GONsanの“気まぐれ独り言”


GONsanがこよなく愛します芦田川には、こんなおばけフナが生息しております(^.-)☆



 これは、夕方、ゴンchanと散策時の芦田川河川敷の一コマなんです。
 何でもない景観ですけど、芦田川近くに暮らしていますGONsanですから、こんな景観に心は癒やされます。
 これでもか、これでもかと、芦田川の景観を飽きもせず撮り続けておりますが、今からも、これからも、ズッと撮り続けて行きます事でしょうネ(^-^)/

11/16(火)は、紅葉を求めて佛通寺を散策でした(^.-)☆(1)

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 いつでしたか、TVニュースで「佛通寺の紅葉の見頃は、11/15~11/25頃…」と言っておりましたので、11/16(火)は紅葉を求めて仏通寺を散策となりました(^.-)☆
 嫁さんにも声は掛けたのですけど、あいにく所用でダメとかで、GONsan独りでの佛通寺行きとなりました。
 平日とは言え、遅くなりますと参道は渋滞するかも…と、我が家を出ましたのは、A.M.9:00過ぎでありました。
 早く出掛けた積もりですけど、それでも、仏通寺到着は、ほぼ1時間後のA.M.10:05となりました(^-^)
 幸いに、渋滞も無く駐車場にはスンナリと入場。
 佛通寺の駐車場は何ヶ所かありますけど、平日のこの時間帯には、凡ての駐車場に余裕で駐められたものと思います。駐車料金は、500円でありました(^.-)☆
 佛通寺の本堂に渡る木橋の上流に設けられました駐車場から、ノンビリと歩いて本堂入り口方向へ…
 途中、「御許神社」の石標がありましたので、帰路に立ち寄ってみます事に(^-^)
 本堂入り口の木橋辺りまでヤッて来ますと、参道の紅葉が大変キレイ(^_^)v
 本堂に渡る木橋付近には、大木のラカンマキが…スグ傍らには、こんな説明書きがありました(^-^)//"

 ◆佛通寺のイヌマキ

 --- 広島県天然記念物 昭和36年11月1日指定 ---

 佛通寺の本堂に渡る木橋の手前左手にある大木で、通常ラカンマキと呼ばれている。
 根回り周囲4.50m、胸高範囲3.52m、眼通り幹囲3.56mで、地上約4.00mのところで、東西の二大支幹にわかれる。約5.00mの高さで、東方の支幹は更に四大枝に、西方のものは五大枝にわかれる。更に上方35mで、両支幹は多数の小枝をわけてほうき状に展開し、短だ円状の樹冠をつくっている。
 イヌマキは、本州中部以南の暖地に生育する喬木で、五~六十年前には幹囲3.00m以上の大木は諸所に生育していたようであるが現在ではきわめて少ない。また雄雌異株の樹種であるが、佛通寺のこれは雄株である。
 イヌマキ科・学名 Podocarpus macrophylla D.Don
 佛通寺の開山・愚中禅師が植えたものであると伝えられ、県下有数のイヌマキの巨木である。

 --- 三原市教育委員会 ---

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(7)

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 曲輪群跡を見終えますと、本日の探訪はこの辺でオシマイです(^.-)☆
 3台の車に分乗で、訪れた道を四川ダムまで戻りダム駐車場に到着しますと、改めて滝山城跡を見上げます。
 そぅですネ、確かにダム側の正面から滝山城を攻略しますのは難しいですけど、西側からですと可能に見えますねぇ~
 この滝山城を有名にしましたのが、備南に勢力を持った宮氏と、安芸の毛利氏とが神辺平野の覇権をめぐって争った戦い「志川滝山合戦」の舞台となりましたからのようですけど、遠い戦国の世に想いを馳せますと、この地で激しい戦いが行われたのだと、感慨深い気持ちが生じます。

 滝山城西側に続く尾根筋には、電波の反射板が…この反射板は、正式には何と言い、その役割は何なんでしょうねぇ~
 WEB上で検索しますと、ふ~ん、「無給電中継装置」と言うようですネ(^.-)☆

 ◆無給電中継装置

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 無給電中継装置(むきゅうでんちゅうけいそうち)とは、無線通信において、増幅装置を持たない中継装置である。パッシブリピータ(passive repeater)ともいう。
 金属の板によって電波を反射させるものが主流だが、2基のパラボラアンテナを背中合わせに組み合わせ、片方のアンテナで受信した電波を導波管でもう片方のアンテナに伝送し放出する形式も存在する。いずれの場合も電波の指向性を利用しており、主に3GHzから30GHz帯の周波数で利用されている。電力が不要であるため、一般的な無線中継施設と比べると低いコストで建設することができる。

 ・概要

 通常、SHF帯の電波による無線通信を行う際には、無線局間に障害物がないこと(見通し内伝搬(英語版))が必須である。そのため、山間部などの障害物が多い場所においては、一旦別の無線局で電波を受け、それを再送信する中継局が必要である。通常は、受信機及び送信機によって中継を行うため、給電が必要だが、特定の条件では、電波を反射させる鏡状のものを設けることで中継ができる場合がある。その条件とは、反射板と片方の中継局との距離が比較的短距離であること、反射板への入射角が一定以上であることなどである。
 電波の反射に適した素材で出来た板(パラボラアンテナの反射器を平面状にしたようなもの)を設置するが、装置自体にアンテナの機能がなく(あくまでも電波を反射させるだけ)給電装置がないため無給電中継装置と呼ばれる。効率的に伝送するためには、反射面には平滑性が求められる。降雪や着氷は大敵であり、降雪・寒冷地域ではその防止のために、風でなびいて反射面をこすることで除雪を行う紐状のものが反射板前面に設置されている。
 能動的に中継を行うマイクロ波中継装置(英語版)(中継局)と比較して、無給電中継装置は遥かに単純で、メンテナンスが少なくて済み、電源を必要としない。中継局ではフィードバックを防ぐために送受信の周波数を変える必要があるが、無給電中継装置ではその必要がない。欠点は、増幅を行わないので、反射された信号が弱くなることである。

 ・実際の使われ方

 山間部の集落やダムとの通信を行う機会の多い防災無線や、谷あいに設置される水力発電所近辺でよく見られる設備であり、山頂や山の中腹に板状の物体が見られることがある。2枚の反射板を組み合わせることで、元々到来してきた経路とほぼ同じ方角へ電波を中継することも多い。
 実例が少ないものの、この装置は放送の分野でも用いられる。テレビ山口とエフエム山口は、山口市にある本局の演奏所(スタジオ等)と送信所である大平山(防府市)との間に稜線が立ちはだかっているため、それぞれ山口市内の山腹に自局用の無給電中継装置を設けている。

 …と、こんな電波反射板のようであります。
 それでは、ダム駐車場で解散ですから、我が家へと帰る事に致します(^-^)//"

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計画から丁度30年経まして、ヤッと区画整理も完了となりますねぇ~

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 先日・11/26(金)には、老人クラブ主催の「秋の研修会『口腔ケアについて』」が開催され、GONsanも参加となりました。
 その際に、GONsanの隣席に座っておられましたのが、地元市会議員先生でありました。
 で、先月21日の中国新聞sanの朝刊に「計画から30年 水呑区画整理完了」の記事掲載がありましたので、「三新田の新町名は、何に決まりました?」とお尋ねしますと、「水呑町三新田1丁目・水呑町三新田2丁目に決まった…」との事でありました。
 う~ん、残念、GONsan的には、もぅ20年近く、「福山市水呑町○○○○番地 水呑三新田○-○」と実に長い住所を使用しておりましたので、「水呑東1丁目・水呑東2丁目」とか、どぅしても三新田を入れるのでしたら「水呑三新田1丁目○-○・水呑三新田2丁目○-○」と、出来るだけ短いシンプルな町名を希望しておりましたのですけど…残念ですし、ガッカリではありますネ(^-^;
 まぁ、町名に関しますアンケートの方法も、好ましくなくもありませんが(^-^;
 ア・イのような町名は記載せずに、完全な公募の形を取られましたら、地権者の皆様がジックリ考えられまして、イィ町名が沢山出て来たのでは…と思うのですけどねぇ~
 もぅ随分前の、GONsanが広島市に暮らしていました時ですから、1980年頃でしょうか…広島市が全国で10番目となる政令指定都市に指定されました時に、区政移行に伴い区名を公募されました。
 その時の応募条件が、確か記載例はありませんでしたけど、東西南北の方位は使用しないで下さい…と、こんな条件付きの公募でしたように思います。
 勿論、GONsanも応募しまして、東雲に暮らしておりましたので、迷わず「広島市南区東雲○丁目…」と、住所も2文字増えますだけですから、使用不可の方位を入れ『南区』で応募しましたネ(^-^)
 多分、大半の方々が、迷わず「東西南北」を単純に区名に使用されたものと思います。
 その理由は、様々なのでしょうけど、GONsanのように住所が長くならない事を望まれたのでは…と。
 逆に、方位を使用するな…と言う事は、「方位を入れろ」と深読みされました方もおられるのかも(^-^)
 こんな経緯もありますから、今回の水呑の町名に関しては、アンケートハガキの「ア・イ・ウ」の記載では、『ア』が多かったのも分からぬ事も…ですが、やはり、せっかく地権者の皆様に意見を求められるのですから、何らの記載例も無く、完全に各自が考える公募にされたら良かったのに…と、悔やまれる事であります。
 これも、もぅ随分昔の事となりますけど、水呑には「福山市水呑向丘○-○」とシンプルな町名が存在します。(GONsanは、この町名が好きなんです)
 この町名に決定するまでには、結構、難航の経緯がありますけど、三新田も時間を要して、もめてもイィから、地権者の皆様全員が、ジックリと熟考の上、決定して欲しかったですねぇ~町名決定に一般町民・地権者が参画できます機会は、一生に何度もないのですから…
 う~ん、とにかく、GONsan好みの町名でありませんから、実に哀しいですねぇ(^-^)//"

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(6)

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 曲輪群跡を探訪ですけど、こんな状態の中を歩くのですから、大変(^-^;
 GONsanなんぞは、皆さんの後をついて歩くのみ。
 そぅしていますと、案内して貰いましたのが「溜め井(ためい)」跡。
 山城での水の確保には、井戸のみでなく「溜め井」の方法もありましたようですから、この滝山城では、湧き水や谷筋を流れる水を、ここに溜めていたのでしょうねぇ~
 こぅして山城跡を散策しますと、いつも、飲み水等はどのように確保していたのだろう?…と、こんな素朴な疑問も生じます。まぁ山城を築きます際には、こうした問題も充分考慮した上で、行うのでしょうけど(^-^)
 WEB上で、「山城での飲み水確保」と検索してみますと、こんな記載がありました(^.-)☆

 ◆山城にとって井戸はどれほど重要だったの?

 --- https://shirobito.jp/article/1010 ---

 初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法を、ゼロからわかりやすく解説する「超入門! お城セミナー」。今回のテーマは、人の生存に欠かすことのできない「水」。山城を登ったさい、「飲み水はどうしていたんだろう?」と疑問に思ったことはありませんか?籠城戦の可能性が宿命づけられた城にとって、水の存在は不可欠。水を確保するための、先人たちのたぐいまれな努力を見ていきましょう。

 ・水の手は城のマストアイテム
 人体にとって、「水」は必要不可欠な物質です。人は食べ物が得られなくても、数週間から1カ月は生き延びることができるといいますが、水の場合はそうはいきません。いっさいの水を断たれたら、人は3~5日程度で死の危険にさらされるそうです。小学校の頃、「人間の体の70%は水でできている」と習った記憶はありませんか。人体の構成要素として、子どもの頃は70%程度、成人以降だと50~60%が水分で占められており、水分量の20%が失われると生体機能はストップしてしまいます。それほど、人体にとって水は不可欠な存在です。

 前置きが長くなってしまいましたが、城を築くさい、「水をどう確保するのか」は必須の課題でした。人が住み、活動するために必要であることはもちろんですが、城には「籠城戦」の可能性が宿命づけられています。もし、水の手がない城で籠城して、数日でも城外からの運搬が断たれるとしたら、たちまち死活問題になってしまうからです。
 それでは、城内で水をどう確保していたのでしょうか?真っ先に思い浮かぶのが井戸ですね。枯れたら困るので、井戸はひとつだけではなく、複数設けられるのが普通でした。築城名人とされる加藤清正は、居城の熊本城(熊本県)に100以上の井戸を設けたといわれており、今でも20近い井戸が残されています。清正は朝鮮出兵で過酷な籠城戦を戦っているので、飲み水を確保することに強迫観念にも似た思いがあったのでしょう。
 とはいえ、当たり前ですが掘ればどこからでも地下水が湧くわけではありません。城を築くには絶好の地なのに、どうしても水が確保できないということもあったでしょう。その場合、解決策のひとつとして、城に面した河川があれば、そこから運び入れるという方法がとられました。
 その例として、天竜川沿いに築かれた二俣城(静岡県)がありました。二俣城では井戸櫓(または水の手櫓)と呼ばれる専用の高層櫓が築かれ、水の運搬をしていました。ところが武田軍に攻められたさい、武田軍は川に大量のいかだを流して井戸櫓を破壊したため、城兵は開城を余儀なくされます。水の手に目をつけるとは、さすが武田軍は戦上手ですね。

 城内に井戸がない場合、水路や樋によって引き入れたという例もあります。江戸は玉川上水などの水路が整備されていたことが知られていますが、神田川や水堀に懸樋(かけひ)が架けられ、そのまま江戸城内へと給水されていました。ただし、籠城戦で水路や樋を破壊された場合は一巻の終わりですので、水路や樋は補助的な手段だったといえるでしょう。
 なお、城内で水を得るための場所や施設を「水の手」と呼びます。水の手のための曲輪が築かれ、土塁や石垣で囲んで守りを固めている例も少なくありません。城を訪れたさいに「水の手曲輪」「清水曲輪」「井戸丸」という水に関する曲輪名を見つけたら、はは~ん、ここがこの城の水の手だったんだなと思ってもらってほぼ間違いはないです。

 ・山城の水の手は1,000貫(1億円)の価値があった!
 さて、ここまではお城一般の水の手事情について解説してきました。それでは、山城ではどうだったのでしょうか?
 なんとなく想像がつきますが、山城は平城よりもずっと、水の手を探し当てるのが困難でした。城を築くにはベストポジションなのに、どれだけ探しても給水ポイントが見つからず、築城自体をあきらめたということも多かったことでしょう。補給基地や見張り台のような小さな山城では水の手がない例もありますが、ある程度の規模の山城ではたいがい、現在も井戸跡など給水ポイントの痕跡が残されています。
 井戸の伝承を追いかけると、山城で水の手を探すのがいかに困難だったかがわかります。例えば、伊予松山城(愛媛県)の本丸にある井戸は、2つの峰を埋め立てて本丸を整地するさいに、谷底にあった泉を井戸として残したと伝わります。実際、井戸は深さ44.2mとたいへん深いもの。伝承の真偽は定かではありませんが、水の手を確保するときの苦労が込められているのでしょう。

 水の手は城の縄張り(構造)にも大きく影響しました。敵に攻められたさい、すぐに水の手を奪われてしまったら籠城戦どころではないからです。特に最後の砦となる本丸(主郭)の内側や裏手に水の手があることが理想です。
 毛利元就の本拠だった吉田郡山城(広島県)には、本丸の直下に釣井の壇が設けられていました。曲輪名からもわかるとおり、櫓づくりの釣瓶があったと想定され、現在も石積みの井戸が残されています。また、上杉謙信の居城である春日山城(新潟県)でも、本丸の裏手に井戸曲輪が存在しており、城の大手からは隠れた位置になります。このように便利な水の手があったからこそ、春日山城も吉田郡山城も長く戦国大名の居城たり得たのでしょう。
 山城での水の手は、井戸だけではなく「溜め井(ためい)」という方法もありました。山の鞍部などに貯水池を設けて、湧き水や谷筋を流れ落ちる水を溜めておく施設です。土づくりだとすぐにしみこんでしまうので、岩盤を掘削して貯水池としました。
 こうした溜め井を築いた山城に、岐阜城(岐阜県)があります。岐阜城の建つ金華山(きんかさん)は別名「一石山」と呼ばれているとおり、全山が岩塊で成り立っており、井戸の掘削は不可能です。そのため、現在確認されているだけでも、山頂に溜め井が4箇所も設けられていました。溜め井の水は何日間も放置されることがあるため、井戸に比べると衛生面におとりますが、背に腹はかえられないということでしょう。

 最後に、お城で井戸を見つけたら、是非その名称に注目してみてください。特別な名前が付けられている井戸がとても多いことに気づくでしょう。例えば、石田三成の居城だった佐和山城(滋賀県)のメインの井戸は、「千貫井(せんがんい)」といいます。千貫(ざっと1億円ほど)もの価値がある井戸ということです。先ほど紹介した岐阜城の水の手は「金銘水(きんめいすい)」と呼ばれます。「金ほど尊い」ということでしょうか。ちなみに、山城ではありませんが、大坂城(大阪府)にも「金明水」という名の井戸がありますね。
 また、羽衣石城(鳥取県)の「お茶の水の井戸」には、昔々、天女がここで水浴をしている隙に、農夫が羽衣を奪ってしまったという伝説が残ります。「羽衣石」という城名はこの伝説に由来しており、井戸は現在も水が湧き出し、枯れ果てることがありません。
 これらのありがたい名称からも、山城において水の手の確保がいかに重要かつ貴重だったかがわかるでしょう。水の手は天守や虎口や堀などとは違う意味で、しかしそれに負けず劣らず城にとって必要不可欠な施設だったわけです。

 …と、こんな記載ですけど、山城において水の手の確保は、大変でしたのでしょうねぇ(^-^)//"

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(5)

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 暫し四川ダム周辺の景観を眺望し山頂部を後にしますと、次は、曲輪群跡を探訪です。樹木が生い茂っておりますから、一人で訪れますと、どちらに向かってイィものかサッパリ分かりませんでしょうねぇ~

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昔、鞆鉄バスの車体に記載の社名が、誤字だと思っていたのですけど…

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 もぅ随分昔のGONsanが幼少時、「福山~鞆の浦」間を結びます軽便鉄道が運行されておりました。
 ですから、幼少時には線路の上に瓶の蓋を置いて、それを潰して貰って、遊んでおりました。時には、置き石をして跳ね飛ばされるのを楽しんでおりました。
 のどかな時代ですから、別段、犯罪でも何でもありませんで、運転士さんに叱られる事もなく、子供時代の楽しい遊びの一つでありました。
 が、GONsanが小学生になります直前に、鞆軽便鉄道は全面廃止となってしまいましたネ。
 以降は、乗り合いバスにと移行し運行。
 当時のボンネットバスの車体には、「鞆鐵道株式会社」と記載されておりました。それから何年か経ました中学生時代に車体に眼を向けますと、『鞆鉃(金偏に弓矢の矢)道株式会社』と記載されておりました。
 それを眼にしましたGONsanは、書き込み時に誤字で、「鉄道」→「鉃(金偏に弓矢の矢)道」と記載されたものと、勝手に解釈しておりました。
 ら、何年か後では、バスの車体の記載は、「鉃(金偏に弓矢の矢)道」→「鉄道」にと、またまた変わっておりました(^.-)☆
 で、どなたかに指摘され鞆鉄sanも誤字に気付いて、書き換えられたものと、またまた勝手に解釈のGONsan。
 こんな経緯で、現在にと至っておりました。

 こんな経緯も、もぅとっくに過去の事として忘れ去ろうとしておりました昨夜、ヤッと鞆鉄sanの意図が理解出来まして、「なるほど(^_^)v」と、遅ればせながら大納得のGONsanなのでありました\(^o^)/

 昨夜、P.M.8:00頃、NHKsanの番組「日本人のおなまえ『古舘さん!大変ですよ 秘蔵映像だらけのおなまえ事件簿2』」に眼を向けておりましたら、番組の中で、『東日本旅客鉄道の社名の「鉄」の字は“金を失う”と言う意味を避けるため、ロゴ文字では「鉃」(金偏に弓矢の矢)という字を採用しているが、正式商号は「鉄」である(四国旅客鉄道以外のJR他社も同様)。』ですから、遠い昔の鞆鉄バスsanの事が、鮮明に蘇ってしまいましたネ(^.-)☆
 ふん、ふん、鞆鉄バスsanも、東日本旅客鉄道sanと同様な理由で、意図的に社名の記載を「鉃(金偏に弓矢の矢)」にしておられましたのでしょうねぇ~
 誤記と言いますのは、実に失礼な言い方でありましたようです(^-^;

 ◆鞆鉄道

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 鞆鉄道株式会社(ともてつどう、通称トモテツバス、英:TOMOTETSUDOU CO., LTD.)は、広島県東部の沼隈半島を中心としたエリアを中心に営業するバス会社である。福山駅と鞆港とを結ぶ鉄道に起源をもつ会社であるが、1954年の鉄道路線廃止によりバス事業専業となりトモテツグループの中核企業として現在に至る。本社は広島県福山市佐波町197番地1。

 ・沿革

 1910年11月18日 - 鞆軽便鉄道を設立。
 1913年11月17日 - 鉄道線が開業。軌間762mm(非電化)。ラッキョ汽車と呼ばれた。
 1926年12月19日 - 鞆鉄道に社名変更。
 1927年2月 - 鞆町内でバス事業を開始。
 1928年7月 - 福山町-省線福山間連絡バス運行開始。
 1935年10月 - ライオンバス、ユニオンバスの自動車部門買収。
 1943年5月 - 笠井、門田両自動車商会を買収。
 1950年5月 - 貸切バス事業免許取得。
 1950年9月 - トラック運送事業免許取得。
 1951年1月 - 尾道、三原両市営バスとの相互乗入れ開始。
 1954年3月1日 - 鉄道線の福山 - 鞆間を全線廃止。バス専業となる。線路跡は広島県へ無償で寄付、道路拡幅用地として活用される。
 1994年3月21日 - 福山 - 広島間に「ローズライナー」を中国バス・井笠鉄道・広島交通と共同運行で運行開始(後に中国JRバスが参入)。
 1996年3月18日 - 尾道 - 広島間に「おのみちうずしおロマン号」を芸陽バスと共同運行で運行開始(現在廃止)。
 1999年5月2日 - 福山 - 今治間に「しまなみライナー」を中国バス・瀬戸内運輸・瀬戸内しまなみリーディングとの共同運行で運行開始。
 2004年4月15日 - 従業員から56歳以上のバス運転手に対する賃金30%減額を内容とする労働協約が無効だと訴えられていた裁判に対し、広島高等裁判所が無効との判決を下す(鞆鉄道事件)。
 2006年3月21日 - 中国バスより福地線を譲受(三原市交通局と共運)。
 2007年3月31日 - 尾道高校線を廃止。
 2007年4月1日 - 三原市交通局より深線を譲受(中国バス・芸陽バスと共同運行)。福地線は鞆鉄道単独運行となる。
 2008年1月26日 - 福山市内循環線へPASPYを導入。
 2008年10月25日 - 鞆線・新川線・明王台線にPASPYを導入。
 2008年12月20日 - PASPYを尾道線・福大線へ導入。
 2009年2月21日 - PASPYを新設された市内ループ線(まわローズ)へ導入。
 2009年8月8日 - PASPYを沼南線、箱崎線、三原線に導入。
 2009年9月12日 - PASPYを小原線、三成線、東村線、如水館に導入。
 2009年10月21日 - PASPYを広島空港リムジン線に導入。

 …と、こんな歴史のあります鞆鉄道株式会社sanを、永年、GONsanは、「社名くらいチャンと正しく書かないと!!」と、大変誤解しておりました。
 今更ながらですけど、深くお詫びの意を多としたいと思います。鞆鉄san、ゴメンチャイですm(_ _)m
 そぅでありましたか…「鉃(金偏に弓矢の矢)」には、実に深い意味・願い・想い…がありましたのですねぇ(^-^)//"

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(5)

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 ここが、四川ダムから見上げますと、丁度、正面で、山頂部の南端ですネ(^.-)☆
 ここからですと、神辺平野一帯が眺望可能で、その向こうには蔵王山も…確かに、ここに城を築きますと、備後の山間部から備後南部の平野部への進出拠点としては絶好の位置ではあります(^_^)v
 足元に眼を向けますと、基準点が設置されておりました。

 ◆基準点
 基準点とは、地球上の位置や海面からの高さが正確に測定された電子基準点、三角点、水準点等から構成され、地図作成や各種測量の基準となるものです。これらの基準点は、すべての測量の基礎として、公共測量、地籍測量、地殻変動観測等に使用されます。
 また、都市計画、都市基盤整備、電力・ガスの事業計画や管理、観光開発、交通網の整備、環境管理、福祉計画等に必要な地図作成に基準点が使用されます。

 そして、周辺には、登頂記念の表示板が…『2017.02.07 登 ○○○○』の記載ですけど、んっ!?…このお名前は、他の山頂でも眼にしましたような(^-^)
 つぅ事は、きっと、出掛けます度に、こんな表示板を作成し持参しておられますのでしょうねぇ~

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(4)

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 要所要所では、リーダーが、堀切・曲輪群等を説明です。
 山城としての志川滝山城は、地形によって大きく東西二つの部分に分かれており、後世の本丸に当たるのは西側の曲輪群でしたようです。
 前方が開けて来ましたので、ヤッと山頂部に到着しましたようであります。
 「城は、この四川谷の最奥部の、谷筋を二分するように東南に突出した標高三九二メートルの尾根を大規模な堀切によって独立させ、その東の山頂部を削平して山城としたもので、地理的には神辺平野の中心部からは隔絶した位置にあるが、山頂部からは南側の山波越しに神辺から更に福山方面を見通すことが出来、『備後外郡』と呼ばれた備後の山間部から備後南部の平野部への進出拠点としては絶好の位置を占めている。」ようですから、山頂部からの眺望が楽しめるものと思います(^-^)//"

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1/15(月)の正午前…ハローズ新涯店に出掛けました際の一コマです(^.-)☆

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 これは、11/15(月)の正午前…ハローズ新涯店に出掛けました際の一コマなんです(^.-)☆
 所用を済ませ退散しようとしまして眼に入りましたのが、「docomo 料金相談会」のテントです。
 そぅですねぇ~ドコモ一筋で現在に至っておりますから、ドコモsanとはもぅ30数年のお付き合い。この間には、料金が高かろうと安かろうと気にもしておりませんでしたけど、GONsanも既に年金生活者の一員ですから、一度、『docomo 料金相談会』でお話を伺ってみようかと(^-^)
 現在、スマホ2台とインターネット回線で月額19,000~20,000円でしたような…この月額が高いのか安いのか、考えた事も有りませんでしたけど、相談の結果、安くなるのであれば検討しなくちゃぁ…
 で、時間はタップリありますしヒマですから、テントの前に着席となりました(^.-)☆
 そして、説明を受けます事、約15分。
 結果は、ahamoに乗り換えましたら確かに料金は安くなるのですけど、GONsanは、インターネットの利用はスマホでは長時間行いませんから20GBも不要ですし、カケホーダイは外せないし…現在の利用状況では、現行よりも月額500円程度しか料金的には下がらないとの事。現在の利用形態を変更しないのであれば、充分、低料金で利用していますとの事でありました。
 まぁ分かったような分からないような妙な感じではありましたが、現在のプランでは上手に安く利用している…との事ですから、なんとも(^-^)
 …と言う訳で、ジジィのGONsanですから、面倒くさい事は好みませんし、引き続き、現行料金プランでの利用続行となりそうですねぇ~
 こぅして、丁寧な説明を受けましても、1ヶ月…2ヶ月…と過ぎ去りますと、この日の説明はスッカリ忘れてしまいまして、またこぅしたドコモsanのテントを眼にしましたら、また立ち寄る事となりますのでしょうねぇ(^.-)☆
 歳を重ねて行きますと、損してましても「まぁ、えぇか」で済ます事も多くなって来ましたので、困ったGONsanなんではあります(^-^)//"

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10/3(日)は、備陽史探訪の会『四川滝山城跡探訪』に参加でした(^.-)☆(3)

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 ダンプ等の工事用車輌が上から降りて来ますと離合は出来ませんから、リーダーは事前に工事施工会社と連絡を取っておられ、工事用車輌との遭遇はありません。
 滝山城跡上り口付近には、特に駐車場はありませんから、走行可能な所まで上がり路上駐車のようですネ。
 工事現場進入口からもぅ少し先に進んだ所に、これも工事用に造られましたものでしょうか…チョットしたスペースがありまして、ここでUターンし、バックでもぅ少し上がり路上駐車。
 そして下車ですけど、右は崖、左は樹木と雑草が生い茂り、下車しますにもままならない状況での路上駐車でありました(^-^;
 その際に初めて気付きましたけど、本日の参加者は9名の方々のようでした。四川ダム駐車場での10数名は、他のグループの方々も含んでいましたようですねぇ(^-^)
 それでは、標高392mの山頂部の尾根に構築されていました城郭跡に向かって探訪スタートです(^.-)☆
 駐車場所から少し歩いて進みますと、樹木に囲まれました中に民家が…もぅどなたも住んではおられないのでしょうねぇ~

 「四川滝山城跡」をWEB上で検索してみますと、こんな記載がありました。

 ◆志川滝山城

 --- 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』---

 志川滝山城(しかわたきやまじょう)は、戦国時代に備後国(現在の広島県福山市)にあった日本の城(山城)。

 ・概要
 志川滝山城は戦国時代に備後国で一大勢力を誇っていた国人「宮氏」によって築かれたといわれ、神辺平野の北部、芦田川水系四川の水源地に近い急峻な山中に位置している。城郭は標高392mの山頂部の尾根に構築されたもので、神辺平野を一望できる位置にある。曲輪は山の山頂部を削平した長大な主郭を中心に周囲に帯郭、腰郭を配置し、更に東側には3条の堀切で隔てた出丸とも呼べる曲輪があり、この西端には櫓台が配されている。しかし、西側はなだらかな斜面であるにも関わらず明確な防御施設が設けられず、この城の弱点となっており、実際、志川滝山城はこの部分から攻められて落城している。

 ・歴史
 江戸時代後期の地誌『西備名区』によると、志川滝山城は山野の戸屋ケ丸城主宮三郎義兼が明応元年(1462年)に築城し、以後3代にわたって居城としたとされる。天文21年(1552年)、中国地方の覇権を掌握しようとした毛利氏が備後国へ侵攻すると、尼子氏傘下であった宮氏は志川滝山城に篭城し、「志川滝山合戦」が勃発した。
 江戸中期の軍記物語「陰徳太平記」によると、合戦は7月23日に行われ、籠城する宮光音以下380人に対し毛利元就は3,800の兵で押し寄せ、1日で落城したという。宮光音は備中国に逃亡し、この結果、毛利氏は備後南部を勢力下に置くことになった。

 ・現状
 志川滝山城跡の南側にある渓谷には現在四川ダムが設置されており、当ダムの貯水湖は滅亡した当城にちなみ「城山湖」と名づけられた。なお四川ダムまでは大きな道路が整備されているが、そこから直接城跡に行くのは急峻な崖であり難しく、さらに上流の大谷池(明治期の貯水池)の土手に行きそこから目指すしかない。

 ◆志川滝山城跡(福山市加茂町北山)

 --- http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/taguti_teacher/012/index.html ---

 福山市の中心から、国道182号線を北へ約30分、車は吉備高原に刻まれた加茂の谷あいに入る。ここでさらに道を山野方面にとると、やがて加茂町大字粟根に至る。備後宮氏最後の拠点となった志川(四川)滝山城跡は、ここからさらに西に入った、四川谷の最奥部に存在する。現在、城の麓に「四川ダム」が建設され、ダム湖の名称は滝山城に因んで「城山湖」と命名された。

 城は、吉備高原の南縁の溺れ谷に望む尾根の突端部を利用して築かれたもので、標高395mの山頂部に南北3段からなる本丸を築き、東南に張り出したほぼ同じ高さの尾根上に4段からなる出丸を配している。主郭背後の尾根上と、主郭と東南の曲輪群の間には堀切が見られる。本丸と出丸に挟まれた東側のくぼ地には石垣で構築された井戸曲輪が残り、本丸西の断崖面には城名の起こりとなった、降雨後のみに流れ落ちる枯れ滝がある。
 江戸時代の郷土史書『西備名区』によると、滝山城は、山野村(現福山市山野町)戸屋ケ丸城主であった宮三郎義兼が明応元年(一四九二)に築き、越後入道光音、常陸守光寄と三代にわたって居城としたという。義兼の系譜は明らかではないが、山野は室町時代初期、宮氏の有力な一族宮次郎右衛門尉氏兼が領しており(『山内首藤家文書』八三号)、氏兼を祖とする宮彦次郎家の惣領かその一門に連なる者であろう。

 この城が攻防の舞台となったのは、天文二十一年(一五五二)夏のことだ。前年九月の大内義隆滅亡後の混乱した政情のなかで、同年四月、時の将軍足利義輝は、出雲の尼子晴久を備後など八カ国の守護職に任命し、中国地方の安定勢力と認めた。これによって尼子の勢力は再び中国山脈を超えて備後に南下し、庄原の山内氏をはじめ、これに応ずる者が現れた。なかでも宮入道光音を盟主とした宮一族は、一族を糾合して備北から南下し、滝山城に拠って宮氏再興の旗を挙げた。宮氏は、天文年間、尼子氏に味方して大内、毛利氏の攻撃を受け、備後南部でほとんど勢力を失っており、この機会に失地を回復しようとした。
 宮氏の挙兵に対し、安芸の毛利元就は、芸備の国人衆に激を飛ばして、大軍を備後南部に向けた。合戦は、七月二十三日に行なわれ、篭城将士の奮闘も空しく、城は陥って光音は備中に逃走した(『陰徳太平記』巻十八など)。『毛利家文書』二九三号などによると、高所を占める城方は、さかんに飛礫を用いて抵抗したが、この城の弱点となっていた「尾首(西北峰続き)」の城壁を突破されると、持ちこたえられず、一挙に勝敗が決まったようだ。
 (主要参考文献)『福山市史』上巻、田口義之『備後の山城と戦国武士』、備陽史探訪の会刊『山城探訪』

 ◆志川滝山城跡(福山市加茂町北山)

 --- https://bingo-history.net/archives/1596 ---

 神辺平野の北縁は、吉備高原の山波が急傾斜で平野部に落ち込み、高原に水源を持つ小河川によって侵食された幾つもの谷筋によって形成されている。戦国時代、備後宮氏と安芸毛利氏の雌雄を懸けた決戦が行われた志川滝山城は、こうした吉備高原から流れ出た小河川の一つ、加茂川流域に開けた加茂町の平野から、更に西に分かれた同町四川の谷合の一番奥まった所に位置する。
 城は、この四川谷の最奥部の、谷筋を二分するように東南に突出した標高三九二メートルの尾根を大規模な堀切によって独立させ、その東の山頂部を削平して山城としたもので、地理的には神辺平野の中心部からは隔絶した位置にあるが、山頂部からは南側の山波越しに神辺から更に福山方面を見通すことが出来、「備後外郡」と呼ばれた備後の山間部から備後南部の平野部への進出拠点としては絶好の位置を占めている。
 山城としての志川滝山城は、地形によって大きく東西二つの部分に分かれる。後世の本丸に当たるのは西側の曲輪群で、標高三九二メートルの山頂を削平して南北一〇〇メートルに達する長大な曲輪を築き、更にそれを守るように周囲に一段切り下げて幅五~一〇メートルの帯曲輪をめぐらせている。山頂からは鞍部を隔てて東方に尾根が突出し、この部分に東側の曲輪群が設けられている。その中心は尾根上を削平した、東西約八〇メートルの曲輪で、幅最大一〇メートルを測り、東に二段の腰曲輪、西端には長径一八メートルの櫓台を築き、防備を固めている。

 以上の城郭要部を守るために築かれたのが、西側に続く尾根筋を断ち切った大堀切である。ただし、加工の痕跡はそれほど明瞭ではなく、この城の唯一つの弱点となっており、後に述べるように天文二一年七月の合戦で毛利勢が攻め寄せたのもこの方面からであった。なお、堀切は東側曲輪群と西側曲輪群を隔てる鞍部にも認められるが、加工の度合いは低く、曲輪の切岸が不明瞭な点と相俟って、全体的に未完成の印象を与える。このこともこれだけの天険を擁しながら城側があっけなく敗れた要因の一つであろう。
 『西備名区』等の郷土史書によると、この地に初めて城を築いたのは、山野の戸屋ケ丸城にいた宮三郎義兼という者で、明応元年(一四六二)のこととしている。しかし、この城を一躍有名にしたのは、言うまでもなく、この地が天文二一年(一五五二)七月の所謂「志川滝山合戦」の舞台となったからである。
 志川滝山合戦は、南北朝時代以来、備南に勢力を持った宮氏と、安芸の毛利氏とが神辺平野の覇権をめぐって争った戦いで、これを大きな視野でとらえれば、出雲の戦国大名尼子氏と、大内義隆を殺し、大内氏の実権を握った陶氏、及びその与党の毛利氏が、備後南部の支配権をめぐって争った一連の合戦の一部である。すなわち、天文一八年(一五四九)九月の神辺城の陥落によって備後南部の足場を失った尼子氏は、天文二一年(一五五二)四月、将軍義輝より備後など八ケ国の守護職を与えられると、再び中国山脈を越えて南下の姿勢を示し、これに同じく毛利氏の圧迫によって備南での地位を失いつつあった宮氏が、入道光音を盟主に応じ、この合戦となったものである。

 その初動は、同年六月には始まっていたようである。同月七日、陶晴賢は芸備の国人衆に充てて、「備後境目動之儀」について、江良丹後守を上使として派遣したから、元就と相談して出兵するよう指令を発している(閥閲録一〇四)。「備後境目」とは国境の意ではなく、強敵尼子氏の勢力圏との接点を指していることは言うまでもない。そして、翌七月、備後に出兵した毛利元就は、同月二十三日、一気に総攻撃を決行して、宮氏の籠る当城を落とした。当日の城攻めは、城の「尾首」、すなわち、先に述べた当城の弱点、西方尾根続きから行われたようで、元就が家臣に与えた感状にも「尾首構際に至り」という言葉が見られる(閥閲録一二八等)。しかし、毛利方も二二六人に達する戦死傷者を出しており、城方の抵抗もかなり激しかったことを窺わせる(毛利家文書二九三号等)。

 城跡を訪ねるには、バス利用だと井笠バスの山野・加茂方面行きに乗車し、「四川別れ」で下車する。ここからは自分の足が頼りである。四川の谷を登って行くと、前方に険しい山肌を見せる山が迫って来る。これが志川滝山城跡である。正面からの登りは危険で、一旦突き当たりの大谷池の土手へ出て、西方から城跡を目指す。

 …と、こんな歴史のあります『志川滝山城跡』であります(^-^)//"

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