GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆

2018年05月

5/12(土)~5/13(日)の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(4)

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 続いてお隣りの『明王殿』へ。

 ◆明王殿

 明王殿は、昭和22年(1947)の火災により仮本堂であった方丈殿が焼失した際に、明治15年に焼失した本堂の再建のため、京都四条寺町にある浄土宗の名刹、大雲院の本堂の譲渡を受け、現在の講堂のある場所に移築した建物です。
 その後、平成4年(1992)に、講堂再建にともなって現在の場所に移築されております。ご本尊は不動明王様で、明王殿は不動堂とも呼ばれます。

 …と、こんな明王殿であります。
 で、早速、中に入りまして不動明王様をパチリです(^-^)/"

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日本全国通過旅 (http://gon.mbsrv.net/)

5/12(土)~5/13(日)の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(3)

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 境内散策スタートで、正面の金堂に進みながら左手に眼を向けますと眼に入りましたのが『名勝庭園』の案内板が…
 なら、まずはこちらから…と進んで行きますと、「こちらは拝観料が必要です」と拝観受付所からの声(^-^)
 う~ん、残念、有料でありましたか…では、Uターンです(^.-)☆

 ◆名勝庭園

 「利休好みの庭」と伝えられるこの庭園は、豊臣秀吉公が建立した祥雲禅寺(しょううんぜんじ・智積院の前身のお寺)時代に原形が造られました。
 その後、智積院になってからは、第七世運敞(うんしょう)僧正が修復し、東山随一の庭と言われるようになります。
 築山・泉水庭の先駆をなした貴重な遺産といわれ、中国の盧山をかたどって土地の高低を利用して築山を造り、その前面に池を掘るとともに、山の中腹や山裾に石組みを配して変化を付けています。
 国宝の障壁画がかつて飾られていた大書院はこの庭園に面して建ち、平安期の寝殿造りの釣殿のように、庭園の池が書院の縁の下に入り込んでいます。
 その大書院より眺めることができる庭園は、四季折々の美しさで私たちの目と心を楽しませてくれますが、特に、ツツジの花の咲く5月下旬から6月下旬にかけて一段と華やぎ、毎年多くの観光客が訪れます。

 引き続き金堂方向に進んでいきますと、右手に『玄宥僧正』の像が…

 ◆玄宥僧正

 玄宥(げんゆう)享禄2年(1529年)-慶長10年10月4日(1605年11月14日)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての真言宗の僧。

 ・経歴

 下野国の吹上城主膝付又太郎の子。18歳の頃より根来山で修学し、南都・園城寺・比叡山で諸宗の教学を学んだ。その頃の根来山は6千人ほどの学僧を擁する巨大な教育機関となって栄えていた。天正5年(1577年)根来山に3千近くあった塔頭の一つ智積院に住し、推挙され小池坊専誉とともに根来山の能化職に就く。

 しかし、根来寺は教育機関であるとともに大量の鉄砲や多くの僧兵を抱えており巨大な軍事力を有していたことや、地域支配と深く結びついていた宗教勢力であることから天正13年(1585年)豊臣秀吉による紀州征伐が起こり、玄宥は高野山に逃れた。以後、玄宥は、真言宗系の京都の高雄山神護寺や醍醐寺三宝院などを転々とした。
 慶長5年(1600年)秀吉亡き後、再興の訴願を続けていた玄宥に徳川家康から智積院再興の許可が出され、翌年慶長6年(1601年)に京都東山の豊国神社境内の坊舎と土地を寄進され、智積院は再興された。さらに翌年慶長7年(1602年)には二百石の寄進を受ける。
 玄宥は、坊舎のある「上の寺」と講堂のある「下の寺」を建立し、寺名を「五百佛山根来寺智積院(いおぶさんねごろじちしゃくいん)」と号し、智積院再興第一世となった。再興から4年後の慶長10年(1605年)11月14日、77歳で没した。

 うん、うん、大変ご苦労の上、智積院を再興されましたようですネ。
 仲々端正なお顔立ちで、また聡明さが伺えますイィお顔でありました(^_^)v
 それから、金堂に参拝です。

 ◆金堂

 総本山智積院の中心的な建物であり、金堂と呼ばれています。宗祖弘法大師のご生誕千二百年の記念事業として昭和50年に建設されました。堂内には昭和の祈りを込めた本尊大日如来の尊像が安置されています。
 毎朝の勤行、総本山としての多くの法要はここで厳修されます。
 以前の金堂は、元禄14年(1701)3月智積院第10世専戒僧正が発願し、桂昌院(徳川5代将軍綱吉の生母)より与えられた金千両を基に学侶からの寄付金を資金として、宝永2年(1705)春に建立されました。
 しかし、明治15年(1882)に火災により焼失しました。

 …と、こんな金堂のようであります。
 本尊大日如来の尊像を何枚かパチリとなりました(^-^)//"

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5/12(土)~5/13(日)の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(2)

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 吉備SAを出ますと、次のトイレ休憩は三木SA。そして、三木SAを出発しますと、いつの間にか眠ってしまいましたGONsanです。
 ハッと気が付きまして眼を醒ませますと、既に京都に到着ですネ。桂川PAでトイレ休憩でありました(^.-)☆

 京都南ICで名神高速道とはお別れで、一路、昼食場所であります智積院一休庵にと向かいます。
 行程表では智積院到着はP.M.0:45でありましたが、智積院到着はA.M.11:58。昼食には実にタイムリーな到着となりました。

 ◆宿坊 智積院会館

 「宿坊」はお寺にある宿です。どなたでもご利用できます。また昔のような相部屋もありませんので、個室でお寛ぎいただけます。
 宿坊の特色は施設や食事がシンプルであることです。シンプルな一夜をお過ごしになって、少しだけ日頃の暮らしを振り返ってみませんか。

 ◆智積院

 智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派総本山の寺院である。山号を五百佛山(いおぶさん)、寺号を根来寺(ねごろじ)という。本尊は金剛界大日如来、開基は玄宥である。智山派の大本山寺院としては、千葉県成田市の成田山新勝寺(成田不動)、神奈川県川崎市の川崎大師平間寺(初詣の人出で例年日本一を争う)及び東京都八王子市の高尾山薬王院がある。寺紋は桔梗紋。

 ・歴史

 智積院の歴史は複雑で、紀州にあった大伝法院と、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松のために建てた祥雲寺という2つの寺が関係している。
 智積院は、もともと紀州根来山(ねごろさん、現在の和歌山県岩出市)大伝法院(根来寺)の塔頭であった。大伝法院は真言宗の僧覚鑁が大治5年(1130年)、高野山に創建した寺院だが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)、大伝法院を根来山に移して新義真言宗を打ち立てた。智積院は南北朝時代、この大伝法院の塔頭として、真憲坊長盛という僧が建立したもので、根来山内の学問所であった。

 近世に入って、根来山大伝法院は豊臣秀吉と対立し、天正13年(1585年)の根来攻めで、全山炎上した。当時の根来山には2,000もの堂舎があったという。当時、智積院の住職であった玄宥は、根来攻めの始まる前に弟子たちを引きつれて寺を出、高野山に逃れた。玄宥は、新義真言宗の法灯を守るため智積院の再興を志したが、念願がかなわないまま十数年が過ぎた。
 関ヶ原の戦いで徳川家康方が勝利した翌年の慶長6年(1601年)、家康は東山の豊国神社(豊臣秀吉が死後「豊国大明神」として祀られた神社)の付属寺院の土地建物を玄宥に与え、智積院はようやく復興した。さらに、三代目住職日誉の代、元和元年(1615年)に豊臣氏が滅び、隣接地にあった豊臣家ゆかりの禅寺・祥雲寺の寺地を与えられてさらに規模を拡大し、山号を現在も根来に名を残す山「五百佛山」、復興後の智積院の寺号を「根来寺」とした。

 祥雲寺は、豊臣秀吉が、3歳で死去した愛児鶴松(棄丸)の菩提のため、天正19年(1591年)、妙心寺の僧・南化玄興を開山に招いて建立した寺であった。現在、智積院の所蔵で国宝に指定されている長谷川等伯一派の障壁画は、この祥雲寺の客殿を飾っていたものであった。
 この客殿は天和2年(1682年)の火災で全焼しているが、障壁画は大部分が助け出され、現存している。現存の障壁画の一部に不自然な継ぎ目があるのは、火災から救出されて残った画面を継ぎ合わせたためと推定されている。
 近代に入って1947年にも火災があり、当時国宝に指定されていた宸殿の障壁画のうち16面が焼失した。この時焼けた講堂は1995年に再建された。講堂再建に先だって、1992年に発掘調査が実施されたが、その結果、祥雲寺客殿の遺構が検出され、日本でも最大規模の壮大な客殿建築であったことがあらためて裏付けられた。

 ・伽藍

 東大路通りと七条通りのT字路に面して総門(東福門院の旧殿の門を移築したもの)が建ち、その先には講堂(平成7年、1995年、300年ぶりに再建)、大書院、宸殿などが建つ。講堂には2008年に、「日本の春夏秋冬」を題材にした田淵俊夫の襖絵(墨絵)60点が奉納されている。また、大書院に面した庭園は千利休好みと言われ、国の名勝に指定されている。中国の廬山を模して造られていて、石橋より奥は禅寺・祥雲寺の時代に、滝の落ちる正面は江戸時代に修築されたものとされる。
 境内奥には金堂(本尊金剛界大日如来、地下に胎蔵界大日如来)、明王殿(大雲院本堂を移築したもの、本尊不動明王)、大師堂(1789年築、空海を祀る)、密厳堂(1667年築、新義真言宗の祖・覚鑁を祀る)などが建つ。
 他に収蔵庫(国宝障壁画を収蔵)、智積院会館(宿坊)などがある。

 …と、こんな智積院でありますけど、智積院一休庵での昼食は、確かにシンプルではありますけど仲々美味しく戴けました(^_^)v
 昼食を終えますと、早速、境内を散策となりました(^-^)//"

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5/12(土)~5/13(日)の「某協会福山支部」san主催の京都研修旅行(^.-)☆(1)

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 5/12(土)~5/13(日)の2日間は、某協会福山支部san主催の「京都研修旅行」のGONsanも参加となりました(^.-)☆
 20名程度の参加者で大型観光バスでの京都行きですから、車内はユッタリとしています。
 ですが、GONsanの歳となりますと、飲めばスグにトイレ休憩が待ち遠しくなってしまいます(^-^)

 で、福山を出ましてまず最初のトイレ休憩が吉備SAでありました。
 そこでとりあえず小休憩。
 何気なく周辺を見廻しておりますと、こんな方が…
 昔はこんな方々を「ヒッチハイク」と言っておりましたけど、現在は何と言うのでしょうねぇ~確か、添乗員さんが、今は「ボードハック」と(^-^)

 ◆ボードハック(ボードに目的地を記入して掲げる)

 ボード、スケッチブックなどに目的地や目的地より手前の有名な地名を記入して、走っている車を停めます。
 ドライバーにとっては、ヒッチハイクをしている人が道路脇に立っているのが視界に入るので発見しやすく、どこまで行きたいのかも分かりやすいため、初心者にはオススメの一番手っ取り早い方法だと言えます。
 ボードを書くにあたってのポイントをご紹介します。

 ①太くて濃い字で書く(細くて筆圧の弱い字では、スピードのある車には何も見えていません)
 ②メッセージなどを添えてみる(「途中の○○まででも!」など)
 ③印象の良い顔文字やシールを付け加えてみる
 ④綺麗で大きく見やすい字で!(何より一番大事なのはコレ)

 地名は、分かりやすいものにしましょう。「東京」に行きたいのならば、そのまま「東京」と書くのではなく、「新宿」や「渋谷」などの方が分かりやすいですよね。
 そして、車に止まってもらうために有効なコツは、いきなり最終地点の目的地を書かないこと。
 例えば、「名古屋」が最終目的地だとしましょう。ここで「名古屋」と書いてしまうと、名古屋まで行く車と遭遇する確率だけでもぐっと下がってしまいます。
 名古屋方面の近場の都市などを細かく切り分けて目的地に設定し、少しずつ進んでいくのがスムーズなヒッチハイクの鉄則になります。

 …と、WEB上で検索致しますと、こんな記載がありました(^_^)v
 ふ~ん、最近は「ボードハック」と言うようですねぇ(^-^)//"

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夕方近く所用で通りましたら、こんな光景に…

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 夕方近くの何時頃でしたか…所用で車で通りましたらこんな光景に遭遇です。
 JR東福山駅周辺では、車の横転事故が結構多いのですけど、この日はこんな事故の発生が…

 う~ん、どぅなさったのでしょうねぇ~市道の右側部分の側溝に軽四がはまっていると言うか、脱輪の状況でありました。
 相手車が見当たりませんから独り相撲でしたのかも…
 それにしましても、どぅしたらこんな状況になりますのでしょうねぇ~

 最初から右側走行をしておられた訳でもないでしょうし、飲酒運転でもなさそうですし…
 GONsanが勝手に想像してみますと、国道2号線から走行して来られましたこの軽四が、左折される際にスピードの出し過ぎで曲がりきれずに側溝に脱輪されましたのかも…
 この市道のこの場所は、GONsanも日常よく走行します。
 ですが、この場所での自動車事故は今まで一度もありませんでしたような…それだけに、この光景は大変不思議に感じられてしまいます。

 車を運転しておられました方には誠にお気の毒ですけど、どぅしたらこんな感じで脱輪に至りますのでしょうねぇ~
 とにかく不思議な光景でありました(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(20)

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 今回の散策のスタート地点であります「かもがた町家公園」へと戻って来まして、またこの公園内を少し散策。
 この公園内の施設としましては、

 ・伝承館
 江戸前期の町家を細部にわたり修復し、当時の建築技術を見学できる建物博物館です。発見された棟札から、貞亨4年(1687)に修理をした県下で最も古い貴重な町家です。
 正面十間、側面四間、中二階建の店部分と平家建ての座敷部分からなり、正面の全体的な構成、大戸口、格子構は、大変美しく格調高い外観に仕上がっています。(旧高戸家住宅ー県指定重要文化財)

 ・交流館
 伝承館の東に並ぶこの町家は、棟札から延享5年(1748)に建てられたもので、分家の母屋です。伝承館と同様当時の部屋割りにあわせて修理を行い、かまども復元しています。
 この館では、各種グループの研修や歴史学習、伝統行事を行ったり、来訪者のための情報コーナーや和風喫茶、特産品や土産物の展示・販売コーナーがあります。二階は、郷土史料の展示室となっています。

 ・ふれあいの館(西倉)
 伝承館の北側にある土蔵。棟札から、安政3年(1856)に建てられたもので、近隣にはない立派な土蔵です。当時の重要な生活用具や什器などを収蔵していた建物です。
 二階建てとなっており、絵画、書道、工芸、陶芸、写真、生け花等の作品展示やミニコンサート、創作活動等に利用できます。

 ・郷土の館(東倉)
 交流館の北側にある土蔵。建築年代は不明。一階は、歴史や文化・観光等をパネルやビデオで分かりやすく紹介しています。二階は、公園の管理事務所となっています。

 …と、こんな施設がありますけど、その中の一つの「ふれあいの館(西倉)」に入ってみます事に。
 建設されました安政3年(1856)当時の重要な生活用具や什器が収蔵されておりましたけど、中では外人san(オーストラリアの方)お二人が、熱心にメモされながら説明を聴いておられました。
 GWのこの時期に、何でまた「かもがた町家公園」を訪れておられるのだろう?…と、不思議な気持ちも少々湧いてしまいます。
 結構、日本語を話されますから、何かの研究で訪れておられますのかも…

 とにかくGONsanはこの辺で退散です。
 駐車場に戻り周辺を見廻しますと、こんなお宅が…蔦のような植物でびっしりと覆われた建物…たまに見掛ける事がありますネ(^.-)☆
 一見、感じ良く見えるのですけど、ヨーロッパのような石造りの建物では良いのでしょうけど、木造の建物ではどぅなんでしょうねぇ~建物が傷むのでは…と危惧してしまいます。
 でも、こんな感じで植物で覆うには、どんな方法で行えば良いのでしょうねぇ~コツがありますのかも(^_^)v

 それでは、「かもがた町家公園」とお別れです(^-^)//"

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今夜は「福山鞆の浦弁天島花火大会」の開催でありました(^.-)☆

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 本日・5/26(土)は孫が通っています水呑小学校の「春季運動会」の開催日。で、GONsanも観戦でA.M.8:40過ぎから小学校行きとなりました。
 朝の内はドンヨリとした曇天で、暑くなさそうで絶好の運動会日和り…と思っておりましたら、なんのなんの(^-^;
 キツい日差しの下、暑い気温の中での観戦となりました(^.-)☆

 夕方からは、今度は「福山鞆の浦弁天島花火大会」の見物で田尻行き。
 ここ近年は、鞆の浦弁天島花火は、杏畑・エクセル鞆の浦を見下ろします田尻町の山の斜面からの見物です。

 打ち上げ開始はP.M.7:30ですけど、1時間前のP.M.6:30に我が家を出発。
 JA福山田尻支店sanの駐車場に無断駐車(JAsan、申し訳ないです)し、そこから杏まつりの時の散策ルートで十三仏近くまでテクテク山側を歩きとなりました。
 昨年同様に誰もおられませんで、GONsanが独り寂しくカメラを弁天島に…と想いながら、昨年と同じ場所に到着しますと、先客がお一人おられますから少々ビックリ。なんでも市内の川口町から来られましたとか(^-^)
 時間を見ますと、打ち上げまで未だ30分ばかり。この待機時間が大変長く感じられますのです(^-^)

 今夜の花火大会の様子は、また後日、このGONsanの絵日記に綴りたいと思います(^-^)//"

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福山トライアスロン2018…ふ~ん、今年は6/10(日)の開催なんですねぇ~

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 昨年初めて開催されました福山トライアスロン…今年も観戦を楽しみにしていたのですけど、ふ~ん、今年は6/10(日)の開催なんですねぇ~
 確かこの日は、GONsanは何か予定がありましたような…
 で、確認してみましたら、う~ん、残念。この日は親戚の法要でありました(^-^;

 法要よりもトライアスロン観戦の方が大事…と言う訳でもありませんけど、でも、やっぱり少し残念。
 こんな気持ちを抱きますと、お亡くなりになられました方に申し訳ないのではありますが…

 とにかくこのような事情で、今年のトライアスロンは観戦、そして、応援は不能。
 また来年の大会を楽しみに待つ事に致します(^-^)/"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(19)

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 長川寺とお別れし鴨神社方向に進みますと、この途中に存在しますのが西山家一族のお墓が…この墓地には「西山拙斎」のお墓も…
 …と言いましても、GONsanは「西山拙斎」sanが何者なのか存知あげないのですけど(^-^;

 で、WEB上で検索致しますと、こんな記載がありました。

 ◆西山拙斎

 西山拙斎<にしやま せっさい、享保20年8月17日(1735年10月3日)-寛政11年11月5日(1799年12月1日)>は江戸時代の儒学者。浦上玉堂と同じ備中国鴨方藩(現在の岡山県浅口市)の文人。父は医師の恕玄。拙斎という名の小惑星が存在する。

 ・経歴

 16歳のときに大阪に遊学に行き、医術は古林見宣に、儒学は岡白駒に学んだ。岡白駒没後、儒学は白駒の外孫の那波魯堂から学ぶようになり、那波魯堂の上京にも従った。後に那波魯堂は古文辞学から朱子学に転じ、拙斎もまた朱子学に転じた。
 昌平坂学問所の儒官であった柴野栗山に朱子学を官学とするよう説得した。これが老中・松平定信による寛政異学の禁の遠因となったといわれる。39歳のとき、鴨方に欽塾を開き子弟に朱子学を教えた。
 生涯仕官せず、諸侯の招聘を辞した。里謡に「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎、索我、宮の石橋。」と謡われ、名声は大坂にも知れ渡った。

 …と、こんな立派な方のようであります(^.-)☆

 「西山拙斎」先生のお墓を拝観後には鴨神社へ。
 そして、今回の散策のスタート地点であります「かもがた町家公園」へと下りて行く事となりました(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(18)

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 長川寺まで下りて来ましたら『細川通董公墓所 90m →』の案内標識が(^.-)☆
 墓所まで90mとは至近距離ですから、早速、お参りとなりました。

 そして、WEB上で「長川寺」と「細川通董公」につきまして少しお勉強です。

 ◆長川寺

 長川寺は応仁の乱の兵火によって焼失した際に備中守護細川満国公の菩提寺として細川家に整備されました。
 その歴代細川家の中でも当寺と地域の興隆に最も尽力されたのが鴨山城主細川家七代目の細川通董公です。

 細川通董公は戦国時代から安土桃山時代にかけて備中国浅口郡を統治した武将で戦国大名毛利氏の客将として活躍しました。
 細川通董公は天正3年(1575年)からは長川寺背後の鴨山に聳えていた鴨山城を拠点としましたが、天正15年(1587年)に赤間関(現下関市)で病没されました。
 現在の墓所は4代後裔に当たる長府藩毛利家家老の細川元純が正徳5年(1715年)に建立した物です。浅口市指定文化財にも登録されています。

 ・長川寺(ちょうせんじ)縁起

 長川寺開創から鴨山城主細川家(野洲家)ゆかりの禅寺へ

 清瀧山長川寺は源頼政の末裔である西山宗久がこの地に「梵刹」という先祖供養のための礼拝施設を備えたのが始まりです。西山宗久がこの世を去ってから100年程後の応永14年(1407年)には長川寺背後の鴨山に備中守護細川満国公が鴨山城を築城し初代鴨山城主に君臨します。
 この鴨山城主細川氏の登場により、この地にも武家社会が求める先進的な禅宗寺院が必要とされました。これにより応永19年(1412年)に曹洞宗大本山總持寺の輪住七十三世住職を務められる英厳章傑(えいがんしょうけつ)和尚が長川寺へ迎えられます。
 そして長川寺は鴨山城主細川氏ゆかりの禅寺となりました。しかし細川氏が実質的に鴨山城に君臨し直接的な統治をするのは鴨山城主七代目の細川通董公の登場を待つことになります。

 ◆長川寺と鴨山城主 細川家(野洲家)の盛衰

 長川寺は鴨山城主細川氏(野洲家)ゆかりの禅寺として発展しましたが、二世密山章巌(みっさんしょうごん)和尚代の応仁年間(1467年~1468年)に発生した兵火に遭い伽藍を焼失してしまいます。
 しかし文明年間(1469年~1486年)に入ると鴨山城主三代目細川教春公の助力の下に三世等厳字倫(とうがんじりん)和尚が伽藍を再建されました。この戦乱の時代の中にあって当寺院は衰退しつつもその偉容を維持しました。
 それは長川寺を開かれた英厳章傑和尚以来の男女平等下での布教活動と観音菩薩や地蔵菩薩を中心とした民衆の救済活動が結実したからです。他にも当時の曹洞宗が他宗派よりも葬儀を重視し死後の菩提供養に篤かった事が背景に挙げられます。
 ですが鴨山城主細川氏(野洲家)は畿内の紛争に敗れて急速に求心力を失いつつありました。鴨山城主六代目細川通政(後に輝政に改名)公の時には出雲国(現島根県)の戦国大名尼子氏の圧力を受けて伊予国(現愛媛県)へ逃れてしまいます。

 ◆長川寺と戦国武将 細川通董(ほそかわみちただ)公の興隆

 鴨山城主細川氏(野洲家)は数々の紛争で備中国の支配体制を殆ど失っていました。その領地回復に挑んだのが鴨山城主七代目細川通董公です。細川通董公が各城を転々としながら領地回復のための拠点と位置付けたのが、自身の先祖である備中守護細川満国公によって築かれた鴨山城でした。そして天正3年(1575年)には鴨山城へ入城し、長川寺を自身の菩提寺と定めて寺領120石を寄進し長い戦乱の中で荒廃した諸堂を整備されました。

 このご縁から長川寺には細川通董公の肖像画と墓所が浅口市指定の文化財として現存しています。細川通董公は戦国大名毛利氏の客将として足利義昭等と親交を結び、この地で存在感を増しましたが、豊臣秀吉の九州征伐から帰国中の天正15年(1587年)に赤間関(現下関市)で病没されました。
 そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで敗北した毛利氏は周防国と長門国の防長二ヵ国(現山口県)へ減封されます。細川通董公の子息である細川元通公も毛利氏に随ってこの地を去りました。城主不在の鴨山城は廃城となり、この地と鴨山城主細川氏との190年に及ぶ関係は終わりを迎えます。しかし長川寺と鴨山城主細川氏(野洲家)の子孫は仏縁で繋がり続けました。

 ◆江戸期における長川寺の受難と復興

 鴨山城主細川氏(野洲家)が鴨山城を去るとこの地は幕府の直轄領となりました。そして長川寺は慶長10年(1605年)に備中国奉行の小堀遠州公より15石の寄進を受け、また池田輝政公からも10石の寺領を与えられ大いに興隆します。
 しかし元和年間(1615年~1624年)に入ると土砂災害が発生し再び伽藍を流失してしまいました。これに輪をかけて寛文六年(1666年)には岡山藩主池田光政公が寺社整理政策に乗り出すと多くの寺社が統合され、長川寺の末寺も廃寺となりました。

 これら一連の出来事により長川寺は再び荒廃してしまいます。しかし元禄年間(1688年~1704年)に入ると十二世徳雲重憲(とくうんちょうけん)和尚は荒廃した長川寺の復興を決意され、岡山藩主や長府藩の家老にまで出世していた鴨山城主細川氏(野洲家)末裔である細川元教公の協力を取りつける事に成功しました。この多大な援助の下に元禄17年(1704年)、本堂が再び造営されました。それが現在の本堂です。

 また十三世千岳育穏(せんがくいくおん)和尚代の享保年間(1716年~1736年)には鐘楼堂を再建し、十四世嫩昌月柱(どんしょうげっけい)和尚は僧堂や東司を元文2年(1737年)に再造営され、長川寺は往時の風格を取り戻しました。
 この地が幕府直轄領から岡山藩の支配下に移ると、長川寺の歴代住職は旧正月の4日には籠に乗って岡山在住の鴨方藩主に拝謁する事が慣例になり、江戸初期の災害や時代の変革に晒されながらも長川寺は歴代住職と檀信徒各家の信頼と協力によって復興したのです。

 …と、長川寺にはこんな歴史がありますようですネ(^_^)v

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(17)

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 そぅこぅしておりますと、左手に長川寺が見えてきました。どうやら「鴨山城跡」散策も終わりに近付いて来ましたようです(^.-)☆
 GONsanは逆廻りの散策でしたけど、正規ルートの入口には「あさくちトレッキングMAP トレッキング&ウォーキングルート」の案内表示が(^_^)v

 それにしましてもこの長川寺は仲々立派な、そして大変整備されましたキレイなお寺のようですねぇ~
 お寺の建物も新しい感じで墓地もまた整然としています。ここ近年に整備されましたのでしょうか…随分古い歴史のありますお寺のようなんですけど…

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(16)

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 磨崖仏を画像に納めながら下って来ましたけど、この場所のみ樹木と樹木を繫ぎましたロープが存在です。
 緩やかな斜面の下り道なんですけど、何でロープが!?…と、少し不思議ではありました。が、ロープには眼もくれず下りようとしましたら、ズルズルと滑りますからもぅビックリ(^-^;
 思わずロープをわしづかみ(^-^)
 もし、このロープがありませんでしたら、迷わず滑って転倒しますところでありました。
 幸いにロープ近くを下っておりまして、助かりましたねぇ~

 眼で見ます限りでは滑るとは思えません緩やかな斜面なのですけど、どぅしてどぅして下から見ますと結構な急斜面。
 おまけに落ち葉が結構な量ですから、どう考えましても滑ります。
 いゃぁ、本当に危ないところでありました(^-^)/"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(15)

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 色んな場所に存在します「磨崖仏」なんですけど、時たま、磨崖仏を真正面から拝観しますには、どうしたら行けるのだろう…と、少々悩みます事も(^-^;
 スグ先に磨崖仏があるのですけど、その正面に行こうにも高さのあります岩を下らなくては…この岩を飛び降りましたら、今度は元の場所に戻りますのが難しいし…
 結局、勇気を出して隣りの岩に飛び移り、ヤッとパチリとなりました(^.-)☆

 画像に納めますと、また元の岩に飛び移り。磨崖仏を拝観しますのも、仲々労力が必要でしたネ(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(13)

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 長山寺の西側からの「鴨山城跡」への登山道を、GONsanはあちこちに存在します「磨崖仏」に眼を止めながらの下山ですけど、こんな登山道は下りますよりも上って行きます方が楽なのかも(^.-)☆
 滑らないように結構気を遣いながらの下山です。

 ・鴨山城跡への登山道

 長山寺の西に登山口がある。標高168.2mの山頂までは徒歩で20分程で登れる。途中「磨崖仏」がある。
 別に近くまで車で登る道もある、但しこの道を登る場合「磨崖仏」を見ることはできない。長川寺境内には、第7代鴨山城主 細川通董公の墓碑がある。

 こんな記載がWEB上にありますけど、確かにこの登山道を通りませんと「磨崖仏」には参拝できません。
 少し眺望が開けました地点まで下りて来ましたので、暫し休憩し眺望です(^_^)v
 東方向に眼を向けますと長山寺の墓地が…その向こうの林道をGONsanは往路として選択。
 南方向に眼を向けますと、面白い屋根が付きました建物が…この少し変わった建物は「ふるさとかもがたプラザ(ビッグハット)」と言うようですネ。うん、うん、言われてみますと『ビッグハット』ですねぇ\(^o^)/

 ・浅口市天草総合公園((あさくちしあまくさそうごうこうえん)

 軟式野球の試合などで活気あふれる野球場、気軽に楽しめるテニスコート、水泳にはB&G海洋センターのプールがあり、天草公園体育館や天草公園武道場ではさまざまなスポーツ等でにぎわっています。
 また、全天候型多目的施設のふるさとかもがたプラザ(ビッグハット)では、スポーツ利用のほか、各種催し物も多数開催されています。

 …と、これもWEB上に記載がありましたけど、このビッグハットの下には何にも有りませんようですから、なるほど多目的に使用出来ますようです。
 色んなイベントで賑わいます場所なのでしょうねぇ~

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(12)

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 「鴨山城址碑」までどなたにも遭遇せずに、ズッと独りでノンビリと散策して来ましたけど、下の方から人声が(^.-)☆
 GW中に、こんな場所を訪れますのはGONsanぐらいとばかり思っておりましたら、そうでもなかったようですねぇ~
 声がします方向に眼を向けておりましたら、うん、うん、お爺さんと4人の孫達かも分かりません。5人のグループに遭遇です(^_^)v

 鴨山城址碑の前で、とりあえず記念撮影。今からGONsanとは逆廻りで「北の曲輪」に向かわれますのでしょうネ…
 ですが、この方々の散策ルートが正規の巡回ルートなのでしょうねぇ~きっと、地元の方なのかも分かりません。
 とにかく賑やかで楽しそうな方達でありました。
 そんな孫達を眼を細めて見守りますお爺さん。実に微笑ましい光景でした。

 この方達を見送りますと、GONsanはいよいよ下山です(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(11)

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 竹林寺天文台方向の眺望を終えますと、ここからは下り道となりますから少し楽(^.-)☆
 ほどなく「鴨山城址碑」の案内板が…

 ◆鴨山城址碑
 「城郭に昭和11年(1936)、道董350回忌に家臣の後裔有志によって建立された城址碑」。揮毫は原田一道の孫、元西園寺公望の秘書官原田熊男の筆による。

 下りながら周辺の景観を見廻しますと、新緑が実にキレイ。実に鮮やかな緑色。眼に優しさを随分感じてしまいましたネ(^-^)//"

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ふ~ん、「串36」ですか…チョッとだけ笑えます(^.-)☆

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 これはいつでしたか…友人が届けてくれました画像なんです(^-^)
 暫し「何の画像なんだろう?…」と見つめてしまいましたが、うん、うん、この看板なんですネ\(^o^)/
 『串36』の部分ですネ。

 この画像をジックリ眺めておりまして、明石市で、この道を直進しますと自動車道のようですから、Google マップで該当しそうな道を追っておりましたら、うん、うん、分かりましたネ。ここですねぇ~
 チョッとだけ笑えます(^-^)
 と言いますのも、これはGONsanが毎日眼にしますし大変馴染みがありますから…

 この車のナンバーを毎日眼にしますのであります。
 いつか機会がありましたらこのナンバーを画像に納めさせて頂こう…と思いながら、現在に至っておりました。
 この機会がヤッと訪れてくれました。友人が届けてくれました画像を眼にしまして、ヤッと撮ります気持ちになりました…と言います方が適切なのかも分かりません。

 …と言う訳で、早速、今夜の絵日記の話題に使用となりました(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(10)

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 磨崖仏が刻まれました岩の下から右側方向に上り、崖際の細い道を怖々進行です(^-^)
 狭かったのはここのみで、後はまた普通の小径。
 暫く進んで行きますと曲輪跡に出まして、そこには石造りのベンチが存在です。

 そこにベンチが有りますと言う事は、眺望が素晴らしいのかも…と向かって行きますと、うん、うん、対面方向に竹林寺天文台が(^.-)☆
 この天文台が水呑の墓地から見えますのですねぇ~

 ◆岡山天体物理観測所

 岡山天体物理観測所(おかやまてんたいぶつりかんそくじょ)は、岡山県浅口市にある天文台である。運営は自然科学研究機構国立天文台により行われている。
 1960年に萩原雄祐らの尽力により設置された。当地は晴天率が高く、竹林寺山頂(海抜・標高372m)に位置しているため気流等が安定しており、光・赤外観測にはうってつけの場所であったため設営に至っている。また標高が低いため、山頂への道路等も当時には既に整備されており、観測施設の建設及び精密望遠鏡の運搬・調整などにおいて支障をきたさない点が評価されたことが設営の理由となった。

 開所当時東洋一といわれた188cm反射望遠鏡を初め91cm反射望遠鏡、50㎝反射望遠鏡、65cmクーデ型太陽望遠鏡を備えています。また3.8mの新技術望遠鏡計画もすすんでおり、より高度な観測が期待できます。

 …と、こんな記載がWEB上にありましたけど、開所間もない時期のGONsanが小学5年生の頃、遠足で訪れました事がありました。
 その時の様子が今でも蘇りますけど、「凄い天文台なんだ」との想いが未だに脳裏に(^_^)v
 とにかく、こんなアングルで鮮明に竹林寺天文台を眺望出来ますとは、チョッと感動致します(^-^)//"

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水呑交流館が完成し、5/6が落成式でありました(^.-)☆(4)

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 一通り見学しましたから、ソロソロ退散です(^-^)
 旧公民館と比べますと駐車場も広いし、会議室も充実。今後の利用が楽しみですネ。建物の外に出まして、駐車場もパチリです\(^o^)/
 そうしましたら、GONsan家の親戚なのですけど、さとう誠雅園の車が…んっ!?…建物内に観葉植物が有ったかなぁ~気付きませんでしたけど(^-^)

 それはさて置きまして、この日の水呑交流館落成の話題は、翌日の中国新聞にも掲載がありましたネ(^-^)//"

 そぅそぅ、書き忘れておりましたけど、今まで図書室の土曜日の利用は午前中のみでしたように思いますけど、今後は午後も17:00まで利用が可能。
 これもGONsanにとりましては大変嬉しいものであります(^-^)/

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(9)

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 「切岸」の上に進みますと、今度は「最高所曲輪 標高166m」の表示板が…
 ここに曲輪が存在しました時代に周辺の景観を見廻しますと、さぞ素晴らしい眺望が楽しめました事でしょうネ…今では樹木が生い茂りまして眺望出来ますのは一ヶ所のみ。

 崖に出っ張りました岩の上に上がってみましたけど、少し怖さが(^-^;
 西方と言うか正面方向に眼を向けますと扶桑薬品工業の建物が(^.-)☆ そして、その右方向には山陽自動車道。時間を確認しますと、A.M.11:42でありました。
 GWを利用し帰省されました方々が、明後日からの勤務再開に備えて早くもUターン。
 鴨方IC少し手前の山陽道上り線、もう渋滞が始まっておりました。帰省しますのも大変ですねぇ~

 最高所曲輪からの眺望を暫し楽しみました後は、また「南曲輪」に向かって散策続行です。
 そうしますと、「堀切」「北の曲輪→」「←南の曲輪」の表示板が…

 ◆堀切
 主に山城に用いられる防御のための土木建築物。英語ではNeck ditchと呼ぶ。城や城塞群において、外敵の侵入防止や遅延のために曲輪や集落の周囲や繋ぎの部分を、人工的に開削して溝(堀)するもの。空堀の一種。

 ここは、南曲輪登山コースと合流し、右に進めば「北曲輪」、左に進めば「南曲輪」。
 南曲輪は廃城後、88ヶ所霊場となり札所には磨崖仏が多く残されているようであります(^_^)v
 この合流地点でも、大きな岩に磨崖仏が刻まれておりました。
 それでは、今度は「南曲輪」を散策致します(^-^)//"

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水呑交流館が完成し、5/6が落成式でありました(^.-)☆(3)

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 新築したばかりですから、どの部屋も凡てキレイ(^_^)v
 初めて使用されます方は、さぞ、気持ち良い事でしょうねぇ~
 嫁さん達がよく使用させて頂きますのは、この実習室なのかも分かりません。いつでしたか…落成式直前に、旧公民館から備品を移転するから慌ただしい…と言っておりましたけど、何をこちらに運んで来ましたのでしょうねぇ…

 GONsanがよく依頼しますのは、印刷室ですねぇ~
 町内会等の配布物の大量印刷は、こちらに依頼します方が安上がりですから(^.-)☆

 とにかく、凡て出来たてのホヤホヤですから、気を遣われますかも分かりませんけど、初めて使用されます方は嬉しいでしょうねぇ(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(8)

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 周辺を見廻しておりますと、「切岸(きりぎし)」の表示板が…

 ◆切岸

 切岸(きりぎし)とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた。鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた城、特に山城の周囲に多く、また鎌倉の周囲の丘陵斜面にも作られた。
 角度が(目標とする切岸よりも)ゆるい斜面を削って切岸にした場合、削った土は上の郭に上げることもあるが、多くの場合は下に捨てられる。切岸の高さが上部の郭から一定になるように削ると、必然的に腰曲輪ができる。削った土は、腰曲輪の拡幅に用いられることも多い。

 …と、こんな「切岸」でありますようです(^-^)/

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水呑交流館が完成し、5/6が落成式でありました(^.-)☆(2)

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 事務室・図書室・小会議室・中会議室・多目的室…と各種会議室を拝見しておりますと、仲々便利が良さそうですネ(^.-)☆
 そして通路の壁面には、我が町・水呑の昔の風景画像が…
 う~ん、これらは凡て実に懐かしいですよ\(^o^)/

 GONsanが幼少時のごく普通の日常の景観ですから(^.-)☆
 小学校に入学前の保育園児の頃ですけど、未だによく記憶には残っております。
 特に、鞆鉄道のレールを利用して毎日遊んでおりましたネ。

 一升瓶の栓と言うか蓋をレール上に並べて、通過します列車に潰してもらい、それで毎日遊んでおりました。
 今では犯罪なのでしょうけど、当時は、レール上に石を並べて、それを通過します列車がはね飛ばして走行しますのを眺めますのが楽しくて(^_^)v
 こんな様子を列車の運転士さんは、優しい笑顔で「そんなもんじゃぁ、ビクともしないぞ!!」とでも言いたそうに見守っておられました。

 確かGONsanが小学校に入学します直前に廃止となりまして、GONsanたち保育園児は両手に小さな日の丸国旗を持ち、最終列車を見送りました光景が未だに鮮明に蘇ってしまいます。
 それほどまでに、毎日の遊び相手でもありました鞆鉄道…
 葛城駅舎も懐かしいし、暫しこれらの画像に眼を止めてしまいましたネ(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(7)

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 句碑を眺めながらノンビリと上って行きますと、ヤッと鴨山城跡の案内表示板が(^.-)☆
 ここから上がって行きますと南曲輪に出れますのでしょうけど、今回は北曲輪→南曲輪に向かってみる事に致します。
 この「鴨山城跡」の案内表示板を過ぎますと駐車場が…数台駐車可能で、ここまで車でも上れますけど、車で訪れますとまたここまで戻りませんと(^-^)

 そして、その先の林の中に「北曲輪登城入口」の案内板が。
 「ここから入ればいぃのだろぅか…」と不安を抱きながら林の中に入って進みますと、どうにか整備されました登城口らしき道が(^-^)
 蛇でも出て来そうで少し怖いのですけど、ほどなく「腰曲輪」の表示板。その先に今度は「大曲輪」の表示板が存在です。

 曲輪をWEB上で検索しますと、

 ◆曲輪

 曲輪(くるわ)は、城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の名称である。郭(くるわ)とも書く。
 主要な曲輪内には、曲輪の出入り口である虎口を封鎖する門を始め、最前線の塀、物見や攻撃を与える櫓が建てられる。主郭では司令本部となる城主の居所のほか、兵糧を備蓄する蔵、兵たちの食事を仕込む台所などの建造物が建てられていた。戦時、それぞれの曲輪には守備を担当する兵たちが駐屯した。

 ・曲輪の配置

 曲輪とは、軍事的・政治的な意図を持って、削平・盛土された平面空間と定義でき、15世紀後半に曲輪を連ねる構造が発達し始めたとされ、例えば千葉県横芝光町の篠本城は主従の関係が明確でない空間で構成されており、また青森県八戸市の根城は一族横並びの構造と考えられ、当初の連郭式城郭では曲輪間に主従の関係はなかったといわれている。その後戦国時代以降の城郭では、複数の曲輪を意図的に配置し、一郭を主とし二郭以降を従とする構成が一般的となった。江戸時代には中心的な曲輪に、本丸(ほんまる)・二の丸(にのまる)・三の丸(さんのまる)などの名前が付く。

 ・縄張と主要な曲輪

 城郭での戦いの勝敗を決める要素の一つに、城郭の形状・構造が挙げられる。そのため築城に際してなるべく防御側に有利になるよう、城郭の立地なども考慮して縄張が決められ曲輪が配置される。江戸時代の軍学によれば、縄張の基本は主要な3つの曲輪、すなわち城郭の核となる本丸の周囲に、補佐的な二の丸、三の丸を効果的に縦深配置することとしており、以下にその説を示す。ただし江戸時代の軍学は太平の世の学問であり、実際には築城や戦闘の経験を経ていない説であることに注意する必要がある。

 ◆腰曲輪

 山城・平山城・丘城などで、斜面の中腹に設けた曲輪。斜面の勾配が比較的緩やかで、そのままでは防御機能が十分でない場合に設ける。

 …と、こんな記載がありました(^.-)☆

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水呑交流館が完成し、5/6が落成式でありました(^.-)☆(1)

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 水呑交流館が完成し、GWの最終日・5/6(日)に落成式。そして、午後には一般公開されました(^.-)☆
 で、GONsanも早速、見学参加となりました\(^o^)/

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(5)

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 暫く進みますと、今度は分かれ道が…左に林道を進みますと「鴨山・本庄」、右に登山道を上れば「鴨山・稲荷山」の標識です。
 う~ん、どちらに進めば宜しいのでしょう…
 暫く思案したものの、蛇でも出そうだから…と、結局、林道を進む事に致しました(^.-)☆

 そうしましたら「俳句塚」が…「俳句塚」とは何なのでしょうねぇ~
 とにかく散策続行です(^-^)
 ここは「俳句の小径」とでも言いましたら宜しいのでしょうか…とにかく、適当な間隔で俳句が刻まれました句碑が続きます。
 この句碑を楽しみながら…と言う訳でもありませんけど、ただ単に眼を向けながら歩行は続きます(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(4)

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 鴨神社への参拝を終えますと、いよいよ鴨山城跡に向かって散策スタートです(^.-)☆
 鴨神社の西側の脇を林道と言うか車道がありまして、この道を左に下りれば長川寺、右に上れば鴨山城跡方向。勿論、GONsanは右側方向に散策開始となりました。
 ほどなく視界は開けまして、左側下には長川寺が…仲々立派なお寺のようですネ(^_^)v

 WEB上には、同寺のホームページが…そして、こんな記載がありました。

 ◆曹洞宗 清瀧山 長川寺

 清瀧山長川寺(せいりゅうざんちょうせんじ)にようこそおいで下さいました。
 長川寺は岡山県浅口市に位置する曹洞宗の禅寺です。
 当寺は創建から応仁の乱の兵火や災害により二度の消失を経験しておりますが、その度に鴨山城主細川家や江戸幕府、岡山藩の援助によって再建されてきました。

 そして何よりも檀信徒各家の信頼と尽力によって、長川寺は700年もの長きに渡り今日までこの地に鎮座しております。700年間流れてきた清瀧という清浄なる水は、人々の信頼を基に皆様の思いや願いを汲みとり、長い大河となってこれからも流れ続けます。

 …と、大変歴史のありますお寺のようです(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(3)

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 「宮の石橋」を渡り石段を上がって行きますと、鴨神社にと到着です(^.-)☆

 ◆鴨神社

 浅口市鴨方町鴨方に鎮座
 村社
 祭神 --- 鴨別命、天津彦炎瓊々杵命、大己貴命、神日本磐余彦尊、加茂天健角身命、天鈿女命、下照姫命、媛踏韛五十鈴姫命
 創祀年代不詳 平安朝の頃、承和三年(836)京都より加茂大明神を勧請、奉斎。
 明治二十年(1887)鴨神社と改称。
 源頼政から五代目の孫で鴨山城主細川下野守道董の頃から、代々鴨山城主の祈願社となり、殊に旧鴨方藩主池田信濃守の崇敬が厚い。
 社殿は荘厳華麗であったが数度の炎上に遭い、現在の幣殿・拝殿は明治四十五年(1912)の再建。本殿は昭和十八年十月に再建。

 キレイに手入れしてあります、こんな由緒あります鴨神社のようであります(^.-)☆

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4/29(日)の夕方でしたか…地震雲らしき雲が上空に(^.-)☆(2)

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 4/29(日)の夕方に、こんな地震雲らしき雲が発生しておりまして、5/2のこの絵日記に下記の内容で綴っておりました。
 
 4/29(日)の夕方、18:30頃でしたか…何気なく上空に眼を向けますと地震雲らしき雲が…
 飛行機雲にも見えるのですけど、暗くなりましても消えませんでしたから地震雲でしたのかも…
 この雲は、西方から東方に…それとも、西北から東南方向でしたのかも…今一、どの方向に向かっていましたのか分かりませんけど、この雲に対し直角方向と言いますと鳥取・宮崎方向となりますのかも…
 地震雲が発生しまして4~7日後に地震発生が多いですから、暫く地震情報をチェックです(^.-)☆
 何事もありませんと宜しいのですけど…と。

 以降はズッと地震情報をチェックしておりました。ら、今朝の中国新聞にこんな記事の掲載が…
 ふ~ん、島根県西部に地震の発生が…4/9の大田市地震の余震のようですけど、大きな地震でなくて良かったです。
 4/29発生の地震雲が今回の地震の予知でしたのか否か分かりませんけど、ここ最近の火山の爆発、地震の多発…何となく不安ですし不気味でもあります。

 GONsanの年齢ともなりますと、この世とお別れしますまで、ズッと地震への不安を抱きながら日々暮らして行かなければならないのかと思いますと、う~ん、やっぱり不安ですねぇ(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(2)

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 鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいますのを横目に町家公園内をノンビリと散策です。
 このまま公園内を上の方に向かいますと鴨神社にと行けそうですので、とりあえず鴨神社へと(^.-)☆

 町家公園の最上部に上がって来ますと、「田中索我の墓碑・西山拙斎の墓碑」の案内表示板が。
 WEB上で検索してみますと、

 ・田中索我の墓碑
 江戸時代中期の絵師。京都で鶴沢探索に仕え画法を学ぶ。仙洞御所の屏風や杉戸を描くのに関わり法橋上人位にも任ぜられた。帰郷してからも活動を続け、備中に多くの作品を残している。

 ・西山拙斎の墓碑
 岡山を代表する江戸中期の儒学者。大坂・京都などで儒学や医学を学んだ後、39歳で帰郷。当時全国的に学風が乱れているのを嘆き、幕府儒官柴野栗山に朱子学を正学とする学制の統一を説き、翌年老中松平定信が行った教育改革の「寛政異学の禁」につながった。

 …と、こんな記載がありました。西山拙斎の墓碑は後ほど拝見する事に致します。田中索我の墓碑は今回はパスとなりました。
 この表示板前を左折しますと、正面に石橋が…これは「宮の石橋」と呼ばれていますようですネ。

 ・宮の石橋
 鴨神社の随身門下にある石橋で、「鴨方に過ぎたるものが三つある。拙斎・索我・宮の石橋」と謡われた鴨方三奇一つです。長い板状の石6枚を反らせて整えた太鼓橋で、鴨方の町筋からの参道を上ってくる参拝者のために造られたものとのことです。石橋が跨ぐ小道付近の小字名が「鴨之下通」であることから、この小道がかつての古道であり、本来の参拝口はこの石橋辺りにあったことを思わせます。かもがた町家公園の北西側にあります。

 ついでに鴨神社も検索してみますと、

 ・鴨神社
 「神社明細書(昭和2年)」には、836年の京都の加茂大明神を勧請した旨を記している。近世史料には「加茂大明神」「加茂宮」とあり、1887年、鴨神社と改号した。

 …と、こんな記載がありました。
 それでは、これから「宮の石橋」を渡り鴨神社に参拝です(^-^)//"

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4/29(日)の午後は、中学校の同窓会に参加となりました(^.-)☆(10)

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02-720
01-720-555

 P.M.3:00から始まりました同窓会の閉会はP.M.6:00。この間を旧友と会話しましたり写真を撮りましたり…と、アッと言う間の3時間でありました。
 歳相応に上手に歳を重ねておられます方…年齢より若く感じられます方…また、その逆に感じられます方…中学時代にはあんなに颯爽としておられましたのに…と実に様々なお顔。
 さすがに皆さん、昔の面影は微塵も残ってはおりませんし、見た感じは決して若者にはほど遠いのでありますが、皆さん共通して感じますのは言動は実にお元気。感心してしまいます。
 話せば皆さん生き生きしておられます。

 それにしましても、今回の参加者の中に中学時代親しくしておりました方のお名前・お顔を捜しましたけど、実に少ないものでした。
 日々繁忙で仲々参加出来ないのかも…と勝手に想像しておりました。
 が、頂いた同窓会名簿に眼を通していまして、少し納得。

 GONsanの学年は9クラスでしたから、学年全体で400~450人はいましたのかも…
 名簿の中にはお亡くなりになられました方々のお名前も載っておりました。
 で、名簿に眼を通しながら亡くなられた方の人数を確認してみましたら、39人でしたか…約1割近い方々が既にご逝去。
 そして、そのお名前を一人一人確認していきますと、中学時代に親しくしておりました方の多い事。これには結構驚きましたし、多大なショックを受けてしまいましたネ。
 卒業以降は接点がありませんから、お会いする機会もありませんでした。ですから、お亡くなりになられました事も知る由もありません。それだけに、名簿でご逝去を知らされました時のショックの大きいこと(^-^;
 その瞬間に、中学時代の日々が走馬燈のようにGONsanの脳裏を駆け巡ってしまいました。

 暫く名簿のお名前に眼が止まっておりまして、「何をシゲシゲと見つめているんだ…」と旧友に声を掛けられ、ハッと我に返ります始末。
 それほどまでにショックは大きいものでありました。お元気に高齢者への仲間入りに向かっておられるものとばかり思っておりましたのに…
 ですが、GONsanの年齢ではそうした方々がおられますのも決して不思議ではありません。
 う~ん、それを差し引きましても実にショックでありました。

 GONsanにとりましては初めての参加の今回の同窓会。
 次回の開催がありますのか否か知りませんけど、次回にまた案内を頂きましたら、是非とも参加したいものであります。
 今回参加しておられました方々が、いつまでもお元気にお過ごしになられますよう、ご祈念申し上げたいと思います(^-^)//"

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GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策でした(^.-)☆(1)

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 楽しみにしておりましたGWも、いよいよ残り2日間。GW後半の4連休も、慌ただしく過ごしておりますとアッと言う間に過ぎ去ってしまいます(^-^;
 で、GW終盤の5/5(土)は、浅口市の「鴨山城跡」を散策となりました(^.-)☆
 A.M.10:00頃に我が家を出まして、一路、浅口市へ(^-^)

 鴨方に到着しますと、とりあえず車は「かもがた町家公園」に駐車です。そして、今回の散策のスタート地点・かもがた町家公園内を少し散策。

 ◆かもがた町家公園

 ・公園の概要

 江戸時代の岡山藩と鴨方支藩を結ぶ官道「旧鴨方往来」沿いに、2棟の町家や土蔵、井戸などを修復し、伝統植物園や芝生広場などを あわせもつ歴史的景観を残す憩いの公園。(平成10年10月にオープン)
 公園の中核となる町家「旧高戸家住宅」は、大和様式と備中様式を合わせた建築工法を取り入れており、1687年の修理棟札から築後300年以上を経た岡山県最古の貴重な町家として「岡山県重要文化財」に指定されています。ここは、油商等を営む傍ら、鴨方藩主の宿泊所や江戸時代の文人たちの 交流サロンとしても使われた由緒ある町家です。

 この周辺は、鴨山城跡・磨崖仏、鴨方藩陣屋跡、儒学者西山拙斎の居宅や碑、宮の石橋等の史跡や文化財があり、周辺の寺社とともに歴史的景観を保っている町の文化ゾーンとなっています。
 町家公園の特徴は、県下最古の町家の保存とともに、運営を住民の皆さんが行っていることです。約100人のスタッフが公園の清掃や案内、食堂でのもてなし、文化事業などを担い、来園者に喜んで過ごしてもらえる公園づくりに努めています。
 また、子どもたちが、日本の伝統行事に触れることや昔の遊びなどを取り入れた異世代間行事など行い、青少年の教育施設として活用されている点も大切な公園の役割となっています。
 尚、2006年10月には国土交通省により、「日本の歴史公園100選」に認定されました。

 …と、WEB上で検索致しますと、こんな「かもがた町家公園」でありますようです。

 ついでに「備中・鴨山城」を検索しますと、

 ◆備中・鴨山城 (別名--鴨方城、加茂山城、石井山城、清滝山城)

 ・形態 -- 山城(168m/140m)
 ・歴史 -- 応永14年(1407年)細川満国によって築かれたといわれる。鴨方細川氏は管領細川家の後裔で満国は備中浅口郡・矢田郷、伊予宇摩郡・温泉郡、摂津小林上下庄、丹波畑之庄などを領していたといわれる。

 七代鴨山城主となった細川通董(通薫)は、はじめ伊予国川之江城にいたが、永禄2年に青佐山城に入り七年、続いて龍王山城に入り九年在城し、天正3年(1575年)に宇喜多氏によって奪われていた鴨山城を毛利氏の援助のもと奪還した。
 天正15年(1587年)豊臣秀吉による九州征伐では、小早川隆景に従って出陣し、その帰路赤間関(現在の下関)にて没した。家督は細川元通が継ぎ、関ヶ原合戦後は毛利秀元の客将となった。

 ・説明

 鴨山城は長川寺の北西に聳える標高168.2mの山頂に築かれている。
 主郭は山頂にあって北端に櫓台が付いている。そこから南へ向かって階段状に削平地が連なるが、多くは岩がゴツゴツした地形になり、先端部は岩だらけの地形になっている。石碑は主郭ではなく、途中に建っている。
 主郭の北側は自然の鞍部で主郭側は巨石群になっており、堀切の役割をはたしていたようである。ここから東へ降りる遊歩道があり、これを降りると駐車場に至る。
 この鞍部から北の部分は整備されていないが、城郭遺構と思われる削平地が段々と連なっている。基本的に広い削平地が連なるだけで堀切などは見あたらないが、主郭より南の削平地は岩がゴツゴツあるのに対してこちらはより開けた広い削平地となっている。地形図の標高150mより上の部分がほぼ城域となり、南北350m程の規模になる。

 …と、こんな「鴨山城跡」であります。
 それでは、散策開始です(^.-)☆

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4/29(日)の午後は、中学校の同窓会に参加となりました(^.-)☆(8)

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降雨でなければ、6/24(日)は久し振りにウエスタン・リーグの観戦予定です(^.-)☆

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 4/30(月)の中国新聞朝刊に、6/24(日)福山市民球場でウエスタン・リーグ「広島×オリックス」戦の開催記事の掲載がありました(^.-)☆
 でも、それっきり忘れておりまして、急に思い出しましたのが本日の午後でありました(^-^)

 6/24と言いますと、既に梅雨に入っていますのでしょうから気になりますのが空模様。
 はてさて、どうしたものか…観戦したい気持ちはあるのですけど、空模様を気にしながらの観戦も嫌ですし…
 暫し熟考のあげく、結局、セブンイレブン行きとなりました(^.-)☆

 チケット発券機の前に立ちますと、また暫し思案。
 外野席を求めようか…それとも内野席を…
 ああでもない、こぅでもないとモタモタ考えておりましたけど、「内野席を求めて、入場は外野席にしよう…降雨でもあれば内野席に移ろう…」と、結局、内野席を求める事となりました。

 ウエスタン・リーグの観戦は、いつ以来でしょうか…とにかく、今回は、昨年のドラフト1位の『中村 奨成』選手が楽しみですよ。

 ・中村 奨成
  ポジション--捕手、投打--右投右打、身長/体重--181cm/76kg
  生年月日--1999年6月6日、経歴--広陵高
  ドラフト--2017年ドラフト1位

 早く1軍に上がって来て貰いたいものですけど、捕手ですから…まだまだ2軍で学びます事が沢山あるのでしょうから…
 とにかく、6/24(日)には生で中村奨成捕手を拝見出来ますのが楽しみですネ。降雨中止となりませんよう、今から祈りたいと思います(^-^)//"

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