2018年11月
松尾神社にと到着しますと、まずは眼が向きますのが神社に隣接のこのお宅(^.-)☆
いゃぁ、凄い状況ですねぇ~障子が破れたまま…と言う事は、ひょっとしたら空き家なのかも…
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井上記念館をスタートしますと、まずは「四ツ堂跡」に到着です。
そして、井出川沿いを下り「刀鍛冶場跡」へ。それから「松尾神社」へと向かいます(^-^)//"
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歴史民俗資料保存会sanのガイドで、いよいよ『史跡巡り』がスタートです(^.-)☆
集合場所が「井上記念館」ですから、まずは、この「井上記念館」の歴史から。『井上利八翁』は仲々の人物でしたようですネ(^-^)//"
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11/3(土)~11/4(日)の2日間は、『2018年水呑学区ふれあい文化祭』の開催でありました(^.-)☆
で、GONsanはいつものように「史跡巡り」に参加となりました。
史跡巡り参加者は、井上記念館にA.M.9:50に集合ですから、我が家を出まして水呑小学校に向かいましたのがA.M.9:45でありました。
丁度、定刻・9:50に井上記念館に到着しましたけど、史跡巡りスタートはA.M.10:00。
まだ暫く時間が有りますので、歴史民俗資料保存会sanが、先月の水呑八幡神社秋季例祭の写真を掲示しておられましたので、暫し拝見しながらのスタート時間待ちとなりました(^-^)//"
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今日・日曜日は、また畑の草取りをしなくては…と、朝食前に畑の一角で一服のGONsanです。
そぅそぅ、昨夜の消防車…この辺りに駐められ、この公園内を懐中電灯を手に3名で捜査。ですが、何にも異常無し。
通報を受けての出動でしたようですけど、まさかイタズラ通報でもないのでしょうけど…
ところで、皇帝ダリアも、ほぼ満開状態です(^_^)v天気が良ければ日差しにピンク色が映えるのですけど…
まだ蕾の部分もありますから、例年同様、12月の中旬頃まで楽しめますかも(^.-)☆
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水呑川沿いの紅葉のサクラ並木に眼を向けながら我が家近くまで戻って来まして、何気なく土手下に眼を移しますと、いつも気になりますのがこのお宅。
何年か前に更地でしたこの土地にセカンドハウス的な住居を建てられ、以降は庭を整備しておられました。
随分凝っておられまして、当初は、風流な方がお住まいなのだろうなぁ~と、こんな感じで時々画像に撮らせて頂いておりました(^-^)
が、最近、眼を向けます度に何となく気になりまして…
凝った造りの庭なのに、よくよく拝見しますと、ここ最近はあまり手入れもしておられませんように見えまして…
どちらか別な場所にお住まいで、この住居にはあまり訪れておられないのだろうか…
体調でも崩されて入院でもしておられるのだろぅか…
と、色々勝手に想像していますけど、どぅされましたのでしょうネ…我が家の比較的近くなのではありますけど、町内会の班が異なりますので詳細は分かりません。
お元気にお過ごしでしたら宜しいのですけど…
気になりながらもこの場所を通り過ぎますと、今度はコキア(ほうき草)の紅葉が眼を引きました(^.-)☆
鮮やかなピンク色ですから、ボケッと歩いておりましても眼が向きます(^_^)v
我が家にと戻って来まして、戴いたお土産を確認しておりますと、「完歩証」も入っておりました。
今回は初めて参加のGONsanでしたけど、来年も開催がありましたら、次回は嫁さんと参加してみたいと思います(^-^)//"
それなりに楽しい鞆までのウォーキングでありました(^-^)/
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浦歴史民俗資料館から出て来ますと、ソロソロ鞆の町から退散です。鞆鉄バスセンター方向に歩いて行きますと、坂本龍馬の隠れ部屋でありました桝屋清右衛門宅の前には5~6名の観光客の皆様が(^.-)☆
◆鞆の浦の観光スポット
龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅
1867(慶応3)年4月23日夜、坂本龍馬ら海援隊士が乗った「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」とが岡山県六島沖で衝突し、「いろは丸」が沈没するという事件が起きました。この『いろは丸事件』の際、鞆港を訪れた龍馬らが宿泊したのが『桝屋清右衛門宅』。当時、廻船問屋を営んでいた桝屋は土佐藩や薩摩藩、大洲藩などとも取引があったと思われ、それらの縁でいろは丸救出に関わったのです。伝説的な龍馬の隠れ部屋が、今では一般に公開されています。
◆朝鮮通信使にも利用された鞆の津の代表的町家
1764(宝暦14)年、11次朝鮮通信使が鞆を訪れた際に、対馬藩御船奉公輿添役や買物方三使附通詞が、この『桝屋清右衛門宅』に宿泊したと記録されています。当時の鞆の津は海運業で隆盛を極めていて、歓迎提灯の明かりで夜でも昼のようだったといいます。
◆商家の粋な見栄っ張り --- 前流れを長くして威容を示す
「桝屋清右衛門宅」の屋根に注目。外観の側面から見るとよくわかるのですが、屋根の前側(前流れ)を伸ばして、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけています。こういった手法は鞆では19世紀以降に流行。
商家の見栄っ張りな気風がよく現れています。大棟を後方にずらし大きく見せる商家の知恵ですね。
帰路は、鞆鉄バス利用です。
降車は我が家近くのバス停より一つ前の「福山高校前バス停」で下車し、ここからはまたノンビリと散策を兼ねましての歩行となりました。
水呑川沿いの町内の集会所裏の桜並木まで戻って来ますと、予期しました通りサクラの紅葉が大変キレイでありました(^_^)v
実は、この景観を画像に納めたくてバス停は一つ前となりました。
春も、そして秋も、楽しめます水呑川沿いの桜並木…大変キレイな紅葉でありました(^-^)//"
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つぃ先ほど、と言いましてもP.M.8:40頃でしたか…激しいサイレン音と共に消防車が急行です。
風呂上がりでしたけど、たまたま我が家の畑の片隅で夜空を眺めながら一服中のGONsanです。
次第にサイレン音も近付いて来まして、ふ~ん、田尻町か鞆町で火災の発生なのだろうか…と思っておりましたが、我が家方向に次第に接近ですからもぅビックリ(^-^;
我が家周辺の火災発生なのだろうか…と周辺を見廻しましても、そんな気配は全くありません。
そぅしましたら、いきなり消防車が現れまして我が家の横に停車ですから、一層ビックリのGONsanです。
来訪されましたのは福山南消防署の消防車。
我が家の真横に停車し、3人の隊員の方が飛び出し、市道を挟んで我が家に隣接の公園内に急行です。
そして、懐中電灯を照らし公園内を調査です。
暫く探索され何も無かったのでしょうか…消防車に戻って来られましたので、「何事なんですか?」と尋ねますと、『何か燃えている臭いがする…』との通報により出動されましたとか…
「私はここでタバコを吸いながら夜空を眺めておりましたけど、そんな臭いなんか少しもしませんでしたが…」とお伝えしますと、『あぁ、そうなんですか…一応、周辺を確認して帰ります…』との事でありました(^.-)☆
ふ~ん、そぅでありましたか(^-^)ですが、本当にビックリしましたネ。
サイレン音はするのですけど、走行の消防車を確認できません。そんなところに、いきなり消防車が姿を現し、GONsanのほぼ真ん前に停車ですから驚きましたネ(^-^;
消防車の横でGONsanは公園内を見つめておりましたけど、周辺の皆様はどなたも出ては来られません。野次馬はGONsanのみ。
ところで、今日は土曜日ですネ。
嫁さんは、明日は食推の皆様とグランドゴルフの試合に行く…と言っておりましたから、明日、どなたかから「昨夜、消防車が来てたけど、家でボヤでも有ったの?」程度は尋ねられますのかも…
挿入の画像は、隊員の方との会話を終え急いで嫁さんのスマホを借り撮りましたものなんです。
う~ん、残念(^-^;
嫁さんはいつもフラッシュ使用ですから、このフラッシュが邪魔でキレイな画像とはなりませんでしたネ(^-^;
『何を撮るの?』には、我が家の横に消防車が来ましたのにも気が付かない様子。
これでは、明日どなたかに尋ねられましても、「消防車には気付かなかったけど、主人がそんな事を言ってたような…」程度の返答となりますのでしょうねぇ~
スグ眼の前の消防車を画像に納めたかったのですけど、スマホを持ち出しましたときには、既に消防車は発進済み。
撮りますタイミングを失いまして、チト残念なGONsanなのでありました(^-^)//"
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浦歴史民俗資料館からの眺望に暫し眼を止めましてから、館内に入ってみます事に。幸いにこの日は「入館無料日」でありました。ラッキー\(^o^)/
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本日(勤労感謝の日)は出勤のGONsanです(^.-)☆
GONsanの職場の本社ビルは狭隘化に伴いまして、本年4月から隣接地に新社屋建設工事が進んでおりました。それから7ヶ月ばかり経ましてヤッと新社屋建設が竣工。
で、今日・明日の2日間で新社屋に引っ越しなんですけど、その為に本日は出勤のGONsan。
A.M.7:45頃に我が家を出ましたでしょうか…
この画像、その際の出勤時の一コマなんですけど、LINEを通じ届きましたのはA.M.7:48でありました。
本日は終日バタバタと過ごしておりまして、LINEに届きました画像を確認できましたのは、退社し我が家に帰って来ましたP.M.6:50でありました(^.-)☆
届きました画像を繁々と見つめておりましても、仲々場所が特定出来ません(^-^;
届けてくれましたのは、産休で休職中の同僚です。
ですけど、この方は確か平成台にお住まいです。それだけに、場所の特定が今一で…
暫し繁々と見つめておりまして、吉野家の看板、そして右前方の茶色の建物となりますと、水呑側から芦田川大橋を渡り少し下りました交差点としか心当たりはありません。
いゃぁ、それにしましても先行の「GONsanコペン号」を見事に隠し撮りですねぇ\(^o^)/
思わず笑ってしまいましたよ(^-^)
日常、決して運転マナーは良いとは言えませんGONsanですから、どんな状況で彼女の車の前に位置しましたのでしょうねぇ~
無理な追い越し、そしてウィンカー無しの割り込み…こんな場面も想定されますけど、う~ん、どんな状況でしたのでしょうねぇ~
それにしましても、画像の場所が芦田川大橋東詰を少し下りました交差点だとしましたら、何でまたこんな時間に、こんな場所に彼女が走行していたのだろう?…と不思議な気持ちも生じます。
画像を拝見し、早速、そのような疑問をLINEで問い合わせしてはおりますけど、未だ返信はありません。
この時間帯ですから主婦業でご多忙なのかも分かりません。
そのうち回答が届きますのでしょうけど、何にも気付かずに割り込みましたGONsan。
この画像、何度眼にしましても、思わず笑ってしまいますネ。
彼女のお父上は、確か県警の偉い方でしたような…とにかくこの画像、何度見つめ直しましても笑ってしまいます。
ごく普通に走行していますコペン号なのですけど、きっと、同僚と全く気付かず、ひどい割り込みをしましたのでしょうねぇ~いつもの事ですけど、う~ん、やっぱり苦笑のGONsanなのであります(^-^)//"
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医王寺のご本尊は「木造薬師如来立像」。これは広島県の重要文化財にも指定されています。6年に一度しかご開帳されない、ありがたいご本尊です。
山門には二体の金剛力士像が。なんとなく愛嬌を感じるお仁王さまが出迎えてくれます。
医王寺とお別れしますと、帰路は、この山門をくぐり平賀源内生祠方向へ。
◆平賀源内生祠
平賀源内は本草学を志し、薬草・動物・鉱物を研究しました。また、「風来山人」、「天竺浪人」と号し、戯作者として多くの作品を書き、そして俳諧者でもありました。
さらに、西洋画を指南したり、緑、紫、黄の彩色あでやかな源内焼きも考案しました。
1752(宝暦2)年、源内は長崎に遊学して蘭学の諸技術を学び、翌年、故郷の讃岐への帰途、鞆の津の溝川家所有地で陶土を発見し、陶器造りを伝授しました。
源内焼きはオランダ製の釉薬を使ったといわれています。溝川家では、陶器造りには手をつけず、鞆の津の伝統産業である鍛冶の「ホクボ」(火床)や壁土の原料として、その陶土を販売しました。平賀源内生祠の周辺には、今でも多量の土を採取した跡があります。
平賀源内生祠は、美麗な鞆港を見下ろせる医王寺参道の途中にあります。
割石を二つ重ねた石があり、3個の丸石を積み重ねた石塔と石造卒塔婆がたっています。1940(昭和1)年に広島県史跡に指定されました。
卒塔婆の正面には「南無妙法蓮華経平賀源内神儀」、右側には「慶応四戊辰七月廿八日溝川栄介茂助利三郎立之」と刻しています。
三重の石塔は三宝荒神といって、「土の神、かまどの神、平賀源内神」を祀ったものです。源内は自分の生前中に神として祀る(生祠)ように言い残したので、源内が寄寓していた溝川家は、1764(宝暦14)年に三宝荒神を祀りました。
医王寺入り口まで降りて来ますと、次は福山市鞆の浦歴史民俗資料館(鞆城跡)へ(^-^)
◆福山市鞆の浦歴史民俗資料館(鞆城跡)
『福山市鞆の浦歴史民俗資料館』は、福山市制70周年を記念して鞆城跡の高台に建設されました。館内では、歴史資料やお祭りなどの民俗資料を常設展示。特別展や企画展なども盛んに開かれています。また、「潮待ちからくり劇場」など、遊びながら“潮の干満”について学べたり、実際に使われていた古い漁船が展示されていたり、さらには観光鯛網や鞆・町並ひな祭りといった季節のイベントや鞆の浦名物・保命酒についてなど、鞆の浦ならではの歴史に触れることができます。
・かつての姿を偲ばせる、鞆城の石垣
鞆の浦歴史民俗資料館に上る途中で見られる石垣は、掘り出された鞆城時代の石材を使って復元されたものです。そのほかにも、斜面の草むらの中などに、当時を偲ばせる石垣の残骸が転がっていたりします。また、資料館前の広場からは、鞆湾が南に見渡せます。城よりの眺望、絶景です。
・宮城道雄は、今も鞆の浦から「春の海」を眺めている
鞆の浦民俗資料館の前庭には、作曲家・箏曲家として名高い宮城道雄の像があります。1929年に発表した「春の海」で世界的にも評価された宮城道雄ですが、この曲は、父親の故郷であり、自身が幼少期を過ごした鞆の浦を思って創作したと言われています。宮城道雄は8歳で失明しており、光を失う以前に見た鞆の浦の海が、永遠の原風景として心に刻み込まれていたのでしょう。
・鞆城
鞆城(ともじょう)は、備後国鞆(現在の広島県福山市鞆町後地)にあった日本の城である。
・概略
鞆は古代から潮待ちの港として栄え、軍事的にも枢要の地であった。そのため南北朝時代には港湾施設の近くに大可島城が築かれていたが、市街部に城は存在しなかった。なお、建武3年(1336年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中、この地で京の光厳天皇より新田義貞追討の院宣を受領しており、足利氏にとって縁起の良い土地であった。
鞆城の前身となるのが天文22年(1553年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた「鞆要害」である。鞆要害は尼子氏への抑えとして築かれたもので、その規模・構造はよく分っていないが、城域は発掘調査の結果などから概ね鞆の浦歴史民俗資料館一帯であったと推定されている。天正4年(1576年)には鞆要害に京都を追われた足利義昭が滞在し、毛利氏の庇護の下で「鞆幕府」とされた。このため鞆には足利氏の歴代の近臣である伊勢氏・上野氏・大館氏他多数の名門武家が集ったといわれる。
安土桃山時代になると福島正則が鞆要害の整備を始め、「鞆城」と呼ばれるようになった。鞆城は丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。築城は慶長14年(1609年)まで続けられたが、あまりに巨大な城郭のため徳川家康の嫌疑がかかり廃城とされ、福島氏の移封後は鞆奉行所が置かれた。
・歴史
鞆城築城以前には鞆市街に城はなく、南北朝時代には鞆の津(現在の鞆港)に隣接する島に築かれた大可島城がその前身といえる役割を果たしていた。康永元年(1342年)に燧灘で勃発した合戦では、鞆も戦場(鞆合戦)となり、大可島城に篭城していた南朝方の将兵達は北朝方の攻撃により全滅したという。また観応の擾乱では貞和5年(1349年)に足利直義派の足利直冬が中国探題としてこの城に滞在したが、幕府の討伐軍に攻められ九州に敗走した。
戦国時代になると備後地方は大内氏の勢力下となり、鞆の浦は天文13年(1544年)に海賊(村上水軍)の村上吉充に与えられた。鞆には吉充の弟である村上亮康が派遣され本拠は大可島城に置かれた。このため亮康は後に「鞆殿」と呼ばれた。
元亀4年(1573年)に織田信長によって京都を追われていた室町幕府最後の将軍足利義昭が毛利氏を頼って天正4年(1576年)から鞆に滞在しており(鞆幕府)、後に鞆城となる鞆要害が築かれ義昭の居館があったとされている。なお、義昭の警護は一乗山城の渡辺元と大可島城の村上亮康があたっていたという。
天正6年(1578年)になると毛利氏は信長と対峙するため鞆を本陣に定め、信長方の尼子氏を滅ぼした際には山中幸盛の首級が鞆に運ばれ義昭と毛利輝元が共に実見を行ったと伝えられる。義昭は6年間鞆に留まり、天正10年(1582年)に津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移ったといわれる。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏に替わり福島正則が備後国を領有すると城郭「鞆城」として大きく整備されることになった。この様子は慶長12年(1607年)に当地を訪問した朝鮮通信使の使節一行の日記に「山上」に新しく石城を築き、将来防禦(防御)する砦のようだが未完成である」との記述があり、当時まだ建設途上であった様子がうかがえる。城代には重臣の大崎玄蕃が置かれた。築城は慶長14年(1609年)まで9年余り続いていたが、徳川家康が鞆城の存在を知って立腹し、これを恐れた福島正則は築城を中止して完成していた施設も取り壊して家康に謝罪することになった。地元では元和元年(1615年)に発布された一国一城令によって取り壊されたと伝わっている。
天守などは破却されたが、後述のようにある程度残されていたといわれている。元和5年(1619年)に正則が広島城を幕府に無断で修理したとして、武家諸法度によって改易され、備後国の福島氏の支配は終焉を迎えた。
鞆城の跡地には西日本の長門毛利氏や筑前黒田氏などの外様大名に対する西国の鎮衛として徳川家康の従兄弟である水野勝成が備後福山10万石の領主として移封され、鞆城三の丸跡には鞆奉行所が置かれた。鞆奉行所には勝成の長男勝重(勝俊)(後の2代藩主)が居住し「鞆殿」と呼ばれた。また勝俊が藩主に就任以後は重臣が鞆奉行として配された。なお、江戸期の歴史書「水野記」の記述によれば、宝永8年(1711年)に大手門と矢倉屋敷が焼失したとあり、江戸時代の中ごろまでは元の鞆城の建築物が存置されていたようである。
また、一国一城令後に備後国で残されたのは鞆から北東約20kmに位置する神辺城であり、水野勝成も「神辺城主」
として移封されたが、西国の鎮衛の拠点として、一国一城令が徹底されていたこの時期としては異例の新規築城が認められ、元和6年(1620年)に福山城を築城し廃城になった。
…と、WEB上で検索致しますと、こんな「福山市鞆の浦歴史民俗資料館(鞆城跡)」であります(^-^)//"
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これは、10月に七五三詣りの際の、孫達の一コマなんです。いつもでしたら、嫁さんもGONsanも同行しお詣りするのですけど、今回は所用で残念ながら同行不可。
で、後日、届きましたのがこの画像。
弟の方は相変わらずですけど、姉の方は随分お姉ちゃんらしく育っていますから、何となく一安心。
ここ近年は、少々GONsanは心身共にお疲れ気味。
ですが、孫達の成長を眼にしますと、ホッとしますし心が癒やされます。
我が家の室内の壁面には、孫の描きました絵がべたべたとアチコチに貼ってあります(^-^)こんな絵に眼を向けておりますと、本当に癒やされますし元気も回復。
この子達が成人するまでは元気に生きていたい…こんな気持ちに駆られますけど、さて、どぅなんでしょうねぇ~
孫達が大人になります頃には、既にGONsanはこの世に存在してはいませんのかも分かりませんねぇ(^-^)//"
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それでは、そろそろ医王寺を退散です。最後に、今一度、常夜灯方向をパチリです(^.-)☆
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医王寺からの常夜灯方向の眺望…何度眼にしましてもイィものであります(^_^)v
◆医王寺(いおうじ)
平安時代、弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺。後山の中腹に建つことから、眺望の良さでも有名です。
境内からの眺めはもちろん、裏山の中腹にある「太子殿」からは、鞆の町と瀬戸内の景観を一望することができます。本尊である木造薬師如来像は、県の重要文化財に指定されています。
・医王寺 真言宗
桃林山慈眼院医王寺は平安時代の弘法大師の開基と伝えられる真言宗の寺院です。本尊は木造薬師如来立像で県の重要文化財に指定されています。
慶長年間(1600年)福島正則が藩主となり、鞆城代大崎玄藩がこれを再興しました。現存する鐘楼は1642年(寛永19年)福山藩主水野勝成の建立。
本堂は1685年(貞享2年)四代水野勝種の再建したものと伝えられています。
医王寺から15分ばかり登った所にある太子殿からの展望はすばらしいものです。1826年オランダの医師シーボルトはツツジや松の観察のため小径を登りました。
…と、こんな医王寺でありますが、次回訪れましたら、久し振りに太子殿まで登ってみましょうか(^-^)//"
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常夜灯周辺の景観を画像に納めますと、次は医王寺方向に(^-^)/
常夜灯前におられました観光客の皆様、いつの間にかGONsanが進みます方向には、どなたもおられなくなりました(^-^)
まぁその方がGONsanは落ち着くのであります(^_^)v
それにしましても、この日は絶好の行楽日和。暑くもなく冷たくもなく、素晴らしい最高の秋晴れでありました(^-^)//"
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圓福寺とお別れ致しますと、常夜灯方向へ(^.-)☆
途中、雁木の復元工事現場前を通過です。ふ~ん、工事はとっくに終わっているのかと思いましたら、まだ続行中なのですねぇ~予算の関係で段階を追って工事進捗と言ったところなのでしょうか…
常夜灯の前には、決して多くはありませんけど、それなりに観光客の方々が…
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圓福寺の裏手からの仙酔島・弁天島の景観は、何度、眼にしましてもイィものであります(^_^)v
この日もまたパチリとなりました(^.-)☆
境内から、今度は医王寺・常夜灯方向を眺望です。この景観も見慣れてはおりますけど、イィですねぇ~今から、常夜灯に向かってみたいと思います(^-^)//"
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ゴールに到着しますと受付が(^.-)☆
ここではまた、お土産を(^_^)v
そしておまけに、お楽しみクジ引きが\(^o^)/
何か当たりましたけど、何でしたか…確か、酒粕で作りましたお菓子でしたような(^-^)色々貰いましたから、覚えておりません(^-^;
後で確認致しましたら、完歩証も入っておりました。
ウォーキングがおわりますと、せっかく鞆を訪れましたから、今度は散策開始です。まずは、少しお腹が空きましたから、面前の弁天島を眺めながら給水ポイントで戴きましたパンでも囓ります事に。
いつもでしたら、渡船乗り場に停泊しました「平成いろは丸」を眺める事が出来ますのですけど、不運にも丁度、仙酔島に渡っていますから不在です。残念(^-^;
パンを食べ終えますと、それでは早速、散策開始です。
とりあえず、圓福寺に(大可島城跡)向かってみましょうか…
◆圓福寺
圓福寺の始まりは室町時代に遡ります。当時の圓福寺は「釈迦堂」といって、現在の沼名前神社の南、小松寺の東に位置していました。圓福寺と号したのは、1610年末頃(慶長年間末頃)、住職の快音によって大可島城の跡地に移転した後のことです。
美しい瀬戸内の島々や四国の讃岐山脈が眺望できる景観を有し、江戸時代には朝鮮通信使が来日した際の上官の常宿とされました。
「山号扁額」は1711(正徳元)年の朝鮮通信使の写字官・花菴が大書した圓福寺の山号を木片扁額にしたものです。幕末のいろは丸沈没事件の談判では紀州藩の宿舎として使用されました。
大可島は1600(慶長5)年頃に鞆城が築かれたときに陸続きとなるまでは独立した島でした。紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判る当地は海上交通の要所とされ、南北朝時代に大可島城が築城されました。
1342(康永元)年、城主の桑原重信一族が足利氏に敗北した後は村上水軍の手に渡り、戦国時代には毛利元就の水軍の軍事拠点になりました。桑原一族の墓所は戦乱の名残を今に留めています。
◇過ぎ去りし日の兵たちは海上に何を夢見たのだろうか
--- 儒学者や風流人が愛した座敷、夾明楼(きょうめいろう) ---
圓福寺の座敷からの眺めは格別です。江戸時代後期、この景色に感嘆した1人の儒者が座敷を夾明楼(きょうめいろう)と命名しました。
『日本外史』の著者・頼山陽の叔父である頼杏坪です。頼杏坪は農民の利益になるような政治を目指して藩に進言し、役人の不正を正すなど目覚ましい功績を上げた人物でした。彼が愛した夾明楼は、江戸時代を通して漢詩会や歌会、句会が催され、文化人の感興をそそりました。
◆夾明楼(きょうめいろう)
大可島城跡は、毛利水軍(元就時代)の軍事拠点であり、現在でも当時の「舟隠場」が残されています。
同史跡内にあります円福寺の座敷「夾明楼」(きょうめいろう)は有料で公開されており、紀伊水道と豊後水道からの潮流が一目で判るなど、水軍根拠地の意味を確認できます。
慶長年間(1600)年頃陸続きとなり、現在ある円福寺は真言宗でこの時代に建てられました。
円福寺の夾明楼という呼び名は頼山陽の叔父 頼杏坪が美しい景色に感動して銘々したもの。 江戸時代よりここで句会が盛んに開かれています。
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左手に弁天島を、そして釣り人の皆様を眺めながらゴール地点に到着のGONsanです(^.-)☆
福山市営渡船乗り場がゴールでありました(^_^)v
GONsanばかりでなく参加者の皆様の大半が熟知されました竹ヶ端運動公園~鞆の浦間のウォーキングコースでありましたけど、車で走行の見慣れました景観とはまた異なりまして、歩きながらの景観は実に新鮮(^_^)v
それなりに楽しいウォーキングでありました(^-^)//"
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鞆の街中にと入って来、弁天島も間近に迫って来まして、いよいよゴールも目前です(^.-)☆
眼に入ります景観を凡て画像に…とカメラを構えますと、実にタイムリーにボンネットバスが正面方向から\(^o^)/
う~ん、久し振りにボンネットバスと遭遇です(^_^)v
このボンネットバスは、鞆の浦~福山駅間をノンストップで直行ですから、あまり乗客はおられないかも…と視線を向けますと、案の定、お独りのみ乗客のお姿が…
GONsanのご幼少時代に見慣れた鞆鉄のバス。色、スタイル…実に懐かしく感じます。
とにかく、タイミング良く久し振りにボンネットバスを捉えます事が出来まして、実にラッキーでありました(^-^)//"
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GONsanの町内のお隣りの浜自治会・ゴミステーションの掲示板に貼ってありましたポスターを撮りましたものなんですけど、ふ~ん、この日曜日・11/18の開催ですか(^.-)☆
早や今回で第6回目の開催となります『鞆の浦駅伝大会』。
何にも予定がありませんと、大概、水呑と田尻町の境目辺りの佐須良付近で観戦・応援しておりますけど、今回もまた観戦しなくては(^.-)☆
大変ローカルな駅伝大会なんですけど、いつの日か、もっと大きな大会になれば…と応援していますGONsanです。
そして、今一つは、先週、中国新聞sanの朝刊に掲載の『第38回ふくやまマラソン』開催のご案内。
まだ来年3月の大会なんですけど、いよいよ駅伝・マラソンシーズンへと突入ですねぇ~
今回の「ふくやまマラソン」のゲストランナーは富士通の柏原竜二さん。
◆柏原竜二
柏原 竜二(かしわばら りゅうじ、1989年7月13日 - )は日本の元陸上競技選手。専門は長距離走。福島県いわき市出身。愛称は「かっしー」。
福島県立いわき総合高等学校、東洋大学経済学部卒業。身長174cm、体重55kg。
大学時代に世界ジュニア陸上競技選手権大会10,000m7位、ユニバーシアード10,000m8位など日本代表として活躍し、箱根駅伝では往路5区山上りで4年連続で区間賞を獲り3回区間記録を更新した。
◆経歴
・高校時代まで
2002年本格的に陸上競技を始め、3年では全国中学校選手権に3,000mで出場する。
2005年、福島県立いわき総合高等学校に進学。インターハイ、国体、全国高校駅伝のいずれにも出場経験がなかった。
貧血体質が原因で競技途中に失速することが多かったが薬の服用と食生活の改善によりこれを克服しており、高校3年生の夏以降競技成績が躍進し始めた。7月の福島県総体5,000mで2位、東北総体5,000mでは3位に入賞。12月1日の日体大長距離記録会5,000mでは、かつて今井正人が記録した福島県高校記録の14分07秒44を塗り替える14分01秒50をマークした。2008年の全国都道府県対抗男子駅伝競走大会(ひろしま男子駅伝)では1区区間賞を獲得した。
・大学時代
高校卒業後は就職するつもりであったが、高校2年時から柏原に注目していたという東洋大学スカウトの佐藤尚の誘いで、2008年に東洋大学に進学した。
・4年次
2012年1月2日、第88回箱根駅伝では4年連続4回目の5区に出走。初めて首位で襷を受け取り、その後も独走。2010年に自身が作った区間記録1時間17分8秒を29秒上回る1時間16分39秒で走り、4年連続往路優勝で、前年記録した往路大会記録も更に更新した。
4年連続の区間賞は史上8人目だが、同一区間では大久保初男(5区、第50回-第53回)以来35年ぶり2人目となる。
また、これにより在学中4年間の記録で5区区間記録の1~4位を独占することとなった。翌日の1月3日も東洋大学は箱根駅伝総合優勝を大会新記録で果たし、2年ぶり3回目の「金栗四三杯」を受賞した。2位の早稲田大学には5分7秒の大差をつけ、更に20大学中13大学が翌日の繰上げスタートとなった。
2位と5分以上の大差がついたのは24年ぶりであり、また、繰り上げスタートが10大学以上になったのは18年ぶりである。
第90回箱根駅伝後の2014年2月7日をもって従来の5区及び6区の通過点となっていた函嶺洞門が通行禁止となり、第91回大会(2015年)から函嶺洞門バイパスへとコースが変更となり、距離も20メートル延長された。これに伴い、柏原の記録を含む第90回大会以前の5区・6区の区間記録と往路・復路・総合記録は参考記録となった。なお、2015年・第91回大会の新5区では青山学院大学の神野大地が、1時間16分15秒の驚異的なタイムを達成して総合優勝にも貢献し、のちに今井・柏原に続いて「三代目・山の神」とも称された。
・社会人入り 現役引退後
2012年4月1日に富士通に入社し同陸上競技部に入部。
2015年9月、シドニーマラソンにて初マラソン。
しかし、アキレス腱や仙腸関節など相次ぐ故障に悩まされ、2017年4月3日に27歳で現役引退を発表(富士通陸上競技部は同年3月31日付で退部)。富士通は退社せず、社業に専念する。
引き続き陸上教室やゲストランナーなども、依頼があれば可能な限り対応する。また、これと平行して強化運動部を知る一環でアメリカンフットボールチーム「富士通フロンティアーズ」のマネージャーに就任している。
…と、こんな富士通の柏原竜二さん。
かっての名選手を、是非とも「ふくやまマラソン」で直接応援してみたい気持ちに駆られますネ(^-^)//"
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11/10(土)~11/11(日)の2日間、嫁さんは福井県若狭町の中学校同窓会に出席のため里帰り。
皆さん、中学を卒業し50余年ばかり経ておられますから、さすがにお顔とお名前が一致しません方は多かったようです(^.-)☆
参加者も少なかったようですけど、会話が弾んで行きますと遠い昔の若かりし頃の想い出が蘇り、時間の経過と共に、中学生の良き時代にとタイムスリップして行きましたとか(^_^)v
若狭町には、もぅ随分前から『河内川ダム』の建設が進んでおりまして、たまたまこの同窓会に、数年前まで河内川ダム建設の責任者を務めておられました方が参加。
で、翌日・日曜日には、この方の案内で河内川ダム建設現場に出掛けましたとか…
このダム建設現場には、もぅ7~8年前になりますでしょうか…
GONsanも出掛けた事があるのですけど、この時には工事こそ進んでおりましたけど、まだダムらしさは微塵も感じられませんでした。が、今回のこの画像を眼にしておりますと、随分ダムらしくなって来ましたネ(^.-)☆
それにしましても、ダム建設は仲々大変な工事ではあります。
嫁さんの実家近くには、このダム建設で移住を余儀なくされました方々が移ってこられ、一つの集落を形成しておられます。
公共事業への協力とは言いましても、住み慣れた先祖代々の土地を離れます事は、さぞご無念なお気持ちだったものとご推察致します。
移住されましてから、既に20年近く経ていますようにも感じますけど…
とにかくダム建設は大きな事業のようですネ…
今度、GONsanが若狭に出掛けます時には、既にダムも完成し水も貯え、この景観は一変しています事でしょうねぇ(^-^)//"
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水呑から田尻町にと入り、最初のコンビニ「LAWSON」の駐車場の一角に、まず最初の給水ポイントが(^.-)☆
ここでは、飲み物とお土産が(^_^)v
ふ~ん、鞆のゴールまでの何ヶ所かにこぅした給水ポイントが用意され、お土産を戴けますのですねぇ~
この「ふれあいウォーキング」の参加費、1,200円は結構高いなと感じていたのですけど、飲み物・お土産を戴くのですから参加費の高さも納得のGONsanなのでありました(^-^)
給水ポイントを過ぎ暫く進みますと、海岸沿いに。
穏やかな瀬戸内の景観がまた実に新鮮です。通常は車で走行し車窓から臨みます瀬戸の海。ノンビリと歩きながらの景観はまた格別です。
前方には、仙酔島・弁天島も視界に入ります。天気は良いし、穏やかな瀬戸の海…こんな景観にカメラを向けます方は、GONsanばかりではありませんでしたネ(^.-)☆
鞆の鉄工団地にヤッて来ますと、ここでも給水ポイントが\(^o^)/
またまたお土産をゲットです。
ここからは鉄工団地の中を抜け、また海岸沿いに。護岸沿いに鞆の浦にと進行です(^-^)//"
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最後の競技の「男子年齢別リレー」では、残念ながら中村町内は最下位でありましたけど、選手の皆様、大変検討されました。誠にお疲れ様でございました(^-^)/
このまま表彰式までおれば良かったのでしょうけど、GONsanはこの辺で退散です。
後片付けもしませんで退散は気が引けますのですけど、今回の運動会では身体が何故か気怠くて(^-^;
競技の様子を楽しみながら、この様子を結構画像にも納めましたけど、ズッと立ったままでいますのがしんどくて(^-^;
…と言う訳で、男子年齢別リレーが終了と同時に退散となりました。ですから、中村町内がAブロックの何位となりましたのかは分かりません。嫁さんは最後までいますのでしょうから、後で確認しようとは思いますが(^-^)
選手の皆様、そして、運動会のお世話をされました皆様、大変お疲れ様でございました(^-^)//"
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竹ヶ端運動公園を出ますと、まずは県道・福山-鞆線へ。
我が町内の見慣れた道ですけど、こぅして歩きます機会はありません。それだけに見慣れました景観にも新鮮な気持ちを抱きます。
歩きながら、周辺の景観を見廻しながら、つぃつぃカメラを向けてしまいます(^.-)☆
そぅしていますと、いつの間にか皆さんに遅れを(^-^;
それで追いつく為に少し小走りに(^-^)
これではウォーキングと言うよりも、ジョギングになってしまいそうですねぇ~
とにかく、車で走行時のごく普通の当たり前の景観が、実に新鮮にGONsanの眼には入ってしまいます(^-^)//"
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我が家の畑の一角に植えています皇帝ダリア。12月が近付きまして何気なく眼を向けますと、いつの間にか咲いています皇帝ダリア。
今日・日曜日の午前中、畑で一服しながら、真っ青な気持ちのいぃ空だなぁ~と上空を見上げておりまして、咲き始めの皇帝ダリアに気付きましたGONsanです。
毎年見慣れた皇帝ダリアなんですけど、咲き始めを眼にしましたのは初めてですかも(^_^)v
この皇帝ダリアの花が落ちます年末頃に根元から切りますけど、温かい春が訪れますと、また結構な高さにと成長しまして、花を咲かしますのがこの頃から12月下旬頃までと思います。
背が高いだけに、毎年、台風がヤッて来ますと傾いたり倒れたり、その補修で面倒な時もあるのですけど、今年は台風の影響で傾いたり倒れたりはありませんでした。
こんな事も珍しいのではありますが…
とにかく、今から12月に向かって大きな花を付けてくれるものと思います。
大きな花で楽しませてくれます期間は1ヶ月程度と短いのではありますが、成長しました花を観ておりますと『皇帝ダリア』の名前には、何となく納得してしまいますGONsanなのであります(^-^)//"
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燃費の悪い軽四(7.5km/L)を愛用しておりますGONsanですから、2週間に一度、土曜日に給油で職場近くのガソリンスタンドに出掛けます。
で、11/27(土)にクジラのマークのウツミ石油sanに出掛けますと大渋滞(^-^;
店舗改装で数ヶ月休業しておりまして、この日は再開後のグラントオープン日。何にも考えずに「ヤッと再開で嬉しい(^_^)v」との想いで出掛けたのは良かったのですけど、この日から暫く再開イベントが続き、これを目当てに給油されます方の多い事。
このまま渋滞の中で順番待ちをしようか…諦めようか…と暫し思案。
結局、この日は断念で渋滞の列を抜け、我が家近くのガソリンスタンドで給油となりました(^-^)
あれから2週間経まして、再度、ウツミ石油sanに出掛けますと、んっ!?また渋滞…かと思いましたら、渋滞ではありますが少しずつ車は流れておりました。
で、今回は我慢しまして流れに任せて順番待ち。
思ったほどは待つ事もなくどぅにかガソリンスタンドに。
う~ん、再開後はセルフスタンドに変わっておりましたネ。
我が家近くの給油所もセルフですから要領は分かっておりますけど、一応、説明を受けます事に(^.-)☆
そして、給油完了\(^o^)/
いゃぁ、実に久し振りの職場近くの給油所での給油が再開。何となく嬉しいですねぇ~
それに、まだイベント期間中ですから、粗品も頂けましたし(^-^)
豪華賞品が当たります「宝くじキャンペーン!」の方は『宝くじはなくなり次第終了』でありました。う~ん、残念(^-^;
ですが、予期しておりませんでしたBOXティッシュ5箱は戴けましたのでラッキー\(^o^)/嫁さんが喜ぶものと思います。
職場に近くて重宝していますガソリンスタンドで、単価的には福山市内で一番安いウツミ石油san。
再開までの数ヶ月…いゃぁ、実に待ち遠しいものでありました。
ですが、セルフに生まれ変わりですから、これがジジィのGONsanには億劫かも(^-^;
運転席に座ったまま窓ガラスも拭いて貰えます従来のサービスは、結構、捨てがたい一面もありますので(^-^)//"
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開会までの待ち時間を利用しまして水呑川を覗き込みますと、2匹の鯉がノンビリと…付かず離れず適度な距離で(^.-)☆
暫く陸上競技場周辺の景観に眼を向けておりましたら、「ふれあいウォーキングに参加の皆様、お集まり下さい」と招集です(^-^)
フィールドに向かいます際に、「今日の参加者は何人ですか?」と受付で尋ねますと、「募集定員が200名で申込者が102名。そして、本日の参加者は82名です…」との事でありました。
確か、申込時点で参加費を納入しなければなりませんでしたけど、20名の皆様は参加費の返戻は無しですねぇ~
何かご事情でも生じて参加不能となられましたのかも…
定刻に、まずは開会式。そして、大会関係者のご挨拶、注意事項と続きます。
この間に西方の沼南アルプスに眼を向けますと、本日の暑さを予想されますような雲が(^.-)☆
ご挨拶、諸注意の伝達が終わりますと、柔軟体操です。
たかが7km程度のウォーキングとは言いましても、GONsanのようなジジィにはどんなアクシデントが生じますか分かりませんので、入念にしておかなくては(^-^)
それでは今からウォーキングのスタートです。
時間を確認しますと、A.M.10:19でありました(^-^)//"
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墓地から自宅にと戻りますと、まずは朝食。そして暫し朝刊に眼を通しながらノンビリと(^-^)
ですが、時間はアッと言う間に経過です。
ハッと時間を確認しますと、既にA.M.9:15でありました。そろそろ竹ヶ端運動公園にと出掛けなくては…と、我が家を出ましたのが9:30。テクテク歩いての運動公園行きとなりました(^.-)☆
テニスコート横のウォーキングロードにヤッて来ますと、テニスを楽しんでおられます方…散策しておられます方…と、穏やかな温かい日差しの下で、それぞれ祝日を過ごしておられます。
こんな方々を横目に通り過ぎようとしています際に眼に入りましたのが、ジュウガツザクラ(^_^)v
決して華やかではありませんけど、それなりに眼を惹きますジュウガツザクラ…
ゴンchanが存命中には、日曜・祝日には散歩で頻繁に訪れておりました竹ヶ端運動公園なのですけど、ここ最近は、とんとご無沙汰です。
何となく懐かしい気持ちにも…
運動公園内の陸上競技場へ到着が、A.M.9:50。
既に50~60人ばかりの参加者が集まっておられました。
早速、GONsanも受付を済ませ、10:00まで暫し待機となりました(^-^)//"
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11/3(土)は、「第3回竹ヶ端運動公園ふれあいウォーキングin鞆の浦」の開催日でありました(^.-)☆
が、もぅ随分前に申し込みしておりまして、スッカリ忘れておりましたGONsanです。
A.M.6:20に起床し墓地の草取りに出掛けます準備をしておりますと、「今日は、ウォーキングに出掛けるとかなんとか言ってなかった?」の嫁さんの声に「んっ!?」のGONsanです。
そぅでした、本日はウォーキングへの参加申込みをしておりました。
嫁さんと一緒に参加を…と思っていたのですけど、嫁さんは別の行事に参加でGONsanのみ申し込みしておりましたから、う~ん、忘れておりましたネ(^-^;
ですが、受付開始がA.M.9:30からで、10:00に開始。時間的には充分間に合います。
とりあえず、墓地の草取りにお寺行きとなりました。
何となく清々しい秋晴れで、日中の気温は随分上がりそうな感じでしたけど、絶好のウォーキング日和…と言ったところでしょうか(^.-)☆
墓地に到着しますと、案の定、少しばかり汗ばんでしまいました(^-^)
幸いに、あまり草も生えてはおりませんから、サッサと終了。後は、いつものように墓地から我が家方向を眺望です。
周辺を見廻しておりますと、スグ眼の前を飛行のカラス君と眼があってしまいました(^-^)
何処に行くのだろう?…と視線を向けておりますと、お寺の屋根に。
此処で仲間と待ち合わせでもしていますのでしょうか?…アッチを向いたりコッチを見たりで、実に落ち着かないカラス君。ついでに、このカラス君もパチリです(^_^)v
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・名前 GONsan
・年齢 大人
・性別 男子
・地域 広島県福山市
・星座 牡牛座
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↓ 何となく笑えます(^.-)☆
↓ 落書きですけど、お上手ですネ(^_^)v
↓ 今は亡きGON子です