日(土)午後8時現在、東シナ海にあって、時速25キロで北に進んでいます。
 中心気圧は970ヘクトパスカル、中心付近の最大風速は35メートル、最大瞬間風速は50メートルとなっています。
 この台風は今後、東シナ海を北上し、22日(日)には九州に接近する見込みです。さらに、23日(月)から24日(火)にかけて日本海を北東に進み、温帯低気圧の性質を帯びつつ勢力を保ったまま、北日本に接近する見込みです。
 南西諸島や西日本では、22日(日)にかけて非常に強い風が吹き、海上は大しけとなる見込みです。とくに九州北部では、22日(日)は猛烈な風や猛烈なしけとなる所があるでしょう。暴風や高波、高潮などに厳重な警戒をしてください。また、大雨による土砂災害や河川の増水などにも警戒が必要です。

 …と、台風17号も大型で勢力も強いようですから、中止の決定はやむを得ないのではありますが…

 ◆《第4回ふくのやまよさこい中止についてのお知らせ》

 天候が心配されております第4回ふくのやまよさこいですが、台風の進路から安全を第一に考え、非常に残念ではございますが、中止の判断をさせていただくことと致しました。
 なんとか開催出来ないかと検討をいたしましたが、昨今の天災での被害を目の当たりにする中で、何よりお集まりいただくみなさまの安全を最優先し、事故や怪我なく楽しんでいただくために苦渋の決断を致しました。
 来年、より楽しんでいただけるお祭りを作れるよう、実行委員会一同尽力して参りますので、今後ともよろしくお願いいたします。

 --- ふくのやまよさこい実行委員会 実行委員長 木村真弓 ---

 本日・土曜日(9/21)は、孫の幼稚園の運動会が予定されておりましたけど、早々と昨日の段階で9/23(月)に延期が決定。少しばかり決定が早過ぎたのでは…との想いも生じます。
 9/23(月)に延期となりましたけど、台風情報に眼を向けますと、9/23の開催も危ぶまれますのですけど…この日が、またまたダメでしたら9/28(土)に延期とか…
 さて、どぅなりますのでしょうねぇ~

 孫の運動会が中止ですから、午後からは「備後入封400年祭」の開催(9/21~9/23)で福山城行きのGONsanでした。
 幸いにも本日は降雨もなく、予定通り無事開催されましたけど、大道芸の方は、昨日の段階で中止が決定されておりました。
 「備後入封400年祭」も3日間の開催予定が、本日のみで、9/22・9/23は中止となってしまいました(^-^;

 ◆備後入封400年祭

 2019/09/21 更新
 【備後入封400年祭の中止について】
 9月22日(日)、23日(月・祝)の「備後入封400年祭」は台風接近に伴い、開催に支障が生じる雨量等が見込まれるため、中止とします。
 ※ 22日(日)の「福山城南側市道」の車両の規制も行いません。

 2019/09/20 更新
 「備後入封400年祭」の開催について
 明日(21日)の「備後入封400年祭」については、予定通り開催いたします。
 台風17号が接近することが予想される22日(日)及び23日(月)の開催の可否については、明日(21日)の正午に決定いたします。
 ※ 開催を決定した場合でも内容を一部変更することがあります。

 2019/09/20 更新
 石垣お祭り通り/大道芸中止のお知らせ
 石垣お祭り通り/福山城南側市道で行う予定の大道芸は中止になりました。

 2019/09/20 更新
 備後圏域PRタイム/タイムスケジュールを一部変更しました。
 9月21日(土)、本丸華舞台(天守前広場・ステージ)で行われる「備後圏域PRタイム」のステージPR時間が一部変更となりました。

 …と、主催者のホームページには、こんなご案内の掲載が。
 主催者の皆様も大変ですネ。とにかく、今年ばかりは、台風の影響で大きなイベントの中止が続きます。天候要因とは言え、こぅしたイベントを楽しみにしておりました方々には哀しい限り。
 勿論、GONsanもその内の一人なんですけどねぇ(^-^)//"

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9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(5)

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(51)

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 滞在ホテルでは火災が発生しましたようで、慌てて貴重品のみを手に建物外に避難したとの事でした。幸いにも被害はありませんようで一安心。
 移動し別の滞在ホテルでもまた、同様の火災がありましたとか…いずれも部分火災で、新婚ご夫婦には特に被害もありませんでしたとか…

 ◆ワイキキのホテルで連続不審火による火災が発生

 --- 2019.08.07 日刊ローカルニュース ---

 ホノルル市消防局は、4日(日)、5日(月)、6日(火)の3日間、ワイキキの3軒のホテルで不審火による火災が発生しており、放火の疑いが濃厚として調査を開始している。
 ワイキキでは、4日(日)にアロヒラニリゾートで不審火による火災が発生しているほか、5日(月)夜には、ワイキキ・ビーチコマーbyアウトリガーで、そして6日(火)には、グランド・ワイキキアンbyヒルトンで火災が発生している。
 なお、いずれの火災も、消防署員による消火活動と建物に設置してあるスプリンクラーシステムよって延焼が食い止められ、火災による怪我人などは確認されていない。

 当局によると、5日に火災が発生したワイキキ・ビーチコマーbyアウトリガーでは、火災発生後に2つの客室で部屋にあった貴金属や電子機器などが盗まれる窃盗被害が確認されており、当局では、何者かが部屋の自動キー入力システムを改ざんするなどして窃盗を行ったとみて調査を着手している。
 また、火災があった2つのホテルの防犯カメラに不審な男性の姿が確認されており、当局ではこの不審人物が同一人物とみて男の特定を進めるとともに行方を捜査している。

 …と、WEB上で確認してみましたら、こんな火災でありましたようです。
 お二人に何らの被害がありませんでしたから良かったものの、火事は怖いですから…
 ただ、新婚旅行先での予期しません出来事ですから、お二人にはいつまでも強烈な想い出として残ります事でしょうねぇ~
 年月が流れ30年後…40年後に振り返りますと、その頃にはお二人に取られまして、良き想い出として蘇って来ます事でしょうネ(^-^)//"

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秋ですから、色んな行事が…

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 あんなに暑かった日々も過ぎ去り、ヤッと凌ぎやすい時候にと向かってきました。秋ですから、今から色んな行事化続きますネ(^.-)☆
 町内会の回覧で廻って来ましたご案内から少し拾ってみますと、
 ・水呑八幡神社 前夜祭 -- 令和元年10月5日(土) 例祭 -- 令和元年10月6日
 ・バラの町福山国際音楽祭 -- 令和元年10月10日(木)~13日(日)
 ・水呑学区民運動会 -- 令和元年10月20日(日)
 ・水呑学区ふれあい文化祭 -- 令和元年11月2日(土)~3日(日)
 ふ~ん、「バラの町福山国際音楽祭」は、昨年は5月の開催でしたけど、今年は秋の開催ですか。いずれの行事も出掛けますと楽しいですから、また時間が許しますと写真撮りに出掛けてみたいですねぇ(^-^)//"

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9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(4)

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(50)

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 それではこの辺で尾山神社とお別れです。
 長町武家屋敷跡界隈も散策してみたい気持ちでしたけど、次回の機会を見つけまして訪れてみたいと思います。
 数日後には、新婚ご夫婦から楽しそうな画像が届いておりましたネ(^-^)//"

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9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(3)

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9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(8)

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 福山城「鐘櫓」特別公開の様子を綴って来ましたけど、これでオシマイです(^-^)
 それでは、この辺で福山城公園から退散です。
 そぅそぅ、本日(9/20)の中国新聞朝刊に、こんな記事の掲載が…

 福山城天守北側の広場の一角に、伐採の木々が乾燥のため置かれてありました。
 これらの木々は、景観保全のため公園内で伐採されたものなんですけど、この再利用・有効活用についての記事掲載。ふ~ん、市の財産として、これらの木々はイベント・校舎内装材等に活用されますのですねぇ(^-^)//"

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(49)

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 ①本殿
 建造は古式に則った三間社流造で、簡素にして神厳に満ちた社殿です。本殿に向かって右側面の玉垣は珍しいレンガ造りで、剣梅鉢のご紋すかしとなっています。レンガを使用したのは、金沢ではここが最初です。

 ②拝殿
 入母屋造屋根瓦葺
 中央天井は格天井作りで各間毎に岩絵具による極彩色のうどんげの花が美しく描かれています。これは旧金谷御殿から移築したものです。欄間は約八寸厚の欅の一枚板に見事な梅花紋を透彫にし、極彩色の華麗な彫刻で、これもまた旧金谷御殿から移築したものです。

 ③神門<国指定重要文化財>
 明治8年の建築で、和漢洋の三洋式を混用した異色の門として全国に知られ、兼六園と共に金沢市のシンボルにともなっています。第一層には戸室石(角閃安山岩)を用いてあり、第三層は四面五彩のギヤマン張りで、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標たらしめたものです。なお第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものです。

 ④利家公像
 織田信長公に仕え青年時代は赤母衣衆として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。

 ⑤お松の方像
 前田利家公の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が利家公の母の姉で利家公とは従兄関係であり、利家亡き後は、芳春院と号しました。

 ⑥授与所
 平成27年秋に完成したばかりの新しい授与所。開放的なガラス張りのデザインで、施設内には、金沢城など市内の観光地の四季の風景を映し出すディスプレイを設置してあります。

 ⑦金谷神社
 二代藩主前田利長公をはじめ三代から十七代までの藩主、当主と正室(夫人)をお祀りしています。

 ⑧東神門
 旧金沢城の二の丸の唐門で、明治3年以来旧卯辰山招魂社前にあったものを、昭和38年に当社境内地に移築しました。金沢城は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この門が幸い難をのがれたのは、唐門の二匹の竜が水を呼んだためと言い伝えられています。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物です。

 ⑨神苑
 旧金谷御殿の庭園であって、古代舞楽の楽器を模した地泉廻遊式の名園です。神苑の水は、三代藩主利常公の命により完成した辰巳用水の水を高低差を利用して、兼六園から暗渠で導き、響遠瀑から落としていました。現在は、当時の水路が断絶したので、井戸を堀り地下水を池に流しています。

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(48)

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 またまたWEB上で「尾山神社」を検索し、どなたかの記述をパクらせて頂き、尾山神社をご案内致します(^.-)☆

 ◆北の小京都・石川県金沢市

 石川県金沢市には北陸の小京都という呼び名があります。京都と同じくらい古い町並みや文化が残っている、金沢市だからこそつけられた呼び名です。
 そんな石川県や金沢市の礎が築かれたのは、江戸時代のこと。当時の石川県は加賀藩と呼ばれ、前田家によって統治されていました。加賀前田家の初代当主が前田利家です。
 金沢市内には、前田利家および加賀藩の精神を記念するため建立された尾山神社があります。和漢折衷でありながら洋式の風格も備えた、特徴的な神社である尾山神社を紹介します。

 ★まずは前田利家について解説

 新しい物好きであった前田利家は、当時まだまだ未発展だった金沢を開発し、現在の金沢の経済や文化、教育などの基礎を固めました。
 現在最も知られているのは、利家とその妻・松の物語。2002年には2人を主役とする歴史ドラマ『利家とまつ』が放送さたほどで、2人の仲睦まじさを伝えるエピソードは、現在まで語り継がれています。ドラマは高視聴率を獲得しただけではなく、金沢の知名度も飛躍的に上げました。

 ★尾山神社の4つの見所

 ・見所1 -- 和洋折衷 尾山神社神門

 尾山神社には普通の神社と異なり、日本式と西洋のスタイルが融合した門があります。
 オランダ人によって設計された門で、レンガと木材の3層構造で建造されました。最も特徴的なのは第3層に作られた西洋のステンドグラスです。最上部には日本最古の避雷針が設置されています。
 神門が建てられた明治時代は、日本に西洋文化が流れ込んできた時代。愛媛県の道後温泉や石川県の山代温泉古総湯など、当時の建築物の多くにはステンドグラスが採用されていいます。
 尾山神社の神門は、それらの建物と比べてもさらにユニーク。健在にレンガと木材の両方を採用した、和洋折衷の不思議な建築物なのです。
 神門に施された彫刻にも注目してください。これは前田家の紋章である「梅」を表しています。夕方以降に訪れる方は、日没後のライトアップもぜひご覧になってください。優しい光がステンドグラスを通り、見る者を魅惑的に照らします。普通の神社では得られない体験です。

 ・見所2 -- 和漢の融合 尾山神社本殿

 神門を抜けると、すぐに目に飛び込んでくるのが、和漢折衷の神社本殿です。本殿の屋根には中国の伝統的な建築様式が採用されており、ひとつの建築物の中に日本と中国、2つの国の要素が混ざり合っています。
 本殿の中で祀られているのが、加賀藩の創設者である前田利家です。

 ・見所3 -- 金鯰尾兜

 神社内では至る所に前田利家を記念する彫刻や置物を目にすることが出来ます。
 要チェックなのが、こちらの金色の兜。金鯰尾と呼ばれる、昔前田利家が使っていたものと同じモデルの兜です。霊力を持つと考えられていた鯰の尾をデザインしており、金沢市の特産である金箔が施されています。
 妻・お松の彫刻も前田利家像とそう遠くない場所に置かれています。出兵する旦那を静かに見守る姿を描いているそうです。

 ・見所4 -- 東神門

 尾山神社の後方にある東神門は、もともともと金沢城に備え付けられていたものです。東神門を通れば、前田一族がかつて暮らした金沢城遺跡へ行くことが出来ます。GONsan達は、この「東神門」から尾山神社に入りました(^.-)☆
 尾山神社は、和・漢・洋の3つの様式が融合している珍しい神社。新しいもの好きの前田利家らしい神社と言えるかもしれませんね。
 金沢市にやって来たら、尾山神社にも足を伸ばしてみてください。きっと前田利家も喜んでくれるに違いありません!

 ◆母衣

 母衣(ほろ)は、日本の武士の道具の1つ。矢や石などから防御するための甲冑の補助武具で、兜や鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませるもので、後には旗指物の一種ともなった。ホロは「幌」「保侶(保呂)」「母蘆」「袰」とも書く。

 ・概説

 母衣は古くからあり、後には武士の「七つ道具」の一つとされたほど由緒ある道具である。古代の母衣は鎧の上から全身を覆う保呂衣(ほろぎぬ)という戦袍(せんぽう)であり、防寒のためだったとする説もある。それが平安時代末から鎌倉時代になると、母衣は懸保呂(かけぼろ)となった。縦に縫い合わせた長い絹布(5尺8寸、5幅ほど)を、首、冑、手の甲などに紐で結びつけて、それが風をはらんでふくらむことで、後方からの弓矢や石を防ぐ役割を果たした。また前方に対しても母衣を頭から被って矢を防いだとする説もある。日本においては古代から中世まで長らく弓を主武器とする戦闘法が用いられており、隙間の多い大鎧をまとって馬を駆る当時の武士には適していたのであろう。

 しかし(日本独自に様式化された)騎馬戦闘が廃れ、南北朝時代(室町時代)頃から集団戦に移行したことで、古式の母衣は実用性が低下し、見栄えが重視されるようになった。内部に鯨のひげや竹などで作った骨(母衣骨、母衣籠)を入れて常にふくらんだ形状を維持できるように変化して、前には「だし(山車)」というものを立て、串をもって鎧の後ろに挿して、敵味方に自分の存在を示す標識ともなる差物(さしもの)の一種となった。保呂指物(または提灯保呂)は、大きさも大型化し、10メートルを超えるような巨大な布が棚引くものもあった。戦国時代に鉄砲が伝来すると補助防具としての実用性は失われたが、大将側近の近習や使番だけが着用を許される名誉の装飾具となった。(母衣衆)

 新井白石の『本朝軍器考』では「母衣」という表記はその形状と用途から妊婦の胞衣になぞらえたものであるという説を載せているが、民俗学者南方熊楠は、中国古典より「羽衣」の字を写し間違えたという説を主張していた。

 ・歴史

 『日本三代実録』の貞観12年(870年)3月16日の条には、小野春風が甲冑の薄さを補うために大量の「保侶」を朝廷に乞うたという記事が見られ、このころから用いられていたことが確認される。この時代はまだ武士の大鎧は形成されていない。
 『中右記』には永久元年(1113年)、源重時の郎従が甲冑の上に流れ矢を防ぐための保侶という布をまとい、これを一族の風として習い、源重武の郎従達も久安3年(1147年)の合戦で身にまとい、人目を驚かせたという。12世紀中頃では、武士甲冑による集団(一門)が揃って保侶を身にまとうという行為は、まだ珍しかった。吾妻鑑第18巻には、「建仁3年(1203年)9月9日、実朝公が初めて鎧を着し給わりし時、甲冑は母廬等を着する次第故事をさづけ奉った」の記述が登場する。
 文永の役の際、紅の母衣をかけた肥後国の大将菊池二郎武房が蒙古人の首ふたつを太刀と長刀(なぎなた)の先に刺して持っていたという記録がある。武房は仲間の死体の中から起きあがってかろうじて生き延びたとあることから、かなりの混戦だったとみられるが、紅の母衣が確認できるあたり、ちぎられなかったとわかる。

 15世紀末前後成立の『鴉鷺合戦物語』の「第八 母衣次第、正素嫡子七郎折檻、鵠越後守上洛之事」の条には母衣について詳しい記述があり、それによれば本式は紅であり、赤白の色もあり、これは陰陽の2色であるとし、白は老武者がかけるものと説明している。大きさについては「五幅五尺」、すなわち5尺の長さで約36cm幅の布を5枚縫合わせたもので「五大五仏」を表し、他に「八幅八尺」や「十幅一丈」(一丈は10尺)のものもあると記し、縫う糸についても口伝ありとする。その色から大きさ、製作まで信仰と密接に繋がっていたことがわかる。また陣中でかける母衣、合戦時にかける母衣、勝戦(かちいくさ)にかける母衣、歩立(かちだち)のかける母衣、討死が確定した状況でかける母衣と、状況によって使用する母衣は異なるとしている。『鴉鷺物語』が記述された15世紀時点では、紅・赤・白以外の色の記述は見られない。

 上泉信綱伝の『訓閲集』(大江氏の兵法書を改良したもの)の巻十「実検」には、母衣をかけた武者の首は獄門にかけてはならず、仏法で母衣武者の首を何の配慮もなしに獄門にすれば、その首は成仏できないとの理由から扱いに気をつけるようにといった内容の記述があり、あえて討死にする際は母衣をつけたともあり、母衣で首を包むのが決まりとなっていた。つまり母衣を身に付けているのといないのでは、首の扱いに待遇差があった。

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9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全交流会」の開催でした(^.-)☆(2)

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9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(7)

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 この日のメンバーの中には、今まで、鐘櫓内に入られました方は何人かおられますようですけど、GONsanは初めて。
 こんな特別公開には、もぅ何年前になりますでしょうか…伏見櫓の中に入って以来。
 ふ~ん、鐘櫓の内部は、こんな感じなんですねぇ(^.-)☆
 結構、狭い。ですから、2階に上がりますには7~8人ずつで。この鐘は、今では電動で定刻に打たれますけど、城地内に鐘櫓が存在しますのは全国的に例がありませんようで、貴重な文化財との事。
 昔は、緊急時に武士を招集しますのに太鼓を叩きますのが頭に浮かんで来ますけど、鐘の方が遠くまで聞こえそうな気もします。
 ですから、城地内に鐘櫓がありましてもおかしくないのですけど、全国的に例が無い…とは、結構意外ですネ(^-^)//"

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(47)

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 兼六園の金沢城公園方向への出口付近に存在します、この防犯カメラ…色んな角度から狙っておりますから、別に悪い事をしていなくても、つぃ身構えてしまいますネ(^-^)
 でも、園内の防犯カメラは、ここしか無かったような…GONsanが気が付きませんだけで、色んな場所に監視カメラの設置がありましたのかも…
 兼六園を出ますと、金沢城公園にと向かいます。
 こちらも既に昼間・夜間共に訪れていますので軽くスルーのGONsanでありました。

 そして、玉泉院丸庭園にと下りて来まして庭園内を一廻りし、次に向かいましたのが尾山神社であります(^.-)☆
 東神門(裏門)側から尾山神社境内へ。
 ほどなく「井村徳二顕彰碑」が眼に入りましたけど、う~ん、「井村徳二」sanとは何者なのでしょう?早速、WEB上で検索です(^.-)☆

 ◆井村徳二

 井村徳二(いむら とくじ、1899年(明治32年)11月18日-1958年(昭和33年)10月27日)は、石川県出身の実業家、政治家。
 創業者の井村徳三郎の後、宮一大丸の社長に就任し、合併に伴い大和の初代社長に就任。
 衆議院議員(1期)。参議院議員(1期)。
 父は井村徳三郎(大和の前身である宮市百貨店創業者)。息子は井村寿二(勁草書房創業者、元大和会長)、宮太郎(元大和社長)。
 1953年(昭和28年)4月24日の第3回参議院議員通常選挙では林屋亀次郎が国務大臣として行った地元石川県の内灘試射場の用地接収(内灘闘争)を批判して組合を味方につけ、現職の国務大臣を破る大番狂わせを演じた。
 当時林屋が旧丸越本店の場所で後に丸越となる百貨店を武蔵として経営し、井村が大和を経営していたため、このときの争いは「武蔵」と「大和」の内灘沖会戦と呼ばれたが、対立候補の林屋は1943年(昭和18年)12月21日に林屋が経営していた丸越との合併で大和となった際に林屋が初代会長で井村が初代社長を務めた関係でもあった。また、北陸鉄道の代表取締役社長を1949年から1954年まで歴任した。

 …と、こんな地元の名士でありました(^_^)v

 ◆尾山神社

 尾山神社(おやまじんじゃ)は、石川県金沢市尾山町に所在する神社。江戸時代後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。
 主祭神は、加賀藩の藩祖前田利家で、創建は1873年。旧社格は、別格官幣社。境内摂社に歴代藩主を祀った金谷神社がある。神門は津田吉之助によって建てられたもので、重要文化財に指定されている。例祭は利家の命日である4月27日。

 ・歴史

 慶長4年(1599年)に前田利家が没すると、前田利長はその霊を祀ろうとしたが、公然と祀るには憚るところがあったので、越中国射水郡の式内社物部神社(現 富山県高岡市東海老坂)に併祀されていた八幡神を勧請して金沢城の東に卯辰八幡社を建て、ここに合祀した。この神社は、幕末になると藩の財政が乏しくなり荒廃が目立つようになった。明治時代になって、1872年(明治5年)に教部省出仕加藤里路(元金沢藩の権大属・宣教掛で、のちに尾山神社の社司)と石川県参事桐山純孝が新たに藩祖を祀る神社を建てる計画をする。旧藩臣が集まり、前田土佐守家の前田直信が代表になり、1873年(明治6年)金沢城の金谷出丸の跡地に新たに建立することとなった。元の卯辰八幡社は明治11年(1878年)、宇多須神社となっている。

 1873年(明治6年)3月に政府より神社創立許可が出て、同月14日に創建し、社号を尾山神社とした。同月30日に、1871年(明治4年)7月、卯辰山三社の一つである卯辰山天神社(卯辰神社、卯辰山天満宮)に一時的に遷座していた神像を尾山神社に遷座した。11月16日にはときの県令内田政風を始めとする官吏が参列して、卯辰山八幡宮より神霊遷座が行われた。当初、社格は郷社に列格され、翌年に県社に昇格する。

 1873年(明治6年)11月には前田家当主前田斉泰の子の少教正・大聖寺藩知事前田利鬯(としか)が説教を行っている。次々と境内施設が整えられていくなか、1875年(明治8年)11月に特徴的な神門が造立されることとなる。この神門は長谷川準也・大塚志良により計画され、長谷川家出入りの大工・津田吉之助(1827年-1890年)によって建てられた。1879年(明治12年)7月には前田利長・前田利常が相殿に祀られる。同年9月には歴代藩主を祀る境内摂社として金谷神社が創建される。
 1874年(明治7年)3月に石川県中教院が設置された。同年5月1日には中教院神殿の祭神4柱(造化三神・天照大神)の鎮座式が前田利鬯を祭主として県令・県下神職僧侶参列の上で行われた。
 1902年(明治35年)4月26日、長年の昇格請願運動が実り、米沢の上杉神社と同時に別格官幣社に昇格している。7月3日から5日には昇格慶賀祭が行なわれた。

 本殿と拝殿は1873年(明治6年)に建てたものである。

 ・祭神

 尾山神社、相殿にそれぞれ次の神が祀られている。
 尾山神社:贈従一位権大納言菅原朝臣利家(前田利家)
 相殿:贈正二位権大納言菅原朝臣利長(前田利長)、権中納言従三位菅原朝臣利常(前田利常)

 ・祭礼

 1891年(明治24年)は前田利家による金沢城修築(1592年(天正20年))より300年目であったため、初代金沢市長稲垣義方らが金沢城修築三百年祭を行なうことを提案し、同年10月11日-15日に行なわれた。11日の祭典には、前田利嗣夫妻も出席して執り行われた。
 祭典費として利嗣は1,000円を寄付している。また天皇は幣帛料20円を下賜している。13日には初めての神輿渡御がかつての前田家行軍式(備押)を模して行なわれた。
 1899年(明治32年)は、前田利家の死後300年にあたり、前田家の旧家老八家であった本多政以・横山隆平・長克連らの計画で、前田利家三百年祭(封国祭)が行なわれた。期間は4月27日から5月3日の7日間であった。29日に前田利嗣を祭主に、前田利同を副祭主にして祭祀が執り行われた。石川県知事・志波三九郎が奉幣使として参列した。神輿渡御が1日2日に行われたが、大盛況だったという。

 現在毎年6月中旬に行なわれている百万石まつりは1923年(大正12年)より封国祭にあわせて金沢市祭として行なわれるようになった奉祝行事に起源するものである。終戦により、尾山神社奉賛会が主催となり市祭としては行なわれなくなったが、1952年(昭和27年)より金沢市と金沢商工会議所が中心となって行なわれている。

 ◆東神門

 もともとは、金沢城二の丸御殿で利用されていた。二の丸御殿はたびたび火事にあっているが、その際この門は一度も燃えなかった。その理由としては、立派な龍の彫刻が施されており、この龍が水を吹いて火災を免れたという伝説がある(作者名は不明)。
 その後、金沢城は廃城となり、金沢城跡が陸軍の拠点となると、訓練などに支障が出るとして卯辰山の寺院に移動された(なお、この後にも陸軍が二の丸御殿で火事を起こしている)。卯辰山の寺院がなくなると、尾山神社に移され、現在は裏門として利用されている。

 そして、眼に入りましたのが、何となく奇抜な「母子順風之像」でありました。
 これも、WEB上で検索してみますと、こんな記載が…ですが、詳しい記載は見当たりませんでしたネ。

 ・神社の境内にあるのがなんとも言えない母子順風之像。母子順風之像~参拝者の度肝を抜かすアクロバティック母子~
 ・「報恩感謝」の崇高な理念が込められているという銅像。

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9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全キャンペーン・交流会」の開催でした(^.-)☆(1)

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 9/8(日)は、某協会主催の「福山地区交通安全キャンペーン・交流会」の開催で、GONsanは当日欠席者に備え補欠要員として参加でありました(^.-)☆
 幸いにも当日は、欠席者はありませんでしたから、GONsanは皆さんの応援も兼ね、ノンビリと写真を撮らせて頂く事となりました。
 この日の様子を、説明を加える事もなく、画像でご案内致します(^-^)//"

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9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(6)

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 御湯殿の次は、いよいよ「鐘櫓」へ向かいます。
 筋鉄御門を正面に見ながら、伏見櫓と鐘櫓の間の広場へと移動です。

 ◆御湯殿

 京都伏見城内にあった豊臣秀吉の居館を移した伏見御殿に付随した建築で、国宝に指定されていた。建築の一部は石垣上に張り出し、内部は物見の段と風呂の間に分かれていた。
 昭和20年の戦災により焼失したが、昭和41年秋、天守閣とともに外装、内部ともに復原されたものである。
 現在は貸会場として利用されている。

 ◆筋鉄御門

 福山城本丸の正門で西向きに建っている。元和8年(1622年)伏見櫓と共に伏見城から移築したものといわれている。
 下層の各柱には根巻き金具を付け四隅に筋金具を打ち、鏡柱の見付けと見込みに大小の乳金具を打ち付けている。門扉は内開き二枚建てで12条の筋鉄を鋲打ちし、乳金具を飾っている。
 上層は正面左端に出入口を設け、正面中央・右端と南側にそれぞれ格子窓を設け、内部床は拭(ぬぐい)板敷き、小屋梁天井となっている。
 外部は柱・土台・長押の木地型を出し、たるき・屋根妻・破風板・懸魚にいたるまですべて白亜塗りとしている。

 ◆伏見櫓

 この櫓は元和8年(1622年)城主水野勝成の福山城築城にあたり、将軍徳川秀忠が伏見城の一部移築させたという。昭和29年(1954年)の解体修理の際、梁の陰刻に「松ノ丸ノ東やぐら」とあるのが発見され、移築の伝えが正しいことが明らかになった。
 櫓は初層と二層は同じ平面の柱割で、東西方向に棟を付け、さらにその上に下層よりやや小さい三層を載せ、南北棟の入母屋造りの屋根としている。内部は階段を付け、床板敷き、小屋梁天井とし、外部は東・西・南に多くの窓を開いている。北を正面に建てられている。
 これらの構造や手法は、城郭研究史上初期の様式を残す、慶長年代の建物の典型として貴重である。また、伏見城の確かな遺構としてきわめて価値の高いものである。

 広場では、鐘櫓の見学前に最後のクイズ出題となりました。

 ★問9
 筋鉄御門の規模は次のうちどれでしょう?
 ①9×3間 ②9×4間 ③10×3間 ④10×4間
 正解:③

 ★問10
 廃城後、鐘櫓の裏に建てられた施設は何でしょう?
 ①招魂社--戦後、備後護国神社に合祀される ②遙拝所--鐘櫓の場所にあった ③勇鷹神社--備後護国神社の旧称 ④忠魂碑--黄金水井戸北側にあった日露戦争の祈念碑
 正解:①

 これで凡ての出題が終わりましたけど、実に難解でありました。
 GONsanが分かりましたのは、問1・問6の2問のみ(^-^;
 全問の正解者はおられませんでしたけど、10問の内6問正解までの方々が見事、賞品をゲットしておられましたネ(^-^)//"

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(46)

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 暫し石川四高記念文化交流館のライトアップを楽しみまして、そろそろ戻りませんと(^-^)
 アパホテルのあります片町に戻って来まして時間を確認しますと、う~ん、もぅこんな時間。P.M.8:55でありました(^.-)☆
 別にお腹も空いていませんけど、何か食べようか…と言う事になりまして…ですが、この片町にはファミレスなんぞありませんから、ブラブラ歩いて近くの居酒屋へ。
 披露宴後の二次会も終わりましたのでしょうか…暫くしまして、新婚ご夫婦も合流です。
 こぅいぅメンバーが揃いますのは、何年振りなんでしょう…ここ近年は福井に出掛けていませんから、久し振りのような感じも…

 GONsanは、挙式前日に金沢観光は終えていますけど、姪は挙式当日に金沢にヤッて来ましたので、翌日は、弟夫婦・姪・私達夫婦の5人で、またまた兼六園へ(^-^)
 まぁGONsan夫婦は年齢的に入園料は無料ですから、何度出掛けても構わないのですけどネ(^-^)//"

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9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(5)

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 次は、天守の西側の石崖横へ。ここでは、こんな問題の出題です。

 ★問7
 慶応4年(1868年)、長州軍は福山城を砲撃しました。消失前の天守にはこの時の弾痕が残されていましたが、どこにあったでしょう?
 ①1階北側 ②1階西側 ③2階北側 ④2階西側
 正解:②

 福山城の北側は、福山城全体を通して北側の守りが手薄で、その弱点からの砲撃を防御するために、厚さ3ミリほどの鉄板を張り巡らせていたようですネ。
 それでは、御湯殿に向かいます。御湯殿では、こんな出題が…

 ★問8
 本来の御湯殿は本丸表向、奥向、それぞれに1ヶ所ありました。このうち表向の御湯殿は何処にあったでしょうか?
 ①月見櫓の横 ②鏡櫓の横 ③鐘櫓の前 ④本丸苑池の裏
 正解:②

 う~ん、相変わらず難解な出題が続きます(^-^;

 WEB上で「福山城天守閣」を検索しましたら、こんな記載が…

 ◆現復興天守の問題点

 福山城天守は、いわゆる「城郭復興ブーム」に再建されている。本来の天守は太平洋戦争末期、1945(昭和20)年8月8日の空襲により焼失しており、現在あるのは、1966(昭和41)年秋に市制50周年記念事業として、月見櫓、鏡櫓、御湯殿と共に復元されたものである。しかし、その形状は、焼失前の資料も豊富にあり比較的正確な復元が可能であったにもかかわらず、忠実とはいえない。それは次のような理由によると思われる。

 第一には、鉄筋コンクリート(RC)製であること。これは、当時の建築基準法では天守のような高層建築を木造で造ることができなかったため、そもそも選択肢がなかったからではあるが、これにより、黒塗りの窓枠 が漆喰風(白塗装)に塗られることとなったようで、全体の印象が焼失前とかなり異なることになった。ただ、コンクリート建築であっても、部分的に材質を変えるか、塗装方法を変えるなどすれば、旧状に近い状態を再現することはできたはずだが、そうした方法が採られなかった理由については下記で述べることにしたい。

 第二には、美観の問題、現在の天守は復元の正確さよりも風情が重視され各所が改変されている。具体的には、望楼部の突上戸(雨戸)、北面の鉄板張り、窓の左右非対称や大きさ、壁面の海鼠塀部分、などが異なっている。これらは福山城天守の特徴といえる部分であり、これらが再現されないことで福山城は「らしさ」を失ったといえるが、好意的に捉えれば洗練されたともいえなくはない。

 第三には、当時の文化財に対する意識の違い。上記に示した理由も結局はここに集約される。福山城も含め、太平洋戦争で焼失した天守は全部で7つあるが、水戸城を除き、いずれも1958~1966年の間に鉄筋コンクリートで「復元」されている。これは、ちょうど高度経済成長(1950年代半ば~)への移行期に重なる時期であり、これら天守の復元が戦後の復興を象徴する意図の強いことがわかる。一方で、多くの城郭において開発(破壊)が進むのもこのころからであり、言うまでもなく、時流は保存よりも開発が優先されていて、近世城郭の文化財としての価値はあまり問題にされなかった。

 つまり、この時代の復元天守は、いわば復興記念建造物であり、端的にいえば、城の体を為していれば忠実性はさほど問題とはされていない。実際、下表に示すように、その時期に復元された天守は忠実である方が少数となっている。しかし、その中でも最も 旧状と異なるのが、福山城天守であり、厳密には「復元」ではなく「模擬」の天守に分類される形状となっている(更にいえば、月見櫓、鏡櫓も忠実な復元ではない)。

 ところで、現在はこうした歴史的事実に反する復元はできなくなっている。というのは、文化庁は歴史的建築物の復元にあたり、以下の三要件を課しているからである。
 1.考古学調査などによって、柱の穴そのほかの遺構が確認できること。
 2.歴史的資料として、指図(設計図)が残されていること。
 3.古い写真などによって、かつての外観がわかること。
 この条件に当てはめれば、資料の乏しい福山城天守や櫓の再建は今日では困難なのも、また事実ではある。

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(45)

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 挙式・披露宴も無事終わりましたので、少しユックリ過ごしましてからの夕方、嫁さんの弟夫婦・姪で、ライトアップされています金沢城公園に散策となりました。
 金沢城公園下のバス停付近で、嫁さんの従兄ご夫婦・甥夫婦と合流です(^.-)☆
 散策コースは、金沢城公園--玉泉院丸庭園--石川四高記念文化交流館でありました。まぁそれなりに楽しめますライトアップでありました(^-^)//"

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9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(4)

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 鐘櫓下から天守北側にヤッて来ますと、ここで次のクイズの出題です(^.-)☆

 ★問5
 福寿会館は誰の邸宅として建てられたでしょうか?
 ①森下博--森下仁丹の創設者で広告王と呼ばれる ②林半助--鞆の実業家、鞆軽便鉄道初代社長 ③武田五一--関西建築界の父と呼ばれ、問3の台座は氏の作品 ④安部和助--鰹節王と呼ばれた削り節の考案者
 正解:④

 この後、水野勝成公の像の前に移動し、次のクイズ。

 ★問6
 愛知県刈谷市で2013年に刈谷城築城480年マスコットキャラクターが作成されました。このキャラの名前は何でしょう?
 ①かつなりくん ②かっつん ③ろくざえもん ④かつなり~ん
 正解:①

 ◆水野勝成

 水野 勝成(みずの かつなり)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。三河刈谷藩主、大和国郡山藩主を経て備後福山藩の初代藩主となる。

 ・郡山藩主

 元和元年(1615年)に行われた大坂の役の論功行賞では「戦功第二」とされ、郡山に3万石加増の6万石で転封される。これは依然政情不安な旧豊臣領に睨みをきかすために、勝成を配置したものであるが、大坂の陣での勝成の戦功に比べて、いかにも過小評価と考える人は多かったらしく、勝成自身は20~30万石の知行を期待していたが、家康の命に反して2度も勝成自身が先頭に立って戦ったため、家康の機嫌を損ねてしまったとも言われる。この処遇に勝成は立腹するが、徳川秀忠は勝成を呼び止めてなだめ、家康隠居後に10万石の知行を約束したという水野氏側の伝承が伝わっている。
 郡山では破壊された城を再整備し刈谷から寺社を移転させるなどし、城下を整備した。元和3年(1617年)11月22日、生母の妙瞬尼が亡くなる。

 ・初代福山藩主

 元和5年(1619年)、福島正則の改易に伴い勝成は秀忠から郡山に替わって備中西南部と備後南部の福山10万石を与えられる。備後国は勝成が放浪時代を過ごした場所であったため地の利に詳しく、受領に当たっては幕府に尾道と笠岡との交換を要求し認めさせたといわれる。入封に際しても海上交通を重視し当時の中心地であった神辺と政庁であった神辺城に代えて瀬戸内海に近い今日の福山市に新たな城(福山城)と城下町(福山)を築いた。福山城は『武家諸法度』で新規築城が禁止された中で例外的に認められた近世城郭で最後の城であり、5重の天守に7基の3重櫓や長大な多聞櫓を持つ10万石の城としては破格の巨城であった。

 福山入封後は藩政に尽力し、放浪時代に臣従し後に没落していた三村親成を高禄で家老職に迎えるなど、放浪時代の人脈を生かし、在地領主・郷士を積極的に登用した。城下町の建設に当たっては、江戸の神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)を整備し、瀬戸内海から運河を城まで引き入れると共に大船団を組織し城下に係留させた。産業育成では土地を無償で与え地子を免除するなどして城下の振興を図り、寛永7年(1630年)には全国初ともいわれる藩札を発行した。また、イグサの生産を統制し、福山藩で生産される畳表は「備後表」と呼ばれ全国に最高級品として知られた。治水工事や新田開発や鉱山開発、タバコの栽培も積極的に行い、現在の福山市の礎を築いた。特に新田開発は後の水野勝岑死去に伴う改易の際の検地では約5万石分の新たな石高を有していた。この他、備後国一宮である素盞嗚神社、吉備津神社を始めとする備後国内各地の寺社を復興し、旧領である郡山や刈谷からも寺社を移転させるなど、宗教の保護にも積極的であった。

 家臣の統制には目付などの監視役を置かず、法度の発布や誓詞を取ることもなかったが、問題は生じず、この噂を耳にした隣国の備前岡山藩藩主・池田光政は「良将の中の良将」と評したという。
 水野時代の福山では、一度の農民一揆も起こっていない。
 寛永元年(1624年)、浅野家の亀田高綱出奔騒動を調停する。寛永3年(1626年)には第3代将軍・徳川家光の上洛に従い、従四位下に昇進し、相模国愛甲郡厚木村(現在の神奈川県厚木市)の1,000石を加増される。寛永10年(1633年)、家光の不興をかった酒井重澄を預かる。寛永14年(1637年)、江戸城本丸天守の建設に功があり、水野家の江戸屋敷の奉行は銀、時服等を賜った。

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先日の折り込みチラシの中に「備後入封400年祭」の案内が(^.-)☆

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 数日前の新聞折り込みチラシの中に入っていましたのが、この「備後入封400年祭」のご案内。
 初代福山藩主・水野勝成公の入封400年を記念しましての『備後入封400年祭』が、9/21~9/23の3日間開催されますようですネ(^_^)v
 ところで、この「入封」ですけど、タマに「にゅうふう」と読まれる方がおられます。
 正しくは、「入封(にゅうほう)」ですし「転封」は「てんぽう」ですネ。お互い、正しい読み方をしたいものですネ(^-^)//"

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9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(3)

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 「鐘櫓」に向かいます前に、まずは福山城公園内をグルッと一周です。そして、その合間合間にクイズが出されますから、皆さん筆記用具持参で解答を記入しますけど、その問題がGONsanには結構難解(^-^;
 難しいのなんの(^-^)最初の問題が、伏見櫓の下でした。

 ★問1
 現在の月見櫓周辺には戦前まで貸座敷が建てられていました。この貸座敷の名前は何でしょう?
 ①葦陽館 ②清風楼--御湯殿を改築して造られた料亭 ③晩翠舎--阿部家の資産管理組織 ④仙酔館--下魚屋町にあた料亭
 正解:①

 ★問2
 伏見櫓が伏見城から移築された証拠となっている梁の陰刻は正確には何と書かれているのでしょう?
 ①松の丸の東やく□ ②松の丸の東ヤク□ ③松ノ丸ノ東やく□ ④松ノ丸ノ東ヤク□
 正解:③

 続いて、鐘櫓下・阿部正弘公像の前まで移動です。そして、第3問・4問が…

 ★問3
 戦前の阿部正弘像は現在とは異なる場所に建てられていました。それは、何処でしょう?
 ①天守前 ②御湯殿前 ③鏡櫓前 ④黄金水井戸前
 正解:②

 ★問4
 二の丸北西にあった門の名称は次のうちどれでしょう?
 ①棗門--本丸北西にあった門 ②水の手門 ③蔵口門--二の丸北側にあった門 ④四ツ足門--鉄門脇にあった門
 正解:②

 …と、こんな感じで仲々難解な問題であります。正解は「鐘櫓」の見学を終えた最後に発表との事でありました(^.-)☆

 ◆福山城(備後国)

 福山城(ふくやまじょう)は、広島県福山市丸之内1丁目にあった日本の城で、城跡は国の史跡に指定されている。久松城(ひさまつじょう)、葦陽城(いようじょう)とも呼ばれる。日本における近世城郭円熟期の代表的な遺構であり、2006年2月13日、日本100名城に選定された。2018年7月30日には福山城跡の天守閣部分に対し、広島県内では初の事例となる景観重要建造物の指定がされた。

 ・概要

 福山城は1615年(慶長20年)の一国一城令発布後の元和8年(1622年)に竣工した城である。大規模な新規築城による近世城郭では最後の例となった。備後福山藩の藩庁かつ藩主の居城であった。形式は輪郭式の平山城だが、2重の堀や瀬戸内海へ抜ける運河を持つために海城としても知られる。五重の天守と7基の三重櫓を有していた。

 1873年(明治6年)の廃城令によって、大蔵省の所管となり、建物の払い下げ、取り壊しが実施されていたが、翌1874年(明治7年)に所在自治体の福山町などの請願によって、本丸の天守(付櫓を含む)・筋鉄御門・伏見櫓・御湯殿・鐘櫓の5棟の建築物が残されることとなった。その内鐘櫓を除く4棟について、国宝保存法の国宝に指定された。天守以外のこれらの現存建築は、福山城の築城時に伏見城から移築されたものであったが、昭和20年(1945年)の福山大空襲によって、伏見櫓、筋鉄御門(ともに、国の重要文化財)を残して焼失している。
 一方、本丸以外の城郭遺構については、昭和初期までに城北側にある堀をかねた吉津川以外のすべての堀が埋められ、三の丸は大半が市街地と化すなど遺構の破壊が進んだ。石垣も概ね本丸と二の丸の大部分と三の丸のごく一部に残る。

 現在の天守(付櫓含む)、月見櫓、御湯殿は1966(昭和41年)に鉄筋コンクリート構造で復興されたのものである。再建された天守内部は福山市立福山城博物館として利用され、天守最上階の回縁からは市街を360度見渡せ、晴れた日には瀬戸内海を望むこともできる。三の丸南側はJR福山駅が東西に貫き、新幹線や福塩線のホームからは、天守や伏見櫓が聳立する本丸跡を間近に望むことができる。

 ・築城以前の備後南部

 福山城築城まで福山と呼ばれる街はなかった。福山城周辺は「杉原保」と呼ばれ古代から荘園として栄えていた。安土桃山時代には「野上村」と改称され、福山城の建つ丘陵は北側から連なる山並みの先端部で「常興寺」と呼ばれる寺が建てられていた。常興寺は築城に際して城下北部に隣接する吉津村に移され、野上村は城下南西の新開地に移された(現在の市内野上町周辺)。南側は海が間近に迫る芦田川のデルタ地帯で大部分は湿地帯や田畑となっていたようである。この時の備後南部の中心地は福山城から北東約6キロメートルに位置する西国街道沿いの神辺で、ここに備後国の政庁である「神辺城」があった。また、海においては福山城から南約12キロメートルにある沼隈半島南端の鞆の浦が海上交通の要衝となっていた。

 ・福山藩の成立と築城

 福山城は江戸時代初期、元和偃武の後に建造された近世城郭で最も新しい城である(厳密には赤穂城や松前城など福山城より後に築かれたものもあるが、慶長期から続く近世城郭の体系に含まれる大規模な新規築城では最後としてよいだろう)。元和5年(1619年)、関ヶ原の戦い以降備後国・安芸国の2国を治めていた福島正則が武家諸法度違反により改易されたことから、徳川家康の従兄弟である水野勝成が毛利氏など西日本の有力外様大名に対する抑え(西国の鎮衛)として備後国東南部と備中国西南部の計10万石を与えられ、大和国の郡山藩から転封する。入封時の領地目録上は備後神辺城主であったが、神辺城はやや内陸にあり過去に何度も落城した歴史があったことなどから、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が行われることになったといわれる。

 城地は瀬戸内海との往来や西国街道との距離が考慮され深津郡野上村の常興寺山(常興寺)一帯が選定された。なお、江戸時代後期の地誌によると現在の福山城から北西約12キロメートルにある桜山(市内新市町)や南東約7キロメートルにある箕島(市内箕島町)も城地の候補として検討されたとされ、書籍等にはこの記述を採用するものも多くあるが、これ以前の資料にはそうした記述は全く確認できず、また、地理的にも桜山はあまりに内陸であり箕島は沼隈半島に隣接する完全な島(現在は埋め立てにより半島となっている)であるなど、信憑性に疑問が指摘されている。築城に際し城地に含まれた常興寺は近郊の吉津村(現在の市内吉津町)に移転され、北側は東西方向に切り開き総構えの堀を兼ねた川(吉津川)が通された。干潟であった南側は干拓されて城下町が開かれ、この町は福山と名づけられた。

 築城は低湿地な場所での工事も多くあったため、元和6年(1620年)に芦田川の流れを城の北側にある吉津川に分流しようとする工事が大水害により中断されるなど、困難を極めたといわれる。城の用材には福山城の築城に伴い廃城となった神辺城はもとより、江戸幕府より下賜された伏見城の遺材も多く用いられた。この時、伏見城から移築された建造物としては伏見櫓や月見櫓、御殿(伏見御殿)、御風呂屋(御湯殿)、鉄御門、追手御門、多聞櫓などがある。また、幕府から石垣奉行2名が派遣されている(俗説では小幡景憲の名も挙げられているが、創作だと思われる)。そして、築城開始から3年近くの歳月を要した元和8年(1622年)に福山城は完成する。2重の付櫓が取り付く複合式の五重天守や三重櫓7基、二重櫓16基、総延長291間(約570メートル)の多聞櫓と、10万石の大名の城としてこの規模は特筆に値する。さらに築城後には幕府公金から金12,600両・銀380貫が貸与されるなど、天下普請に準じる扱いを受けており、福山城が西国街道と瀬戸内海の要衝を護る城として幕府に期待されていたことが伺える。なお、築城時の縄張りは若干の改修はあったものの基本的に廃城まで維持されている。

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(43)

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9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(2)

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 定刻となりましたので、まずは、会長 田口義之sanがご挨拶。

 ◆備陽史探訪の会

 ・会概要

 備陽史探訪(びようしたんぼう)の会は、昭和55年9月、「備後を中心とした地域の歴史を研究し、愛郷の精神を涵養する」ことを目的に創立されました。
 「古代史部会」「中世史部会」「近世近代史部会」の3つの部会を柱として、古代・中世・近世・近代にわたる、地元備後の歴史について調査・研究・学習を重ねています。

 ・目的

 備後を中心とした地域の歴史を研究し、愛郷の精神を涵養する。
 「山間の渓流集まって滔々たる大川となり、一村一邑の小歴史集まって、浩瀚なる国史は構成せられる」これは大正14年1月15日に創刊された備後郷土史会機関誌「備後史談」発刊の辞である。日本史といい世界史といい、地域の歴史の集合体に過ぎない。本会は、昭和55年9月、こうした先人たちの遺志を継ぎ、備後を中心とした地域の歴史を明らかにすることを目的に結成された歴史研究の集いである。

 ・活動内容

 ★現地を訪れて歴史を学びます
 徒歩・バス・一泊旅行など、実際に現地を訪れて、担当者の案内の下、歴史の見聞を広めます。年に7回程度開催。その他に、現在、一番人気の毎月第一土曜日に開催する「ぶら探訪」。市中を午前中のみ散策し、地元の歴史を再発見するコースです。

 ★毎月学習会を開催し、知識を深めます
 「古代史部会」「中世史部会」「近世近代史部会」および会事務局がそれぞれ多様な学習会を開催しています。古墳や山城、福山の歴史など、文献資料などを基にテーマを決め、学習します。

 ★刊行物の発行により、情報の発信・意識啓発を行います
 年6回の会報『備陽史探訪』、年1回の研究誌『備陽史研究』の発行により、各会員の論文や研究レポートを発表すると共に、エッセイやクイズなど柔らかい表現で、地元の歴史を広く発信します。
 また、創立記念事業として、これまで『古墳探訪』『山城探訪』『ふるさと探訪』『続・山城探訪』『福山の遺跡100選』などの書籍を発刊してきました。

 ★講演会の開催で、地域文化に貢献します
 年4回の歴史講演会(内2回は「広島県県立歴史博物館と共催」)には、内外の著名な歴史家や研究者を招き、地元の歴史について語っていただきます。

 ★フィールドワークを行い、実際的な調査の手法を学びます
 不定期で、「古墳分布・測量調査」「山城測量調査」「発掘体験会」など開催。初心者でも測量器具を使用した調査に参加したり、実際の発掘現場にお邪魔して発掘体験ができます。調査報告は研究部会担当者がきちんとした報告書にまとめ、当会にて発表します。

 ★地域と共に歩んだ35年の軌跡
 毎年5月5日子どもの日に開催する 「親と子の歴史ウォーク(旧・親と子の古墳めぐり)」は今年で33年目となりました。地域の子どもたちに地元の歴史に親しんでもらい、地元への愛着を高めることを目的としています。「福山古墳ロード」整備事業もその一環です。

 ★「福山古墳ロード」整備事業
 平成18年度・19年度の「ふくやまの魅力づくり事業」に対して、備陽史探訪の会が提案し採用された事業です。近田駅を基点に神辺平野北部に位置する駅家町から加茂町にかけて数多く存在する古墳、その他史跡を「古代散策の小道」として設定。各ポイントの案内標識、看板、パンフレットなどを作成し、Aコース・Bコース・Cコースの整備事業を実施しました。現在も、史跡めぐりのモデルコースとして、多くの市民に利用されています。

 2019年現在、会員数は約320名です。会員は各自のペースや興味のある範囲で、気軽に参加できます。
 備陽史探訪の会会長: 田口義之

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(42)

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9/15(日)は、「第26回ゲタリンピック2019」の開催ですネ(^.-)☆

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 本日の新聞折り込みチラシの中に「第26回ゲタリンピック2019」の開催案内が…
 毎年、ゲタリンピックの開催日は町内一斉清掃と重なりますのですけど、昨年は町内一斉清掃を終えて出掛けましたような(^-^)
 今年も、そのつもりでしたけど、当日は午後何か予定がありましたような…う~ん、残念。今回はゲタリンピック行きは断念のGONsanなのであります(^-^)//"

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9/7(土)は、福山城「鐘櫓」特別公開に参加のGONsanでした(^.-)☆(1)

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 9/7(土)には、『備陽史探訪の会』主催の「クイズで巡る福山城」に参加のGONsanでありました(^.-)☆
 当日は、A.M.9:00にJR福山駅北口の噴水広場に集合。この日の様子をまた、画像でご案内致します(^-^)//"

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朝刊から話題を拾ってみました(^.-)☆(9)

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 これは、9/10(火)の中国新聞sanの朝刊記事なんですけど、「秋季広島県高校野球大会」が、9/14(土)に開幕のようですネ(^.-)☆
 まだまだ厳しい日差しの下での高校野球観戦となるものと思いますけど、9/15(日)は予定がありますので、9/14(土)に福山市民球場で観戦したいと思います。
 福山市民球場での試合日程を確認してみますと、
 9/14(土) 09:00~ 広島工大 × 府中東
  〃   11:30~ 呉港   × 盈進
  〃   14:00~ 誠之館  × 柚木 の3試合が行われますようですネ。
 炎天下での3試合観戦は、結構キツそうですけど、そぅは言いましても高校野球観戦は大好きなGONsanですから、出掛けなくちゃぁ(^-^)
 9/14(土)の福山市の天気予想を調べてみますと、「晴れ時々曇り」のようであります(^-^)//"

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(41)

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朝刊から話題を拾ってみました(^.-)☆(8)

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 これも、9/7(土)の中国新聞sanの朝刊記事なんです。
 福山市内の「戦争史跡巡りバスツアー」の開催案内ですけど、う~ん、9/29(日)の開催とは残念(^-^;
 この日は、GONsanは他のイベントに参加を予定しておりますから、参加は不能。
 福山市内の約10ヶ所の戦争史跡ですから、GONsanが全く知らない場所もあるのかも分かりません。いゃぁ、9/29(日)の開催とは残念ですねぇ(^-^)//"

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8/27(月)は、神辺町上御領の「八丈岩」への散策でした(^.-)☆(16)

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 この辺一帯には、まだまだ未発見の石室が多数存在しますのかも分かりませんけど、地元の方々による整備も大変ですネ。
 それではこの辺で、帰路につくことに致します(^-^)//"

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嫁さんの甥の挙式で、8/2~8/4の3日間は金沢行きのGONsanでした(^.-)☆(40)

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朝刊から話題を拾ってみました(^.-)☆(7)

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 これは、9/7(土)の中国新聞sanの朝刊記事です。
 9/6(金)の福山市の気温は、35.4℃でしたとか…全国で4番目の猛暑日でありましたようです。
 既に9月に入りましたのに猛暑とはタマりません。従来ですと、お盆を過ぎますと比較的暑さも弱まり凌ぎ易さを感じますけど、今年ばかりは(^-^;
 9/7以降も、今日まで相変わらずの暑さで、エアコンはフル稼働。我が家の冷蔵庫も悲鳴をあげていますようですねぇ(^-^)

 土曜日に孫達がヤッて来ましたので、姉の方に「夏と冬とどちらがイィ?」と尋ねますと、「暑いと疲れるから冬がイィ」と。
 今年の1月でしたか…「冬と夏のどちらがイィ?」と似たような質問をしたのですけど、その際には「寒いと躰が思うように動かないから夏がイィ」でありました(^.-)☆

 まぁそんなもんですネ(^-^)GONsanなんぞも、冷たい冬には夏が恋しいですし、暑い夏には冬の良さも感じてしまいます。
 とにかく、一日も早く快適な秋が訪れて欲しいですねぇ(^-^)//"

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8/27(月)は、神辺町上御領の「八丈岩」への散策でした(^.-)☆(15)

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 堂々公園での散策を終えましての帰路には、せっかくだから…と、ついでに「御領古墳群」と「古墳の丘」に立ち寄ります事に(^-^)
 御領古墳群を通り過ぎ、先に古墳の丘へ。
 ほどなく古墳の丘に到着ですけど、古墳の丘へ上がりますのはチョッと躊躇(^-^;
 WEB上で見つけましたこの画像…多分、5~6年前の画像なんでしょうけど…こんな感じでしたら難なく古墳の丘を散策可能ですけど、今では草木が生い茂りまして、足を踏み入れようものならヘビでも出て来そうですねぇ(^-^;
 で、今回は、周辺から古墳の丘を見上げ済ます事に(^-^)

 古墳の丘とお別れし、次は先ほど通り過ぎました「下御領古墳群(J支群)」へと向かってみます。
 ここには、狭いのですけど駐車場もありますから、5~6台の車でしたら駐車可能(^_^)v
 到着しますと、早速、古墳巡りです。

 WEB上で「神辺町古墳群」「古墳の丘」を検索してみましたら、こんな記載が…

 ◆神辺町古墳群

 福山市神辺町上御領・下御領、福山カントリークラブの南東の山地に整備保存されてる古墳群。ここ数年で発見・整備された古墳群で、総数200基を越える古墳が整備保存されています。
 そのほとんどが横穴式石室を持つ後期古墳で、地元の有志の方々によって整備が進められています。
 一部ですが見学路が整備されている古墳もあるので、ぜひ訪問していただきたい古墳群です。(2015年12月訪問)

 ◆見渡す限り古墳!古代日本の謎がいまも眠る「御領古墳群」。全国にこのスゴさを伝えたい!
  公開日:2017年11月10日文化・伝統・産業振興

 「草刈りをしていたら山城跡が見つかった」「それがきっかけで次々と古墳が見つかる」。日常のように歴史の重大発見ができる。そんな可能性を秘める広島県福山市の「御領古墳群」。
 西日本最大級の古墳群で、市民の有志団体「御領の古代ロマンを蘇らせる会」が維持活動を行っています。
 歴史の新たな扉を開ける鍵が眠っているかもしれないこの古墳群を、より多くの方々に知ってもらうため、PR映像の制作にご支援お願いします。

 「ウチの裏山、かなり古代です!?」「市民が発見した古墳!?」「市民の手で守る古墳!?」

 重厚な古墳のイメージとかけ離れた気軽なフレーズに一瞬目を疑いますが、広島県福山市には市民の手で発見され守られてきた西日本最大級の古墳群があります。
 福山市神辺町にある「御領古墳群」。古墳周辺の清掃や探索活動に参加するもよし、ハイキングコースとして御領の山を巡り古代の風を感じるのもよし、そんな新感覚のワクワク体感型古墳です!
 神辺の平野には、吉野ヶ里遺跡の約4倍もの規模をもつ御領遺跡が広がります。山頂にはあまりにも大きな磐座が、それはまるで自らの末裔たちを見守るかのように悠然と佇みます。

 ・草刈りをしていたら、古墳時代の山城跡が見つかった

 これらの古墳群を何年も時間をかけて守ってきたのは「御領の古代ロマンを蘇らせる会」の皆さん。
 この御領の古墳群をはじめ古代人たちの遺跡と出会ったのは本当に偶然のことだったそうです。最初に古墳を発見した佐藤さんは、発見時の様子をこう語ります。
 佐藤さん「家の裏山の草刈りをしていて、山城の跡を発見したんです。それから山の中の探索を始めました。墳丘らしき盛り上がりや、石室らしきものを見つけて、専門家に聞いてみるとれっきとした古墳と言われ驚きました。それもひとつやふたつじゃない。みんなで山に入るとどんどん石室を見つけるようになったんです。

 これは只事ではないと、町に残る古い記録を探したり、地元の詳しい人に話を聞いてみたり…知れば知るほどに、だんだんとこの土地に隠れているものの大きさが尋常ではないのではないかと思いはじめました。
 まずは御領古墳の素晴らしさと楽しさを知ってもらうために道を整えて簡単なスタンプラリーを開催。これが好評で、会の活動が本格化していきました。今は高校生から40代後半の広い世代で活動を行っており、小学生のときからずっと継続して活動に参加している子もいます。
 古代の香りに魅了され、御領山の場所としての素晴らしさ、そして歴史をこの手で掘り起こすという感動をより多くの人と共有していきたいという想いが芽生えていき、「御領の古代ロマンを蘇らせる会」は人生をかけた大きなプロジェクトとなっていったのです…

 …と、こんな記載が(^.-)☆
 ふ~ん、そぅだったんですねぇ~これらの古墳群が発見されましたのは、ごく最近のようですネ\(^o^)/

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