GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆



 これは、夕方、ゴンchanと散策時の芦田川河川敷の一コマなんです。
 何でもない景観ですけど、芦田川近くに暮らしていますGONsanですから、こんな景観に心は癒やされます。
 これでもか、これでもかと、芦田川の景観を飽きもせず撮り続けておりますが、今からも、これからも、ズッと撮り続けて行きます事でしょうネ(^-^)/

9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(2)

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 沼隈町草深の道路沿いに存在します五輪塔を確認されますと、次は歩いて「木の葉荒神社」へ向かいます。
 ここでは祠の片隅に置いてあります石を手に、リーダーが確認。五輪塔の一部なのでしょうけど、本体は何処に…近辺の石仏を整理しておられます時に発見され、この祠に祀ってありますのかも…
 リーダーと3名の方が会話しておられますけど、内容が難解ですから、GONsanにはよく分かりません(^-^;
 それにしましても、この4名は、何者なんでしょうねぇ~ヤケに、中世の石造物に詳しいです。GONsanをノケ者にして(GONsanには難し過ぎる)会話をしておられます。
 この方達の現役時代の本職は、何しておられましたのでしょうねぇ~
 学校の先生?…市役所の史跡担当部署にお勤め?…単なる趣味で、その道を究めて詳しい?…
 こらぁ、せっかく参加している一般ド素人のGONsanに、もっと初歩的な説明をしろぉ~!!…と言いたいところですけど、レクチャーされましても分かりませんかも…まぁ、GONsanも質問もせず、写真を撮りまくっているのみですから、それで構わないのではありますが(^.-)☆

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9/27(月)は、備陽史探訪の会「中世石造物調査(沼隈町)」に参加でした(^.-)☆(1)

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 コロナの影響で、久しく備陽史探訪の会の行事に参加しておりませんでしたGONsanですけど、9/27(月)は、久し振りに「備陽史探訪の会『中世石造物調査(沼隈町)』」への参加となりました。
 WEB上で申し込みしておりまして、当日の集合場所であります「サファ福山・ユーホー北駐車場」に到着は、定刻の15分前。
 駐車場内を見廻しましても、それらしい方々のお姿は無し。一服しながら暫し待機となりました。
 集合時間の5分前くらいに、GONsanが佇んでいます脇のベンチに男性お二人が来訪。このお二人に眼を向けましても、備陽史探訪の会の関係者なのかどうかは分かりません。
 その内に、女性がお一人、このお二人に合流です。
 この3名の方の会話に耳を傾けておりましたら、話しの内容で、何となく「中世石造物調査」の参加者のようにも感じられ、「あのぉ、備陽史探訪の会の方でしょうか?…」とお尋ねしますと、「あぁ、そぅです…」のご返答。
 「本日の中世石造物調査に申し込みをしています○○です…」とお伝えしますと、「本日の参加者の確認をせずに来たけど、貴方も参加されるのですネ…」ですから、「んっ!?…」のGONsanでありました(^-^;
 なんでも聴くところによりますと、中世石造物調査には参加者が少なく、いつも4名で行っておられるとの事。
 ですから、この日の参加者は、いつものように、女性2名・男性1名、そしてリーダーらしき男性1名の計4名での実施を予定しておられましたようであります。
 これには、随分前から申し込み済みのGONsanは、唖然としてしまいましたネ。
 まぁそこは、大人のGONsanですから、グッと我慢あるのみ(^-^)
 とにかく定刻を少し過ぎて、女性1名が来訪。全員が揃いましたようであります。とは言いましても、確認しておられないのですから、GONsanのような申込者がおられますのか否かは、皆さん分かりません。
 それでも、定刻を過ぎましたから、いざ沼隈町へと出発です。が、4名の方々はリーダーの車に同乗で、GONsanは自分の車で追走となるようですねぇ~
 まぁ実にエェかげんなリーダーであります(^-^;
 それにしましても、危ないところでしたネ。たまたま声を掛けて備陽史探訪の会関係者と確認出来ましたから良かったものの、ズッと待っていましたら、サッサと置いて行かれますところでしたよ。
 それに、ユーホー駐車場内の別の場所におりましたら、いつまでも分かりませんでしたかも…いゃいゃ、実にヒドい、この日のメンバーの皆さんでありました。

 それはともかく、『中世石造物』とは何なんでしょうねぇ~
 WEB上で「中世石造物」を調べてみますと、宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔(ごりんとう)・板石塔婆(いたいしとうば)等の石塔を意味しますのかも…
 まぁよく分かりませんけど、この方々の後を付いて歩きますと、何を調査しますのか分かる事と思います。
 とりあえず、最初に向かいましたのが沼隈町下山南で、福山市沼隈体育館近くの山南川沿いの「辻堂」でありました(^.-)☆
 こぅした辻堂の屋根下には、よく観音菩薩が祀られていますけど、4名の皆様は、屋祢下の石仏を確認です。
 以前にも調査しておられますのでしょうネ…リーダーは、過去の調査書をめくり加筆しておられましたから(^_^)v

 そして、その後で、リーダーがGONsanにレクチャーです(^.-)☆
 「この石仏のように、上部の両端が脊側に反り返っているのが中世の創作で、そぅでないのは近世の作…」と言っておられましたような…
 う~ん、このレクチャーを受けます際には何にもメモもしておりませんGONsanですから、せっかくド素人のGONsanを相手に初歩的なレクチャーでありましたのに、今となっては詳細を憶えておりません(^-^;
 ですから、その都度、色々教えて頂きましたけど、哀しいかな凡て記憶から薄れてしまいましたので、当時を想い出しながら綴りますと、間違った事を綴りそうですので止めときます(^-^;
 辻堂とお別れしますと、次は、沼隈町草深の道路沿いに存在します五輪塔へ。
 ふん、ふん、今回の「中世の石造物調査」は、五輪塔のようであります(^.-)☆

 ◆五輪塔

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 五輪塔(ごりんとう)は、主に供養塔・墓として使われる塔の一種。五輪卒塔婆とも呼ばれる。
 一説に五輪塔の形はインドが発祥といわれ、本来舎利(遺骨)を入れる容器として使われていたといわれるが、インドや中国、朝鮮に遺物は存在しない。日本では平安時代末期から供養塔、供養墓として多く見られるようになる。このため現在では経典の記述に基づき日本で考案されたものとの考えが有力である。
 教理の上では、方形の地輪、円形の水輪、三角の火輪、半月型の風輪、団形の空輪からなり、仏教で言う地水火風空の五大を表すものとする。石造では平安後期以来日本石塔の主流として流行した。五輪塔の形式は、石造では、下から、地輪は方形(六面体)、水輪は球形、火輪は宝形(ほうぎょう)屋根型、風輪は半球形、空輪は宝珠型によって表される。密教系の塔で、各輪四方に四門の梵字を表したものが多い。しかし早くから宗派を超えて用いられた。
 石造のものは石造美術の一分野として重要な位置を占める。

 ・材質と形態

 立体化された五輪塔の材質は石造のものが主体をなし、安山岩や花崗岩が多く使われている。古いものには凝灰岩のものが見られる。他に木製、金属製、鉱物製(水晶)、陶(瓦)製、土製の塔もある。
 五輪塔は下から四角(六面体)・丸(球)・三角(四角錐または三角錐)・半丸(半球)・上の尖った丸(宝珠型)または尖っていない団子型(団形)を積み上げた形に作られる。製作された時代・時期、用途によって形態が変化するのが特徴である。石造のものは変化に富んでおり、例えば鎌倉時代に多く作られた鎌倉型五輪塔とよばれるもの、一つの石から彫りだされた小柄な一石五輪塔(いっせきごりんとう)、火輪(三角の部分)の形が三角錐の三角五輪塔(伴墓の重源塔に代表される)、地輪(四角)の部分が長い長足五輪塔(ちょうそくごりんとう)、火輪の薄い京都型五輪塔とよばれるものなどがある。京都高山寺の明恵上人(1232年寂)の廟堂内にある五輪塔の火輪には反りがなく軒口もわずかに面を取る程度の珍しいもの。石造五輪塔の火輪は「三角」とするものの、屋根面と軒に反(そ)り、そして厚い軒口を持ちあたかも屋根のように造形するのが一般的である。ただし宝塔の笠によく見られる棟瓦や軒裏の垂木の造り出しは決して見られない(唯一の例外が京都革堂の五輪塔で軒裏に垂木様の刻み出しが見られる)。また、板碑や舟形光背(ふながたこうはい)に彫られたものや、磨崖仏として彫られたものもあり、浮き彫りや線刻(清水磨崖仏などに見られる)のものもある。石造火輪にはまれに「噛み合わせ式」のものが見られる。これは普通は火輪の上部を削平したうえに風輪を載せるのに対し、あたかも火輪の先端を風輪に突き刺したかように一体化したものであり、代表例として高野山西南院五輪塔(二基)が挙げられる。また古い五輪塔では火輪の上部に層塔の屋根のように露盤を刻みだすものがある。

 経典によれば、五輪はそれぞれ色を持ち、地輪は黄、水輪は白、火輪は赤、風輪は黒、そして空輪は全ての色を含む(「一切色」「種種色」)とされ、木造五輪塔の中にはこうした着彩が施されたものがしばしば見られる(空輪は青に塗る)。

 特殊な例としては、一般的に塔婆や卒塔婆と呼ばれる木製の板塔婆や角柱の卒塔婆も五輪塔の形態を持つが、五輪塔とは言わず、単に塔婆や卒塔婆という。卒塔婆(ソトウバ)はインドにおける仏舎利を収めたストゥーパの中国における漢字による当て字で、日本では略して塔婆や塔もといわれる。ただ、塔は近現代の一般的な塔の意味との混同があるため、現代では仏塔という場合が多い(詳しくは、仏塔や塔を参照)。つまり、五輪塔の形=仏塔のように扱われている。木製の角柱の卒塔婆は石造の墓を作るまでの仮の墓として使われることも多い。

 ・構造

 五輪塔は、下から方形=地輪(ちりん)、円形=水輪(すいりん)、三角形(または笠形、屋根形)=火輪(かりん)、半月形=風輪(ふうりん)、宝珠形または団形=空輪(くうりん)によって構成され、古代インドにおいて宇宙の構成要素・元素と考えられた五大を象徴する。これらは『大日経』などの経典に現れる密教の思想の影響が強い。それぞれの部位に下から「地(ア अ [a])、水(バ व [va])、火(ラ र [ra])、風(カ ह [ha])、空(キャ ख [kha])」の梵字による種子(しゅじ)を刻むことが多い。四方に種子を刻む場合は四転、例えば地輪に刻むアなら→アー→アン→アクという具合に刻む方角によって変化する。種子は密教の真言(密教的な呪文のようなもの)でもあるので下から読む。

 宗派によって、天台宗・日蓮宗では上から「妙・法・蓮・華・経」の五字が、浄土宗では上から「南・無・阿弥・陀・仏」の文字が、禅宗では下から「地・水・火・風・空」の漢字五文字が刻まれる場合もあるが、宗派をとわず種子を彫ることも多い。日蓮正宗では必ず上から「妙・法・蓮・華・経」の五字を刻む。また、種子や文字のない五輪塔も多く存在する。
 木製の板塔婆(板卒塔婆)も五輪塔の形態を持つ。これには表に下から「地(ア अ [a])、水(バ व [va])、火(ラ र [ra])、風(カ ह [ha])、空(キャ ख [kha])」の梵字による種子を、裏には仏教の智慧をあらわす金剛界の大日如来の種子鑁(バン वं [vaṃ])を梵字で書くことが多い。木製には他に角柱の卒塔婆もあり、真言や念仏がかかれることが多い。

 ・歴史

 五大思想(宇宙の構成要素についての考え)は元来インドにあった思想で、五輪塔の成立にはインド思想を構築し直した密教の影響が色濃くみられる。インドや中国、朝鮮に五輪塔造形物は現存しないところから、五輪塔の造立がはじまったのは平安時代後半頃の日本においてと考えられている。『大日経』の解釈書である『大日経疏』や善無畏『尊勝仏頂脩瑜伽法軌儀』などには五輪塔図が現れるが、これは日本において書写されるうちに塔状に書きなおされたもので、本来は五大(四角、丸、三角、半円、宝珠型)がそれぞれ単独ばらばらに描かれていた。これからも五輪塔が日本において初めて成立したと推定できる。

 また、桃山時代の文献でしか知られていないが、醍醐寺円光院の石櫃には応徳二年(1085年)七月銘の高さ一尺ほどの銅製の三角五輪塔が収められていた(『醍醐寺新要録』)。内部に遺骨が納められていたというこの塔はいまも石櫃の中にあるはずで、これが今のところ年代が確かな立体的造形物としては最古の例と考えられる。実際に確認できる石造五輪塔では、奈良春日山石窟仏毘沙門天持物塔(保元二年(1157年)銘)や岩手県平泉町・中尊寺願成就院の有頸五輪塔(宝塔と五輪塔の中間タイプ)、同町・中尊寺釈尊院の五輪塔(「仁安四年(1169年)」の紀年銘)、大分県臼杵の中尾嘉応塔(嘉応二年(1170年)銘)などが最古例である。丸瓦瓦当に刻出された五輪塔も平安期にしばしば見られその最古の例として保安3年(1122年)創建の法勝寺の例が挙げられる。また天養元年(1144年)創建にかかると考えられる「極楽寺」の経塚からは陶(瓦)製の五輪塔が発掘されている(兵庫県姫路市香寺町常福寺蔵)。金属に遺された例では兵庫県徳照寺の梵鐘(長寛二年(1164年)銘)に鋳出された五輪塔像がある。絵画では、平清盛献納の『平家納経』の箱蓋に描かれたものや平安末期~鎌倉初期に描かれた『餓鬼草紙』が古い例として知られている。木製のもので在銘最古の五輪塔は京都市左京区久多の志古淵神社蔵の「久多の五輪塔」で、高さ29.3㎝と小型だが、「平治元年(1159年)十二月九日」の年紀などが墨書されている。

 木製五輪塔はしばしば仏像胎内から発見され、特に運慶ないしその弟子による作品に発見されることが多い。近年海外流出が心配されて騒ぎになった運慶作(推定)の真如苑大日如来坐像(重文)の胎内にも木製五輪塔(歯を伴う)が収められていることがX線調査の結果分かっている。石造五輪塔が一般的に造立されるようになったのは鎌倉時代以降で、以後、室町時代、江戸時代を経て現在に至るまで供養塔や墓碑として造塔され続けており、現存するもの以外に考古遺物とし出土するものがある。

 初期の五輪塔の普及の要因としては、高野聖による勧進の影響といわれる。平安末期に『五輪九字明秘密釈』を著した覚鑁も元は高野聖といわれる。高野聖による五輪塔による具体的な勧進としては、五輪塔の形をした小さな木の卒塔婆に遺髪や歯などを縛り寺に集め供養する。
 真言律宗の僧叡尊や忍性も五輪塔の普及に係わったとされる。
 鎌倉時代の奈良東大寺再建にあたり、重源に招かれ宋より日本に渡り、日本に石の加工技術を伝え、後に日本に帰化した石大工伊行末(い・ゆきすえ)の子孫で伊派(いは)といわれる石工集団や、忍性と共に関東へ渡った伊派の分派大蔵派といわれる石工集団が、宋伝来の高度な技術で石塔などの製作を行った。それまで加工の容易な凝灰岩を使った石造五輪塔が一般的だったのに対し、鎌倉期以降花崗岩など硬質の石材を使ったものが多くなるのはこのためと考えられる。伊派や大蔵派が中心になり鎌倉時代以降に作られた五輪塔の形を後に鎌倉型という。また地輪を受ける基礎石の上面に返花座を刻みだしたものを大和式と呼び、これは大和地方から山城南部辺に鎌倉末期から南北朝期にかけての優品が残る。
 代表的なものには、当麻北墓五輪塔、石清水八幡宮にある航海記念塔(高さ6メートル)や岩船寺塔(高さ2.35メートル)などがある。三角五輪塔では奈良市三笠霊園内の伴墓五輪塔(伝重源墓塔)がある(以上いずれも重要文化財)。

 ・五輪塔の意義

 仏教で言う塔(仏塔)とは、ストゥーパ(卒塔婆)として仏舎利と同じような意義を持っている。しかし、小規模な五輪塔や宝篋印塔、多宝塔(石造)は当初から供養塔や供養墓として作られたのであろう。中世の一部五輪塔には、地輪内部に遺骨等を納めたものが現存する。また、供養塔・供養墓としての五輪塔は全国各地に存在し、集落の裏山の森林内に、中世のばらばらになった五輪塔が累々と転がっていたり埋もれていたりすることも稀ではない。現在多くの墓地で見られるような四角い墓は、江戸中期頃からの造立であるが、現在でも多くの墓地や寺院で一般的に五輪塔は見ることができる。覚鑁は経典の記述に基づき、五輪を人の五体になぞらえた図を残している。これが入定の姿と解されて墓塔や供養塔として多用されたものと考えられる。

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国道2号バイパス福山道路…どぅなりますのでしょうねぇ~

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 また、新聞記事から話題を拾ってみましたけど、う~ん、国道2号バイパス福山道路…開通は、いつになりますのでしょうねぇ~
 岡山県側の笠岡市、広島県側の三原・尾道市と、東西のバイパス整備が進行する中で、福山市だけが取り残されています「国道2号バイパス福山道路」…福山市瀬戸町~赤坂町間の3.3kmは2019年11月に着工されていますけど、笠岡市茂平~福山市瀬戸町間(13.2km)は、事業化も決まっておりません現状のようであります。
 この為、これまで福山市単独で設立していた期成同盟会を解散し、4市や関係団体で改めて「整備促進期成同盟会」を組織化。今月、国交省に提言書を提出されるとの事。

 ◆一般国道2号 福山道路

 --- 福山河川国道事務所 https://www.cgr.mlit.go.jp/fukuyama/road/fukuyama/outline.html ---

 ・福山道路の計画概要など

 福山道路は、岡山県笠岡市茂平から広島県福山市赤坂町に至る延長16.5kmの道路で、岡山県倉敷市と広島県福山市を結ぶ地域高規格道路「倉敷福山道路」(約55km)の一部に指定されており、岡山県南部地域と広島県備後地域の連携強化、時間距離の短縮に資する道路です。
 また、福山道路の一部は、福山都市圏の環状道路としての機能を担っており、交通混雑の緩和、周辺地域の活力向上に貢献し、日常生活の利便性を高めます。
 平成13年度から福山市瀬戸町長和~福山市赤坂町(L=3.3km)を事業化し、現地調査・詳細設計を行い、平成15年度より設計協議を進め、事業を推進しています。
 ※「地域高規格道路」とは、全国的な高規格幹線道路と一体となって、高速交通体系の役割を果たし、地域間の交流、周辺地域との連携、空港や港湾といった広域交流拠点との連結など、地域経済の活性化に貢献する規格の高い道路です。

 ・関連路線情報

 福山都市圏では、福山市内の交通問題の解消を目指して、福山道路の整備と併行して、関連路線の整備を進め、快適で活力のある地域づくりを行っていきます。
 福山市は、平成5年(1993年)に地方拠点都市の指定を受け、広島県東部における拠点都市として、都市機能の強化が図られています。また、平成5年(1993年)に策定された「備後・笠岡都市圏将来道路網計画」に基づき福山地域の幹線道路整備が進められています。
 この中で福山西環状線は、福山都市圏の外郭環状軸を形成する主要幹線道路として位置づけられています。

 ・福山西環状線

 福山西環状線は、国道2号と国道486号とを連絡して、南北方向の交通処理を分担するとともに、都市部へ集中する交通の分散を図り、福山市内の交通混雑の緩和と府中市を中心とする内陸部地域との連絡を強化する役割を担っています。
 また、国道182号・国道486号と合わせて、福山都市圏の骨格を成す「福山環状道路」として地域高規格道路の計画路線に指定されており、福山市の拠点性を高めるための道路として整備されます。
 ※「地域高規格道路」とは、全国的な高規格幹線道路と一体となって、高速交通体系の役割を果たし、地域間の交流、周辺地域との連携、空港や港湾といった広域交流拠点との連結など、地域経済の活性化に貢献する規格の高い道路です。

 ・福山沼隈道路

 福山沼隈道路は、福山地方拠点都市地域の南方向の幹線道路として、一般国道2号バイパス福山道路と接続し、福山市中心部と市南西部及び沼隈町方面地域との連絡を強化する役割を担っています。
 また、広島県の道路整備計画において県土の一体的発展を担う広域道路(交流促進型)として位置付けられています。
 ※「広域道路」とは、都道府県の区域を越えた地域間相互の連携強化を図る上で基盤となる道路で、広域的な活動、交流を支える幹線道路であって、高規格幹線道路と一体的に機能する一般国道及び主要な都道府県道等です。

 …と、こんな「国道2号 福山道路」の道路整備計画でありますけど、『笠岡市茂平~福山市瀬戸町間(13.2km)』間の開通は、GONsanの存命中には実現しませんのかも…
 例え存命中でありましても、開通しました頃には、既に免許証返上で車には乗っていませんのかも…
 とにかく、モタモタしています「国道2号 福山道路」…国道2号線の慢性的な渋滞状況解消に向け、早期開通を実現して頂きたいものであります(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(35)

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 一服しながら暫く周辺の景観に眼を向けておりまして、海面に眼を戻しますと、小魚が同じ場所でクルクル廻っておりましたネ(^.-)☆
 人間で言うなら、苦しそうにもがいていますかのように…
 どぅしたんだろう…と、海面を覗き込むように見つめておりますと、こんな姿がチビッコ釣り師の皆さんの眼に入りましたのかも…3人のチビッコ釣り師がGONsanの横に…
 そして、同様に「どぅしたんだろぅ?」と、海面を凝視です。
 その内、年長の釣り師が「網!網!!」と、下の男の子に指示。護岸から網ですくおうとするのですけど、あと少しのところで届きません。何度も繰り返しておりましたけど、どぅなりましたのでしょうネ。
 この段階で、GONsanは護岸から退散となりました。
 どうやら、この3人の釣り師の皆さんは、ご兄弟妹のようですネ。相変わらず、保護者のお二人は、スマホ・昼寝で忙しそうでありました。
 市営駐車場に戻り精算しますと、ふ~ん、約4時間近く鞆に滞在のGONsanなのでありました(^.-)☆
 翌日の中国新聞朝刊には、この日の「鞆の浦 de ART」の様子が記事掲載に(^-^)//"

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朝刊紙上に、久々に従姉の作品が…

岡田節子20211105
季語

 今朝、新聞に眼を通しておりましたら、中国新聞紙上に久々に従姉の作品が…ふ~ん、俳句にも応募されるんですねぇ~
 日々過ぎ去りますのは早いもので、従姉のご主人が亡くなられて1年が訪れますかも…
 永年連れ添った伴侶が居なくなりますと、さぞ寂しい日々であるものと推察しますが、初盆で伺った際には、寂しい中にもご家族と楽しく暮らしておられますご様子が伺え、安心しましたような…
 それに、こぅして、時たま新聞紙上でお名前を見つけますと、元気でおられるのだ…と、安心しますGONsanなんであります(^.-)☆
 ところで、今回の俳句を拝見し、一瞬、「この句には季語がないじゃぁないの…」と、暫し思案のGONsanです。
 従姉宅にはワン公は居たけど、鶏は居ないのに…「鶏の頭」は季語になるのかなぁ~と、一応、WEB上で『鶏頭』を検索です。
 そぅしましたら、つくづく、GONsanの無知さに、我ながらバカだなぁ~と(^-^)
 ふん、ふん、今まで、我が家にも植えています「けいとう」は、文字では「ケイトウ」と書くのかと思いましたら、漢字では『鶏頭』と書くのですねぇ(^-^;
 確かに「ケイトウ」の花は、よくよく見ますと、鶏の頭に似ておりますネ。だから「鶏頭(けいとう)」なんですネ(^_^)v
 この歳となりまして初めて、気付き、大納得したものの、改めて自分自身の無知さに苦笑してしまいます(^-^;
 で、改めて、従姉の句に眼を移しますと、う~ん、何となく、従姉の心境が伝わって来ますような…
 日々元気に、それなりに忙しく過ごしておりましても、ふと、亡き夫の面影が…何とも言えない寂しさも生じますのでしょうねぇ~
 そんな時、眼にした鮮やかな真っ赤な鶏頭…これに元気を貰い、あらためて「元気で日々を歩んで行こう」との想いが生じて来ますのでしょうねぇ~こんな情景が浮かんでしまいます。
 ふ~ん、『鶏頭』ねぇ…この歳にして、また一つ、知識が増加してしまいましたネ(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(35)

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 んっ!?…こちらでも、もぅお一人が(^.-)☆
 こぅして、いつもお二人でアチコチ出掛けられ、写生を楽しんでおられますのかも…
 駐車までの帰路は、いつもは通りません路地をランダムにノンビリと歩いて…そぅしますと、こんな所に祠が…そして、その前にはウサギsanが…
 福山市鞆支所方向に進み海岸沿いに出ておりますと、「龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅」まで戻って来ましたネ(^.-)☆

 ◆龍馬の隠れ部屋・桝屋清右衛門宅

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12672/ ---

 1867(慶応3)年4月23日夜、坂本龍馬ら海援隊士が乗った「いろは丸」と紀州藩の「明光丸」とが岡山県六島沖で衝突し、「いろは丸」が沈没するという事件が起きました。この『いろは丸事件』の際、鞆港を訪れた龍馬らが宿泊したのが『桝屋清右衛門宅』。当時、廻船問屋を営んでいた桝屋は土佐藩や薩摩藩、大洲藩などとも取引があったと思われ、それらの縁でいろは丸救出に関わったのです。伝説的な龍馬の隠れ部屋が、今では一般に公開されています。

 ・朝鮮通信使にも利用された鞆の津の代表的町家
 1764(宝暦14)年、11次朝鮮通信使が鞆を訪れた際に、対馬藩御船奉公輿添役や買物方三使附通詞が、この『桝屋清右衛門宅』に宿泊したと記録されています。当時の鞆の津は海運業で隆盛を極めていて、歓迎提灯の明かりで夜でも昼のようだったといいます。
 ◇往時の廻船問屋の雰囲気が宿る桝屋清右衛門宅

 ・商家の粋な見栄っ張り -- 前流れを長くして威容を示す
 「桝屋清右衛門宅」の屋根に注目。外観の側面から見るとよくわかるのですが、屋根の前側(前流れ)を伸ばして、正面から見たときに実際よりも建物を大きく見せかけています。こういった手法は鞆では19世紀以降に流行。
 商家の見栄っ張りな気風がよく現れています。
 ◇大棟を後方にずらし大きく見せる -- 商家の知恵ですね

 ・雰囲気満点 -- ここが伝説の龍馬の隠れ部屋
 東側納戸から2階に通じる階段を上り、天井裏の隠し空間へ。さらに奥の階段を進むと、そこには8畳ほどの畳敷きの部屋が!
 これが、龍馬が隠れていたと言い伝えられている部屋だといいます。龍馬の息を感じるような雰囲気が保存されていて、説得力十分!
 ◇忍者屋敷のような隠れ部屋 - ここに龍馬が…

 今までGONsanは、一度も、この「龍馬の隠れ部屋」に入った事がありませんけど、今回もパス(^-^)
 護岸に出ますと、釣りを楽しんでおられます方々に眼を向けながら一服です。
 ふ~ん、チビッコ女釣り師ですか…イィですねぇ~ひたすら獲物が掛かりますのを待っておられますけど、母親は傍らでスマホいじり…そのまた傍らでは、気持ち良さそうに居眠りの父親…
 ここもまた仲々イィ光景であります(^-^)//"

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本日正午前頃の空…真夏並みの真っ白い雲でキレイでした(^.-)☆

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 本日の午前中、樹木の枝切りでもしようか…と、取り掛かったものの日差しの下で暑いのなんの(^-^;
 10分も経ません内に余りの日差しのキツサにダウン、もぅダメ!中止です(^-^)
 空を見上げますと、真夏並みの真っ白いキレイな雲。暑いはずです。
 枝切りは後日に廻して、とりあえずカメラを持ち出し数枚パチリ。
 午後は晴れたり曇ったり、小雨がパラついたり、妙な天気でありました。既に11月に突入だと言いますのに…そろそろ紅葉を求めて山歩きに行こうか…と言うのに、いつまでも汗ばみますねぇ(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(34)

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 それでは、この辺で圓福寺とはお別れで、鳥居のあります表参道を下りようかとも思いましたけど、来た道を戻り「福禅寺・対潮楼」に向かいます事に(^.-)☆

 ◆福禅寺・対潮楼

 --- 鞆物語 https://tomonoura.life/spot/12654/ ---

 渡船場のすぐ西側に視線を移すと、美しい石垣が目に映ります。その高台の上に悠然と建つのが『福禅寺対潮楼』です。平安時代の天歴年間(947~957年)に、空也上人によって、「観音堂」(天台宗)として建立されたと伝えられています。
 のち、1638(寛永15)年に、後陽成天皇の第三皇子によって、真言宗大覚寺の末寺に指定。その際に、寺号が「観音堂」から「福禅寺」に改められ、そのまま、今日に至っています。
 鞆の浦第一の景勝地として昔から愛されてきたこのお寺さん。その歴史を、受付のスタッフさんが親切に教えてくれますよ。ぜひ、お話を伺ってみましょう。

 ・「日東第一形勝」-- その賛辞に相応しい絶景
 この「対潮楼」は、1694(元禄7)年に、憲意上人によって本堂が改築された際に、新しく建てられた客殿で、朝鮮通信使三役の迎賓館として使われてきました。つまりは、文人・墨客らの交流の場、サロンだったんですね。1711(正徳元)年、従事官・李邦彦は、そこからの眺望を「日東第一形勝」と賞賛。のち1748(延享5)年には、正使・洪啓禧が、客殿を「対潮楼」と命名し、書を残しています。
 ちなみに、この眺望写真、谷村新司さんが歌う「いい日旅立ち(山口百恵さんのカバー)」のCDジャケットにも使われたんですよ。
 ◇朝鮮通信使も絶賛した、この絶景

 ・海上安全と安産信仰を集めたご本尊・千手観音
 村上天皇の后となった、この地(備後国赤坂村)出身の新庄太郎実秀の娘・明子は、日頃から千手観音信仰に篤かったといいます。そこで、后となった明子は、故郷に千手観音を祀るお堂を建てたいと思い立ち、空也上人によって「福禅寺」の前身となる「観音堂」が開基されました。ご本尊の千手観音は長い間、本堂の厨子の中で秘仏として安置されていたものです。
 ◇良好な状態で保存されていたご本尊さま、華美

 ◆福禅寺 対潮楼(ふくぜんじ たいちょうろう)

 --- https://www.hiroshima-kankou.com/spot/8466 ---

 ・鞆の浦の素晴らしい眺めを一望

 「いろは丸事件」の際、坂本龍馬ら海援隊と紀州藩が実際に談判を行った場所。対潮楼は今から約320年前の1690年ごろ、真言宗の寺院・福禅寺の客殿として建てられました。
 座敷からは、穏やかな瀬戸内海に仙酔島や弁天島がぽっかりと浮かぶ、鞆の浦の素晴らしい眺めを一望することができます。
 江戸時代、対潮楼は朝鮮通信使のための迎賓館として使われ、日本の漢学者や書家らとの交流の場にもなっていました。
 1711年には、朝鮮通信使・李邦彦(イパンオン)がこの対潮楼からの眺望を「日東第一形勝」と称賛しました。これは、「朝鮮より東で一番美しい景勝地」という意味です。
 多くの人々を魅了した、江戸時代から変わることのない美しい風景を眺めることができます。

 ◆福禅寺(福山市)

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 福禅寺(ふくぜんじ)は、広島県福山市にある真言宗大覚寺派の仏教寺院。山号は海岸山、院号は千手院。境内は「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定されている。

 ・沿革

 創建は平安時代の950年頃、空也による創建と伝えられる。現在の本堂と隣接する客殿(対潮楼)は江戸時代の元禄年間(1690年頃)に建立された。
 江戸時代を通じて朝鮮通信使のための迎賓館として使用され、日本の漢学者や書家らとの交流の場となった。1711年(正徳元年)に従事官の李邦彦が客殿からの眺望を「日東第一形勝(日本一の景勝という意)」と賞賛し、1748年(延享5年)に正使の洪啓禧が客殿を「対潮楼」と名づけた。

 この地の風景は対潮楼ができる以前からすでに朝鮮人に評価されており、1617年の従事官であった李景稜は「靹浦に到り、則ち最も明秀奇絶と為す」としている。他にも1655年の正使・趙珩による『扶桑日記』、同従事官・南龍翼による『扶桑録』、同訳官・金指南による『東槎日録』、1711年の通事・金顕門による『東槎録』、同従事官・李邦彦による『東槎日記』、1764年の正使・趙曮による『海槎日記』といった言及が現存している。
 1719年の製述官・申維翰が『海游録』にて言及するところ、「人みなここにいたると、第一の観なりと主張してゆずらない」というものであった。しかしながら1711年よりあと、いつしか寺も対潮楼も、無住ではないながらも荒廃してしまい、つぎの通信使が1748年にこの地を訪れたときには使館として別の施設が指定されていた。一行はこの有様に憤慨、新しい使館ではなく船中で一泊したのち、正使であった洪啓禧は無理をいって福禅寺までおもむき、福禅寺の僧侶を慰めるとともにかつての使館を対潮楼と名付けた。
 この銘は福禅寺行きに同行していたうちのひとり、洪啓禧の息子で軍官でもあった洪景海が書写し、僧侶に与えた。現存する扁額の文字はこれを写したものである。また、洪啓禧らが即興で作詩をし与えたものもいくつか残っている。つぎの通信使が1763年に訪れたときは修復が成っていたと、先述の『海槎日記』には感慨とともに記載されている。
 いろは丸沈没事件の際、海援隊と紀州藩の交渉の場となった。

 ・文化財
 朝鮮通信使遺跡 鞆福禅寺境内(国の史跡)
 福禅寺対潮楼朝鮮通信使関係史料(福山市重要文化財)
 木造千手観音立像(福山市重要文化財)
 木造地蔵菩薩半跏像(福山市重要文化財)
 木造役行者像及び二鬼(前鬼・後鬼)像(福山市重要文化財)

 …と、こんな「福禅寺・対潮楼」であります(^.-)☆
 何度も訪れていますので、中に上がりますのは今回はパス(^-^)
 境内には、「久保 極」sanのアート作品が…

 ◆久保 極

 ・1956年 -- 大阪に生まれる
 ・1978年 -- フィレンツェ国立美術アカデミア彫刻科卒業
 ・2008年 -- さわれないかたちをさわる 兵庫県立美術館
 ・2017年 -- シンガポール国際ミニチュア彫刻展
 ・2017年 -- 個展 ギャラリー勇斎(奈良)
 ・2018年 -- 台湾国際ミニチュア彫刻展
 ・2019年 -- 岡山現代彫刻の断片VOL3 奈義町現代美術館
 ・2019年 -- TOMONOURA de ART 2019(福山)
 ・2020年 -- 神宮の杜に集う彫刻家たち明治神宮廻廊(東京)
 ・2020年 -- イタリアという共通展 芦屋画廊kyoto(京都)
 ・2021年 -- 潮風にさそわれて 触れる彫刻展 木村眼科クリニック(福島)

 ◆彫刻家 久保 極について

 1956 -- 大阪に生まれる。
 1974 -- 18歳の時、横浜より、船 でナホトカに渡る。ナホトカよりシベリア鉄道でヨーロッパにはいる。目的地はイタリア。美術学校に入学の予定だったが、あてはなかった。イタリアを選んだのは物価が安かったからである。
 1978 -- フィレンツェ国立美術アカデミア彫刻科卒業。
 1983 -- 75~ピエトラサンタの大理石の工房チェルビエッティにて職人より技術を学ぶ。この時、すべて自分の手で作りあげることを学ぶ。
 1984 -- シルクロードを放浪して 帰国。
 2019 -- どこにも、所属せずフリーランスで彫刻の仕事をする。一番得意とするのは、大理石の彫刻。そして御影石。具象はすばらしいものがすでに存在している。したがってつくるものは抽象彫刻である。岡山市在住(今の所…)

 「久保 極」sanをWEB上で検索しますと、こんな記載がありました(^-^)/
 それでは、そろそろ我が家に帰ろう(^-^)
 ノンビリと市営駐車場方向に向かっていますと、途中、絵を描いておられます方が…GONsanなんぞは、眼には居ますもの凡てをパチパチと画像に撮るのみですから、こんな趣味がありますと、さぞ楽しいだろうなぁ~と、羨ましく見つめてしまいましたネ(^-^)//"

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解体作業も完了し、キレイな更地となりましたネ(^.-)☆

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 毎週月曜日は、学童の皆様の下校時の安全パトロールの当番日のGONsanで、出迎え場所の水呑交番へと向かいます(^.-)☆
 安政橋東詰めがGONsanの待機場所なんですけど、バス道路を挟み対面の建物解体作業現場に眼を向けますと、解体作業も凡て完了し、キレイな更地と化しておりました。
 随分前に解体されましたJA水呑支店の跡地と合わせますと、結構、まとまった空き地となりましたけど、この跡地の今後の利用は?…
 ここ最近は、こぅした町内事情に疎いGONsanですから、嫁さんにでも聴いてみましょうかねぇ~個別住宅・賃貸物件建設用地として売却?…どぅなんでしょう…
 それにしましても、老朽化しました建物を解体撤去の業務は、見ていますと楽しく思えますけど、作業に従事しておられます方は危険と隣り合わせかも…ですが、こうして完了しました時点のサッパリした現況を眼にしますと、達成感とか喜びも生じますのでは…
 なら、お前がヤッてみろ!!…と言われましたら、チト躊躇。
 GONsanなんぞが解体作業に従事しますと、1時間も経ません内に屋根から落っこちて、骨折して救急車の中にいますかも(^-^)
 まぁとにかく、「今まで、どんな建物が建っていたのだろう…」と、以前の建物の存在も記憶から薄れてしまいます。
 つぃこの前まで建物がありましたのに、その建物が、どんな建物だったのかなぁ~と思い出しますのにも時間を要しますから、歳をとりますとイケませんねぇ~
 それにしましても、実にサッパリとスッキリとした景観になりましたネ(^-^)//"

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9/26は、お寺・町並みを散策しながら『鞆の浦de Art 2021』巡りでした(^.-)☆(33)

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 右下 誠sanのアート作品を拝見後には、今度は、常夜灯方向を眺望です。
 正面山側に医王寺も眼に入ります。医王寺太子殿をカメラのズームを効かせて捜してみますけど、う~ん、分かりません(^-^;
 それでは、圓福寺から退散ですけど、石段を下りようとしますと、傍らに『市史跡 伝桑原一族墓地』と刻まれた石標が…うん、うん、この塀裏に石塔が存在しましたネ。
 WEB上で、『市史跡 伝桑原一族墓地』を検索しますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆大可島城跡(おおがしまじょうあと) 附 伝桑原一族墓地

 --- https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/soshiki/bunka/64168.html ---

 ・市指定史跡 昭和39年(1964年)3月31日指定

 ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で、現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があった。
 康永元年(1342年)、伊予の南朝軍は西国に勢力をのばそうとして、新田義貞の弟脇屋義助を大将として迎えたが病死したため、北朝軍に伊予川之江城を攻められ苦境に立った。南朝軍は金谷経氏を大将として土居、得能氏らが川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流された。そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えた。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返した。北軍は桑原氏を滅ぼし鞆は再び北朝側に帰した。世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられている。

 それと、圓福寺に隣接(南側)しますこの敷地は、何なんでしょうネ…庭園のようにも見えますし、建物跡のようにも…
 圓福寺隣接の民有地なのでしょうけど、以前にはどんな建物が建っていましたのでしょうねぇ~

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